White Album 2/Script/2402

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1	春希	Haruki	「………」	"........."
2			ぼうっとする頭がだんだんハッキリしてくると、 無意識のうちに枕元の時計を確認する。	As my foggy mind gradually clears up , I unconsciously check the clock by the bedside.
3			６時半。	Six thirty in the morning.
4			着替えて、朝食を摂って… 場合によってはその前にシャワーを浴びても、 まだ一コマ目に余裕で間に合う時間。	Still plenty of time to get dressed, eat breakfast... depending on the situation, even take a shower before all that, and make it before first class.
5			…俺の『普通に大学へ行く』ときの起床時間だった。	...This is the time I usually wake up if I'm "going to school normally".
6	春希	Haruki	「ん…」	"Nn...."
7			なるべく毛布をめくらないよう、 横にずれながらゆっくりとベッドを出る。	Taking care not to lift the blanket, I quietly slip out of bed from the side.
8			いつもならこの季節、 寒くて布団から離れたくないという堕落した思考が、 ほんのちょっとだけ頭をよぎったりする。	The usual thought of not wanting to leave my blanket, especially in this cold season, flashes across my mind.
9			今日も、離れたくない思いはいつもより強いけれど、 理由は『寒いから』じゃない。	Today, that thought of not wanting to leave is stronger than usual, but the reason is not because of the cold.
10	千晶	Chiaki	「ん…んぅ…ふぅぅぅん～」	"Nnn...nnn... zzz~"
11	春希	Haruki	「………」	"........."
12			目が覚めて、ぼやけた頭を振って… 隣にあいつが寝ているのを見て、ああ、って思った。	Waking up, shaking off the hazy feeling in my head...and then watching her sleep next to me, I suddenly realized.
13			あれは夢でも、幻でもなかった。 そして誰の責任でも、何の影響でもない。	That it wasn't a dream or an illusion. Not anybody's responsibility and not influenced by anything.
14			俺の、選択だ。	It's my choice.
15	春希	Haruki	「っ…」	"..."
16			熱いシャワーが、俺から余計な記憶を奪う代わりに、 自分でも気づいていなかった傷にしみる。	The hot shower robs me of unneccessary memories, but in exchange, stings those wounds even I had not noticed.
17			首の後ろ、左の胸、両の手のひら、そして奥歯… 湯に触れていないところまで痛むのは、なんなんだろうな。	Back of my neck, left side of my chest, the palm of my hands, and even my back tooth... why is it hurting in places that aren't even touched by water?
18			そんな単純な謎をつい考え出してしまうと、結局、 せっかく熱さが奪ってくれた記憶がすぐに蘇ってしまう。	When I start to think about the answer to that simple mystery, the memories taken away by the heat all comes back hurling back.
19			そうするとまた、湯が傷にしみる悪循環。 だけどもう、この痛みから逃れる術はない。	In so doing, the hot water stings again at my wounds. It's a vicious cycle. But there's already no way to escape from this pain.
20			俺、とうとう雪菜と…	At last, my relationship with Setsuna is...
21			本当に、壊れてしまったんだな。	In the truest sense, completely broken.
22			………	.........
23			………	.........
24			ベーコンの脂がしみ出してきたのを見計らい、 フライパンに卵を二つ落とす。	I waited until the oil seeps out of the bacon and drop two eggs into the frying pan.
25			油の跳ねる音に卵が焼き固まるときの音が加わり、 辺りにも香ばしい匂いが漂っていく。	A pleasant smell starts to linger in the air, along with the sounds of crackling oil and the sizzling of eggs.
26			オーブントースターは赤く染まり、 こちらも二枚のパンを焼き上げていき、 冷蔵庫に残った野菜はボウルに盛られていく。	The toaster oven turns red hot and browns two slices of bread. I take out the leftover vegetables in the fridge and serve them in a bowl.
27	千晶	Chiaki	「ん、ん～」	"Nnn~"
28	春希	Haruki	「………」	"........."
29			どこかの誰かの間抜けな寝息を聞くと、 いやが上にも今の自分の状態を認識せざるを得ない。	Hearing someone's silly but peaceful breathing as she sleeps, I am further reminded of my current situation.
30			痛いはずなのに、実際痛いのに…	Even though it should hurt, even though it really does hurt...
31			それでも俺、いつも通りだ。	I'm still the usual me.
32			今までの“こんな日”は、こんなじゃなかった。	"These type of days" were not like this up until now.
33			普通でいることに必死だった。 いつもの自分を守ろうとして、 泣きそうな顔して歯を食いしばってた。	I would be struggling hard to maintain my sanity. I would grit my teeth with a face about cry, all the while trying to protect my normal self.
34			何より、眠れなかった。	Above all, I wouldn't be able to sleep.
35			それが今朝は、いつも通りの時間に起きて、 当たり前のように目覚ましのシャワーを浴びて、 何事もなかったかのように朝食まで作ってる。	But this morning, I woke up at the usual time, naturally took a morning shower, and even made breakfast as if nothing happened.
36			…量だけはいつも通りじゃなく、二人前。 けれど、そこまで気が回るところがいつも通り。	Only thing different is that I made food enough for two. But the fact that I even noticed that is also the same as always.
37	春希	Haruki	「和泉」	"Izumi."
38			こいつの…おかげなんだろうか？	Is it all thanks to this woman?
39	春希	Haruki	「おい、和泉」	"Hey, Izumi."
40	千晶	Chiaki	「ん、ん～」	"Nnn, nnn~"
41			和泉の肌に温めてもらったから？ 特別なことをしてもらったから？
42			もしかしたら、全く同じ時間に 違うひととしていたのかもしれないことを…
43	春希	Haruki	「そろそろ起きろっての。 エサの時間だぞ」
44	千晶	Chiaki	「…寒いよ～、エアコンつけてよ～」
45			どれだけボタンを掛け違えた末に、 今、俺はここにいるんだろう。
46	春希	Haruki	「駄目、電気代もったいない」
47	千晶	Chiaki	「春希寒くないの？　そんな薄着で」
48	春希	Haruki	「全然。 シャワー浴びたばかりだし、 それにこうして動いてるし」
49			いや、今となっては、 どっちだったのかわからない。
50	千晶	Chiaki	「体以外は？」
51	春希	Haruki	「………寒くない」
52			今が、掛け違えているのか、 今までが、掛け違えていたのか…
53	千晶	Chiaki	「そっか…じゃ、おはよ～。 ふあぁぁぁ～」
54	春希	Haruki	「服着ろ。だから寒いんだ」
55			そんな俺の迷路に陥った思考をあざ笑うかのように、 和泉は、ん～っと伸びをすると、 何も着けてない白い肌を晒した。
56			………	.........
57	春希	Haruki	「…なぁ」
58	千晶	Chiaki	「ん～？」
59	春希	Haruki	「今日、これからどうする？」
60	千晶	Chiaki	「んぅ…」
61	春希	Haruki	「どっか出かけるなら一緒に出るか？ 雪も解けてるみたいだし」
62			今日だって、イブではないけれど、 まだ立派なクリスマスだ。
63			だから街まで出て、デートらしきことをして、 食事して、で、そのまま駅まで送って…
64	千晶	Chiaki	「ご飯食べたら寝る。 毛布にくるまって、あったかくしてぐっすり寝る」
65	春希	Haruki	「…またかよ？ お前、一体どれだけ寝る気だ」
66	千晶	Chiaki	「だって寒いんだもん」
67	春希	Haruki	「厚着しろ。そんな格好じゃ寒くて当たり前だ」
68			俺の部屋に来るといつもそうしてる、 キャミソールとミニスカートの軽装…
69			意地でエアコンをつけない俺も俺だけど、 見てるだけで寒くなってくる、 そんな格好する方にも問題あるだろう。
70	千晶	Chiaki	「そだ春希、服貸してよ。 これ以外は外出用しか持ってきてなくてさぁ」
71	春希	Haruki	「普段からあれを着て外出するのかよお前は…」
72			あのサンタのミニスカートも寒そうだった。 あのとき、和泉の太股は冷え切っていて…
73	春希	Haruki	「………っ」
74			朝から思い出すな。
75	春希	Haruki	「服が外出用しかないならなおさら外に…」
76	千晶	Chiaki	「や」
77	春希	Haruki	「お前なぁ」
78	千晶	Chiaki	「外なんて絶対や。疲れてるんだもん～。 昨夜、春希にあんなに激しくされてさぁ」
79	春希	Haruki	「………」	"........."
80	千晶	Chiaki	「春希こそよくそんなに元気だよね？ あたし以上に動いてたはずなのにさぁ」
81	春希	Haruki	「…バイトが遅くなって始発帰りになっても、 いつも同じ時間に起きてるから、俺」
82			とにかくそっち方面と関係ない受け答えで。 トーストを飲み込むふりで声の調子を抑えて。
83			動揺してるってバレてても、 絶対にそれを認めない態度で。
84	千晶	Chiaki	「あたしは駄目だ… 普段でさえ八時間は寝ないとやってけないのに、 それが昨夜は…」
85	春希	Haruki	「お前なぁ、そんなにだらけてると…」
86	千晶	Chiaki	「春希が困る？」
87	春希	Haruki	「………」	"........."
88	千晶	Chiaki	「もしかして、帰れって言うつもりだった？ いつまでもまとわりつくなって、言うつもりだった？」
89	春希	Haruki	「お前…もしかしてまた親と？」
90			以前、一度だけぽつりとこぼした母親との軋轢。
91			和泉が俺の側にいるのは、 もしかしたら、俺だけの問題じゃなくて…
92	千晶	Chiaki	「別に、どうしても帰れって言うなら帰るよ？ 春希が決めなよ」
93	春希	Haruki	「………」	"........."
94			なんて、俺の責任逃れな理由付けは、 一瞬で蹴っ飛ばされてしまう。
95			こいつがここに… ずっと俺の側にいるかどうかは、 ただ俺のだけの都合で決めろって。
96	千晶	Chiaki	「どする？」
97	春希	Haruki	「どうするって、それは…」
98			なら俺は、早く自分を取り戻さないと。
99			こんなぬるま湯の中にいつまでも浸かってないで、 これからの、俺の進む道に向き合わないと。
100			だって俺の周りの景色は、 もう、取り返しがつかないほどに 変わってしまったんだから。
101	春希	Haruki	「…にしろ」
102	千晶	Chiaki	「ん～？」
103	春希	Haruki	「勝手にしろって言った！」
104			なんて、俺の都合だけで決められるか。
105			昨日、こいつにしたことを。 こいつに求めたものを思うと、 無理に帰れなんて言えない、言える訳がない。
106	千晶	Chiaki	「んふふ～、愛いやつめ～」
107	春希	Haruki	「そういう態度やめろ。馬鹿っぽい」
108			いいさ、どうせ二、三日したら飽きて帰るだろ。 それまでこいつの好きにさせてやる。
109			こいつが今ここにいるのはどう考えても俺のせいだし、 しばらくは和泉の気まぐれにつきあってもいい。
110	千晶	Chiaki	「んじゃ、早速一緒に寝よ春希。 おいで防寒具くん～」
111	春希	Haruki	「…人の言うことを少しは参考にしろ」
112			じゃあ、二、三日したら…？
113			俺は、こいつをあっさり追い返すことができるのか？
114			………	.........
115	千晶	Chiaki	「ん～…はは…あははははっ」
116	春希	Haruki	「………」	"........."
117			…なんて言ってる間に、あっという間に夜。
118			和泉は、本当に朝食後すぐにベッドに潜り、 本当にあっという間に眠ってしまった。
119	千晶	Chiaki	「うわぁ…何これ、マジ？」
120			俺は、来客を放って外に出るわけにもいかず、 なるべく音を立てずに部屋を掃除して、 なるべく音を立てずに夕食の準備をして。
121			なるべく音を立てずに、 呑気に眠る和泉の寝顔をぼうっと眺めてた。
122	千晶	Chiaki	「ん～、やっぱ今日は特番ばっかだねぇ。 ちょっと飽きる」
123			和泉が目覚めたのは、夕方になってから。
124			冷蔵庫の残り物だけで作ったカレーが出来上がる頃、 その匂いにつられてふらふらと起き上がってきやがった。
125			つまり、俺たち二人は今日一日、 本当に一歩も外に出なかったことになる。
126	千晶	Chiaki	「春希～、こっちおいでよ～」
127	春希	Haruki	「洗い物終わるまでちょっと待ってろ」
128	千晶	Chiaki	「そんなの次に食器が必要になったときで いいじゃん～」
129			普通の一日以上に無駄に過ごしてしまった、 本当なら、二人で過ごす[R特別な日^クリスマス]。
130			いつもなら『なんという時間の無駄だ』なんて、 憤慨と後悔にまみれていたかもしれない一日。
131			けれど…
132	春希	Haruki	「…ったく」
133			怒りっぽいのは口だけ。
134			俺は、洗い物の途中で蛇口を止めて、 ぶつぶつ言いながらも和泉の対面じゃなく、 すぐ隣に座る。
135	千晶	Chiaki	「座椅子来た～」
136	春希	Haruki	「おい…」
137			そして和泉は、 俺が寄り添ってくるのをわかっていたかのように… いや、当然わかっていたんだろうけれど。
138			俺の胸に背中を預け、 その柔らかさと体温を伝えてくる。
139			…昨日と同じように。
140	千晶	Chiaki	「ひゃっ…春希の手、冷たぁい」
141	春希	Haruki	「そりゃ、今まで洗い物してたし」
142	千晶	Chiaki	「お湯使おうよ～」
143	春希	Haruki	「もったいない。 水でも十分汚れは落ちる」
144	千晶	Chiaki	「ほんっと、ケチだね春希は」
145	春希	Haruki	「生活費自分持ちだからな、基本的に」
146	千晶	Chiaki	「もうちょっと自分に優しくなればいいのに」
147			俺の両手を掴むと、自分のお腹にあてがい、 両手で包み込んで、さすってくれる。
148			こうなると当然、俺が和泉を背中から抱きしめる形になり、 俺たちは昨夜みたいに密着していく。
149	千晶	Chiaki	「む～、背中はあったかいけど、お腹は冷たい。 どうしたものか」
150	春希	Haruki	「どうしたもこうしたもあるか。 和泉が勝手にしてることだろ」
151	千晶	Chiaki	「テレビつまんないよ春希。 Ｐ○３とかないの？」
152	春希	Haruki	「そんな贅沢品なんか持ってる訳ないだろ」
153	千晶	Chiaki	「そっかぁ…じゃ仕方ない」
154	春希	Haruki	「諦め早いな」
155	千晶	Chiaki	「ま、こうしてられれば退屈でも構わないし。 このままゆるゆると過ごしますか～」
156	春希	Haruki	「だから、勝手にしろ」
157	千晶	Chiaki	「ん」
158	春希	Haruki	「………」	"........."
159			テレビからは、相変わらず退屈な音波が、 垂れ流しにされてる。
160			窓の外は、昨夜とは打って変わって、 この明るい街でもいくつか星が見えるほど、 晴れて、そして澄んでいる。
161			部屋の中は、カレー鍋の熱の残りで、 寒いながらもほんのりとだけ温かい。
162			でも、外の寒さとの比較はできない。 今日は、一度も外の寒さを経験していないから。
163			ずっと『和泉が用意してくれた』自分の場所に… 外からの刺激が何もないところに逃げ込んでいたから。
164	春希	Haruki	「リンゴでも剥こうか？」
165	千晶	Chiaki	「い～よ、別に」
166	春希	Haruki	「そっか…」
167			かじかんでいた手が、 和泉と重ね合うことにより、 じわじわと感覚を取り戻していく。
168			昨日も、何度も顔を埋めた和泉の髪に さり気なく唇で触れ、 胸いっぱいにその香りを吸い込む。
169			ついさっきシャワーを浴びていた和泉の髪は、 俺の安物のシャンプーを使ったはずなのに、 嗅ぎ慣れない、いい匂いがする。
170			髪だけでなく、俺の石鹸を使ったはずの肌も…
171	春希	Haruki	「お茶淹れるか？」
172	千晶	Chiaki	「だからいいって。 働くな、春希」
173	春希	Haruki	「いや、けど… 落ち着かなくてさ」
174	千晶	Chiaki	「………」	"........."
175			和泉とくっつきあってるから、だけじゃなく、 こうして何もしていないことが、 いつもせわしない俺の焦燥感を煽る。
176	春希	Haruki	「こんなことしていていいのかって。 こんな平和すぎる時間を過ごしていいのかって…」
177			昨日の酷い過ちと、今の状態の緩さが、 どうしても噛み合わないから。
178	千晶	Chiaki	「だからぁ、考えるな。何もするなっての」
179	春希	Haruki	「でも…そんなんじゃ、何も変わらない」
180	千晶	Chiaki	「変わるよ。 春希が何もしなくても、 時間が何かを変えることもある」
181	春希	Haruki	「時間…」
182	千晶	Chiaki	「だからさ… 今は何もせず何も考えず、 時間が解決してくれるのをじっと待つの」
183	春希	Haruki	「そんなはず…ない。 そんなこと、あるわけがない」
184			だって俺たちの三年間は、 何も解決してくれなかった。
185			何も消してはくれなかった。 何も治してはくれなかった。
186	千晶	Chiaki	「それはさぁ… 春希が、休んでなかったからだよ」
187	春希	Haruki	「休む…？」
188	千晶	Chiaki	「普通さ、風邪ひいたときとかって、 ゆっくり寝て、何もしないで、薬飲んで… そうやって、体が治るまでじっとしてるよね？」
189	春希	Haruki	「それは…そうだけど」
190	千晶	Chiaki	「だから今もさ、 ゆっくり寝て、何もしないで、薬飲んで」
191	春希	Haruki	「薬って…っ！？ んっ、ん～っ！」
192	千晶	Chiaki	「んぅ…ん、んむ…」
193			俺の腕の中で、 少しだけもぞもぞしていた和泉が振り向くと、 いきなり唇を重ねてくる。
194	千晶	Chiaki	「ちゅ…んぷ…は、あぁ…んっ、 ん、んぅ…んぷぅっ」
195			昨夜、俺が和泉の口の中にしたみたいに、 激しく舌を突き立て、舐め回し、唾液を流し込み…
196			そして和泉が唐突に口を離すと、 ちゅぽっと空気の抜ける音がした。
197	千晶	Chiaki	「ほら、みずぐすり～」
198	春希	Haruki	「っ…お、お前」
199			俺の口の中に残していった唾液が、 二人の間をいやらしく繋ぐ。
200	千晶	Chiaki	「毎食後、３０分以内に服用ください」
201	春希	Haruki	「…副作用、ないんだろうな？」
202	千晶	Chiaki	「もちろんあるよ？ …深刻な禁断症状が出ま～す」
203	春希	Haruki	「…最悪だな」
204	千晶	Chiaki	「んぅっ！？ ん、ん、ん～っ」
205			一回の量を聞いていなかったから、 念のため、少し多めに服用する。
206	春希	Haruki	「んく…ん、んぅぅ…っ」
207	千晶	Chiaki	「ん～、んぅぅぅぅ～っ！ あ、あむっ、ひぅっ、ん、んむぅ…」
208			今度は、こっちから舌を入れ、 和泉の舌の裏側に溜まった唾液をほじくり出し、 音を立てて飲み込む。
209	春希	Haruki	「こう、か？」
210	千晶	Chiaki	「はぁ、はぁ、はぁぁ… そ、そう…こうやって休むの」
211	春希	Haruki	「じゃあ、俺が何もしなかったら、 料理も洗濯も掃除もお前がやってくれるのか？」
212	千晶	Chiaki	「い、いや～、それはさ～、 たま～にやる分にはいい気分転換になるよ？」
213	春希	Haruki	「いい加減なことばっか…」
214	千晶	Chiaki	「ん、んぅ…ぷぅ…あ、んむ…」
215			そうやって、人には適当なことばかり言って、 結局自分は何もしない、お調子者の口をまた塞ぐ。
216			…って、料理に洗濯に掃除？
217			俺、こいつを何日ここに置いておくつもりだったんだ？
218	千晶	Chiaki	「んっ、んぷ…あ、あぁ…ね、ねぇ、春希…？」
219	春希	Haruki	「ん…？」
220	千晶	Chiaki	「一緒に、堕落しようね？」
221	春希	Haruki	「…っ」
222	千晶	Chiaki	「…んふふ、んふふふふ～」
223	春希	Haruki	「…るせえ」
224			気まぐれで胸を揉むと、 我が意を得たりとばかりに、 にやにや笑う和泉がムカつく。
225	千晶	Chiaki	「っ…あ、あはっ、ん、んんっ… は、あ、んっ…いい、うん…そう、そっ…あぁっ」
226			だからって、キャミソールの中に手を入れて、 握り潰すように強く揉みしだくと、 やっぱり嬉しそうに感じてしまう。
227	千晶	Chiaki	「あ、あは、あはは…あははははっ、 は、春希、春希ぃ…当たってる、あたってるって」
228	春希	Haruki	「黙れよ…」
229			俺のが背中に触れるだけで、 またけらけらと笑う。
230			あまりにも腹が立つから、 黙らせてやらないと気がすまない。
231			………	.........
232	千晶	Chiaki	「あぁぁぁぁっ…あ～っ！」
233	春希	Haruki	「まだ…痛いか？」
234	千晶	Chiaki	「はぁ、はぁ…あ、あ…は、春希…」
235	春希	Haruki	「なに？」
236	千晶	Chiaki	「春希にお薬飲ませてあげたらさぁ、 お返しにお注射されちゃったね…」
237	春希	Haruki	「…だから自分でムード壊すなっての」
238	千晶	Chiaki	「あ、あは、あは…そだね、まだ痛いけど…」
239	春希	Haruki	「…悪い。 今日こそは、優しくするから」
240	千晶	Chiaki	「う、ううん、激しくしてもいいけどさ。 その代わり…」
241	春希	Haruki	「うん？」
242	千晶	Chiaki	「ち・あ・き♪」
243	春希	Haruki	「………千晶」
244	千晶	Chiaki	「うん…んぅっ！」
245	春希	Haruki	「千晶…千晶ぃ…っ」
246	千晶	Chiaki	「あ、あ、あ…ああぁぁぁ～っ！」
247			………	.........
248			……	......
249			…	...
250	春希	Haruki	「あ…」
251			珍しく、部屋の電話が鳴っていた。
252			携帯じゃなくて、こっちに連絡があるなんて、 一体いつ以来のことだろう…
253			ああ、そうか。 一昨日から、携帯の電源切ってたっけ。
254	春希	Haruki	「１１時…？」
255			枕元の時計は、本来の俺の起床時間と かけ離れたところにまで短針を運んでた。
256			カーテンを閉め切っていたから全然気づかなくて… いや、そんなのはいつものことだ。 言い訳でしかない。
257	春希	Haruki	「よ、とっ！？」
258	千晶	Chiaki	「ん…んぅぅぅぅ～♪」
259	春希	Haruki	「ちょ、おい…足」
260			俺の足に絡みついていた柔らかなふくらはぎをほどいて、 のろのろとベッドから這い出る。
261			俺の体は、お互いの体温で温めあっていたせいか、 ベッドの外の冷たい空気が気持ちよく感じるくらいに 火照っていた。
262	千晶	Chiaki	「う～…ふぅぅ…ん、んぅ…」
263			もう一人の寝ぼすけは、俺という暖房器具を 引き剥がされたせいか、しばらくむずがっていたけれど、 毛布をかぶるとすぐに安らかな寝息を立て始める。
264			そういえば… 昨夜、俺は何時まで起きてたんだっけ？
265			…いや、何時まで『千晶と寝てた』んだっけ？
266	春希	Haruki	「…どした？」
267	武也	Takeya	「どしたじゃねえだろ！ お前、一体今までどうしてたんだよ！？」
268			千晶を起こさないよう、電話機ごと洗面所に籠もり、 受話器を耳に当てた瞬間飛び込んできたのは…
269			ナンバーディスプレイからも、状況からも、 十分予想できていた、武也の怒声だった。
270	春希	Haruki	「どうしてたって…こうして部屋にいたけど？」
271	武也	Takeya	「携帯全然繋がらないし、 こっちの番号にだって今朝から何回掛けたと思ってる？」
272	春希	Haruki	「そうなのか…？ 悪い、爆睡してたらしい」
273	武也	Takeya	「本当か？ お前がそういうの聞き逃すほど寝こけるなんて、 にわかには信じられねえけどな」
274	春希	Haruki	「…そうかもな」
275			俺も信じられない。
276			いつもなら、真夜中だろうが徹夜明けだろうが、 必ずワンコール以内に目が覚めていたのに。
277	武也	Takeya	「お前…やっぱ何かあったのか？」
278	春希	Haruki	「何かって…何が？」
279			頭がいつもみたいに緊張してないせいなのか。 千晶の言う通り、心も体も休めていたからなのか。
280	武也	Takeya	「何がじゃねえだろ！ 雪菜ちゃんとのことに決まってる！」
281	春希	Haruki	「…ああ」
282			堕落、したからなのか。
283	武也	Takeya	「会ったんだろ？ イブの夜、雪菜ちゃんと約束したんだよな？」
284	春希	Haruki	「…ああ」
285			あんなに大きくて激しかった時間の流れが、 もう、随分と昔のことのように感じる。
286			俺の気持ちが動いたとか、そういう問題じゃなく、 ただ、今の俺があの時間軸と繋がってないような、 そんな隔世感のせいで。
287	武也	Takeya	「ホテルだって、チェックインしたんだろ？ 朝までずっと一緒だったんだろ？」
288	春希	Haruki	「さあ、な」
289	武也	Takeya	「さあなって…お前」
290			本当なら、 今の俺は開口一番こう言わなければならなかった。
291			『よくもハメてくれたな、武也』って。
292			本当の怒りによるものでも、 照れ隠しによるものでも、どっちでもよかった。
293			そのどちらでも正解だったのに、 俺は、間違えた。
294	武也	Takeya	「実はさ… 昨日、依緒が雪菜ちゃんに連絡取ったんだけどな」
295	春希	Haruki	「そっか…」
296			連絡、取れたんだ。 ちゃんと、話できたんだ。 よかった。
297			…連絡取れただけで安心なんて、 自分の状況を棚に上げて、 よくもまぁそんなこと思えるな、俺。
298	武也	Takeya	「何でもない、何もなかったって… それしか言わなかったんだって」
299	春希	Haruki	「………」	"........."
300	武也	Takeya	「なぁ春希… お前たち、本当は何があったんだ？ もしかして俺、余計なお節介を…」
301	春希	Haruki	「そんなことないよ、武也」
302			こうして今も心配してくれる親友たちに恨みはない。 あるわけがない。
303	春希	Haruki	「雪菜の言った通りだよ。 ただ『何もなかった』だけだ…」
304	武也	Takeya	「それって、今まで通り何も変わらないってことか？」
305	春希	Haruki	「………ん」
306	武也	Takeya	「何の進展もなかったってのはいいとして、 何も壊れてないんだな？　お前たち？」
307	春希	Haruki	「………ああ」
308			そうだ、今までと変わらない。 何一つ、変わったことなんかない。
309	武也	Takeya	「…なぁ春希、やっぱ今から会えないか？」
310	春希	Haruki	「え…」
311	武也	Takeya	「なんか話しててもお前、元気なさそうだし。 ちゃんとメシ食ってるか？　寝てるか？」
312	春希	Haruki	「大丈夫だって… カレー、作り置きしてあるし、 今だってずっと寝てたんだし」
313	武也	Takeya	「直接会ってみないと安心できねえよ。 今からそっち行ってもいいだろ？」
314	春希	Haruki	「今から…？」
315			洗面所のドアを少し開き、 薄暗い部屋の中を覗き込む。
316			ベッドから、白い太股が一本だけ覗いてる。 …あいつ、一人だと寝相悪いなぁ。
317	武也	Takeya	「そうだ、ついでに何か食材買ってくから。 また鍋やろうぜ鍋。依緒にも連絡してさぁ」
318	春希	Haruki	「駄目だ、来るな」
319	武也	Takeya	「………春希？」
320	春希	Haruki	「………今夜からゼミのスキー合宿なんだ。 夕方から家空けるんだよ」
321			その嘘は、とっさに口から出た。
322	武也	Takeya	「スキー合宿ぅ？ そんな話、初めて聞いたぞ？」
323	春希	Haruki	「そりゃそうだろ、初めて話した。 …先週、急に決まったんだよ」
324			ベッドからだらしなくはみ出た足や、 もぞもぞと動く毛布を見ていたら、 いつの間にか、また嘘を重ねてた。
325	武也	Takeya	「急すぎんだろそれは。ありえねえ」
326	春希	Haruki	「…決まったのはもっと前だったんだけど、 俺がそれを知ったのが先週の打ち上げの席で」
327			自分でも苦しいなって思うけど、 もう、この継ぎ接ぎだらけの言葉を 引っ込めるわけにもいかない。
328	春希	Haruki	「だから、しばらく電話も繋がらない。 山奥のロッジだし、朝から晩までスキー漬けだし」
329	武也	Takeya	「いくら何でも無理があるぞ春希… お前だったら絶対に信じないだろそんなの」
330			誰のためでもない…
331			ただ、俺が一番いたい場所を守るために。
332	春希	Haruki	「ごめん武也… そろそろ出かけないといけないから、切るな」
333	武也	Takeya	「お前！？ さっき出かけるのは夕方だって…」
334	春希	Haruki	「………ごめんな」
335			本当に、本当に無茶苦茶な嘘だってわかってる。
336			けど俺… 嘘下手なんだよ、昔からさ。
337	留守電アナウンス	Answering Machine	「ただ今留守にしております。 ご用の方は発信音の後にメッセージをお願いします」
338			留守電をセットして、 これでもう俺は旅の空の人になった。
339			携帯の電源も切ってある。 誰も、俺を捕まえることはできない。
340			…俺が、部屋の外に出ない限り。
341	千晶	Chiaki	「…電話、誰からだった？」
342	春希	Haruki	「起こしちまったか、悪い」
343	千晶	Chiaki	「そんなのは別にい～よ。 春希の部屋なんだしさぁ」
344	春希	Haruki	「新聞の販売店から。 よくある勧誘だった」
345	千晶	Chiaki	「そ」
346	春希	Haruki	「そう」
347	千晶	Chiaki	「…もう起きる？」
348	春希	Haruki	「どうせ眠いんだろ？　まだ」
349	千晶	Chiaki	「ま、ね」
350	春希	Haruki	「…俺も、この格好で電話してたから寒くなってきた」
351	千晶	Chiaki	「なら…おいで」
352	春希	Haruki	「おいでも何も、俺のベッドだ」
353	千晶	Chiaki	「わ、ほんとだ、冷たっ」
354	春希	Haruki	「当たり前だ、冬だから」
355	千晶	Chiaki	「だからエアコンつければいいのに」
356	春希	Haruki	「いらない」
357	千晶	Chiaki	「どうしてよ？」
358	春希	Haruki	「ここはあったかい… それで十分だ」
359	千晶	Chiaki	「………」	"........."
360	春希	Haruki	「何だよ？ 俺、何か変なこと言ったか？」
361	千晶	Chiaki	「あっためたげるね、春希」
362	春希	Haruki	「………頼む」
363			本当にごめんな、武也。
364			でも大丈夫だって。 そんなに心配しないでくれよ。 俺は、なんとかこうして元気にやってるからさ。
365			雪菜の言う通り、そして俺の言う通り、 俺たちは、今までと何も変わってないんだからさ。
366			だって、とっくに終わっていたんだから。
367			………	.........
368	千晶	Chiaki	「春希～、ご飯できたよ～」
369	春希	Haruki	「やかましい」
370			ちょっとした囁きさえも余裕で聞こえる狭い部屋の中に、 千晶の俺を呼ぶ大きな声が響き渡る。
371			ただでさえ『あの時の声』で 隣に迷惑かけてるかもしれないってのに、こいつは…
372	千晶	Chiaki	「む～、生まれてこの方料理なんかやったことない 千晶ちゃんが存分に腕を振るったというのに その言い草～」
373	春希	Haruki	「カレーに火をかけて混ぜただけだろ…」
374	千晶	Chiaki	「それだけじゃないって。 具が心もとなかったから色々投入したし。 味付けとか大変だったんだよ？」
375			俺たちが部屋から出なくなって四日目。
376			ほとんど汁だけになったカレーに 冷蔵庫や戸棚の残り物を投入し、 完全に元の味を留めていない食事を口に運ぶ生活…
377	春希	Haruki	「お前…これ何入れた？」
378	千晶	Chiaki	「缶詰。 焼き鳥とサバミソとツナと… あ、それからパイナップル。シロップごと」
379	春希	Haruki	「………」	"........."
380	千晶	Chiaki	「カレーにパイナップルって合うんだよね～。 昔漫画で読んだことあるから知ってるよ」
381	春希	Haruki	「…なら食ってみろ、千晶」
382	千晶	Chiaki	「じゃ、あ～ん♪」
383	春希	Haruki	「………ほら」
384			きっと俺が照れたりすると思ったんだろう。
385			無防備に甘えるように開けた口に、 無造作にスプーンを放り込んでやる。
386	千晶	Chiaki	「（んぐんぐ）………ぐえ」
387			特にツナとパイナップルを拾って。
388	千晶	Chiaki	「う～、白いご飯おいし～」
389	春希	Haruki	「いくらなんでもそろそろ買い物に行って来ないとな…」
390			さすがに備蓄していた食糧も底を尽きかけてる。 米と調味料とパスタだけじゃ 二人で何日も過ごせるわけがない。
391			…何日間過ごすつもりなのかは、今は考えない。 千晶の思惑も、俺の希望も。
392	千晶	Chiaki	「あ～、また休むのやめようとしてる～。 本当に吹っ切れるまで余計なこと考えないの」
393			けれど、その程度のアクションでさえ、 俺の厳格な主治医は許さない。
394	春希	Haruki	「けど、そろそろバイトも再開しないと…」
395			麻理さんや編集部の皆。 佐藤や中川さんや杉浦たち、グッディーズの皆。
396			なんだか随分顔を見てない気がするけど、 元気にやってるだろうか。
397			…なんてな。 今、一番元気がないのは俺に決まってるのに。
398			今の俺は、信じられないくらい体力も落ちてるだろう。 もしかしたらまともに外を歩けないかもしれない。
399			明日から少しずつ出歩いて、 そろそろ生活のリズムを取り戻して…
400	千晶	Chiaki	「もしかして、お金足りない？」
401	春希	Haruki	「年越すくらいはあるけど」
402	千晶	Chiaki	「サボっちゃいけないバイト？」
403	春希	Haruki	「年内はそういうのはないけど…」
404	千晶	Chiaki	「なら問題なし。 年越し蕎麦くらいならあたしがおごってあげるからさ。 もう少しのんびりしてなよ」
405	春希	Haruki	「蕎麦だけかよ…」
406	千晶	Chiaki	「いや、おせちはちょっと…」
407			年越すつもりか、この部屋で。 そこまで、いてくれ…居座るつもりなのか、こいつは。
408	春希	Haruki	「それはともかく、食料くらいは買いに出ないと。 お前、パスタを塩コショウで炒めて食いたいか？」
409	千晶	Chiaki	「別に外に出かけなくてもさぁ、 食料くらいいくらでも調達できるって」
410	春希	Haruki	「どうやって？」
411	千晶	Chiaki	「お、噂をすれば～。 は～い、今出ま～す」
412	春希	Haruki	「やめんか！ 俺が行く」
413			別に、自分の部屋みたいに振舞うことを 咎めたわけじゃなかった。
414			ただ、洗濯したスカートが乾いてないからって、 下着姿でいることを忘れて玄関に出ようとしやがるから…
415			………	.........
416	千晶	Chiaki	「ほら、お蕎麦！」
417	春希	Haruki	「………」	"........."
418	千晶	Chiaki	「あと、飛騨牛はしゃぶしゃぶ用とステーキ用。 サーモンに明太子にお総菜詰め合わせ」
419	春希	Haruki	「………」	"........."
420	千晶	Chiaki	「栄養のバランスを考えてお野菜もあるよ？ アスパラ、コーン、ジャガイモにニンジン…」
421	春希	Haruki	「………」	"........."
422	千晶	Chiaki	「あとは贅沢品。 ビールと酎ハイ詰め合わせセット。 春希、あとで乾杯しようね？」
423	春希	Haruki	「なんで…？」
424			そんな疑問符を喉から絞り出すのが精一杯だった。
425			綺麗に片づけられてしまった俺の冷蔵庫から、 一気にモノが溢れてしまいそうなほどの食料品が、 いきなり部屋に届けられた今の俺にとっては…
426	千晶	Chiaki	「お歳暮シーズンをなめてもらっちゃ困るなぁ。 家に置いてあったギフトカタログを ほんの数枚拝借してきただけだよ？」
427	春希	Haruki	「………」	"........."
428			その答えを聞いて、またしても絶句してしまう。
429	千晶	Chiaki	「ウチの親、私立校の教師やってたから結構もらうんだ。 それで時々申し込むの忘れて期限切らしちゃうし。 ま、有効利用よ、有効利用」
430			…こいつ、もしかしたら俺より生活能力高いかもしれない。 こんなにだらしないくせに。
431	千晶	Chiaki	「ね？　これで冬休みくらい越せそうでしょ？ …なんならおせちも頼もうか？　まだギフトあるよ」
432	春希	Haruki	「…もういい」
433			両手を上げて千晶に全面降伏する。
434			ここまで手を回されたらどうしようもない。 こいつ、俺をどこまで堕落させれば気が済むんだ。
435	千晶	Chiaki	「お、こっちも来てる。 よかった～、やっと届いたよ」
436			俺の生活時間も、生活習慣も、生活規範も、 何もかも千晶に引っかき回されてしまった。
437			社会復帰できないレベルで甘やかされ、 全てを受け入れられ、負の刺激を取り払われ…
438			体液に限りなく近い成分の、 体温に限りなく近いぬるま湯に沈んでいく感覚が、 俺をじわじわと浸食していく。
439			数日後の俺がどうなっているのかはわからない。
440			けれど、これだけは言える。
441			今の俺が、千晶なしで 普通に暮らしていけるようになるのに、 少なくとも数日は必要だろうって。
442	千晶	Chiaki	「ね、春希春希っ」
443	春希	Haruki	「ん？」
444	千晶	Chiaki	「どう？　似合う？」
445	春希	Haruki	「え…」
446	千晶	Chiaki	「着るもの、そろそろ寂しくなってきたからさ、 通販で申し込んでおいたんだ。 …これはあたしのお小遣いで買ったよ？」
447	春希	Haruki	「千晶…」
448			千晶が、今届いたばかりの服を、 胸の前に掲げてみせる。
449	千晶	Chiaki	「実はちょっといいお店の商品だから、 カードの限度額がヤバいかもしれないんだけどさ」
450	春希	Haruki	「馬鹿か…お前」
451			見せる相手は俺一人。 しかも、閉め切った部屋の中。
452			こんな退廃的な、空気の濁りきった場所で、 何に向かって着飾ろうとするんだよ、お前。
453			しかもそれ…
454	千晶	Chiaki	「あのさ、春希…」
455	春希	Haruki	「な…なんだよ」
456			千晶が、俺の目の前でキャミソールに手をかけると、 そのまま床に放り投げる。
457			ブラは、最初から着けてない。
458	千晶	Chiaki	「春希が、着せてよ？」
459	春希	Haruki	「っ…」
460			そのまま、今度は最後の一枚に両手の親指をかけて、 するりとずり落としていく。
461	千晶	Chiaki	「一枚一枚、愛情込めて、ね？」
462			そう言って、もう一度千晶が胸に掲げたのはキャミソール。
463			箱の中にはそれ以外にも、高級そうな素材とデザインの、 ガーターベルトに、ストッキングに。 …ブラと、ショーツ。
464			…下着ばかり、だった。
465	春希	Haruki	「………寒」
466			最近では、いつも暗い部屋の中。 時間の感覚もないまま、寒さで目が覚めた。
467			ぼやけた目で枕元の時計を見ると、９時。 カーテンからほんの少しだけ光が漏れてきてるから、 きっと午前。
468	春希	Haruki	「寒いって…おい」
469			ここ数日、時々こういうことがある。
470			眠っている間に、寝相の悪い誰かさんに 布団を引き剥がされてしまうせいだ。
471			しかも、ほとんど裸で寝てるせいで、 体の、触れあっていない部分が冷え切ってしまい、 『もし発見が遅れていたら』と、ぞっとすることも度々。
472	春希	Haruki	「こら…布団返せ、千晶」
473			こういう時の対処としては三つある。
474			一つは、傲慢な簒奪者から布団を奪い返し、 腹いせにそいつを蹴飛ばすという強気の選択肢。
475			一つは、傲慢な簒奪者に冷え切った体をくっつけ、 俺が味わった苦しみを瞬間的に伝えるという、 復讐に少し甘えの入った選択肢。
476			もう一つは…蹴飛ばして、体をくっつけて、 目が覚めた簒奪者に激しい肉体的な罰を与えるという、 ただ、俺の欲望に忠実なだけの選択肢。
477	春希	Haruki	「おい、千晶、千晶…？」
478			そんな益体もないことを考えつつ、俺の右隣をまさぐり、 いつもの温かくて柔らかい肌を求める。
479			けれど…
480	春希	Haruki	「ん…？」
481			計算違いが二つあった。
482			一つは、布団は引き剥がされてはいなかったこと。 ちゃんと俺の体を覆っていたこと。
483			もう一つは、いつもの暖房器具がなかったこと。 俺の隣で、俺を人肌に温めてくれる、柔らかな…
484	春希	Haruki	「千晶？」
485			ベッドの中に、あいつがいなかった。 だから、寒かった。
486	春希	Haruki	「千晶…？」
487			部屋の中に、あいつがいなかった。 だから、俺は…
488			………	.........
489	春希	Haruki	「………」	"........."
490			ワンルームの俺の部屋なんか、 人捜しは１０秒もかからない。
491			ドアのある場所を全て開き、 今ここに千晶がいないことを確認するのに、 それだけの時間しか使わなかったのに。
492	春希	Haruki	「………………………あれ？」
493			今ここに千晶がいないことを『認識』するには、 その１０倍近くの時間を要した。
494	春希	Haruki	「っ…」
495			カーテンを開くと、曇り空にも関わらず、 久々に目にする空の眩しさに目を細める。
496			いきなり拡がる街の景色に視界が追いつかず、 少し頭がふらつく。
497	春希	Haruki	「～っ」
498			情けなくもふらつく頭を、無理やり逆療法で立て直し、 明るくなった部屋の中をゆっくりと見回す。
499			あいつが脱ぎ捨てたのをぶつぶつ言いつつ、 俺が畳んで枕元に置いたはずの着替え。
500			あいつが全然嫌がらないのを罵りつつ、 俺が洗って部屋の中に干したはずの下着類。
501			それに…
502	春希	Haruki	「あ…」
503			あいつがここに来てから、 ずっとクローゼットにしまわれたままのコート…
504			結論から言うと、１勝２敗。 厳密に言えば、０勝２敗１分。
505			コートがなくなってる。 着替えもなくなってる。 下着は…一組だけなくなってる。
506	春希	Haruki	「っ…」
507			今度は、あいつのバッグ。
508			馬鹿げたサンタの衣装とか、着替えとか、 あと…お徳用ゴムとか色々詰めてあった大荷物。
509			…それは確かに、 いつものように部屋の隅に鎮座してたけど。
510	春希	Haruki	「………」	"........."
511			こちらは、１勝１敗１分。
512			見た通り、バッグはある。 けど、貴重品だけ入ったポーチがなくなってる。
513			それと、これは良いことなのか悪いことなのか。 …携帯が、残ってる。
514	春希	Haruki	「ええと…」
515			以上のことから導き出される結論は？ …少なくとも千晶は、今はここにいない。
516			じゃあ、どこに行った？
517			普通に考えればすぐ近く。 多分、コンビニへの買い物レベルな ちょっとしたお出かけ。
518			何しろ、持って出たのは現金とカードだけ。 ここに持ち込んだ着替えや他の大荷物は、 相変わらず部屋に散らばり、強く自己主張してる。
519			貴重品のはずの携帯でさえここにある。 帰ってこない方がおかしい。
520	春希	Haruki	「はぁぁぁぁ～」
521			部屋の真ん中にぺたりと座り込み、 盛大なため息をつく。
522			で、そうやって一度ほっとしてしまうと、 妙に理不尽な怒りと説教の文句が湧いてくる。
523			何で黙って出かけるんだとか、 お前は報連相の大切さを知っているのかとか、 卒業して社会に出るとき、今のままじゃ心許ないぞとか。
524			どうやって嫌みったらしく追い込んでやろうか。 どんなお仕置きならあいつは悦…堪えるだろうか。
525			そんな邪悪な思考が次から次へと溢れ、 やっと俺の心が落ち着きを取り戻す。
526			…もう、『どうしてほっとするんだ？』なんて、 自問自答するのも馬鹿馬鹿しい。
527			………ほっとするに、決まってるじゃないか。
528			………	.........
529			……	......
530			…	...
531	春希	Haruki	「………１０時」
532			時計の長針が、久々に真上を向いた。
533			体感的には、本当に久しぶりだった。 だってその間、時計を何百回見たことか。
534			相変わらず空は白く曇り、 部屋の気温もなかなか上がらない。
535			けれど俺は起きたときの格好で、 毛布を肩に掛けて、床に座り込んだまま。
536			普通に考えればすぐ近く？
537			多分、コンビニへの買い物レベルな ちょっとしたお出かけ？
538			そんな戯言をほざいたのは、どこの誰だ？
539	春希	Haruki	「っ…」
540			部屋中の扉を開けても何の意味もないことは、 頭の中ではわかりすぎるほどわかってる。
541			それでも、開けずにはいられない。 そこに誰もいないことを確かめずにはいられない。
542			…本当に確かめなければならないのは、 玄関ドアの外だって、やっぱりわかりすぎてる。
543			それでも…そこは、開けられない。
544			だって、冷静に考えてみろ。
545			外を探し回ったって、見つけられる可能性は低い。 入れ違いになってしまう可能性の方がよっぽど高い。
546			そしたらあいつはここに戻って来れなくなってしまう。 だって俺は、鍵を開けたまま外に出られるわけがない。
547			あいつに合鍵、渡しておくんだった。
548			いや、そもそも携帯持って出かけるべきだろ。 なに考えてるんだよ…あの馬鹿。
549	春希	Haruki	「何考えてんだ、俺の馬鹿…」
550			そうだよ、帰って来るに決まってるのに、 なに心配してんだよ。
551			でも千晶だぞ？ 俺、あいつの気持ちなんか読めねえよ。
552			携帯まで置いてって、 そのまま戻らない訳ないだろ？
553			…だから連絡が取れないんじゃないか。 あいつが今、どこにいてどこに行くつもりなのかも 全然わからないんじゃないか。
554	春希	Haruki	「～～～っ！」
555			………	.........
556	千晶	Chiaki	「何？　年内は連絡取れないって言ったよね？ 今、どろっどろの大恋愛してんだから邪魔しないでよ！」
557	上原	Uehara	「そうは言ってもな… こっちだって初日決めないと動けないんだよ。 そろそろハコ押さえないといけないし」
558	千晶	Chiaki	「むぅ…」
559	上原	Uehara	「今のところ、２月最終週なら なんとかなるけど間に合うか？ あと二週間でホン上げろってことなんだが」
560	千晶	Chiaki	「…それ、冬休み明けには ほとんど出来てないといけないってことじゃん」
561	上原	Uehara	「それ過ぎたら春になるだろ。 姫が『冬の物語』に拘るからこんなスケジュールに…」
562	千晶	Chiaki	「あ～、わかったわかった。 ほんっと鬱陶しいな座長は」
563	上原	Uehara	「あ、また胃が…」
564	千晶	Chiaki	「ホンなら三日もあれば上げるから、 今はこっちの生活に干渉しないでよ。 …ものすっごい“集中”してんだからさぁ」
565	上原	Uehara	「そっちの“稽古” まだ続いてるのか？」
566	千晶	Chiaki	「うん、すっごく濃いよ。 新鮮で面白くて、激しくていとおしい毎日。 ああ、あたし恋してんだなって…」
567	上原	Uehara	「………」	"........."
568	千晶	Chiaki	「ね、初めてのときの痛さって想像できる？」
569	上原	Uehara	「あいにくと俺は男だからな。 …実は大失敗して心が痛かったけど」
570	千晶	Chiaki	「膣の中に焼けた鉄の棒を押し込まれたって言うか… 股を思いっきり引き裂かれるような激痛と、 子宮の奥まで届くような鈍痛が相まってぇ…」
571	上原	Uehara	「うあ…」
572	千晶	Chiaki	「でもね…これが何度も何度も肌を重ねて、 だんだん慣れてきたときの気持ちよさって言ったら！」
573	上原	Uehara	「そう…」
574	千晶	Chiaki	「いいんだぁ、彼…最高。 してるときはあたしをめちゃくちゃに踏みにじるけど、 終わったら子供みたいにあたしの胸で眠るんだよ？」
575	千晶	Chiaki	「おっきな体ちっさく丸めて、泣きそうな顔して、 寂しそうに震えちゃってさぁ…もう可愛いったら！」
576	上原	Uehara	「はいはい…」
577	千晶	Chiaki	「女の悦びと母の喜びいっぺんに教えてくれちゃって、 ほんと、たまんない。子供できちゃってもいいかなって。 …うあ、凄、女の台詞ボロボロ湧き出てくる」
578	上原	Uehara	「はぁぁ…」
579	千晶	Chiaki	「やっとリアルに感じることできたよ。 女になるってこういうことかぁって。 また一つ、大きな引き出しが増えた気がする」
580	上原	Uehara	「…そりゃ良かったな」
581	千晶	Chiaki	「今ならさ、これまでのヒロインたちも、 もっと上手く[R演^や]れそうな気がするよ。 恋に翻弄される女も、愛に狂う女も」
582	上原	Uehara	「ま、男に興味ないのが姫の唯一の弱点だったしな。 …ここまで一気にハマるとも思わなかったけど」
583	千晶	Chiaki	「今、すっごい楽しみながら吸収してる。 とってもシンプルな、彼とあたしだけの世界の中で」
584	千晶	Chiaki	「彼はあたしに、一つのヒラメキだけじゃなく、 たくさんの経験と知識と本能まで与えてくれた。 あたし、彼に出逢えて本当に良かった…」
585	上原	Uehara	「その彼も気の毒に…」
586	千晶	Chiaki	「こんなに愛されてんだよ？ 果報者じゃん？」
587	上原	Uehara	「………」	"........."
588	千晶	Chiaki	「ああ、ごめん。そろそろ切るね。 部屋に戻らないと」
589	上原	Uehara	「おい、待てよ、まだ話は…」
590	千晶	Chiaki	「駄～目。 もしあたしがいなくなったことに彼が気づいて、 寂しくて泣いちゃってたりしたらどうするの？」
591	上原	Uehara	「どうするのって… どうせしばらくしたら帰るんだから問題ないだろ？」
592	千晶	Chiaki	「彼が泣いちゃったら、あたしの方が大変だよ。 悲しくて、嬉しくて、それだけで濡れてくる。 彼のこと、ますます愛してあげたくなる」
593	上原	Uehara	「…そんだけ愛してる男を、 平気で裏切ってるんだよな、姫は」
594	千晶	Chiaki	「裏切ってなんかないよ～。 嘘偽りなく心の底から本気で愛してるんだから！」
595	千晶	Chiaki	「…ただ、舞台がはねたら全部終わるだけじゃん」
596	上原	Uehara	「姫のこと、俺が一番認めてると思ってるし、 芝居に対しての真摯さは尊敬もしてるけど、 そういうとこは怖いわ、正直」
597	千晶	Chiaki	「あ、そ」
598	上原	Uehara	「勉強も、遊びも、働くことも… それどころか男に身も心も尽くすのでさえ、 全部、舞台稽古なんだもんな」
599	千晶	Chiaki	「………」	"........."
600	上原	Uehara	「『芸の肥やし』が悪いとは言わないし、 そういうところに賭けてる気持ちもあるけどさ。 …刺されないようにしとけよ？」
601	千晶	Chiaki	「…テンション下げんなよ座長。 あたし今から彼の元に帰るんだよ？ 思いっきり上げなくちゃなんないんだよ？」
602	上原	Uehara	「………悪かったよ。 じゃあな、彼によろしく」
603	千晶	Chiaki	「………」	"........."
604	千晶	Chiaki	「刺されないように、か」
605	千晶	Chiaki	「っ…！」
606	千晶	Chiaki	「待っててね、春希」
607	千晶	Chiaki	「今、帰るからね。 今日もいっぱい温めてあげるから、ね？」
608			……	......
609			……	......
610			…	...
611	春希	Haruki	「………寒」
612			枕元の時計は、もうすぐ１１時。
613			空は、晴れたかどうかわからない。 だって部屋の中を夜に戻したから。
614			明るい街の景色をずっと見ているのは、 耐えられなかったから。
615	春希	Haruki	「寒いってばよ…おい」
616			だから、今の俺にわかるのは、 相変わらず部屋が寒いってことだけ。
617			毛布で体を包んでいても、 全身に行き渡る冷気を止められず、 震えが止まらないくらい、寒い。
618	春希	Haruki	「～っ！」
619			肩を抱く。 膝を抱える。 歯をガチガチ鳴らす。
620			でも、それっておかしい。 ３０分前、あまりの寒さに耐えきれず、 とうとうエアコンを付けたはずだった。
621			でも、やっぱり何かがおかしい。 だって、俺の全身を汗が伝ってる。 まるで凍ってしまいそうなくらいに、冷たい汗が。
622	春希	Haruki	「はぁ、はぁ…はぁぁ…っ」
623			とうとう、座っているのも億劫になり、 床にずるずると倒れ込む。
624			熱はない。 それどころか逆に、体温が下がりすぎてるくらい。
625			体に変調を来しているようにも見えるけど、 本質は全然そこじゃない。
626	春希	Haruki	「…の、野郎っ」
627			何してるんだ、あいつ…
628			こんな状況に俺を追い込んでおいて、 突然いなくなるなんて、なに考えてんだよ…
629			あいつに無理やり入院させられたのに。 自分の部屋という病室に。 つきっきりの看護とともに。
630			それが今朝目覚めたら、 専属の看護師がいなくなってる。 ブザーを押そうにも、ナースステーションに繋がらない。
631			あんなにハッキリ俺の面倒を見ると宣言した看護師は、 リハビリも終わらないうちに、俺を投げ出した。
632	春希	Haruki	「………千晶ぃ」
633			いや、違うだろ？ 帰ってくるよな？
634			ほんの二時間戻ってこないくらいで、 なにテンパってんだ俺、信じらんねぇ…
635			何度言い聞かせれば気が済むんだよ。 着替えも携帯も置いたままいなくなる奴がいるわけが…
636			でも、服とか貴重品とかに縛られる奴じゃない。
637			平気で『あ～、いつか取りに行くから置いといて～』 とか適当なこと言っても全然おかしくない奴だ。
638			………	.........
639			帰ってくるよな？
640			帰ってくるよな？ 帰ってくるよな！？
641	春希	Haruki	「っ…ぅ…ぅぅ…っ」
642			お願いだ千晶… 俺をこのままで放っておかないでくれ。
643			このままじゃ、また三年前を思い出す。 また、眠れなくなる。
644			俺が被害者じゃなくて、 加害者だった頃のことを思い出してしまうから。
645	春希	Haruki	「雪、菜…」
646			お前………こんなのに耐えてたのか？ なんで俺、なんで…
647	春希	Haruki	「っ！？」
648	千晶	Chiaki	「たっだい、ま～…？」
649	千晶	Chiaki	「春希…まだ寝てる～？ 寝てるなら『千晶ちゃんらぶりぃ』って返事して～」
650	千晶	Chiaki	「よしよし、いい子いい子。 そいじゃ今すぐあっためて………うわぁっ！？」
651	春希	Haruki	「………」	"........."
652			千晶が大きな悲鳴を上げたのは、 床に転がっていた大きな物体に気づかず 蹴飛ばしてしまったせいだった。
653	千晶	Chiaki	「は………春希？」
654	春希	Haruki	「…よぉ」
655			背中を向けたまま、小さく軽く返事を返す。
656	千晶	Chiaki	「ありゃ…起きちゃってた？」
657	春希	Haruki	「お前なぁ…１１時だぞ？ 俺のこと、どんだけ怠け者だと思ってんだ」
658	千晶	Chiaki	「ごめん、ちょっとコンビニ行ってた。 通販用の口座にお金振り込みたかったし」
659	春希	Haruki	「あ、そ」
660			それは、まったく予想通りの展開。
661	千晶	Chiaki	「そしたらさぁ、久しぶりだから新刊だらけじゃん。 ついつい立ち読み始めちゃってさぁ」
662	春希	Haruki	「雑誌くらい買えよ。お店の人に悪いと思わないのか」
663	千晶	Chiaki	「そうは言ってもさ、こっちも先立つものがね。 ほら、春希を誘惑するために使い込んじゃったしぃ」
664	春希	Haruki	「俺のせいにするな…」
665			千晶の行動パターンを考えれば何の意外性もない、 確率９５％以上の、当たり前過ぎる流れ。
666	千晶	Chiaki	「さてと、起きてんなら一緒にご飯食べよっか。 春希、おにぎり鮭とシーチキンどっちがいい？」
667	春希	Haruki	「…いいよ、俺」
668	千晶	Chiaki	「昨夜もあれだけ激しい運動したじゃん。 食べとかないと今夜保たないよ？　あははっ」
669	春希	Haruki	「別に腹減ってないし…もう少し寝るから」
670	千晶	Chiaki	「あ、じゃああたしも二度寝～」
671	春希	Haruki	「お前は飯食ってればいいだろ。 …退屈ならまた出かけたらどうだ？」
672	千晶	Chiaki	「…春希？」
673			結局、千晶に一度も顔を向けずに、 我関せずとベッドの中に潜り込み、 頭から布団をかぶる。
674			千晶の当たり前の行動に、 当たり前の反応を返しただけ。
675	千晶	Chiaki	「なに、どしたの春希？ もしかして具合でも悪い？」
676	春希	Haruki	「別に全然」
677			けれど千晶はそうは思わなかったようで、 俺の、当たり前の反応に戸惑ってる。
678	千晶	Chiaki	「…な～んかいつにも増して反応が淡白じゃない？」
679	春希	Haruki	「淡白で悪かったな。 生まれつきこんなもんだ」
680	千晶	Chiaki	「ひとたびスイッチが入ると、 あ～んなにねちっこいのにねぇ、あははははっ」
681	春希	Haruki	「…おやすみ」
682	千晶	Chiaki	「あはは…は？ あ、ちょっとちょっと春希ぃ！ どしたのよ一体～？」
683			ベッドに潜り込んでしまった俺を、 千晶が戸惑ったようにゆさゆさと揺さぶる。
684			うるさい。 鬱陶しい。 邪魔くさい。
685			もう、放っておいてくれ。
686	春希	Haruki	「何でもないって言ってるだろ？」
687			中途半端な干渉なら…やめてくれ。
688	千晶	Chiaki	「な～ん、ちょっとなに拗ねてんのぉ？ お～い、は～る～きってば～」
689	春希	Haruki	「見るなっ！」
690	千晶	Chiaki	「あ…っ！？」
691			背中に張りついてきた千晶を 力任せに振りほどいた瞬間…
692			とうとう、顔を見られてしまった。
693	春希	Haruki	「っ…」
694	千晶	Chiaki	「春希…」
695			慌ててもう一度頭から布団をかぶり、 千晶との接点をこの世から消す。
696			真っ暗な闇の中に閉じこもる。 千晶どころか、世界全てとの接点を消す。
697			だって…
698			そうしなきゃ、目を、ぬぐうこともできない。
699	千晶	Chiaki	「………ごめぇん」
700	春希	Haruki	「違うっ！」
701			千晶に、見られた。 心の中、覗かれた。
702			不覚。不覚。 信じられない凡ミス。
703	千晶	Chiaki	「ごめん、ごめんね…許して、春希。 嘘、ついちゃったね、あたし」
704	春希	Haruki	「関係ないから… お前の言ってること全部的外れだから」
705			あまり俺を喋らせるな。 声が裏返るから。
706	千晶	Chiaki	「ずっと一緒にだらだらするって約束したのに、 勝手に外に出ちゃった…」
707	春希	Haruki	「用があるのに出かけない方がおかしいだろ。 そもそも何だそのふざけた約束は」
708	千晶	Chiaki	「風邪だって治りかけが一番危ないのにね。 駄目だなあたし…そゆとこデリカシーなくてさ」
709	春希	Haruki	「デリカシーがないのはその通りだけど、 俺が傷ついてるみたいに言うのはやめろ。 …デリカシーないぞ、お前」
710			何でそんなに必死でフォローしようとするんだよ？
711			全然大したことないのに。 お前だってそう思ってたはずなのに。
712			だって… だからお前は、俺を放っておいたんだろ？
713	千晶	Chiaki	「ねぇ春希… あたしもそこに入れてよ。 寒いんだよ」
714			千晶の声、震えてる。
715			俺は何も気にしてないのに、 勝手に深刻に捉えて、馬鹿みたいに。
716	春希	Haruki	「エアコン付けてあるだろ。 寒くなんかない」
717			だから俺も、まったく普通に応える。 普通に…拒絶する。
718			なのに…
719	千晶	Chiaki	「…なんのことかな？」
720	春希	Haruki	「お前…」
721			ずっと『寒い寒い』って、『エアコン付けろ』って、 あげくの果てに『春希のケチ』って言ってたくせに…
722	千晶	Chiaki	「ああ、寒い、寒いよ… ほら、このままじゃあたし、風邪ひいちゃうよ…？」
723	春希	Haruki	「コートでも着てろ」
724	千晶	Chiaki	「ん？　なんか言った？」
725	春希	Haruki	「………っ」
726			そして今度は、 着るどころか、脱ぎ始めた。
727	千晶	Chiaki	「何度だってお願いするよ… あたしもそこに入れて」
728			自分の着ているものを一枚一枚剥ぎ取ると、 それをわざわざ宙に放り投げる。
729	千晶	Chiaki	「この部屋でただ一つだけあったかいところ…入れてよ」
730			どうしてそれがわかるって…？ だってこいつ、わざとベッドの上に落としてる。
731			最初がシャツ、次にスカート。 そこから徐々に落ちてくるものが軽くなっていき…
732	千晶	Chiaki	「あたしをあっためてよ、春希…」
733	春希	Haruki	「っ…」
734			最後に、一番重いものがのしかかる。
735			俺の全身に覆い被さるように、 甘えてるふりをして、俺を甘えさせようって。
736	千晶	Chiaki	「あんたを…抱きしめさせてよ」
737			俺を安心させようなんて、 そんなくだらないことに必死にこだわり、 全身全霊を投げ打ってる。
738	千晶	Chiaki	「あ…っ」
739			そんな必死な手を、誰かが無造作に掴む。
740			…なんて言ったって、 ここに千晶以外の奴なんて一人しかいない。
741	千晶	Chiaki	「あ、あ…」
742			掴まれた手が、布団の中に引きずり込まれる。
743	千晶	Chiaki	「あ、あ、あ…あぁ…っ」
744			その力は想像以上に強く、 全裸の千晶をあっという間に全て布団の中に咥え込む。
745	千晶	Chiaki	「は、春…いゃんっ、あ、あぁぁぁっ」
746			まるで食虫植物に捕捉されたかのように、 千晶の全身が布団に食われ、後には脚だけが残り、 ばたばたと最後の悪あがきをする。
747	千晶	Chiaki	「は、あ…ああああんっ、 や、やぁ～、もう、あはは…春希っ、春希ぃ… ご、ごめ…ふあぁっ…え…い、いきなり、するのぉ…？」
748			今になって必死になるなら、 最初からずっと俺の側にいろよ…馬鹿野郎。
749			………	.........
750			……	......
751			…	...
752	春希	Haruki	「…ごめんな。 今日の俺、ウザかったろ？」
753	千晶	Chiaki	「ううん… 昨日よりも、もっと凄かったよ？」
754	春希	Haruki	「そっちじゃない」
755	千晶	Chiaki	「あたしとしては、そっちのが重要なんだけどな。 明日は一体どんなことされるのか想像もつかないよ」
756	春希	Haruki	「………うるさい」
757			千晶が気を使って茶化してくれてるのが、 今の精神状態だと、痛いほど伝わってくる。
758			こいつ、結構細かいところに気のつく奴なんだな… いつもはとてもそんなところ見せないのに。
759	春希	Haruki	「なんか、感情の制御がうまくいかなくてさ。 …お前のせいでもあると思うんだけどな」
760	千晶	Chiaki	「わ、あたし春希にそんな影響与えてるんだ。 もしかして、一番気になる女性？」
761	春希	Haruki	「…現時点では当たり前だろ？ 俺たち、この一週間何してると思ってんだ」
762	千晶	Chiaki	「ずっとナニしてるよねぇ、あはは…」
763			だからこうして、今も離れられずにいる。
764			汗と、俺の精液まみれになった千晶が シャワーを浴びるとき『一緒に入る？』と誘ったのは、 本当は冗談だったのかもしれない。
765			でも俺はその時、自分でも信じられないくらい 素直に首を縦に振ってしまった。
766			千晶は、一瞬の沈黙の後… いつもみたいに腹を抱えて笑ったりせず、 真顔で俺の手を取り、脱衣場へと連れ込んだ。
767			そんなふうに二人、裸で浴室に入ると、 結局、なんだかんだでお互いその気になってしまう。
768			ねだられるままに、千晶の身体を手のひらで洗い、 石鹸で滑らかになった肌を堪能した。
769			濡れた体を押し付けあい、全身を絡め、千晶を汚し…
770			仕方ないからもう一度お互い全身を洗いあい、 今こうして抱きあったまま湯船に浸かってる。
771	春希	Haruki	「千晶は悪くないのに、変に当たり散らしてさ… ごめん、反省してる」
772			だから、断りもなく出ていくのはやめてくれ。
773			…言わないけどさ。
774	千晶	Chiaki	「ううん、あたしが悪いんだよ」
775	春希	Haruki	「悪くない、千晶は」
776	千晶	Chiaki	「悪いの」
777	春希	Haruki	「悪くない」
778	千晶	Chiaki	「悪い！」
779	春希	Haruki	「………」	"........."
780	千晶	Chiaki	「よっし、あたしの勝ち～♪ だからさ、ごめんね春希、ごめん」
781	春希	Haruki	「千晶…」
782			この先の辛い決裂を知っているせいで、 俺はもう『責任の引き取りあい』には二度と勝てない。
783	春希	Haruki	「俺、あんな態度取ったのに、退かないのか？ 呆れたりしないのか？」
784	千晶	Chiaki	「ん～、別にぃ？」
785	春希	Haruki	「どうして離れずにいてくれるんだ…千晶？」
786	千晶	Chiaki	「春希はどうなの？ 何度もあたしのこと呆れたり怒ったりしてるよね？」
787	春希	Haruki	「それは…」
788			本当に、何でだろう。
789			いつも愚痴をこぼして、説教を繰り返して。
790			それでも適当に近づいてくる千晶のこと、 いつの間にこんなに必要としてたんだか…
791	千晶	Chiaki	「もしかして… あたしとのセックスの虜になっちゃった？」
792	春希	Haruki	「………あるかも」
793	千晶	Chiaki	「お、正直だね」
794			千晶の裸の肌が、ぎゅっと押しつけられてくる。
795			よく見たら、俺のキスマークだらけ。
796			首筋にも肩口にも背中にも、 爪先にも、二の腕にも、お腹にも。 乳房にも内股にもお尻にも、そのさらに内側にも。
797			…よくこんなのつけたまま、 軽装で外出なんかしたもんだ。
798	千晶	Chiaki	「…あたしも結構そんな感じあるなぁ。 正直、こんな凄いものとは思わなかった」
799			なんて言いながら、千晶が俺の首筋を、 音を立てて啜る。
800			だから、俺の体も千晶のキスマークだらけ。 今のままじゃ、誰に会うこともできやしない。
801	千晶	Chiaki	「セックスってさぁ… するたびに頭悪くなってくよね。 動物に、なってくよね？」
802	春希	Haruki	「さあ、な…」
803	千晶	Chiaki	「んっ…ん、ちゅぷ…は、ぁん」
804			体勢を入れ替えて、唇を重ねるたびに、 湯船が揺れて、お湯が浴槽から溢れ出す。
805	千晶	Chiaki	「ん、んぅ…はぁぁ… でもね？　あたしが春希の側にいる理由は、 もちろん、セックスだけじゃないよ？」
806	春希	Haruki	「俺のリハビリ、か？」
807	千晶	Chiaki	「何かしてあげたかったからね。 友達としても、まぁ…その他としても」
808			俺たちの関係に、 『友達』以外にようやく『その他』が付加されたらしい。
809	千晶	Chiaki	「あたしはね… 春希に色んなものをもらったから」
810	春希	Haruki	「レポートの手伝いなんて、 とっくに利子つけて返してもらったぞ…」
811	千晶	Chiaki	「ううん、それだけじゃない。 それだけじゃ、ないんだよ…」
812	春希	Haruki	「千晶…」
813	千晶	Chiaki	「今のあたしに大事なこと、必要なこと… 春希が教えてくれた…ううん、今も教えてくれてる」
814	春希	Haruki	「心当たり、ないなぁ」
815			謙遜でも何でもなく、心からの嘆息。
816			俺が『仕方なく』千晶に与えたものなんて、 千晶が『適当に』俺に与えた物に比べたら…
817			今の俺が、こうして心穏やか…でないにしても、 楽しいことも、嬉しいことも、気持ちいいことも 感じていられるのは…
818			間違いなく、今俺の腕の中にいる『女』のおかげだから。
819	千晶	Chiaki	「だから離れないよ… 冬休みの間、ずっと一緒にいるからね？」
820	春希	Haruki	「…いて、くれるのか？」
821	千晶	Chiaki	「こんな厚かましいこと言ったら春希が怒ると思ったから、 今まで黙ってたけどね…」
822	春希	Haruki	「………」	"........."
823	千晶	Chiaki	「…駄目、かな？」
824	春希	Haruki	「…にしろ」
825	千晶	Chiaki	「ん？」
826	春希	Haruki	「勝手にしろ…って言ったんだ」
827			なんて、俺の都合だけで答えた。
828	千晶	Chiaki	「ん…」
829			千晶も、以前みたいに、 からかうような言い方はしなかった。
830			ただ、首に回した腕にぎゅっと力を込めて、 俺の言葉に、態度で答える。
831	春希	Haruki	「けど、あんま俺を甘やかすなよ… 俺を、許しすぎるなよ？」
832	千晶	Chiaki	「ん…んぅ？ どして…っ」
833	春希	Haruki	「そういうの、いつか破綻するから… だから、抱え込まないでくれ」
834	千晶	Chiaki	「大丈夫、あたしは大丈夫だよ…っ。 あんたが思ってるより、ずっと人悪いもん」
835	春希	Haruki	「千晶…」
836	千晶	Chiaki	「ね、ねぇ…春希ぃ」
837	春希	Haruki	「…ん？」
838	千晶	Chiaki	「出して、いいよ…ぉ」
839	春希	Haruki	「っ…」
840			瞬間…
841			ずっと動かずに繋がったままだった結合部から、 今日、何度目になるかわからない迸りが走った。
842			………	.........
843			……	......
844			…	...
845			そして、大晦日。
846	千晶	Chiaki	「む～」
847			…なんて言っても、 俺たちの、生活とも言えない生存スタイルは 何も変わらない。
848			いつものように、あり合わせの夕食を摂り、 閉め切った薄暗い部屋の中でごろごろして、 ちょっと目が合うと、色々なところを触れあわせる。
849			そういえば、一つだけいつもと違ってた。 …夕食の後、蕎麦を茹でて一緒に食べたっけ。
850	千晶	Chiaki	「紅○も格闘技も年越しライブも、 な～んか全部パっとしないなぁ」
851	春希	Haruki	「年末年始の特別番組なんてそんなもんだろ。 俺、毎年ほとんど見てないし。 …スペシャル時代劇以外は」
852	千晶	Chiaki	「あはは…春希だねぇ」
853			テレビのリモコンを適当に弄っていた千晶が、 退屈そうに俺の腕の中でむずがる。
854	千晶	Chiaki	「じゃあさ…姫はじめ、する？」
855	春希	Haruki	「お前そんなのばっかだな」
856	千晶	Chiaki	「春希だってそんなのばっかしてるくせに～」
857	春希	Haruki	「そもそも年が明けないとそんな風には言わないだろ。 …まだ一時間もあるぞ」
858			もちろん、形式にこだわり一時間待つことも、 こだわらずに今すぐ事に及ぶことも、 どちらも全くやぶさかでないけれど…
859	千晶	Chiaki	「なんかビデオでも見よっか」
860	春希	Haruki	「なら、今からレンタル屋行くか？　一緒に」
861	千晶	Chiaki	「寒いからや。 春希の持ってるのでいいや」
862			そろそろ本格的に退屈に飽きてきたのか、 俺の腕をぴょこんと抜け出すと、 千晶が俺の本棚を漁り出す。
863			なお、そこに収納されている俺の数少ない漫画は、 とっくに全巻読破されてしまっていた。
864	千晶	Chiaki	「ん～…ＤＶＤもほとんど見たのばっかだなぁ。 春希、ＡＶとか隠し持ってない？」
865	春希	Haruki	「なんでそこでＡＶなんだよ…」
866	千晶	Chiaki	「女優さんがやってるのと同じコトしたげるのに…」
867	春希	Haruki	「変な企画モノとか出てきたらどうするつもりだよ」
868	千晶	Chiaki	「あはは、持ってそうだよね～春希って。 あ、でもロ○コ○ものは無理だなぁ。 まぁ演技でカバーできるっちゃできるけど…」
869	春希	Haruki	「いい加減にしやがれ…」
870	千晶	Chiaki	「…あれ？」
871	春希	Haruki	「持ってないぞ俺！？」
872			千晶が、小さく息を呑んで、 棚から一枚のディスクを取り出した。
873			けどそれは、パッケージもない、 透明のケースに白地のメディア。 そして無骨にマジックで書かれただけのタイトル。
874	千晶	Chiaki	「これ…って」
875	春希	Haruki	「あ…」
876			『２００×年学園祭　二日目ステージイベント』
877			一月前、麻理さんから渡され、 棚に放り込んだまま忘れてしまっていた…
878	千晶	Chiaki	「…春希は見た？」
879	春希	Haruki	「いや… 実はこの前もらったばかりでさ」
880	千晶	Chiaki	「そう…」
881			じゃなくて、無理やり存在を忘れていたＤＶＤ。
882			実行委員が単なる記録として撮影した、 音質も画質も大したことない、 内輪受けのホームビデオレベルの…
883	春希	Haruki	「…見る？」
884			思い出の、結晶。
885	千晶	Chiaki	「…い～の？」
886	春希	Haruki	「千晶になら…いいよ」
887	千晶	Chiaki	「…ありがと」
888			千晶は、そこに何が映っているのか、 まるで最初からわかってるみたいだった。
889			大事そうにディスクをケースから外すと、 やっぱり大事そうにプレイヤーにセットし、 慣れた手つきでリモコンを操作する。
890			そしてプレイヤーが駆動音を上げ始めると、 すっと俺の隣に身体を寄せ、肩にちょこんと頭を乗せる。
891			雪菜とかずさが、こっちを見てる前で…
892			………	.........
893	春希	Haruki	「ただの穴埋めだったんだ」
894	千晶	Chiaki	「………」	"........."
895	春希	Haruki	「最初にやるはずだった奴らが空中分解してさ。 しかも学園祭まで残り一か月って時に」
896			モニターから流れてくる『ＷＨＩＴＥ　ＡＬＢＵＭ』。
897	春希	Haruki	「信じられるか？ これまでステージ経験なかったんだぜ、彼女。 …ま、カラオケは大の得意だったけど」
898			どれだけ立ち振る舞いがぎこちなくとも、 その美声と素材の華々しさで押し切るボーカル。
899	春希	Haruki	「サマになってんだろ？ 楽器持たせたら天才だからそいつ。 …性格は最悪だったけどな」
900			その圧倒的技量と、これまた素材の威力で、 ボーカルに負けないほどの存在感を示すキーボード。
901	春希	Haruki	「…ほら、今外した。 一人で足引っ張ってるよな、俺」
902			そして、その二人に完全に隠れて、 とにかく邪魔をしないよう一生懸命誤魔化すギター。
903	千晶	Chiaki	「ううん… 春希も、かっこよかったよ？」
904	春希	Haruki	「ありがと。 でもそれ、ただの身内びいきだから」
905	千晶	Chiaki	「うん、身内だもんね」
906	春希	Haruki	「………」	"........."
907			その瞬間、千晶の温もりがさらに強く感じられたのは…
908			今までよりも千晶が身体を寄せたからなのか、 今までよりも俺が強く抱き寄せたからなのか…
909			………	.........
910	春希	Haruki	「この曲はボーカル終わってからも注目な。 …ここだけが俺の唯一の見せ場だから」
911	千晶	Chiaki	「ね、春希」
912	春希	Haruki	「一週間でマスターしたんだぜ、これ。 …今じゃどれだけ練習しても弾けないだろうな」
913	千晶	Chiaki	「春希ってば」
914	春希	Haruki	「なんだよ？　今いいところなんだから後に…」
915	千晶	Chiaki	「どっちだった？」
916	春希	Haruki	「…何が？」
917	千晶	Chiaki	「本命」
918	春希	Haruki	「…レベルを考えろよ。 二人とも、俺になんか釣り合うわけが」
919	千晶	Chiaki	「そっかな？ 千晶ちゃんだってそんなに負けてないと思わない～？」
920	春希	Haruki	「それは、まぁ。 …性格除けばな」
921	千晶	Chiaki	「けどほら、彼女は今どこにいる？ いま、誰に抱かれてるかな？」
922	春希	Haruki	「………そんな悪趣味な奴を引き合いに出されても」
923	千晶	Chiaki	「じゃ、この二人は趣味がよかったんだ？ あんたのことなんか歯牙にもかけなかったんだ？」
924	春希	Haruki	「………」	"........."
925	千晶	Chiaki	「…あたしに嘘は必要ないよ、春希。 全部さらけ出して、楽になろ？」
926	春希	Haruki	「っ…」
927	千晶	Chiaki	「大丈夫… あたしはそんな弱いコじゃないよ。 春希の過去くらい、受け止められるって」
928	春希	Haruki	「違う…違うんだって…」
929			彼女は、違うんだ。
930	春希	Haruki	「嘘でも、隠してるわけでもない。 ただ、昔のことだから…」
931	千晶	Chiaki	「昔って、いつのこと？ 三年前？　二年前？　一年前？」
932			彼女は、弱かったから受け止められないんじゃない。 ただ、あまりにも重かったから…
933	千晶	Chiaki	「それとも、一週間前？」
934	春希	Haruki	「………」	"........."
935			違うんだよ、千晶。
936			違うんだ。 お前にはそのことをわかって欲しいんだ。
937			…だから、聞いてくれよ。
938			………	.........
939	雪菜	Setsuna	『次が…最後の曲です』
940	春希	Haruki	「好きだったんだ…」
941	千晶	Chiaki	「そ…」
942			いつの間にか、体勢が変わってる。
943	雪菜	Setsuna	『この曲は… 多分、皆さん知らないんじゃないかと思います』
944	春希	Haruki	「でも、酷いことをしたんだ。 何年かかっても償えない罪を犯したんだ」
945			うなだれた頭を胸で受け止めてるのは千晶の方で、 背中から優しく腕を回してるのも千晶の方で。
946	雪菜	Setsuna	『…多分もなにもないですね。 昨日完成したばかりの、わたしたちのオリジナルです』
947	春希	Haruki	「それでも、好きだったんだ。 だから、三年経って、許されてるって信じたかったんだ」
948			相手にもたれ、支えてもらってるのは俺の方で、 子供みたいに甘えまくっているのは俺の方で。
949	雪菜	Setsuna	『一日しか練習してないので、 うまくできるかどうかわかりませんけど…』
950	春希	Haruki	「人を傷つけたことは、すぐに忘れてしまうけど、 人に傷つけられたことは、簡単には忘れられない。 そんな当たり前のことを…忘れてたんだ」
951	千晶	Chiaki	「春希…」
952	雪菜	Setsuna	『最後の最後まで、 心の底から楽しんで歌います。 皆さん聴いてください』
953	春希	Haruki	「だた、それだけのことだよ」
954	千晶	Chiaki	「ん…」
955	雪菜	Setsuna	『タイトルは…「届かない恋」です』
956			俺たちの耳に、馴染深い曲が流れてくる。
957			千晶がお気に入りと言ってくれた曲。 俺が聴こえないふりをし続けてきた曲。
958			自分たちが作ったことを隠し通してた… 『千晶に嘘をついていた』証拠の曲。
959	春希	Haruki	「っ…」
960			それでも千晶は、 俺の過去の罪をあっさりと許してしまった。
961			雪菜の歌声に、自分の歌声を委ねて。
962			………	.........
963			……	......
964			…	...
965	千晶	Chiaki	「そっか… このコが春希のルーツなんだね」
966	春希	Haruki	「…そんな大げさなものじゃない」
967			雪菜のことを話した。
968			三年前の出逢いから、一週間前の別れまで。 俺が今、こうして千晶へと逃げていった経緯を、 とうとう、包み隠さず告白してしまった。
969			千晶は、自らの宣言通り、 俺の最低な過去をいとも簡単に受け止めた。
970			雪菜の歌が終わるまで、ずっと俺を胸に抱いてくれて、 除夜の鐘が鳴り始めた頃、ベッドに導いてくれた。
971	千晶	Chiaki	「だってさぁ…初恋なんでしょ？ この冬馬かずさってコが」
972			そして、かずさのことを話した。
973	春希	Haruki	「…初恋とか、そういう恥ずかしい言い方やめろ。 大体そういうのは小学生でとっくに済ませた。 千晶だってそうだろ？」
974			部屋に転がっていたアンサンブルと、 キーボードの少女の関連性を話したとき、 千晶の目が、ほんのちょっとだけ見開かれた。
975			あれだけ衝撃の告白を連ねておきながら、 それが今日初めての、千晶の驚きの表情だった。
976	千晶	Chiaki	「どっかなぁ…？ あたし、今まであんまり男の子にも男にも、 興味持ったことなかったんだよねぇ…」
977	春希	Haruki	「そ…そうなのか？ 俺、お前ってもっと恋多き女だと思ってた」
978	千晶	Chiaki	「男にだらしなさそうだから？」
979	春希	Haruki	「…俺への態度とか見てると、 そう思わざるを得ないだろ？」
980	千晶	Chiaki	「あれはぁ、春希だからだよ？」
981	春希	Haruki	「俺にはそれが理解できないから」
982			そうやって、俺が秘密を明かしていくごとに、 俺だけじゃなく、お互いの秘密がみるみる溶けていく。
983	千晶	Chiaki	「で、なに？ このコって本当にこの記事に書いたようなコだったの？」
984	春希	Haruki	「ま、な。 態度悪くて、性格悪くて、口悪くて… 不良で、人寄せ付けなくて、いっつも一人で…」
985	千晶	Chiaki	「春希が放っておかなそうな人材だよねぇ」
986	春希	Haruki	「同じクラスにそんな奴がいたら、 全体の雰囲気が悪くなるだろ？」
987	千晶	Chiaki	「さっすが委員長…まっじめ～」
988	春希	Haruki	「前期だけだけどな」
989			このままだと、目の前にいるこの女が、 俺のことを一番知っている人間になってしまう。
990	千晶	Chiaki	「きっと春希、最初はウザがられたんだろうね」
991	春希	Haruki	「そりゃもう、酷いもんだった」
992	千晶	Chiaki	「あはは…わかるわかる。 人に頼るのが駄目なコって、 春希とは合わなそうだもんねぇ…あたしとは全く逆でさ」
993	春希	Haruki	「人に頼られる方は…お前と同じで得意だったけどな」
994	千晶	Chiaki	「それだってさぁ、 どうせ春希がしつこく食い下がったんでしょ？ な～んか目に見えるようだよ」
995	春希	Haruki	「………うん」
996			なってしまう、じゃなくて。 俺、そうであって欲しいと思ってるのかな…
997	千晶	Chiaki	「こんなふうかな…？ 『ウザい』、『鬱陶しい』、『寄るな』」
998	春希	Haruki	「う…くっ」
999			久々に聞くと結構…刺さるモノがある。
1000	千晶	Chiaki	「『関係ないね』。 『あんた馬鹿ぁ？』」
1001	春希	Haruki	「それはちょっと違うだろ…」
1002	千晶	Chiaki	「ええと…じゃ、こうかな？ 『…お前には関係ない』 『春希、あんた馬鹿じゃないの？』」
1003	春希	Haruki	「…名前なんかで呼ばれなかったよ。 そんなフランクな関係じゃなかった」
1004			最後の日、以外は。
1005	千晶	Chiaki	「じゃあ……… 『北原…お前、馬鹿じゃないのか？』」
1006	春希	Haruki	「………」	"........."
1007	千晶	Chiaki	「あれ～？　まだ違う？ こんな感じだと思ったんだけどなぁ」
1008	春希	Haruki	「………そんな感じだよ」
1009			久々に聞くと結構…クるモノがある。
1010	千晶	Chiaki	「よっし、できたできた～♪」
1011	春希	Haruki	「できてどうすんだそんなもん…」
1012			素っ気なく答えつつ、 『付き合ってらんね～』とばかりに背中を向ける。
1013			今、自分がどんな表情をしてるのか怖くなったから…
1014	千晶	Chiaki	「今の春希を元気づけるのってさ、 このコが一番適任なのかなって」
1015	春希	Haruki	「何で…そうなる」
1016	千晶	Chiaki	「そりゃ…消去法？」
1017	春希	Haruki	「訳わからん…っ」
1018			二人のうちの一人とは、 もう一緒には、いられない。
1019			ただそれだけで、残ったもう一人の方が、 俺にとってそこまで大切な存在なんだって決めつけるなよ。
1020	千晶	Chiaki	「なぁ、北原…」
1021	春希	Haruki	「っ…」
1022	千晶	Chiaki	「いつまで落ち込んでんだよ、お前… 相変わらず鬱陶しい奴だな」
1023			いつもの千晶のものとは違う、 低くて鋭い声が、俺の背中を撫でる。
1024	千晶	Chiaki	「…あたしのせいだって言うのか？ そんなこと知るか。 お前が勝手に惚れたんだろ、あたしに」
1025	春希	Haruki	「やめろ…似てないって」
1026	千晶	Chiaki	「で、あたしも勝手に惚れたんだ、お前に」
1027	春希	Haruki	「あいつはそんなこと言わないって…」
1028	千晶	Chiaki	「あたしたちは共犯だ。 お前が落ち込んでばっかだと、あたしも落ち込むぞ。 …それでもいいのか？」
1029	春希	Haruki	「～っ！」
1030			あいつは、そんなこと言わない…
1031	千晶	Chiaki	「だからさ、北原… お前の罪は半分なんだよ」
1032			『共犯者』ってのは、 俺が勝手に逆恨みで決めつけただけで、 あいつがそんなもの背負っていい訳がない。
1033	千晶	Chiaki	「罪が半分なんだから、半分の時間で立ち直れよ。 もう、だいぶ経っただろ？」
1034			あいつは励まさない。 俺を励ますはずがない。 これは本物のかずさじゃない。
1035	千晶	Chiaki	「な？　年が明けたらさ… いつものお節介で、鬱陶しい北原に戻るんだぞ？」
1036			これは…俺の理想の中のかずさだ。
1037	千晶	Chiaki	「そしたらまた、呆れてやる。 いつもみたいに、馬鹿にしてやるから」
1038			思い描いた通りのあいつ、そのものだ。
1039	千晶	Chiaki	「そこから先は、もうあたしは知らない。 北原がどう決めて、どう動くか、それだけだ」
1040	春希	Haruki	「………」	"........."
1041			早めに背中を向けておいて、よかった。 何も見えなくて、よかった。
1042			だってこれは、俺の求めた通りのかずさの言葉だから。 言葉の意味と、声の主の顔が繋がらないから。
1043			もし繋がってしまったら、 声と顔のどちらに傾いたらいいのかわからないから。
1044	千晶	Chiaki	「あとさ…」
1045			この声と顔の主を、 誰だと認めていいのかわからなかったから。
1046	千晶	Chiaki	「あんまり、お前の近くにいる奴に騙されてるんじゃない。 そいつは…最低の女だ」
1047	春希	Haruki	「え…」
1048	千晶	Chiaki	「じゃ、な。 この馬鹿」
1049			…けど、そんなふうに感じていたのは、 どうやら、俺だけじゃないみたいだった。
1050	千晶	Chiaki	「………しまったぁ。 入りすぎて余計なことまで言わされちゃった」
1051			声の主ですら、 自分の言葉を一体誰が喋っているのか、 わかっていなかったみたいだった。
1052	千晶	Chiaki	「やっぱ、あたしのこと気に入らないんだね、このコ。 あのさ、春希、最後のはさぁ…」
1053	春希	Haruki	「もういいよ、千晶」
1054	千晶	Chiaki	「え…？」
1055			けれど、その致命的なミスが…
1056			最後の、明らかにかずさの言葉が、 俺に、選ばせる。
1057	春希	Haruki	「あけましておめでとう。 今、年が明けたよ」
1058	千晶	Chiaki	「春希…」
1059			枕元の時計の長針と短針が同時に真上を向いた瞬間、 千晶に振り返る。
1060			その顔を引き寄せ、額をくっつけて、 今、俺の側にいる女の顔を、瞳に焼きつける。
1061	春希	Haruki	「旧年中は、めちゃくちゃ世話になった。 俺、お前に元気づけられた。 和泉千晶って奴に救われたんだ…」
1062	千晶	Chiaki	「春希ぃ」
1063	春希	Haruki	「だから…今年も、よろしくな？」
1064	千晶	Chiaki	「う、うん…」
1065			だからもう、千晶を逃げ場にするのはやめよう。
1066			誰にも、重ね合わせたりしない。 重ね合わせたりさせない。
1067	春希	Haruki	「おやすみ、千晶… たまには、何もせずに抱きあって寝るのもいいだろ？」
1068	千晶	Chiaki	「それを春希が望むなら…ね」
1069	春希	Haruki	「ああ…今日だけは、な」
1070	千晶	Chiaki	「ん…」
1071			こいつは、今の俺にとってなくてはならない、 大切な、和泉千晶って、一人の女だ…
1072			………	.........
1073			……	......
1074			…	...
1075	千晶	Chiaki	「………んぅ？」
1076	千晶	Chiaki	「ん～…」
1077	春希	Haruki	「お、やっと起きたか。 もう１０時だぞ？」
1078	千晶	Chiaki	「まだ１０時じゃん…。 昨日だって寝てたよこんな時間」
1079	春希	Haruki	「『一年の計は元旦にあり』って言うだろ？ 今日くらいはしゃんとしろ、しゃんと」
1080	千晶	Chiaki	「………ん～？」
1081			相変わらず寝ぼけた声を出す千晶にこれ以上構わず、 台所の火との格闘に戻る。
1082			何しろ、だし巻き卵に焦げ目を付けたら、 自分では作れないくせに絶対笑う奴がいるからな。
1083	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1084			………	.........
1085	春希	Haruki	「おし、準備できたぞ」
1086	千晶	Chiaki	「だし巻き、旨煮、紅白カマボコ…」
1087	春希	Haruki	「時間と材料ないからおせちはそれしか用意できなかった。 …後は雑煮も何とかなった」
1088	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1089	春希	Haruki	「元旦だし、おとそ一杯行こうぜ？ …なんて、カップ酒に燗つけただけだけどな」
1090	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1091	春希	Haruki	「それじゃ改めて… あけましておめでとう。 今年もよろしくお願いします」
1092	千晶	Chiaki	「どしたの、これ…」
1093	春希	Haruki	「お前が通販で取り寄せてくれた食材だろ？」
1094	千晶	Chiaki	「いや、そ～でなくてさ」
1095			せっかく乾杯したお猪口も口に運ばず、 千晶が物珍しそうにテーブルの上のご馳走… という割には質素な食事を呆然と眺めている。
1096	千晶	Chiaki	「あたし、休めって言ったじゃん。 ゆっくり寝て、何もしないで、薬飲んで…」
1097	春希	Haruki	「言ってたな」
1098	千晶	Chiaki	「どうして言いつけ破んの？ 治りかけに無理したら、また…」
1099	春希	Haruki	「お前のせいだろ」
1100	千晶	Chiaki	「なんでぇ！？ あたし今回はワガママ言ってないよ？ ただ、ずっとダラダラしてようねって」
1101	春希	Haruki	「…あ～、そういう意味じゃなくて」
1102	千晶	Chiaki	「じゃあどういう意味よぉ？ 春希、今のあんたは動いちゃ駄目なんだって。 あたしの言いつけ守って、あたしの側で静かに寝て…」
1103	春希	Haruki	「静かに寝ろってそんなやかましく言われてもなぁ…」
1104			お猪口の酒を一気に口に含み…
1105	千晶	Chiaki	「そんなこと言ったって春希があたしの言いつけ ………んんっ！？」
1106			力任せに千晶を押し倒し、 その口中に唇と舌を使って流し込む。
1107	千晶	Chiaki	「ん、んん…んんんんん～っ！？」
1108			千晶の喉が、俺の唾液ごと酒を嚥下するまで、 舌先で喉の奥まで無理やり流し込む。
1109	春希	Haruki	「ぷぅっ…だから、人の話を聞けって」
1110	千晶	Chiaki	「ん、んく…ぷはぁ…」
1111			千晶の頬は、たった一杯の日本酒だけで、 やたらと赤く染まってしまっていた。
1112	春希	Haruki	「別に、辛いこと紛らすために無理やり働くとか、 そんな段階じゃないんだよ、もう」
1113	千晶	Chiaki	「春希…？」
1114	春希	Haruki	「頭もすっきりしてる。 心も落ち着いてる。 …これ、年が明けたからってだけじゃないと思う」
1115			そんな、ぼうっとした表情で見上げられると、 今までの依存心とは違う、新たな気持ちが湧き上がる。
1116	千晶	Chiaki	「完治したって、こと？」
1117	春希	Haruki	「さすがの俺も、そこまで自信過剰でも、 多分、薄情でもないと思うんだけどさ」
1118	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1119			まだ、雪菜のことを吹っ切れた訳じゃない。 俺の三年は、そんなに安くない。
1120	春希	Haruki	「でも、今の状態ならリハビリは始められる。 だから、そろそろ薬を抜こうって思ったんだ」
1121	千晶	Chiaki	「それって…」
1122			ただ、そのことを認識していても、 泥臭く前に進むしかないって決心するくらいには、 今の自分を受け止められるようになったから。
1123	春希	Haruki	「千晶依存症…そろそろ克服しないとな」
1124	千晶	Chiaki	「ん…っ」
1125			克服しないとって言いつつ唇にキスするのは、 言行不一致に見えなくもないかもしれない。
1126			けれど、千晶にすがるのと、 千晶を可愛がるのとは違うと思うから。
1127			千晶がいなければ駄目になってしまうのと、 千晶がいれば気持ちが高揚するのとでは、 違うと思うから。
1128	春希	Haruki	「今までありがとうな、千晶… でも俺、そろそろ大丈夫だから。 大丈夫になるから」
1129	千晶	Chiaki	「…い～のに。 ずっとあたし依存症のままでも」
1130	春希	Haruki	「俺は基本的にそういうキャラじゃないんだよ」
1131	千晶	Chiaki	「春希…」
1132	春希	Haruki	「今まで積み上げてきた自分の人生まで否定したくない」
1133			雪菜とかずさに出会う三年前…よりもっと前の、 独立自尊心とリーダーシップを何より大切にしていた、 杓子定規で堅いだけの俺。
1134	春希	Haruki	「確かに俺は最低だけど、最低でもいいんだなんて… そんなふうに最低な俺を肯定したくないんだ」
1135			あの十数年は、今の俺の中にも息づいてるはずだ…
1136	千晶	Chiaki	「もう、あたしはいらないってこと？」
1137	春希	Haruki	「欲しいよ。 当たり前だろ？」
1138	千晶	Chiaki	「っ…」
1139			千晶の顔が、二杯目にすら行ってないのにさらに赤らむ。
1140	春希	Haruki	「ただこれからは、 何かを忘れるために千晶に触れるんじゃなくて、 何かを心に刻むために千晶に触れたいなって…」
1141	千晶	Chiaki	「～っ！」
1142			千晶の顔が、さらに赤らむ。
1143			今までの明け透けな彼女からは想像もできないほど、 純情な反応にこっちの方が戸惑ってしまいそうに…
1144	春希	Haruki	「………あ」
1145	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1146			そういえば…
1147			千晶のこと『欲しい』って、 口に出して言ったの初めてかも。
1148	春希	Haruki	「さ、冷めるぞ！ 早く食おうぜ！」
1149	千晶	Chiaki	「………ん」
1150			いつの間にか質素なご馳走を無視して 重なり合っていた俺たちは、 なんとなく照れくさい趣で、もう一度テーブルに向き合う。
1151	春希	Haruki	「それじゃ、いただきます！」
1152	千晶	Chiaki	「い…いただきます」
1153	春希	Haruki	「ちゃんと手合わせろよ」
1154	千晶	Chiaki	「む～」
1155			今まではずっと隣に座り、 依存しあうように触れあってきた。
1156			けれど今日からは、一対一の人として、 正面切って向かい合っていく。
1157	春希	Haruki	「な、千晶」
1158	千晶	Chiaki	「ん？」
1159	春希	Haruki	「飯食い終わったらさ、初売り行かないか？ 御宿まで出れば、今日からやってる店あるだろ？」
1160	千晶	Chiaki	「い～よ、めんどくさい」
1161	春希	Haruki	「ちょっとくらいならいいだろ？ どうしても千晶に一緒に来て欲しいんだ」
1162			だからまずは、今までのお礼の印を受け取ってもらいたい。 福袋なら、千晶も抵抗なく貰ってくれるかもしれないし。
1163	千晶	Chiaki	「春希…」
1164	春希	Haruki	「荷物持ちとして」
1165	千晶	Chiaki	「をい」
1166			もちろん食材も買い込むけど。 当然、容赦なく荷物だって持たせるけど。
1167			………	.........
1168			………	.........
1169	春希	Haruki	「ふぅ、お待た…せ？」
1170			シャワーを浴びて浴室から出てくると、 部屋の中は何だか混沌としていた。
1171			昼間、掃除したはずの床一面にモノが散らかされている。
1172			脱ぎ散らかされた衣類、洗濯された衣類、 ハンガーにかけられた衣類、そして小さなポーチ。
1173			極めつけは、その中心にぺたんと座り込み、 呆然とその光景を眺めてる…
1174	春希	Haruki	「…何やってんだ？　千晶」
1175	千晶	Chiaki	「あ、あはは…」
1176			その壮絶な光景を作り出した犯人だった。
1177	千晶	Chiaki	「荷物、鞄に詰めようと思ったんだけどさ、 おかしいんだよ…入らないんだ。 来るときはぴったりだったのに」
1178			そんなの当たり前だ。
1179			千晶の奴、こっち来てから通販で[R服^したぎ]買ってるし、 昨日、俺がプレゼントしたものだってあるし。
1180			それに、千晶の片づけスキルだと、 一度散らかしたものを元の容積に戻すなんて高級技術は…
1181	春希	Haruki	「…帰るつもりなのか？」
1182			…なんて、額面通りで野暮な荷物関連のコメントは、 きちんと封印できるくらいには自分を取り戻していた。
1183	千晶	Chiaki	「うん、明日ね」
1184	春希	Haruki	「どうして？」
1185	千晶	Chiaki	「どうやら用、済んだみたいだしね」
1186			けど、そうやって自分を取り戻したからこそ、 千晶は去ろうとしているみたいだった。
1187	千晶	Chiaki	「あたしが必要とされてる間なら、 ここに居続けても心は痛まなかったんだけどね。 …ギブアンドテイクだったから」
1188	春希	Haruki	「なんだよ、それ？ お前、以前は俺が帰れって言っても勝手に居座って…」
1189	千晶	Chiaki	「あはははは… それを言われるとちょっと苦しいんだけどね。 あの頃のあたしは、まぁ、その、なんだ？」
1190	春希	Haruki	「それに、テイクはまだだ。 だって俺、お前に何も返せてない」
1191	千晶	Chiaki	「春希…」
1192	春希	Haruki	「だから別に、これからは俺がお前を養って… いや、休ませてやっても、いいかなって」
1193	千晶	Chiaki	「っ…」
1194			『うわ、養うだって、養っちゃうんだって～！ 春希、あたしにプロポーズしたな～？　あははははっ』
1195	春希	Haruki	「その、冬休みはあと一週間も残ってるし…」
1196			今の俺の些細なミスを、 今までなら見逃すような奴じゃなかった。
1197	千晶	Chiaki	「…ほんっとに春希はお人好しだね～。 そんなだから三年間も引きずったままで、 かえって相手を傷つけることになるんだよ？」
1198			けれど、今の俺たちに必要な本題を外さないくらいには、 千晶は、今の自分の行動を改めるつもりはないらしかった。
1199	春希	Haruki	「………俺が悪いのは認めるけど、 それは俺がお人好しだったからじゃない。 駄目な奴だったからだよ」
1200	千晶	Chiaki	「で、ほんっとに頑固だねぇ」
1201	春希	Haruki	「ああ、確かに俺は頑固だよ。 でもお前は逆に、すごく柔軟な考え方してると思ってた」
1202			例えば俺が『いつまでいてもいい』って言ったら、 それこそ、いつまでもいるような感じの…
1203	春希	Haruki	「本当に、帰るのか？ まだいたって構わないんだぞ？」
1204			本当に、全然構わないのに。 それどころか、嬉しい気持ちすらあるってのに。
1205			千晶が、冬休みいっぱいまで、ここに泊まり込むのも。 いや、下手すると、冬休みが明けてからもずっと…
1206	千晶	Chiaki	「でもさ、春希。今のあんたは 『あたしがいてくれなくちゃ駄目になる』 って訳じゃないんだよね？」
1207	春希	Haruki	「…そこまで戻って来れたのも、 お前のおかげなんだけどな」
1208	千晶	Chiaki	「そっか、あたしのおかげか… 自分で自分の首締めちゃったかな？　あたし」
1209	春希	Haruki	「千晶？」
1210	千晶	Chiaki	「もう少しの間、 あの、だらけた生活が続くと思ってたんだけどな」
1211	春希	Haruki	「今の俺、居心地悪いか？」
1212	千晶	Chiaki	「悪いね」
1213	春希	Haruki	「ハッキリ言うなぁ…」
1214	千晶	Chiaki	「一人で生きていける春希の側にいるのは、ちと辛い」
1215	春希	Haruki	「そっか…」
1216			苦笑を浮かべつつも、 実は結構ショックを受ける発言だったりした。
1217			千晶を支えることのできる俺より、 千晶に支えらなければ生きていけない俺の方が、 千晶的には本命だったって言うのは、なぁ？
1218	春希	Haruki	「なら、止めない。 駅までは送っていきたいけど、 一人で勝手に出てっても怒らない」
1219	千晶	Chiaki	「…本当にあたしがいなくても大丈夫なんだね、春希。 ちょっと、ショックだなぁ」
1220	春希	Haruki	「何度も言うけど、 お前のおかげなんだからな？」
1221			…なに同じこと考えてんだよ。 お前が言い出したことだろうが。
1222			離れて行かれるのもショックだし、 離れることを許すのもショックなんだったら、 どうしてこんなことになるんだよ…
1223	千晶	Chiaki	「さてと、それじゃ荷造りの続き行きますか。 …どうやって入ってたのかなぁ」
1224			そんなの…
1225	春希	Haruki	「なぁ、千晶」
1226	千晶	Chiaki	「なに？」
1227	春希	Haruki	「最後にもう一度、求めてもいいか？」
1228			未練が、残るじゃないか。
1229	千晶	Chiaki	「………春希にしちゃ、明け透けだねぇ」
1230			千晶が、あの時のキャミソールを畳みながら、 俺に振り向かずに呟く。
1231	春希	Haruki	「お前の影響かもな。 欲しいときに欲しいって、我慢しなくなった」
1232	千晶	Chiaki	「………」	"........."
1233	春希	Haruki	「嫌か？　なら諦めるけど」
1234	千晶	Chiaki	「諦められんの？　春希ってば」
1235	春希	Haruki	「相手が嫌って言うなら絶対に諦めるよ、俺は。 …そりゃ、本当は狂おしいほどに欲しいけどさ、千晶が」
1236	千晶	Chiaki	「春希…」
1237	春希	Haruki	「じゃ、おやすみ。 俺、今日は床で寝るから」
1238			そういえば…
1239			昔、千晶が勝手に俺のベッドで寝てしまったとき、 わざわざ浴槽の中まで逃げ込んで寝てたっけ。
1240			けど今は、そこまでしなくても大丈夫。
1241			あの頃よりも、千晶を求める想いは強いけど、 あの頃よりも、千晶を大切にしたい想いはもっと強いから。
1242	千晶	Chiaki	「春希…ベッドに寝て」
1243	春希	Haruki	「いいって。ベッドはお前が…」
1244	千晶	Chiaki	「今すぐ寝て。 仰向けになって、力抜いて」
1245	春希	Haruki	「千晶…？」
1246	千晶	Chiaki	「今日は…あたしがしたげるから。 春希は、求める必要ないから」
1247	春希	Haruki	「…何だよ、それ？」
1248			求める必要がないから、 俺の求めに応じなかったってことか？
1249			…まるでとんちみたいな受け答えだ。
1250	千晶	Chiaki	「さ、ほら。 …早く寝ないと、押し倒しちゃうぞ？」
1251	春希	Haruki	「俺、てっきり今日は嫌なのかと…」
1252	千晶	Chiaki	「嫌なわけ、ないじゃん。 この千晶ちゃんがさぁ…」
1253	春希	Haruki	「…なのか？」
1254	千晶	Chiaki	「春希にえっちなこと、散々叩き込まれた、 この和泉千晶がさぁ…っ」
1255	春希	Haruki	「あ…っ」
1256			冗談だと思ってた。
1257			けれど千晶は、俺にしがみつくと、 そのまま俺を、仰向けにベッドに転がした。
1258	千晶	Chiaki	[F16「もう、こんなことする意味ないんだけどね。 ][F16…でも、理屈じゃないんだよね」]
1259	春希	Haruki	「何、だって？」
1260	千晶	Chiaki	「ほうら、春希は口答えしないの。 今からあたしが快感に悶えさせてあげるからね～♪」
1261	春希	Haruki	「う、うわっ！？」
1262			千晶の手が、俺のトランクスに伸びると、 あっという間に全てを剥ぎ取っていく。
1263	春希	Haruki	「………」	"........."
1264			ぼうっとする頭がだんだんハッキリしてくると、 無意識のうちに枕元の時計を確認する。
1265			６時半。
1266			着替えて、朝食を摂って… 場合によってはその前にシャワーを浴びても、 まだ一コマ目に余裕で間に合う時間。
1267	春希	Haruki	「千晶…？」
1268			あいつが俺の部屋にいる間、 一度だって起きたことのない時間、だったのに。
1269	春希	Haruki	「あ…」
1270			昨夜、床に散らかっていた荷物は、 綺麗に消え去っていた。
1271			本当なら狭いはずの、広く感じる部屋の中には、 まだ、あいつの匂いは残っていたけれど。
1272			でも、さすがに部屋中のドアを開いて 確かめなくてもわかる。
1273			あいつは、出ていったんだって。
1274			ここ数日、一度も開けなかったベッド脇の窓を開ける。
1275			ただでさえ寒かった部屋の中に寒風が吹きすさび、 昨日までの生温かさを過去の彼方へと飛ばしていく。
1276			千晶の匂いも、消し飛ばしていく。
1277	春希	Haruki	「寒…」
1278			あいつさえ望めば、いつまでいてくれても良かった。
1279			たとえそれが同棲と呼ばれる行為だったとしても、 今の俺にはその現実を認める覚悟はできていた。
1280			あれだけ溶け合って、混ざり合って、 二度と離れないんじゃないかとさえ思われた、 俺たちの蜜月は…
1281			俺の回復と共に、あっさり今までの日常を取り戻す。
1282			あいつは、一体なにを考えていたんだろう…
1283			最後まで自分の気持ちより俺を優先したんだろうか？ それとも、ただ単に飽きただけなんだろうか？
1284			ま、どっちにしても、 『あいつらしい』ってことなのかもしれないけど。
1285	春希	Haruki	「…散髪、してくるか」
1286			窓ガラスに映った髪の毛が少し鬱陶しい。
1287			毎日、規則正しく生活する人間にとっては、 少々気になるくらいには伸びてしまっていた。

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