White Album 2/Script/3014

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	Speaker		Text		Comment
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1	雪菜	Setsuna	「おはようございます。 ナイツレコードの小木曽です。 本日はよろしくお願いします」
2	店員	Clerk	「あ、おはようございます。 …って、今日はいつもの大沼さんじゃないの？」
3	雪菜	Setsuna	「今回からわたしが担当させていただくことになりました。 慣れないところもあるとは思いますが、 どうかよろしくお願いします」
4	店員	Clerk	「そうですかぁ。こちらこそよろしく。 いや、急に華やいじゃったなぁナイツさん。 小木曽さんだっけ？　ステージの方も出たりするの？」
5	雪菜	Setsuna	「ああ、いえ、 イベント進行はプロの方にお願いしています。 わたしはあくまでも裏方で…」
6	店員	Clerk	「勿体ないなぁ…ちょっとくらい出ればいいのに。 君ならファンがつくかもしれないよ？」
7	雪菜	Setsuna	「…あ、ありがとうございます。 でも、主役はあくまでもアーティストの方ですので」
8	店員	Clerk	「ま、そりゃそうか。 それじゃ進行の方打ち合わせちゃいましょう。 事務所までご足労願えますか？」
9	雪菜	Setsuna	「はい！ 今日一日、どうぞよろしくお願いします！」
10	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
11	雪菜	Setsuna	[F16「………頑張れ、わたし！」]
12			………	.........
13	スタッフ１	Staff 1	「はいカメラテストＯＫで～す！」
14	スタッフ２	Staff 2	「照明、もう少し落とした方がいいですかね？ ちょっと反射強いかもしれません」
15	曜子	Youko	「ん～…昼イチで映像の方チェックさせて。 とりあえず午前中はこんなところでいいわ。 お疲れさま」
16	スタッフ２	Staff 2	「どうもお疲れさまです。 お～い、みんな１時間の休憩～！」
17	曜子	Youko	「さて、と…」
18	かずさ	Kazusa	「～っ、はぁ、はぁぁ…っ」
19	曜子	Youko	「…こちらもお疲れ。 さ、ごはん食べに行こうか」
20	かずさ	Kazusa	「はぁぁ…はぁ…っ、 なんでカメラが入ってる？」
21	曜子	Youko	「そりゃ、明日のコンサートを ブルーレイで発売するからに決まってるでしょ」
22	かずさ	Kazusa	「………この商売人め」
23	曜子	Youko	「社長ですもの。 社員を食べさせる義務があるの。 ついでに娘の養育費も稼がないと」
24	かずさ	Kazusa	「勝手に、しろ」
25	曜子	Youko	「勝手にしていいなら 最初から文句つけなきゃいいのに」
26	かずさ	Kazusa	「っ… 食事なら一人で行ってくれ。 あたしは納得いくまで詰める」
27	曜子	Youko	「…これで朝から五時間ぶっ続けよ？」
28	かずさ	Kazusa	「この程度、どうってことない。 どうせ明日で終わりだ」
29	曜子	Youko	「追加公演もあるんだけど？」
30	かずさ	Kazusa	「明日が全てだよ… 後はどうなろうと構わない」
31	曜子	Youko	「………」	"........."
32	かずさ	Kazusa	「今、いい感じなんだ。 好きにさせてくれ」
33	曜子	Youko	「確かにいい感じなのよ。 だからもう、これ以上弄るよりは、 明日に向けて体力を温存した方が…」
34	かずさ	Kazusa	「好きにさせろって言っただろ…」
35	曜子	Youko	「………わかった。 でも、くれぐれも入れ込み過ぎないようにね」
36	かずさ	Kazusa	「別に、いつも通りだ」
37	曜子	Youko	「どこがよ？ 今のあなた、ノってるのは確かだけど、鬼気迫り過ぎ」
38	かずさ	Kazusa	「…本番前だからテンション上がってるのかもな」
39	曜子	Youko	「プライベートの感情を あまり仕事に持ち込まないでくれると助かるんだけど。 ま、でも、それだとあなたのピアノじゃなくなるか…」
40	かずさ	Kazusa	「訳わからないことブツブツ言ってるだけなら、 早くいなくなってくれ。 あたしは弾きたいんだ…」
41	曜子	Youko	「はいはい。 それじゃ、程々にね」
42	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
43	かずさ	Kazusa	「あと、一日…」
44	かずさ	Kazusa	「………頑張れ、あたし」
45	曜子	Youko	「………」	"........."
46	曜子	Youko	「あと、一日…」
47	曜子	Youko	「なんとか、もってよね…」
48			………	.........
49	春希	Haruki	「………」	"........."
50			静かな、一日だった。
51			一日中ずっと、 隣からの生活の音が聞こえてこなかった。
52			ドアや窓を開ける音も、 自分の存在を示すために壁を叩く音も。
53			…だから、一睡もできなかった。 夜から、朝、そしてまた夜まで、ずっと。
54			正確には、ほんの十分ほど眠ったはずだけど、 あのときの睡眠は、後悔と、嫌悪と、 懊悩しかもたらしてくれなかったから。
55			気を紛らすために仕事をしようとしても、 雑務の方は午前中で終わってしまい、 後はインタビューの起こしだけが残った。
56			けれど、今はとてもあいつの声を聞く気になれず、 結局、そのまま部屋の床に寝転がってしまった。
57			それからも、眠ることどころか 目を閉じることもできずに、 陽が沈むまで天井の模様をずっと眺めていた。
58			『追伸』
59			『そういうわけで、 今週の日曜日、東京にいられなくて、 かずさのコンサート、行けなくなっちゃった』
60			『春希くんは行かないって言ってたけど、 本当はわたし、チケット手に入れてたんだ。 かずさのピアノ、聴きに行くつもりだったんだ』
61			『できれば、春希くんと一緒に 行きたいって思ってたんだ』
62			『どうして勝手にそんなこと決めるんだって、 春希くんは思うのかもしれないよね。 もしかしたら、怒るかもしれない』
63			『ごめんなさい。 でも、行くならどうしても一緒が良かったの。 だって…』
64			『かずさのコンサート… 春希くん一人で行って欲しくなかったから』
65			『あなたが一人でかずさのピアノを聴いてしまったら、 どういう気持ちになるかわかってるつもりだから』
66			『あなたの心がわたしから離れて、 ピアノの中に吸い込まれてしまうって、 わかってるつもりだから』
67	春希	Haruki	「………」	"........."
68			あれから何度読み返しても、 言葉が出てこなかった。
69			伊達に長い付き合いじゃない。 雪菜は、俺のことをなんでも知っていた。
70			俺とかずさの今の距離を知らないはずなのに、 俺の迷いを、しっかり掴んでた。
71			けれど、そんな雪菜だからこそ、 俺にもわかってしまったことがある。
72			雪菜が、揺れてるって。 俺を信じ切れていないって。
73			今、このタイミングで連絡してきたことが、 雪菜の迷いを表してるって。
74			俺を許していたなら、もっと前に。 俺を信じ切っていたなら、もっと後になるはずだった。
75			だからって、それを責めることなんかできない。
76			だって俺は、雪菜に疑われるに相応しい 態度と気持ちを抱えていたんだから。
77			雪菜に許してもらえないのが当然なくらい、 雪菜以外の相手に、熱くなってしまったんだから。
78	春希	Haruki	「………」	"........."
79			だったら、俺の取るべき道は…
80			雪菜のことを、なんでも知っていようとすること。 どんなことがあっても受け止めようとすること…
81			だって、目を閉じると浮かんできてしまう。
82			昨夜の駅前の… [R隣人^かずさ]の、別れ際の微妙な笑顔が。
83			夕暮れの音楽室の… 俺を下から覗き込む、[R隣人^かずさ]の悪戯っぽく、 そして切ない視線が。
84			涙をたたえた瞳が。 甘くて熱い吐息が。 きっと、柔らかくて温かかったはずの唇が。
85	春希	Haruki	「っ…」
86			あっという間に全身を巡る、 あってはならない熱さとともに…
87			洗面所に飛び込むと、 思い切り蛇口をひねり、冷たい水を顔に浴びせる。
88			何度も、何度も… 手がかじかんできても、 顔が引きつってきても。
89			その冷たさを頭の中にまで染み込ませ、 どれだけ振り払っても浮かび上がってくる映像までも 凍らせてしまおうとする。
90	春希	Haruki	「大丈夫、だ…」
91			頭を振り、顔についたしずくをまき散らせ、 俺は、鏡に語りかける。
92			目が充血して、憔悴しきった顔色の、 情けない表情を浮かべた自分を叱咤する。
93			大丈夫、大丈夫って。 あれはただの気の迷いだって。
94			だって俺たちの五年間は、 何者にも侵されない、揺るぐはずのない、 絶対に切れる訳なんかない絆だから。
95	かずさ	Kazusa	『今度こそ、今度こそ… これで、さよならだ』
96	かずさ	Kazusa	もう、終わったんだ。 何も、起こらなかったんだ。
97	かずさ	Kazusa	これからも、起こる訳なんかないんだ。 だって、もう二度と…
98	春希	Haruki	「………」	"........."
99			でも、だったらどうして…
100			だったらどうして俺は、自分に『大丈夫』と 言い聞かせてるんだ…？
101			『大丈夫』は、相手に言い聞かせるための言葉だろ？ [R彼女^せつな]を、安心させるための台詞だろ？
102			………	.........
103	依緒	Io	「着いた…」
104	武也	Takeya	「って、まだ開場前だぞ。 もう少しゆっくり買い物してても よかったんじゃないのか？」
105	依緒	Io	「嫌よ。 あんたと一緒だと時間がもたないから」
106	武也	Takeya	「お前が俺のネタ振りを 全部一言で切って捨てるからだろ」
107	依緒	Io	「あんたがあたしを他の女みたいに扱うからでしょ。 今さら普通に気を使われたって困る」
108	武也	Takeya	「…どうしろってんだよ」
109	依緒	Io	「それに、開場前に来ておきたかったってのもあるのよ」
110	武也	Takeya	「春希…か」
111	依緒	Io	「来るかな、あいつ…」
112	武也	Takeya	「わかんね。 先週電話したときは行かないって言ってたけど」
113	依緒	Io	「雪菜の態度も気になったし… あの二人、何か抱えてるみたいなのよね」
114	武也	Takeya	「二人で済んでればいいんだけどな…」
115	依緒	Io	「変なこと言わないでよ… もう一人は今や国際的な有名人なのに」
116	武也	Takeya	「あの頃から国際的な有名人のご子女だったけどな」
117	依緒	Io	「だからそういうツッコミやめてってば。 場所も立場も、住む世界が全然違うんだから」
118	武也	Takeya	「じゃあお前、なんで春希を捕捉しに来たんだよ こんなに早い時間から」
119	依緒	Io	「…来てなければいいんだけどね」
120	武也	Takeya	「冬馬の友達としての俺たちが そんなこと言うのもあのコに悪いけどな…」
121	依緒	Io	「でも、もし来てたらどうしよう… あいつになんて言えばいいんだろう」
122	武也	Takeya	「そんなの簡単だ。 偶然だなって声かけて、開演までずっと一緒にいて、 コンサートが終わったら一緒に帰る約束をすればいい」
123	依緒	Io	「頼むよ、武也… 春希のこと、絶対に見つけてよ？」
124	武也	Takeya	「…見つけたら俺の言うこと何でも一つ聞くか？」
125	依緒	Io	「それは…考えておく」
126	武也	Takeya	「ＯＫわかった。 目を皿のようにして張ってるから」
127	依緒	Io	「…なんて、ごめんな。 そんなこと言っておいて、どうせあたし、また…」
128	武也	Takeya	「他の女みたいな言い方はやめろ。 今さらそういう声出されても困る」
129	依緒	Io	「………」	"........."
130			………	.........
131	雪菜	Setsuna	「はい、はい… ええ、先方にはなんとか許していただけました」
132	上司	Boss	「そうか… まぁ、私の方からも一言謝りの電話を入れておく」
133	雪菜	Setsuna	「お願いします。 今回は本当に申し訳ありませんでした…」
134	上司	Boss	「なに、ミスは誰にでもある。 特に君は今回が初めてのイベント対応だ。 そのくらいのことは織り込み済みだよ」
135	雪菜	Setsuna	「けれど、向こうの担当の方には、 大きな迷惑をかけてしまって…」
136	上司	Boss	「次に活かしてくれればいい。 まだ明日もそちらでの仕事が残ってるんだから、 とにかく早く切り替えることだ」
137	雪菜	Setsuna	「は、はい…」
138	上司	Boss	「そうだ、今からカラオケでも行ってきたらどうだい？ 君は確か一人でもいけるんだよね？」
139	雪菜	Setsuna	「部長…」
140	上司	Boss	「それじゃ、お疲れ様。 今日のことは忘れ、ゆっくり休んで、 明日もまた頑張ってくれ」
141	雪菜	Setsuna	「はい… ありがとう、ございます…」
142	雪菜	Setsuna	「…はぁぁ」
143			『今日、仕事でミスしちゃった』
144			『ずっと希望してて、 やっと担当させてもらえた仕事だったのに、 何もかも全然上手くいかなかった』
145			『もう、わたしって馬鹿だなぁ。 まだまだ半人前ってこと気づかずに、 自分はできるんだって錯覚して背伸びして』
146			『なんで春希くんとこんなに差があるのかな？ 七年間も同じ学校通ってたのに…』
147			『ねぇ、春希くん。 あなたは仕事で失敗することなんてある？ もし失敗したら、どんなふうに切り替えてる？』
148			『今夜の気分転換の参考にしたいから、 できれば、このメールを見たら…』
149	雪菜	Setsuna	「っ…」
150	雪菜	Setsuna	「駄目…今は駄目。 だって、まだ何も解決してない」
151	雪菜	Setsuna	「くじけるな、わたし！」
152			………	.........
153			………	.........
154	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
155	曜子	Youko	「ほぼ満席ね。 ま、チケットの売れ行きからわかってたことだけど」
156	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
157	曜子	Youko	「誰か楽屋に訪ねて来なかった？」
158	かずさ	Kazusa	「あんた以外は出入り禁止だろ」
159	曜子	Youko	「一人だけ許可を出すように、 スタッフには言っておいたんだけどね。 本人にもメールしておいたのに」
160	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
161	曜子	Youko	「遠慮してるのかしらね、彼。 それとも来るのはコンサートの後かな？」
162	かずさ	Kazusa	「ここには来ないよ…」
163	曜子	Youko	「ケンカでもした？」
164	かずさ	Kazusa	「ケンカなんかしない。 元々そういう間柄じゃない」
165	曜子	Youko	「………」	"........."
166	かずさ	Kazusa	「でも、別にいいんだ。 コンサートに来てくれれば、それでいい」
167	曜子	Youko	「もしかして、客席で見つけた？」
168	かずさ	Kazusa	「いや、見てない。 一度もここ出てないから」
169	曜子	Youko	「じゃあ、なんで…」
170	かずさ	Kazusa	「ケンカなんかしないけど… そういう間柄じゃないけど… でも、来てくれる。絶対に来てくれてる」
171	曜子	Youko	「そう…？」
172	かずさ	Kazusa	「必ずどこかで聴いてる。 あたしのピアノ、聴いてるよ…」
173	曜子	Youko	「………」	"........."
174			………	.........
175	ホテル受付	Hotel Reception	「お帰りなさいませ」
176	雪菜	Setsuna	「１４１５号室の小木曽ですけど…」
177	ホテル受付	Hotel Reception	「小木曽様ですね。 はい、こちらキーになります。 お疲れさまでした」
178	雪菜	Setsuna	「ありがとう」
179	ホテル受付	Hotel Reception	「それと、先ほどからそちらのお客様が…」
180	？？？	???	「雪菜…」
181	雪菜	Setsuna	「え…」
182	？？？	???	「雪菜…ごめん、俺」
183	雪菜	Setsuna	「っ…！？」
184			新大阪まで新幹線で三時間。 そこから私鉄で十五分。 さらにホテルのロビーで一時間。
185			けれど、使った時間なんか問題じゃない。 だって、何日ぶりだと思ってるんだ。
186	雪菜	Setsuna	「春希………くん」
187			雪菜が、俺の目の前にいてくれるなんて。 雪菜に、会えるなんて…
188	雪菜	Setsuna	「ずるいよ、春希くん…」
189	春希	Haruki	「え…？」
190			コーヒーに入れたミルクをかき混ぜながら、 ようやく雪菜がゆっくりと口を開いた。
191	雪菜	Setsuna	「わたしが仕事でミスした時に限って現れるなんて。 しかも、こんな遠くにまで追いかけてきてくれるなんて」
192	春希	Haruki	「それは…」
193			片方は偶然で。 そしてもう片方は、俺の一方的な必然で。
194	雪菜	Setsuna	「これじゃ、まるで救世主だよ。 …すがってしまいたくなっちゃうじゃない」
195			だから、そういう好意的な見方をされると、 正直困る。
196	雪菜	Setsuna	「駄目なのに。 今だけは春希くんに頼っちゃ駄目って、 さっき、自分を奮い立たせたばかりなのに…」
197	春希	Haruki	「っ…」
198			すがりに来たのは俺の方なのに。
199			なのに雪菜は、自分が俺を頼らないことで、 俺にも頼らせない空気を作り上げてしまった。
200			正直、困る。
201	雪菜	Setsuna	「どうしてここがわかったの？」
202	春希	Haruki	「小木曽家の方に電話した。 そしたら大阪に出張してるって、それで…」
203	雪菜	Setsuna	「もう… ウチの家族って、絶対にわたしよりも 春希くんのことを信用してるよね」
204	春希	Haruki	「ルール違反気味ってのはわかってる。 ただ、雪菜に直接連絡しなければって…」
205	雪菜	Setsuna	「半年前に喧嘩した時もその手使ったよね… わたしが出たくないって言ってるのに、 家族総出で電話まで引っ張り出されて」
206	春希	Haruki	「ごめん… 卑怯な手、使って」
207	雪菜	Setsuna	「ほんと、卑怯だよ… おかげでわたし、今ものすごく揺れてるんだよ？ もう、自分で自分が嫌になるくらい」
208	春希	Haruki	「雪菜…」
209			やっぱり…正直、困る。
210			俺がどれだけ酷く雪菜を裏切ってきたか。 雪菜とは比べ物にならないくらい揺れていたか。
211			なのに雪菜は、そんな俺の最低な行為に気づかず、 まるで自分が悪いみたいに落ち込んで。
212	雪菜	Setsuna	「じゃあ、次の質問ね。 どうして会いに来てくれたの？」
213			俺が理不尽な理由で押しかけたのに、 『来てくれた』なんて、弱い立場に立ってしまうなんて。
214			俺にとってますます都合のいい、 雪菜にとってどんどん不利な状況を作ってしまっている。
215	雪菜	Setsuna	「本当に、わたしが落ち込んでることわかってて、 追いかけてきてくれた訳じゃ………ないよね」
216	春希	Haruki	「それは…ない」
217	雪菜	Setsuna	「ふふ、当たり前だよね。 わたし、まだ何も言ってなかったんだもん。 …ちょっとだけ理不尽な期待、しちゃったけどね」
218	春希	Haruki	「………」	"........."
219			こんな状況なら… こっちの都合を話さなくても、 雪菜は受け入れてくれるだろうか。
220			ただ会いたかったって… 雪菜と会えずに寂しかったからって言えば、 理由も聞かずに抱きしめてくれるだろうか。
221			かずさを…忘れさせてくれるだろうか。
222	雪菜	Setsuna	「春希くん…」
223	春希	Haruki	「雪菜、俺、俺さ…」
224			雪菜を抱きしめたい。 雪菜に謝りたい。
225			そんな、本来は両立できるはずの… けれど今の俺には二律背反にしか思えない、 二つの欲求。
226			俺は、そのどちらを選び、 どちらを切り捨てれば…
227			１．ただ、会いたかっただけ		Choice
228			２．かずさのことを正直に話す		Choice
229	春希	Haruki	「ただ、会いたかったんだ…」
230	雪菜	Setsuna	「っ…」
231			ただ、逃げてきたんだ。 もう、限界だったから。
232	春希	Haruki	「ずっと雪菜に会えなくて、 雪菜の声、聞けなくて…」
233			かずさが、側にいることが。 かずさのピアノを聴くことが。
234	春希	Haruki	「雪菜の声、今すぐ聞きたかったんだ。 そのためなら、どこにでも行くつもりだった」
235			今の俺は、かずさのピアノを聴けない。 コンサートになんか行けない。
236	春希	Haruki	「だって、もし雪菜に会って、 雪菜が俺の名前を呼んでくれたら…」
237			だって、もしコンサートに行って、 あいつの想いのこもった演奏を聴いてしまったら…
238	春希	Haruki	「怒られたり、拗ねられたりするに決まってたけど、 それでも最後に少しだけでも笑ってくれたなら…」
239			全てが終わったあとの控え室で、花束を抱えた俺に、 あいつが満面の笑顔で応えてきたら…
240	春希	Haruki	「そしたら俺は、 思い出すことができるから」
241			その時俺は、 自分の気持ちを強く保てるかどうかがわからない。
242	春希	Haruki	「俺には雪菜しかいないって、 …そんな、当たり前のことをさ」
243			俺には雪菜しかいないという、 当然、常に持っているべきはずの気持ちを。
244			………	.........
245	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
246	春希	Haruki	「………」	"........."
247			どっちから手を伸ばしたのか…
248			いつの間にか、俺と雪菜の手は、 テーブルの上で強く重ねられていた。
249			数日前、かずさと握りあっていた裏切りの手が、 雪菜の指に、あの時と同じように重ねられていた。
250	雪菜	Setsuna	「会いたかったんだ…わたしに」
251	春希	Haruki	「雪菜に」
252	雪菜	Setsuna	「ただ、それだけなんだ…」
253	春希	Haruki	「他に理由なんかない」
254			そんな訳なんかない。
255			今日が、かずさのコンサートの日だって、 雪菜が忘れるはずがない。
256	雪菜	Setsuna	「そっか…そうなんだ。 わたしだけが、必要なんだ」
257	春希	Haruki	「ずっと昔からそう言ってる」
258			そんな日に俺が、 まるで逃げ出すように東京から離れたことを、 雪菜が怪しんでいないはずがない。
259	雪菜	Setsuna	「悔しいなぁ」
260	春希	Haruki	「え…」
261	雪菜	Setsuna	「わたしたち、ケンカしてたはずなのに、 ものすごく嬉しいわたしが、悔しいなぁ」
262			けれど雪菜は、そのことに触れようとしない。
263			俺たちのケンカの原因になった固有名詞を、 頑なに蒸し返そうとしない。
264	雪菜	Setsuna	「こうして春希くんに触れられることが、 とっても気持ちいいわたしが、悔しいなぁ」
265			俺の嘘を、見破ろうとしない…
266	春希	Haruki	「償わせて欲しい。 今夜は、何でも雪菜の願いを聞くから」
267	雪菜	Setsuna	「今夜…？」
268	春希	Haruki	「ああ。俺にできることなら何でも…」
269	雪菜	Setsuna	「今夜… ずっとわたしと、一緒にいるつもりなんだ」
270	春希	Haruki	「………」	"........."
271	雪菜	Setsuna	「今夜… わたしを、離さないつもりなんだ…」
272	春希	Haruki	「雪菜が…許してくれるなら」
273	雪菜	Setsuna	「それっておかしいよ… 今夜は、なんでもわたしの言うこと聞くんでしょ？ なんで春希くんの方がお願いをしてるのかな？」
274	春希	Haruki	「…ごめん」
275	雪菜	Setsuna	「………っ」
276			雪菜のもう片方の手が、 俺たちの重なり合った手に被せられる。
277			もちろんその上に、 さらに俺の手が重ねられることを期待して。
278	春希	Haruki	「雪菜、俺…」
279	雪菜	Setsuna	「フロント、行こ？」
280	春希	Haruki	「どうして？」
281	雪菜	Setsuna	「今のわたしの部屋、シングルなんだ。 …替えてもらわなくちゃ」
282	春希	Haruki	「いいよ、別に」
283	雪菜	Setsuna	「でも…」
284	春希	Haruki	「雪菜が戻ってくる前に確認したんだ。 …ダブルが一部屋空いてたから、取っといた」
285	雪菜	Setsuna	「………えっち」
286			そして俺は、 もちろん、その雪菜の期待に応える。
287			何もかも、なかったことにして…
288	春希	Haruki	「また、冬馬と会ってたんだ。 ここ数日、それも毎日」
289	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
290	春希	Haruki	「そのこと、雪菜に言わなかった。 また隠してた」
291	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
292			時間が、凍りつく。
293			けど、冷たく凍った訳じゃなかった。 凍ったまま、乾いてしまったようだった。
294			だって雪菜は、じっと俺を見つめたまま、 驚きも、怒りも、嘆きもしなかったから。
295			ただ、今そこにあるがままの現実を、 ゆっくりと、噛み締めるように受け入れてたから。
296	春希	Haruki	「驚かない、のか？」
297	雪菜	Setsuna	「………知ってた」
298	春希	Haruki	「え…？」
299			だから代わりに、俺が時間の凍結を解いた。
300	雪菜	Setsuna	「朋がね… かずさに二度、会ったんだって。 春希くんの部屋の前と、ライブハウスの客席で」
301	春希	Haruki	「あ…」
302			かずさが『人から預かった』と俺に差し出した、 雪菜の参加してたライブチケット。
303			雪菜と冷戦中で、 しかもかずさと同じ時間を過ごしてる現実のままじゃ、 会いに行けないからって、かずさに譲ったチケット…
304	春希	Haruki	「そっか…」
305			かずさがいた二つの場所のどちらにもいて、 その存在の意味を結びつけられる人間が、 たった一人だけ、いた。
306	春希	Haruki	「知ってたんだ…」
307	春希	Haruki	「俺が、かずさとずっと一緒だったこと、 知ってたんだ、雪菜…」
308	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
309			とうとう『冬馬』もやめてしまった。
310	春希	Haruki	「はは…まいったな」
311			だってもう、何を取り繕っても無駄だから。
312	春希	Haruki	「俺が最低だって、酷い裏切り者だって、 全部わかってたんだ、雪菜…」
313	雪菜	Setsuna	「春希、くん…」
314			………	.........
315	春希	Haruki	「そしたら週明け… かずさが、隣の部屋に越してきた。 曜子さん…冬馬曜子が、その時に契約してたらしい」
316	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
317	春希	Haruki	「…なんて、人のせいみたいな言い方だな。 俺が独占取材の仕事を受けなければ、 かずさだって越してくることはなかったのに」
318			雪菜への懺悔は…
319			今年初めて雪菜と決裂した、 初詣のあの時に全て済ませたはずだったのに。
320	春希	Haruki	「それから二週間… ずっと、かずさと一緒だった」
321			今日までの二週間の罪は、 あの時とは比べものにならないくらい、重かった。
322	春希	Haruki	「あいつの食事、偏ってるからさ… しばらく朝と晩は俺が作った。 なるべく甘いものを控えて、野菜多めで」
323			最初から、相手はかずさだと知っていた。 かずさだって、相手は俺だとわかってた。
324	春希	Haruki	「それに、いつの間にか有名人になってやがったから、 なるべく正体がバレないようにガードしたり」
325			断る機会は何度もあった。 実際、きちんと断ったはずだった。
326	春希	Haruki	「インタビューでは、 言わなくてもいいことまでぶっちゃけ過ぎるから、 言葉を拾うよりも捨てる方に気を使ったり」
327			絶対に二人きりで会ったらいけないって、 会ってしまっても、事務的に接しろって。
328	春希	Haruki	「カメラ構えるとすぐに顔背けるからさ、 不意打ちでシャッター押して何度も睨まれたり」
329			俺は雪菜を愛しているんだからって、 だから雪菜に悲しい思いをさせたくないって、 何度も自分に言い聞かせた。
330	春希	Haruki	「後ろめたくて、いたたまれなくて、 何度も雪菜のことが頭にちらついて、辛かった」
331			なのに、最終的に俺が取材を引き受けた理由は、 『かずさに寂しい思いをさせたくない』からだった。
332	春希	Haruki	「………そして、嬉しかった。 あいつと一緒に過ごせて」
333			雪菜のことだけを愛しているはずの俺が、 決して引きずられてはいけない理由だった。
334			………	.........
335	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
336			雪菜は…
337			あの時と同様に、 ずっと黙ったまま聞いていた。
338	春希	Haruki	「呆れた？」
339	雪菜	Setsuna	「………（ふるふる）」
340			ただ、小さく首を振るだけで、俺に応えた。
341	春希	Haruki	「怒った？」
342	雪菜	Setsuna	「………（ふるふる）」
343	春希	Haruki	「許せない？」
344	雪菜	Setsuna	「っ…（ふるふるふる）」
345	春希	Haruki	「…俺なんか、もう顔も見たくない？」
346	雪菜	Setsuna	「っ！（ぶんぶんぶん）」
347			ずっと、横方向にだけ。 だんだん、大きく激しく。
348	春希	Haruki	「………ごめん。 謝ったからって許されることじゃないけれど」
349	雪菜	Setsuna	「謝ることないよ。 全然、そんな必要なんかない」
350			終いには、いよいよ我慢できなくなって、 小さい声で、けれど激しい口調で俺を庇ってしまう。
351	雪菜	Setsuna	「だって、わたしにはわかってるんだもん。 春希くんは悪くないって」
352	春希	Haruki	「そんなことない。 悪いよ。それもとんでもなく」
353	雪菜	Setsuna	「すごく悩んだに決まってるって」
354	春希	Haruki	「だからって罪が軽くなる訳じゃない」
355	雪菜	Setsuna	「今、こうして正直に話したことだって、 ものすごく勇気のいることなんだって」
356	春希	Haruki	「隠してるのが耐えられなくなっただけだ。 ただの、小心者だ」
357	雪菜	Setsuna	「心の底から、わたしのこと大事にしてくれてるって。 …しっかり、伝わってきたんだよ」
358	春希	Haruki	「そんなに庇わないでくれ。 俺にそんな価値なんか…」
359	雪菜	Setsuna	「でもね、でも…」
360	雪菜	Setsuna	「それでもわたし、あなたを許さないよ」
361			………	.........
362	雪菜	Setsuna	「………っ」
363	春希	Haruki	「………」	"........."
364			それは、俺が望んだ通りの罰だったけど…
365	雪菜	Setsuna	「ごめん、ね…」
366	春希	Haruki	「………全然」
367			俺の望んだ痛さには程遠かった。
368			雪菜の平手は、確かにいい音はしたけれど、 実際の威力は、蚊すら潰せるか怪しいほどで、 ひっぱたいた当の本人の方がよほど痛そうだった。
369			…誰かさんと違って、人を殴り慣れてないからかな。
370	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
371			俺を引っぱたくために立ち上がっていた雪菜が、 俯きながらゆっくりと椅子に座り直す。
372			周りの客がみんな、俺たちに注目してる。 その視線を一番痛く受け止めてるのもやっぱり雪菜だった。
373	雪菜	Setsuna	「本当は、わたしにこんなことする資格なんかない。 でも、どうしても許せなかったの」
374			それほどまでに雪菜が、 自身の恥も省みず俺を責めたのは…
375	雪菜	Setsuna	「だって、春希くん…逃げてきたよね？ かずさのコンサートから、逃げてきたんだよね？」
376			あろうことか、かずさのためだった。
377	雪菜	Setsuna	「コンサート直前まで一緒にいたのに。 ずっと、かずさの支えになっていたのに。 最後の最後に、その手を離しちゃったんだよね？」
378	春希	Haruki	「雪菜…」
379	雪菜	Setsuna	「どうしてそんなことするの？ 今日だけは何があっても、あなただけは何があっても、 かずさのピアノを聴かなくちゃならないはずだよね？」
380	春希	Haruki	「ごめん、俺… 雪菜をこれ以上、裏切りたくなかった」
381	雪菜	Setsuna	「だからって、かずさを裏切っていい訳ないよね？ …それ、違うよね？」
382	春希	Haruki	「けど、けど… あのままじゃ、俺…」
383			距離を置こうとしたかずさに腹を立て、 予想以上に距離を近づけたかずさに戸惑って。
384			自分でもやってることがめちゃくちゃで、 心の中まで引っ掻き回されて。
385			…自分の気持ちに全然自信が持てなくなっていた。
386	春希	Haruki	「雪菜… もし俺が、かずさのところに行って、 そのまま、帰ってこなかったら…」
387	雪菜	Setsuna	「聞かないで！ 本音が溢れたら酷いことになるから！」
388	春希	Haruki	「っ…」
389			だからって…
390			俺を叱咤できるからと言って、 雪菜の方には自信があるって訳じゃ、なかった。
391	雪菜	Setsuna	「わたしね…今、春希くんに、 すごく残酷なこと言ってるって自覚してる」
392	雪菜	Setsuna	「しかも、すごく怖いこと… わたし自身、自滅するかもしれないってのもわかってる」
393			相変わらず声は小さく、言葉は強く。
394			けれどその口調の中に、 少しずつ震えが混じってきてるのが 聞き取れてしまった。
395	雪菜	Setsuna	「だけど、今は建前で怒らせて。 すごく原則的なこと言わせて。 正しいことだけ、言わせて」
396	雪菜	Setsuna	「…綺麗なわたしで、いさせて」
397	春希	Haruki	「雪菜…」
398			その震えは、雪菜の喉と唇を急速に侵し、 あっという間に、隠しようがないくらい激しくなった。
399	雪菜	Setsuna	「ね、春希くん… 今日は、帰って」
400	春希	Haruki	「っ…」
401	雪菜	Setsuna	「…かずさのところへ、行って」
402			それは、まるで俺たちの別れの日のような…
403			いや、未来から思い返したら、 本当にそんな日として記憶されるかもしれないって 思わせる、雪菜の台詞だった。
404			胃が、胸が… 何本も針を刺されたように痛んだ。
405	春希	Haruki	「行っても無駄だ… もう、コンサートは始まってる」
406			そんな激しすぎる痛みから逃れるために、 俺は、雪菜の正しさにも、かずさの痛みにも背を向ける。
407	雪菜	Setsuna	「開演には間に合わなかったけど、 終わるまでに間に合えばいいじゃない…」
408	春希	Haruki	「ここがどこだと思ってんだよ… もう、最後の曲だって聴けないって」
409	雪菜	Setsuna	「なら、楽屋に顔出すだけでも。 おめでとうって、声かけるだけでも。 …行けなくてごめんって謝るだけでも」
410	春希	Haruki	「もういい…もういいだろ。 俺は全部覚悟の上で雪菜に会いに来たんだ。 今さら戻ったって何にもならないって…」
411	雪菜	Setsuna	「覚悟なんかしてない… 春希くん、全然覚悟なんかできてないよ」
412	春希	Haruki	「っ…」
413			その指摘は、あまりにも的の真ん中に刺さってて、 否定する言葉も逆切れな態度も咄嗟に出てこなかった。
414			ここまで俺のこと理解してくれてるのは、 ある意味本望だったけど、 それすら喉を詰まらせる要因の一つになってしまった。
415			だから少し深呼吸して、 ゆっくりと肺の奥から別の言葉を絞り出す。
416	春希	Haruki	「それでも、これで終わりだ。 俺、もう二度と雪菜を裏切ったりしない…」
417			否定でも逆切れでもない、ただの開き直り…
418	雪菜	Setsuna	「ううん… 終わらない、よ」
419	春希	Haruki	「そっか… 許してくれないか、もう」
420			それでもやっぱり、 雪菜は認めてくれなかった。 俺を、肯定してはくれなかった。
421			けど、それも当然だ。
422			雪菜の、今までのそれほど長くない人生の中で、 多分俺は、世界の誰よりも彼女を傷つけた。
423			雪菜の、あまりに深い慈悲の心だって、 女神でない人間である以上、 いつかは擦り切れるってわかってたのに…
424	雪菜	Setsuna	「違う… 許してくれないのは、かずさだよ。 終わらないのは、かずさだよ」
425	春希	Haruki	「雪菜…？」
426	雪菜	Setsuna	「諦めたりしないのは、かずさだよ」
427			けれど雪菜の優しさは、 そんな俺の絶望のまた裏をかく。
428	雪菜	Setsuna	「終わらない、まだ終わってないよ。 わたしたち三人、こんなことじゃ全然終わらないんだよ」
429			いつかは擦り切れるってわかってはいたけれど、 それはまだ、もう少し先の話のようだった。
430	春希	Haruki	「そんなことない。終わってる。 五年前に、とっくに終わってるって」
431	雪菜	Setsuna	「わたし、保証する。 こんなことされたくらいで、かずさは春希くんのこと、 絶対に諦める訳がない」
432	春希	Haruki	「どうしてそんなこと言えるんだよ… 今のあいつに会ってもいないのに、そんな…」
433	雪菜	Setsuna	「だってかずさ、わたしに会いに来ないんだもん。 遠くから見てるだけで、 わたしに声を掛けてくれなかったんだもん」
434	春希	Haruki	「それは… だってあいつ、雪菜に合わせる顔がないって… それだって、俺のせいで」
435	雪菜	Setsuna	「違うよ。 わたしのこと、まだ許してくれないんだよ。 …わたしと春希くんのこと、許してくれてないんだよ」
436	春希	Haruki	「そんなの、違…」
437	雪菜	Setsuna	「かずさは、五年前のこと、 全然忘れられてないんだよ」
438	春希	Haruki	「っ…」
439	雪菜	Setsuna	「わたしに裏切られたこと、 春希くんを奪われたこと、忘れてないんだよ」
440	春希	Haruki	「だから違うって… あいつは…かずさは雪菜を恨んでなんかいない。 ずっと、あの頃から好きなままでいたよ…」
441	雪菜	Setsuna	「そういう、たった一つだけの気持ちじゃないんだよ。 人って、誰もがそうだよ」
442			雪菜は… 優しすぎて、強すぎる。
443	雪菜	Setsuna	「わたしだって、かずさのことが好き。 ずっと、あの頃から好きなままだよ」
444			それは、出逢ったときからずっと変わらない、 俺にはもったいなさ過ぎる理想の女性の姿。
445	雪菜	Setsuna	「だけど、それで全部じゃない。 とても人には… 特に春希くんには言えない気持ちだって抱えてる」
446			俺を甘えるだけの情けない男へと、 言い訳ばかりのずるい男へと堕落させてしまう、 聖女過ぎる悪女。
447	雪菜	Setsuna	「だから、もう会わないからとかそういう問題じゃない。 …逃げても、距離を置いても、 時間は何も解決してくれない」
448	春希	Haruki	「雪菜…」
449	雪菜	Setsuna	「これからのこと、かずさと春希くんとわたしと… しっかり決着をつけないと、いけないんだよ…」
450			その優しさに付け込んで、何度も辛い目に遭わせたのに。 その強さに甘えて、何度も置き去りにしたのに。
451	雪菜	Setsuna	「だから、今はかずさの元へと行って。 そして、かずさを安心させてあげて」
452			またそうならないって保証はどこにもないのに、 それでも雪菜は、何度も同じ轍を踏む。
453			だから俺は…
454	春希	Haruki	「やっぱり、行けない」
455	雪菜	Setsuna	「春希くん…」
456			だから俺は今日もまた、俺が嫌いな俺になる。
457			自分で何も解決できず、ただ逃げるだけの 情けない男に堕落させられる。
458			他ならぬ、雪菜によって。
459	春希	Haruki	「俺、雪菜のことが好きなのに… それだけじゃ、いけないのかよ…？」
460	雪菜	Setsuna	「いけないよ… だって、それだけじゃないから。 かずさのこと、好きなままだから」
461	春希	Haruki	「でも俺…間違えるのが怖い。 何もかも五年前に戻るのが、怖いんだよ」
462			正解がわかってるのに。 目の前に転がってるのに。
463			でも俺は、あいつの近くにいると、 すぐに答えを間違える。 …わざと間違えてしまいたくなる。
464	雪菜	Setsuna	「大丈夫。 わたしはあなたを信じてる。 …なんて、ごめん、さすがに言えないかな」
465	春希	Haruki	「うん…」
466	雪菜	Setsuna	「…言っておくけど、 春希くんを信じていないからじゃないよ？ 春希くんを信じてるからだよ？」
467	春希	Haruki	「何、言ってんだよ…」
468			信じてるから、信じられない…
469	雪菜	Setsuna	「あなたのかずさへの想いの強さを信じてるから。 あなたのかずさへの愛を信じられてしまうから…」
470	雪菜	Setsuna	「だから、あなたがわたしのところに戻ってくるって、 最後の最後まで信じ切れない」
471			そんな、完全に間違ってるはずの日本語を、 けれど雪菜はハッキリと正しく口にした。
472	雪菜	Setsuna	「わたし、春希くんに幸せになってもらいたい。 かずさに幸せになってもらいたい。 そして、わたしも幸せになりたい」
473	雪菜	Setsuna	「春希くんが好き、かずさが好き。 そして、わたしはわたしが好き」
474	雪菜	Setsuna	「三人揃った今、誰の幸せが一番かなんて選べない。 ずっと悩んだし、今も悩んでる。 そしてまだ結論が出ない」
475	雪菜	Setsuna	「だから今は、まだあなたを受け入れられない。 …理屈っぽいこと言ってごめんね」
476	春希	Haruki	「雪菜…」
477	雪菜	Setsuna	「ね、春希くん… 逃げたら駄目だよ。 お互い、さ」
478	春希	Haruki	「雪菜は…雪菜はさ」
479	雪菜	Setsuna	「ん？」
480			『よくそんな最低男の彼女やってられるな』
481			それは、ずっと昔から喉の奥に隠し持ってた、 壊滅的に男運のない彼女に対しての、痛烈な皮肉。
482			今ほど、本気で言ってやりたかった時はなかった。
483	春希	Haruki	「…いや、なんでもない」
484			けれど、今ほど必死で口をつぐんだことはなかった。
485	雪菜	Setsuna	「帰ろ、春希くん」
486	春希	Haruki	「………わかった」
487			『ずっと、その最低男の彼女でいて欲しい』って、 今ほど強く思ったことはなかったから。
488			………	.........
489	雪菜	Setsuna	「本当は、ね」
490	春希	Haruki	「ん？」
491	雪菜	Setsuna	「わたし、今、すごく濡れてる」
492	春希	Haruki	「………」	"........."
493	雪菜	Setsuna	「一月ぶりに、春希くんに会えたから。 こんな遠くまで追いかけてきてくれたから」
494	雪菜	Setsuna	「わたしのこと、物欲しそうに見つめてくれたから」
495	春希	Haruki	「雪菜…」
496	雪菜	Setsuna	「嬉しくて、気持ち良くて… 身体中が、熱くてたまらない」
497	春希	Haruki	「雪菜…俺、俺、さ」
498	雪菜	Setsuna	「でも、今はあなたに抱かれる訳にはいかない。 …ホテルに戻って、自分で慰めて、我慢する」
499	春希	Haruki	「………うん」
500	雪菜	Setsuna	「じゃあ、ね」
501	春希	Haruki	「仕事、頑張ってな。 …ミスしたんなら、気にして原因突き詰めろ。 そしたら次は、少しだけ上手くやれるから」
502	雪菜	Setsuna	「ありがと… そういうの、春希くんらしくて嬉しいよ。 また、仕事の愚痴聞いてね？」
503	春希	Haruki	「お互いに、な」
504	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
505	春希	Haruki	「………」	"........."
506	雪菜	Setsuna	「…わたしからは、しばらく連絡しない」
507	春希	Haruki	「うん…」
508	雪菜	Setsuna	「わたしが必要になったら連絡して。 …でも、逃げるためだったら話聞かない」
509	春希	Haruki	「…頑張ってみる。 自信、あるかどうか微妙だけど」
510	雪菜	Setsuna	「わたしも…実はもう泣きそう」
511	春希	Haruki	「雪菜」
512	雪菜	Setsuna	「ん？」
513	春希	Haruki	「………」	"........."
514			最後の言葉は、 扉に遮られた瞬間に、声にするのをやめた。
515			だって、こんなもの凄い決意を込めた台詞、 二度も口に出す勇気なんかないから。
516			次の機会のために、取っておかなくちゃならないから。
517			雪菜が、遠ざかる。 正確には、電車に乗った俺の方が遠ざかってる。
518			離れるにつれ、雪菜の表情が段々と歪んでいく。
519			それは笑ってるようにも、泣いてるようにも見えた。 けれどそれは、俺の視界が歪んだだけかもしれない。
520			………	.........
521			結局、最後まで俺たちは触れあわなかった。
522			肌どころか、唇も、手も、指の先すらも。
523			互いの匂いも届かなかった。 吐息も、感じられなかった。
524			たった一つ、互いに剥き出しにした心を除いては。
525			………	.........
526			……	......
527			…	...
528	春希	Haruki	「っ、はぁっ、はぁっ」
529			………	.........
530	春希	Haruki	「はぁっ、はぁっ、はぁっ………ぁ」
531			本当は、最初からわかってた。
532			来ても、無駄だって。
533	春希	Haruki	「はぁ、はぁ…はぁぁ…っ」
534			開演には間に合わないどころか、 終わるまでにも間に合わないって。
535			ホールだって、とっくに閉まってるって。 楽屋なんて、入れるわけないって。
536			おめでとうって、声をかけることも。 行けなくてごめんって、謝ることも。
537			もう、何もかも遅すぎるんだって…
538			『覚悟なんかしてない… 春希くん、全然覚悟なんかできてないよ』
539			雪菜のその声を背に、 俺は大阪から全速力で東京に帰ってきた。
540			雪菜に、勇気をもらったはずだった。 なのに…
541	春希	Haruki	「………っ」
542			足が震える。 喉がからからに渇く。 冷たい汗が止まらない。
543			けれどそれは、 今まで走りづめだったからじゃない。
544			雪菜の言う通り、 覚悟が、できていないから。
545			かずさから逃げ出したときも、 そして、かずさの元に戻ってきたときも。
546			そう、今も俺は…
547			あの時の、かずさから逃げ出した俺のように、 なにもできない。
548			もう誰もいないホールの前で、 ただ、立ち尽くすだけだった。

Script Chart

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