White Album 2/Script/3017

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1	浜田	Hamada	「け…怪我ぁ！？」
2	春希	Haruki	「コンサートのすぐ後、階段から落ちて…」
3	浜田	Hamada	「そ、それで追加公演は？ い、いや、まず怪我の状態だよな」
4	春希	Haruki	「右手の甲を切ってて、あと左手首を捻挫してて。 まぁ、どちらも骨には異常ないみたいですが」
5	浜田	Hamada	「両手…？」
6			浜田さんがリアルタイムで顔面蒼白になっていくのを、 俺は、色々な痛みに苛まれながらも 重く受け止めることしかできなかった。
7	浜田	Hamada	「つ…追加公演は？ あと一月あるから大丈夫かな？」
8	春希	Haruki	「多分、怪我は治ってるでしょうけど、 ベストコンディションで演奏できるかどうかは…」
9	浜田	Hamada	「そ、そっか…そうだよな。 ピアニストが練習できないなんて…」
10			少しの嘘と、たくさんの秘密… どちらも、心にずしりとのしかかる。
11	浜田	Hamada	「それにしても、 なんで今まで連絡してくれなかったんだ…」
12	春希	Haruki	「すいません」
13	浜田	Hamada	「お前を責めてなんかないって。 冬馬オフィスのこと言ってんだよ。 緊密に連絡取り合うって約束だったのに」
14	春希	Haruki	「それは、その…」
15			だって、実は本当に俺のせいだなんて、 そんなファンタジーみたいな事実、 誰が思いつくだろうか。
16			説明したからって、理解してくれるだろうか。
17	春希	Haruki	「迷惑かけるのが申し訳なくて、 包帯が取れるまで黙っておこうと思ってたって」
18	浜田	Hamada	「その方が余計迷惑だろうが！ なに考えてんだよ」
19	春希	Haruki	「…申し訳ありません」
20	浜田	Hamada	「だからお前に言ってんじゃないって何度も言ってるだろ！ ああ、いや、つまりお前に当たってもしょうがないもんな」
21	春希	Haruki	「………はい」
22			だから今は、周囲を欺くしかない。
23			自分の説得力と、周囲の状況と…
24			そして、かずさの気持ちに対する理解が、 まだ自分の中で形になってくれないから。
25	浜田	Hamada	「とにかくアンサンブルの編集長には報告しとく。 向こうはまだ冬馬曜子と連絡取れないらしくて」
26	春希	Haruki	「そう…なんですか」
27			こっちも曜子さんとは連絡を取っていなかった。
28			なんて言い訳すればいいかわからなかったから。 …かずさを護ることも、振ることもできなかった俺が。
29	春希	Haruki	「それじゃ俺、そろそろ取材の時間ですから」
30	浜田	Hamada	「冬馬かずさの見舞いには行くのか？」
31	春希	Haruki	「…ええ、夜に」
32	浜田	Hamada	「俺も顔出そうか？ 今後の取材のこともあるだろうし」
33	春希	Haruki	「いえ…今はあまり他人に会いたくないそうです」
34	浜田	Hamada	「そっか…じゃ、お大事にって伝えてくれ」
35	春希	Haruki	「はい…失礼します」
36	浜田	Hamada	「………」	"........."
37	浜田	Hamada	「今はあまり他人に会いたくない、か」
38	浜田	Hamada	「自分は他人じゃないって言ってるぞお前…」
39			………	.........
40	春希	Haruki	「はぁぁ…」
41			口からは安堵のため息を漏らしつつも、 心の中では、喉の奥に息を詰まらせたままだった。
42			相手に伝わらない、意味のない謝罪を何度繰り返しても、 喉の奥に引っかかった呵責の骨は取れそうになかった。
43			すいません。 本当にごめんなさい、浜田さん。
44			俺には、わからなかったんです。
45			あいつが、こんなにプロの自覚のない奴だったなんて。 昔よりもよほどアマチュアになってしまっていたなんて。
46			…たかが男のことで弾けなくなってしまうくらい、 冗談みたいに脆い奴だったなんて。
47			………	.........
48			部屋の中に、スパイシーな香りが漂う。
49			…なんて、三日も煮込んだカレーに そこまで刺激的な香りは期待できないけど。
50			とりあえず、そんなマイルドなカレーが煮えるのに合わせ、 冷蔵庫のありあわせの野菜を刻む。
51			炊飯器のランプはとっくに保温を指している。 後は盛り付けるだけで、ちょっと遅めの夕食の完成。
52	春希	Haruki	「………」	"........."
53			そうやって規則的に手を動かし、 生活のために考えることが減っていくと、 どうしても心は、昨夜の記憶に辿り着く。
54			五年ぶりの冬馬家。
55			俺たちの思い出が詰まった地下スタジオに、 ただ独り、膝を抱えてうずくまっていたかずさ。
56			もう、自分の居場所でないはずなのに、 あの時のあいつには、あそこしか残っていなかった。
57			あいつを知ってる、あいつを求めてる世界に比べて、 あいつが知ってる、あいつが求めてる世界は こんなにも狭いことがショックだった…
58			再会してから初めて、あいつが俺に、 自分の本当の気持ちを話してくれた。
59			『五年間、ずっと俺のことを想ってた』って…
60			そんな痛くて苦しくて、 俺にとってあまりにも甘美な気持ちが あいつの真実だったなんて、やりきれなかった。
61			だって俺には雪菜がいて、 だから俺たちは、決裂するしか選択肢がなかった。
62			危ういバランスのもとに成り立っていた隣人関係… いや、同居関係と言ってもいい間柄を、 もう維持できないくらい、深い傷をお互いに負った。
63			だからかずさは、この部屋を…
64	春希	Haruki	「…そろそろ起きて何か食ってくれ。 いい加減、狸寝入りにも限界があるだろ」
65	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
66			………それでもかずさは、まだ、この部屋にいる。
67			俺の隣人を、やめられていない。 というか、俺がかずさを手放さなかった。
68	春希	Haruki	「お前、昼も結局何も食ってなかったじゃないか。 もう熱下がってるんだし、本当は起きれるんだろ」
69			だって、出て行かせられる訳なんかないだろ。
70			熱があったんだ。両手を怪我してるんだ。
71			…ついでに、曜子さんとも連絡取れないし、 病院だってほっといたら絶対に行かないし。
72			だから、たとえどんなに筋が通ってなかったとしても、 今は、俺が何とかするしかないんだ。
73	春希	Haruki	「いつまでもこのままって訳にもいかないだろ。 食事もそうだけど、怪我の治療だって…」
74			俺が帰宅してからずっと… 熱を測るために額に手を当てても、 汗を拭いても、じっとその顔を見つめても。
75			とにかくかずさは、頑なに目を閉じたまま、 ずっと眠っている『ことになっていた』。
76	かずさ	Kazusa	「口なんかきけるわけないだろ…」
77	春希	Haruki	「かずさ…」
78			本当は起きてるなんて、最初からわかってた。
79			だって、俺が背を向けたときだけ、 痛いくらい、かずさの視線を感じられたから。
80	かずさ	Kazusa	「あたし、お前に告白したんだぞ？ …思いっきり、振られたんだぞ？」
81	春希	Haruki	「振って、なんか…」
82			ほぼ一日ぶりに聞いたかずさの声は、 あの時の、心の奥底から搾り出した叫びとは対照的に、 あまりにも、生気の失われた呟きだった。
83	かずさ	Kazusa	「玉砕した相手に面倒見られるなんて、 拷問以外の何ものでもないじゃないか」
84	春希	Haruki	「………」	"........."
85			怒りも、悲しみも必死で込めないように…
86			けれど、語尾の震えでそれらをしっかり伝えてしまう、 本人としては多分不本意な、豊かな表情を持つ声。
87	かずさ	Kazusa	「あたしを見るな… あたしをそんな優しい目で見ないでくれよ、春希。 憐れみなんか、やめてくれ…」
88	春希	Haruki	「俺に構われるのが嫌だったら、ちゃんと起きろよ。 自分の力で立ってくれよ…」
89	かずさ	Kazusa	「そしたらお前は、いなくなるのか？ あたしの前から、永遠に消えてなくなるのか？」
90	春希	Haruki	「………お前が、望むなら」
91	かずさ	Kazusa	「………望まない。 そんなの、嫌だぁ」
92	春希	Haruki	「なら、食ってくれよ。 包帯、替えさせてくれよ …お前の面倒、見させてくれよ」
93	かずさ	Kazusa	「っ…それも、嫌だ。 今は、絶対に嫌だ」
94	春希	Haruki	「っ…」
95	かずさ	Kazusa	「帰ってくれ。 あたしの部屋から、出て行ってくれ。 お願いだから、一人にしてくれよ」
96	春希	Haruki	「でも、飯と傷の手当てと… 本当は、体温だって測りたいし…」
97	かずさ	Kazusa	「うるさいよお前、本当にうざいよ… 勘弁、してくれよ…っ」
98	春希	Haruki	「かずさ…」
99			…なんて、声だけでも感情を隠そうとしてたのは、 最初のうちだけで。
100			いつしかその小さな音量の中に、 たくさんの痛すぎる気持ちを込めて、 俺に、突き刺してくる。
101			隠そうとしてたのは、かずさの優しさで。 それを暴いてしまったのは、俺の空気の読めなさで。
102			………	.........
103	春希	Haruki	「………」	"........."
104			自分の部屋に戻り、灯りを消してベッドに潜ったところで、 眠気なんか降りてきてくれるわけがなかった。
105			額で測った限りでは、熱はもう下がってた。
106			治療の時の感じでは、右手の傷は化膿してなかった。 左手の捻挫も、腫れは大したことなかった。
107			一月後の追加公演についてはまだ安心できないけれど、 ピアノを続けることに関してなら、 もう何の心配もいらないはずだった。
108			…少なくとも、身体的な問題に関しては。
109	春希	Haruki	「あ…」
110			と、ベッドの中で何度も寝返りを打っているうちに、 睡眠欲以外の本能が、今さら頭をもたげてくる。
111	春希	Haruki	「晩飯…」
112			そういえば、俺も食ってなかったっけ。 あのカレー、いつになったらなくなるんだろう。
113	春希	Haruki	「っ…」
114			けれど、夜中の三時を過ぎた今、 隣の部屋に鍋を取りに行くことは、 心情的にも、常識的にも許されることじゃなくて。
115			俺は、引っ込んだ腹を抱えるように体を丸め、 頭から布団をかぶって、強制的に目を閉じた。
116			カレーも、対話も明日だ。
117			あいつは今日、部屋にチェーンを掛けていなかった。 鍵を持ってる俺だけが入れる状態を作ってくれていた。
118			セキュリティ上、問題がない訳じゃないけれど、 今は、心の鍵がまだ少し開いてることの方が嬉しかった。
119	春希	Haruki	「おやすみ…」
120			だから、おやすみかずさ。
121			明日の朝こそは、 朝食にカレーは是か非かの議論ができることを願いつつ、 俺は、力いっぱい踏ん張って、意識を閉じ…
122	春希	Haruki	「っ！？」
123			…るのは、まだまだ先になりそうだった。
124			………	.........
125			……	......
126			…	...
127	春希	Haruki	「これはまた…」
128	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
129			かずさの、突き刺さるような哀しい呟きに背中を押され、 部屋を後にしたのは一時間前のこと。
130			そして今、ふたたびこの地に舞い降りた俺の前には、 これが同じ場所なのかと感嘆するほどの無惨な景観が…
131	春希	Haruki	「カレーのお姫様…？」
132	かずさ	Kazusa	「こんなもの部屋に置いておくからだ！」
133			部屋着どころか、 髪にまでべっとりとまとわりついたカレー。
134			鍋も皿も、そして中身も全て床にぶちまけられ、 部屋中が三日目のスパイスの抜けたカレー臭で 満たされている。
135	春希	Haruki	「これしばらく匂い落ちないぞ…」
136	かずさ	Kazusa	「こぼす前から部屋中に匂ってた」
137	春希	Haruki	「どうしてこんなこと… 捨てようとしたのか？」
138	かずさ	Kazusa	「っ…そんなこと… そんなもったいないこと、するわけないじゃないか」
139	春希	Haruki	「え…」
140	かずさ	Kazusa	「部屋中に匂ってて… そのせいで、どんどんお腹空いてきて…」
141	春希	Haruki	「そ…っか」
142			額で測った限りでは、熱はもう下がってた。
143			だから食欲が戻ってきたとしても、 何ら不思議なことはなかった。 それどころか、喜ばしいことだった。
144	かずさ	Kazusa	「だから、その… 鍋をテーブルに持ってこうとして」
145	春希	Haruki	「あぁ…」
146			…両手とも使えないってことに気づいてれば、 もっと喜ばしかったんだけど。
147	かずさ	Kazusa	「こんなにグルグル巻きにしやがって… お前はいつも大丈夫大丈夫って言うけど、 やってること穴だらけじゃないか」
148	春希	Haruki	「あ～、わかったわかった。 とりあえず俺が片づけておくから、 かずさは風呂行って、体洗って着替えて…」
149	かずさ	Kazusa	「どうやって…」
150	春希	Haruki	「あ…」
151			と、かずさは白…かったけど今は黄色い包帯を見せつけて、 俺を恨みがましく睨みつける。
152	かずさ	Kazusa	「だからお前は穴だらけだって言うんだ…」
153			………	.........
154	春希	Haruki	「なぁ、本当に… 本当に、いいのかよ？」
155	かずさ	Kazusa	「何を言ってるんだ今さら。 いいも悪いも、これしか選択肢がないだろ」
156	春希	Haruki	「絶対に少しは目に入るぞ？ 隠しきれるもんじゃないぞ？」
157	かずさ	Kazusa	「別に、隠すつもりなんかない」
158	春希	Haruki	「逆に困るよ、俺…」
159	かずさ	Kazusa	「そんなに見たくないのか…？」
160	春希	Haruki	「そうじゃないから困るって言ってんのに」
161	かずさ	Kazusa	「五年前、とっくに全部見られてる。 今さらだ」
162	春希	Haruki	「………」	"........."
163	かずさ	Kazusa	「早くしろ。 風呂までカレー臭くなるだろ」
164	春希	Haruki	「じゃ、じゃあ…やるぞ？」
165	かずさ	Kazusa	「ああ」
166	春希	Haruki	「………やっちゃうぞ？」
167	かずさ	Kazusa	「しつこい」
168	春希	Haruki	「っ…」
169			自分が使うときの３倍くらいのシャンプーを手にとって、 ちょっとスパイシーな、目の前の長い黒髪にすり込んでいく。
170			そんな、美容師みたいな真似をするには、 もちろん目を閉じたり逸らしたりなんかできず、 要するに、かずさの白い背中が俺の眼前に…
171	かずさ	Kazusa	「もうちょっと、強くやってもいい。 いつも、そんなに気を使ってる訳じゃないし」
172	春希	Haruki	「わかった…」
173			浴室の中に、エコーのかかった俺たちの声と、 ひたすら指で髪をこする音が広がっていく。
174			それは多分、 俺たちのどちらかを知ってる人なら、 卒倒ものの光景に違いない。
175			かずさが身につけているのは両手の包帯だけ。
176			…しかも両手が塞がれてるって理由で、 下着以外は全部俺が脱がせてた。
177			脱衣所で、必死に目を逸らしたり閉じたりする俺を、 かずさは笑ったりせず、 けれど最後まで、俺の手を患わせることにこだわった。
178	かずさ	Kazusa	「ある意味、怪我の功名かもな」
179	春希	Haruki	「そうか？」
180	かずさ	Kazusa	「二日も風呂に入ってなかったから、 髪も肌もベタついてたし」
181	春希	Haruki	「肌…って」
182			もしかして、そっちも洗うことになるのか、俺？
183	かずさ	Kazusa	「こんな汚いあたし、 お前に見られたくなかったんだ。 …ちょうど良かった」
184	春希	Haruki	「あのなぁ」
185			だから、ずっと顔を合わせようとしなかったのかよ？
186			綺麗なら全部見られてもいいってのかよ。 洗わせることすら許すっていうのかよ。
187			自らの肌をさらけ出す恥よりも、 自分の肌の汚れを知られる恥の方が 大事なのかよ…？
188			それって、お前、俺のこと…
189	かずさ	Kazusa	「気持ち、いい…」
190	春希	Haruki	「っ！？」
191	かずさ	Kazusa	「頭が、だよ。 何ビビってんだよ」
192	春希	Haruki	「…ごめん」
193	かずさ	Kazusa	「この臆病者。 …ううん、ただあたしを嫌悪してるだけか」
194	春希	Haruki	「ふざけたこと…言ってんなよ」
195	かずさ	Kazusa	「ん…そのくらい強いのがいい。 もっとゴシゴシやってくれ」
196	春希	Haruki	「っ…」
197			かずさの髪が、指を黒く覆い尽くし、 俺を縛っていくみたいに絡みつく。
198			考えすぎだってわかってる。 飛躍しすぎだって理解してる。
199			そして、俺の心の奥底の願望だって可能性は、否定できない…
200	かずさ	Kazusa	「な、春希」
201	春希	Haruki	「…なんだよ」
202	かずさ	Kazusa	「あたしが昨夜言ったこと、忘れてくれ」
203	春希	Haruki	「………」	"........."
204			昨夜…
205	かずさ	Kazusa	『今だけでいいんだ… 今だけ、あたしを愛してくれればいい』
206	かずさ	Kazusa	『あたしを抱きしめて。 求めて。 甘い言葉をささやいて…』
207			忘れるには、色々ありすぎて、 しかも強烈すぎて…
208	かずさ	Kazusa	「あれは、全部デタラメだ。 熱に浮かされてたんだ」
209	春希	Haruki	「わかってるよ、そんなこと…」
210			一生レベルで忘れられないかもしれない言葉たちを、 たった二日で忘れろなんて苦行に押し潰されそうになる。
211	かずさ	Kazusa	「わかってる、だって？」
212			そんな苦悩の末にしてしまった生返事を…
213	かずさ	Kazusa	「わかってない…お前、全然わかってないよ」
214	春希	Haruki	「…ぇ？」
215			かずさは、聞き逃すはずなんかなかった。
216	かずさ	Kazusa	「熱に浮かされてる時に、嘘なんか言うわけないだろ… デタラメなんか作れるわけないだろ…」
217	春希	Haruki	「かず、さ…」
218			俺の言葉を、一挙手一投足を、 ずっと心に刻みつけてる馬鹿だから。
219	かずさ	Kazusa	「あたしの強がりを、適当に流すな。 額面通りに受け取るな。 …泣きそうになるじゃないかよ」
220	春希	Haruki	「ごめん…」
221			ぼそぼそと、そんな冷たい愚痴をこぼしながら、 かずさの声は、もう涙混じりになっていた。
222			目の前の、白い肩が震えてた。 けれど、そこに手をかけることは許されなかった。
223	かずさ	Kazusa	「ウザいだろ？　あたし」
224	春希	Haruki	「そんなわけ、ないって」
225	かずさ	Kazusa	「ふられたのに、捨てられたのに、 こんなに依存して、あたしって痛いだろ？ 死んじまえってレベルだろ？」
226	春希	Haruki	「ウザいのも痛いのも俺の専売特許だろ？ お前ごときが俺を超えるなんて十年早いんだよ」
227	かずさ	Kazusa	「そんな中途半端な年数言うな。 十年くらい、全然大したことないじゃないか」
228	春希	Haruki	「………百年、早いんだよ」
229			そうだった…
230			俺たちの間の五年なんて、ないも同然だった… 十年なら、平気で乗り越えてしまうかもしれない。
231			………	.........
232	春希	Haruki	「ほら、これでも食ってろ」
233	かずさ	Kazusa	「あ…」
234			髪を洗った後、今まで以上の勇気と我慢を振り絞り、 かずさの身体を洗った。
235			スポンジ越しに伝わる滑らかな曲線や急な凹凸に 散々意識を振り回されつつも、目と意識を閉じ、 全て『何事もなく』終わらせることができた。
236	春希	Haruki	「時間と具がなかったから塩むすびだけど、 文句…は言うに決まってるか。でも我慢しろ」
237	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
238			風呂から上がったら、今度は部屋の惨状と、 その根本の原因を解決するための行動を起こす。
239			具体的には、かずさの夜食と、床の掃除…
240	春希	Haruki	「ちょっとバタバタするけどそれも我慢しろ。 いつまでもカレーまみれの部屋にいたくないだろ？」
241	かずさ	Kazusa	「春希、は… 腹、空いてないのか？」
242	春希	Haruki	「あ、なるべくなら２個くらい残しといてくれ。 掃除が終わったら食べるから」
243	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
244			割れた皿の欠片を拾い、 キッチンタオルでカレーを拭き取ると、 後は洗剤を入れた水で雑巾を絞り、拭き掃除。
245			換気扇を回して、窓を少し開けると、 部屋の中に冬の寒気が訪れるけど、 これも今しばらくは我慢してもらうしかない。
246	春希	Haruki	「お前さ… 腹減ったんなら俺を呼べよ」
247	かずさ	Kazusa	「温めるだけだから大丈夫だと思ったんだよ」
248	春希	Haruki	「そりゃ、両手を怪我してなかったらな」
249			皿もカレーも、みるみる拾われ拭き取られ、 綺麗な床がだんだんとその姿を現わしていく。
250	春希	Haruki	「普段でさえ役立たずなのに、 今のお前は赤ん坊といい勝負なんだから、 それくらい、ちゃんと自覚しといてくれよな」
251	かずさ	Kazusa	「酷いこと言うんだな…」
252	春希	Haruki	「夜中に叩き起こす所なんか０歳児まんまだろ」
253	かずさ	Kazusa	「別に、わざとじゃ…」
254	春希	Haruki	「グダグダ言ってないで早く食えよ。 腹、減ってたんだろ？」
255	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
256			最後にもう一度キッチンペーパーで[R乾拭^からぶ]きしたら、 部屋中に消臭剤を撒いて、 とりあえず応急処置を終わらせよう。
257			本当は、仕上げに掃除機もかけたいけど、 今は真夜中なので、それだけは明日に回すしかない。
258	春希	Haruki	「…なんだよ？ やっぱりおかずがないと食べられないって言うのか？」
259			と、[R乾拭^からぶ]きしながらかずさの方を見ると、 皿のお握りはまだ一つも減ってはいなかった。
260	春希	Haruki	「包帯取り替えたいから、 早く済ませて欲しいんだけどな…」
261			なんて、ちょっと愚痴っぽい俺の声を無視するように、 かずさはお馴染みの反応を返した。 要するに、そっぽを向いていた。
262	春希	Haruki	「赤ん坊並だなんて言って悪かった。 …って、謝ればいいのか？」
263	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
264			また拗ねたか。 本当に、めんどくさい奴。
265	春希	Haruki	「カレーひっくり返すくらい腹減ってたんだろ。 早く食ってぐっすり寝ろよ」
266	かずさ	Kazusa	「わざとひっくり返した訳じゃない。 それに、食べたくない訳でもない」
267	春希	Haruki	「じゃあ、何…」
268	かずさ	Kazusa	「こ…この手じゃ食べられない」
269	春希	Haruki	「左手ならなんとかなるだろ。 そっちは手首にしか包帯巻いてないし」
270	かずさ	Kazusa	「っ！」
271	春希	Haruki	「ととっ…？」
272			何故かここで逆鱗に触れたらしい…
273	かずさ	Kazusa	「お前…何言ってるんだ」
274	春希	Haruki	「何って…なに？」
275	かずさ	Kazusa	「両手使うなってしつこく命令したの春希じゃないか。 あたしはその言いつけをきっちり守ってるだけだ」
276	春希	Haruki	「けど、お握りくらい軽いものなら…」
277	かずさ	Kazusa	「とにかくあたしはやらない。 手だけは無茶する訳にはいかない」
278	春希	Haruki	「その考え方を昨夜にも発揮してくれたら、 俺はこうして気を使わなくて…っ！？」
279	かずさ	Kazusa	「………っ」
280			そしてここでますます逆鱗を逆撫でしたらしい。
281			…相変わらず睨んだときの目つきの悪さは 他の追随を許さない奴だ。
282	春希	Haruki	「あのなぁ… どうして今になってそんなワガママ言うんだよ？ さっきまでカレーを一人で食おうとしてた奴が」
283	かずさ	Kazusa	「さっきカレーを一人で食べようとして、 その行為を全否定されたからだ」
284			そして、理不尽な傲慢さも他の追随を許さない奴。
285			けれど大抵、そういう態度を取るときは…
286	春希	Haruki	「なんだよ？ あ～んしてくれなきゃ食べないとでも言うつもりか？」
287	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
288	春希	Haruki	「………………をい」
289			実は、怒ってる訳…ではあるけれど、 それを更に上回る感情を抱えていて…
290			だから、ここで半白眼が上目遣いになってしまう。
291	かずさ	Kazusa	「お前、さっき言ったよな？ 今のあたしは赤ん坊だって」
292	春希	Haruki	「かずさ…」
293	かずさ	Kazusa	「そのことを自覚しろって。 何かあったら俺を呼べって…」
294	春希	Haruki	「いや、だから… ちゃんとお前でも食べられるように…」
295	かずさ	Kazusa	「もういい！　寝る！ そして飢え死ぬ！」
296	春希	Haruki	「かずさ、お前いい加減に…っ」
297	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
298	春希	Haruki	「ぁ…」
299			そして、二段階目の表情へと移っていく。 …上目遣いの瞳に、何かが溜まっていく。
300	かずさ	Kazusa	「言えよ」
301	春希	Haruki	「かずさ…」
302	かずさ	Kazusa	「いい加減にしろって、言えよ。 もう面倒見切れないって、言ってくれよ」
303			そのまますぐに三段階目へと… 溜まったものが、床にぽとりと落ちていく。
304			せっかく掃除した床を、綺麗に汚していく。
305	かずさ	Kazusa	「捨てるんだよ、お前が… ハッキリ告げるんだよ、あたしに」
306	春希	Haruki	「………」	"........."
307	かずさ	Kazusa	「昨夜みたいに、さ」
308			こうなってしまったら、 もう俺に抗う術なんかなかった。
309			………	.........
310	かずさ	Kazusa	「あむ、あむ、む」
311	春希	Haruki	「お茶は…いいか？」
312	かずさ	Kazusa	「ん、んく…一口だけ」
313	春希	Haruki	「よし…」
314	かずさ	Kazusa	「ん…（ずず）」
315			右手には、かずさのかじりかけのお握り。 左手には、かずさの飲みかけのお茶。
316			…そんな両手は、もちろん俺のもの。
317	かずさ	Kazusa	「もう一個」
318	春希	Haruki	「俺も腹減ってるんだけど」
319	かずさ	Kazusa	「勝手に食べればいいだろ。 別に全部よこせなんて言ってない」
320	春希	Haruki	「それは…そうだけど」
321	かずさ	Kazusa	「もいっこ！」
322	春希	Haruki	「わかってるって…」
323	かずさ	Kazusa	「んっ…んむ…」
324			こうして両手が塞がれてたら、 自分の分を食べられない…
325			けど仕方ない。 俺がかずさの手になるしかないんだ、今は…
326	春希	Haruki	「美味いか？」
327	かずさ	Kazusa	「しょっぱい。 あたしを高血圧で殺す気か」
328	春希	Haruki	「高血圧は直接の死因にはならないぞ。 正しく非難するなら、そこから派生する病名を言うべきだ。 脳卒中とか心筋梗塞とか」
329			なんて予想通りの[R感想^イチャモン]を…
330	かずさ	Kazusa	「なんて予想通りの屁理屈だ。 お前、つまんないよ」
331	春希	Haruki	「…悪かったな」
332			本当に、色々と予想通りで、 心の底からやりきれない。
333	かずさ	Kazusa	「つまんない上に、馬鹿だ、大馬鹿だ。 捨てた犬に、まだ餌をやり続けるなんて…」
334	春希	Haruki	「かずさ…」
335	かずさ	Kazusa	「そんなことされたら、 余計懐くに決まってるじゃないか。 なに考えてるんだよお前…っ」
336			しょっぱいのは、 最初に入れた塩のせいだけなんだろうか…？
337	春希	Haruki	「でも、お前が食べられないって…」
338	かずさ	Kazusa	「犬が口を開けるのは仕方ないことだろ。 飼い主が…しつけなきゃ駄目だろ」
339	春希	Haruki	「無茶言うなよ…」
340			俺はお前を飼ったことなんかない。 手に入れたことなんか、一度たりともないんだ。
341			…そんな本心を言ったところで、 きっと、かずさのもっと強い本心に塗り固められてしまう。
342	かずさ	Kazusa	「もっと…」
343	春希	Haruki	「ほら」
344	かずさ	Kazusa	「んぅっ…む…むぐ」
345			だから今は、こうして穏やかな時間で誤魔化すしかない。
346			結論を出さず、心を決めず、 好きなままで、そして愛せないままで…
347	春希	Haruki	「ん…」
348	かずさ	Kazusa	「ぁ…」
349	春希	Haruki	「むぐ…んぐ…」
350	かずさ	Kazusa	「春希…」
351	春希	Haruki	「もう一個、行くか？」
352	かずさ	Kazusa	「………ぅん」
353			だから今は、かずさに促されるまま、 最後のお握りに手をかける。
354			…今、俺の口に消えていったのと同じように、 二人で分けあって食べるために。
355			『久しぶり』
356			って、書き出した割には、 それほど日は開いてないはずだった。
357			けれどこうして雪菜に話しかけるのは、 なんだか随分久々な気がしたから。
358			『ごめん、事態は今のところ最悪』
359			『コンサートに間に合わなかった』
360			『かずさには、昨夜やっと会えたけど、 もちろん、許してはくれなかった』
361			『かずさと、喧嘩した。 そのせいで、かずさが手に怪我をした』
362			『怪我自体は大したことなくて、 追加公演には間に合いそうだけど、 当分の間、身の回りのことが何もできなくなった』
363			『だから今は、俺がかずさの側にいる。 身の回りの世話をしてる』
364			『俺のせいで怪我をしたんだし、 今、一緒に仕事をしてることもあるし、 これは俺の義務で、責任だと思ってる』
365	春希	Haruki	「………何言ってんだ、俺」
366			…自分で書いてて 自分の逃げ腰に呆れてくる。
367			途中の経緯を省き過ぎてる。 しかも、雪菜に話したくないことだけを選んで。
368			雪菜は、俺の言い訳なんか 全部看破してるに決まってるのに。
369			『今まで心配かけてごめん。 そして、これからも心配かけると思うけどごめん』
370			かずさが、許してくれなかっただけじゃなく、 諦めてもくれなかったことも。
371			『でも今は、かずさを安心させることが、 ちゃんと話をすることが最優先だから』
372			時間は何も解決してくれなかったことも。 全て雪菜の予想通りになったことも。
373			『そう、雪菜と約束したから』
374			そして、俺が苦しんでるだけじゃないことも。 …心地良さを感じてしまっていることも。
375			『また明日メールする。 おやすみ』
376	春希	Haruki	「………」	"........."
377			返信には期待しない。 だって雪菜の言葉通りなら、絶対に送ってこないから。
378			怒ってないわけがない。 裏切られたって思ってない、わけがない。
379			けれどこれ以上の裏切りだけは… 俺の心が揺れているのを隠すことだけは、できない。
380			自分の気持ちを正直に言うことはできないけれど、 何も言わずにおくことだけはしたくない。
381			雪菜に、見破って欲しいから。 俺を、疑って欲しいから。
382			雪菜に、会いたいから。
383	春希	Haruki	「おやすみ…」
384			おやすみ、雪菜。 そして…おやすみ、かずさ。
385			今から眠っても、一時間程度しか休めないけれど、 それでも眠ろう。
386			だって、今なら眠れそうだから。 かずさと触れ合ったことで、安らいでしまったから。

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