White Album 2/Script/3018

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1	春希	Haruki	「そこをなんとか… 連絡だけでも取れないでしょうか？」
2	美代子	Miyoko	「いえ、ですから、 何度聞かれても知らないことは答えようが…」
3			コンサートからもうすぐ一週間…
4			あれ以来、関係筋のどこに探りを入れても、 冬馬曜子の所在を教えてくれる人はいなかった。 …本人が経営する会社ですら。
5	春希	Haruki	「決してご迷惑はおかけしません。 開桜社の北原と告げていただければ、 社長さんも納得いただけるはずです」
6	美代子	Miyoko	「あのですね北原さん… 私もこうして何度もお話させていただいているので、 あなたが信頼のおける方だというのはわかっています」
7	春希	Haruki	「あ、ありがとうございます」
8	美代子	Miyoko	「ですが現在、弊社としても 冬馬と連絡が取れない状態でして、 実際困ってるんです。お恥ずかしい話ですが…」
9	春希	Haruki	「そうなんですか…」
10			事務員さんの言いようは、 普通なら会社存続の危機とも取れる内容ながら、 社長が社長だけに緊張感が伝わってこなかった。
11			だからこそ、その答えが事実なのか、 それとも組織的関与なのか わかりづらくなっているのも事実で。
12	美代子	Miyoko	「ええ、大変申し訳ありませんが、 そういうことですので…」
13			まったく、どこにいるんだ曜子さんは…
14			自分の愛娘が今、どんな状態で、 どれだけ親の助けを求めているか、 わかってるんだろうか。
15			それとも、俺に任せてしまえば安心だなんて、 未だにそんな呑気な認識でいるんだろうか。
16			状況は、こんなにも激しく変わってしまったって言うのに…
17	春希	Haruki	「わかりました…残念です」
18	美代子	Miyoko	「お力になれず…」
19	春希	Haruki	「いえ、仕方ないです。 …かずささんから是非会いたいと 言付かってたんですが、やっぱり無理ですか」
20			本当に残念だ。 …非常手段に訴えなければならないなんて。
21	美代子	Miyoko	「………ちょっと待ってください」
22	春希	Haruki	「それでは失礼します。 もしも社長さんに連絡取れましたら北原の方に…」
23	美代子	Miyoko	「だからちょっと！ あ、切っちゃ駄目！ …ではなくお待ちください」
24	春希	Haruki	「…ですがこれ以上お手数をお掛けするのも」
25	美代子	Miyoko	「あ、いえ、今度はこちらから質問なんですが…」
26	春希	Haruki	「あ、アンサンブルの記事チェックの件でしょうか？ それでしたら週明けには…」
27	美代子	Miyoko	「…弊社の冬馬かずさと連絡を取ったんですか？ いつ？」
28	春希	Haruki	「え、あ、直接コンタクトを取るのは 問題ありましたでしょうか？ ですが最初の顔合わせの時には…」
29	美代子	Miyoko	「いえいえいえ！　そういう話じゃなくて！ …彼女の居場所、知ってるんですか？」
30	春希	Haruki	「あれぇ？　おかしいなぁ… つい先ほど滞在先に伺ってきたばかりなんですが」
31	美代子	Miyoko	「っ、ど、どこです滞在先って！ 彼女は無事なんでしょうか！？ け、怪我の具合は？」
32	春希	Haruki	「…どうしてそちらで把握してないんです？ 連絡行ってるんじゃないんですか？」
33	美代子	Miyoko	「そ、それは…」
34	春希	Haruki	「それは？」
35	美代子	Miyoko	「………」	"........."
36	春希	Haruki	「………」	"........."
37			冬馬曜子に関しては、 あっさりと行方不明と認めておきながら、 [R本当の不明者^とうまかずさ]に関してはこの反応。
38	美代子	Miyoko	「あのですね北原さん。 実は私困ってるんですよ」
39	春希	Haruki	「ええ、私も困ってます」
40	美代子	Miyoko	「………」	"........."
41	春希	Haruki	「………」	"........."
42			それはつまり、 その、[R認識の軽すぎる不明者^とうまようこ]の方は…
43	美代子	Miyoko	「…そちらに社長からの連絡が行けば、 こちらに冬馬かずさから連絡が入るということで よろしいでしょうか？」
44	春希	Haruki	「…機転の利いた対応感謝いたします」
45			まるで誘拐犯みたいだな、俺…
46			………	.........
47	春希	Haruki	「…ふぅ」
48	鈴木	Suzuki	「北原君聞いたよ！ アンサンブルの増刊作ることになったんだって！？」
49			と、本業とは関係あるようなないような大仕事を終え 一息ついた俺を、[R野次馬^すずきさん]が待ち構えていた。
50	春希	Haruki	「作るのは編プロですよ。 俺はお手伝いみたいなもので」
51	鈴木	Suzuki	「え～、わたしの聞いた話じゃ ほとんど一人で作ってるってことだったけど。 記事書いて写真撮って編集して印刷して営業して…」
52	春希	Haruki	「どこの同人誌ですか…」
53			とは言え、その半分以上を 本当に担当してるという事実は ちょっとどうかと思わないでもない。
54			大手出版社にはあり得ない業務範囲というか、 さすが中小企業というか…
55	春希	Haruki	「単に作業量が多いだけですよ。 基本的には編プロの人たちにフォローしてもらうし、 編集長も全面監修してくれるって…」
56	鈴木	Suzuki	「それでもアレだよそれ」
57	春希	Haruki	「どれですか…」
58	鈴木	Suzuki	「入社一年目にして 編集後記の一番最初に名前が出るんだよ！？」
59	春希	Haruki	「誰もそんなところ注目しませんって…」
60	鈴木	Suzuki	「何言ってるの！　松っちゃん大ショックだよ？ 彼もう三年目なのに 三番手から上に上がったことないんだよ？」
61	松岡	Matsuoka	「鈴木さんも二番手から 上がったことありませんよねぇ！？」
62	春希	Haruki	「というか本人の目の前で煽らないでください…」
63	鈴木	Suzuki	「え～だって本人の目の前でないと 陰口になっちゃうじゃん。 わたしそういう陰湿なの嫌だなぁ」
64	松岡	Matsuoka	「だからって面と向かって苛められても ちっとも嬉しくないんですけど…」
65			そんなこんなで、 元々、アンサンブル本誌の単なる一記事として 掲載されるはずだった『冬馬かずさ特集』は…
66			いつの間にか、１００ページを超える特別増刊号にまで その規模を拡大していた。
67			編プロと共同とは言え、雑誌まるごと一冊。 しかも俺が直接編集に[R携^たずさ]わるという、 記念すべき初の大仕事。
68			締め切り２末、発売は３初。 冬馬かずさの日本公演の熱気が冷めやらぬうちの、 ギリギリのタイミング。
69	かずさ	Kazusa	「あたしのお陰だな」
70	春希	Haruki	「…まぁ、それは否定しない」
71			そして今、その表紙を飾るはずの主役が、 俺の目の前で軽く悪態をついている。
72			さっきまで、風呂場で俺に髪と身体を洗わせて、 作り直したカレーに『やっぱまずい』とケチつけて、 今は、両手の包帯を替えさせている。
73	かずさ	Kazusa	「お前が初めて作る本が、 よりにもよってあたしの特集号なんてな」
74	春希	Haruki	「冬馬かずさと同級生だったからって以外に 俺が任される理由がないからな」
75			左手の捻挫はだいぶ腫れが引いたから、 そっちはもうサポーターだけにして、 今は右手の傷を消毒してる。
76	春希	Haruki	「バイトから正社員になれたのだって、 お前が国際コンクールで準優勝したときの記事が 認められたから…」
77	かずさ	Kazusa	「いちっ！」
78	春希	Haruki	「こら、動くな」
79	かずさ	Kazusa	「そっちこそ、もっと優しくしろ。 お前のやり方、いちいち染みるんだよ」
80	春希	Haruki	「我慢しろ、自業自得だろ」
81			何もかも俺に依存してるくせに、 文句だけはいっぱしどころの騒ぎじゃない。
82			ワガママなかずさが帰ってきた。 自分勝手なかずさが戻ってきた。 …生気が、蘇ってきた。
83	かずさ	Kazusa	「酷い言い草だな。 大恩人に対して」
84	春希	Haruki	「…そこまで言うか？」
85	かずさ	Kazusa	「さっきまでの話を聞いてたら、 編集者としてのお前はどう考えても あたしに育てられたみたいなもんじゃないか」
86	春希	Haruki	「違うね、そんなのはきっかけだ」
87	かずさ	Kazusa	「じゃあお前は、自分が出版社に就職できたのも、 いっぱしの編集者気取りができるのも、 全部自分の実力だって言うつもりか？」
88	春希	Haruki	「それも違うな… 俺を引っ張り上げてくれた、ある人のおかげだよ」
89	かずさ	Kazusa	「ある人？」
90			そんな、元に戻りつつあるかずさが嬉しくて、 俺もいつも通り、全ての文句にいちいち反論する。
91	春希	Haruki	「バイトの頃、俺の面倒を見てくれた先輩がいてさ、 その人がお前の記事を任せてくれて、 俺を編集部に推薦までしてくれた」
92	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
93			ついでに、ついつい自分語りを始めてしまう。
94	春希	Haruki	「まだ若いのにものすごく有能で、しかも厳しくて…」
95			…そういえばこれは、 昔からかずさには特にウザがられてた癖だったっけ。
96	春希	Haruki	「ついでに、カッコよくて颯爽としてて、 …しかも、ものすごい美人だった」
97	かずさ	Kazusa	「っ… お、女…なのか？」
98	春希	Haruki	「今はアメリカの子会社に赴任してるけどさ、 いずれは編集長になって戻ってくるってもっぱらの噂で」
99			確か、特に機嫌が悪くなるのは、俺が…
100	かずさ	Kazusa	「………好きだったのか？」
101	春希	Haruki	「お前なぁ…見境なく嫉妬するなよ」
102	かずさ	Kazusa	「っ…悪いかよ」
103	春希	Haruki	「冗談だったのに…」
104	かずさ	Kazusa	「冗談で…済むか」
105			今から考えれば、そういうことだったのかもしれない…
106			俺の自分語りを聞いてる時、 かずさが特に機嫌が悪くなる瞬間があった。
107	かずさ	Kazusa	「お前の口から、あたしの知らない女の話聞かされて、 冷静でいられるわけなんかないだろ…」
108	春希	Haruki	「………」	"........."
109	春希	Haruki	『とにかく、一度でいいから、 彼女が歌ってるところ見て欲しいんだ。 …絶対、認識が変わるから』
110			それは、俺が雪菜の話を… あの頃は知らなかった女性の話を、 ついつい口に上らせた時。
111	春希	Haruki	「そういえば… 喋り方とか身のこなしとか、 ちょっとお前に似てたかな？」
112	かずさ	Kazusa	「…あたしの面影を重ねたりしたか？」
113			て、もしかしてこいつ…
114	かずさ	Kazusa	「あたしに似てたから、憧れたのか？」
115			俺を意識しだしたの、結構早かった…のかな。
116	春希	Haruki	「確かに憧れてたけど、 別にお前に似てたからって訳じゃなかったよ…」
117	かずさ	Kazusa	「…ざけるな」
118	春希	Haruki	「っ…力入れるな。 傷が開いたらどうすんだ」
119	かずさ	Kazusa	「…るさい」
120			と、久々に包帯から解き放たれた手のひらで、 俺の手に、ぎゅっと爪を立てる。
121	春希	Haruki	「離せよ…包帯巻けないだろ？」
122	かずさ	Kazusa	「知るか」
123			爪だけじゃなく、その指先もまるで石のように硬くて、 この部分だけは女性らしさとまるで無縁だったけど…
124			でも、だからこそ尊くて、 その指先が俺の手の甲に食い込むに任せるしかなかった。
125	春希	Haruki	「化膿するぞ？ 腐りきって、手首からぽとっと落ちるぞ？」
126	かずさ	Kazusa	「別に、そうなったらなった時だ」
127			どれだけ冗談を言っても、 もう今のかずさは、真剣に返すことしかできない。
128			クリスマスに再会したときと、ほぼ同じ状況なのに、 今のかずさは、あの時とは別人になってる。
129			…もしかしたら、本当の冬馬かずさになってる。
130	春希	Haruki	「商売道具失ってどうやって生きてくつもりだ？」
131	かずさ	Kazusa	「お前には関係ないだろ」
132	春希	Haruki	「はぁ… 本当に、こんな馬鹿とは思いもしなかった」
133			だから俺も、センスのない、 カッコ悪い受け答えに終始するしかない。
134	かずさ	Kazusa	「馬鹿、だと思うか？」
135	春希	Haruki	「当たり前だろ。 お前のこの両手は、もうお前だけのものじゃ…」
136	かずさ	Kazusa	「あたしにとっては、 両手よりも大事なものがあるって言ったら？」
137	春希	Haruki	「………」	"........."
138			そんな中途半端な態度だから、 ど真ん中の剛速球を受け止めることなんかできない。
139			ただ、一瞬心臓を止め、息を詰まらせるだけ。
140	かずさ	Kazusa	「本当に気づいてくれてなかったのか…？ あたし、全然隠せてないと思ってたんだけどな」
141	春希	Haruki	「思い込みだよ…記憶を美化しすぎてんだよ。 五年ぶりに会ったせいで、 勘違いで盛り上がってるだけだ、お互い」
142	かずさ	Kazusa	「お前も………盛り上がってるのか？」
143			なりふり構わない全力投球をしておきながら、 小さな言葉尻を捉える鋭さを見せたりとか…
144	春希	Haruki	「すぐ忘れるって。 少し時間が経って落ち着いたら、 俺程度の男のことなんか…」
145	かずさ	Kazusa	「五年忘れられなかった奴のことを、 数日間でどうやって忘れるって言うんだ？」
146	春希	Haruki	「かずさぁ…」
147	かずさ	Kazusa	「何度も言ってるだろ… そんなに忘れて欲しいのなら、 お前から行動すればいいんだ」
148			もう、疑う余地もない。
149			今のかずさが、完璧に“女”だってことに。
150	かずさ	Kazusa	「お前があたしに大嫌いだって言ってくれたら」
151	春希	Haruki	「やめろ」
152	かずさ	Kazusa	「二度と顔も見たくないって、 けらけら笑いながら見下してくれたら…」
153	春希	Haruki	「やめろ、やめろよ…っ」
154	かずさ	Kazusa	「そしたらさ… もしかして、忘れられるかもしれないけどな」
155	春希	Haruki	「いい加減にしてくれ。 そんなの、想像するのも嫌だ…」
156			どれだけ言葉で逃げても、 触れあった手を、離すことができない。
157	かずさ	Kazusa	「春希…お前は酷い男だ。 雪菜にも、あたしにも酷い男だよ」
158			いつの間にか、かずさの指が俺の指に絡まってても、 気づかないふりしかできない。
159	かずさ	Kazusa	「そういうの、優しいなんて言わないんだぞ。 ただの男のワガママでしかないんだぞ」
160	春希	Haruki	「わかってる、わかってるよ…」
161			絡まってきた指を握り返すことすらできない。
162			もう片方の手まで重ねられても。 その上に額を乗せられても。
163	かずさ	Kazusa	「ええかっこしいで、何もかも手に入れたがって、 自分をいい人間だと思わせたいだけの、 上辺だけの、最低の人間だぞ」
164	春希	Haruki	「俺が最低なのは、最初からわかってる。 …だから、嫌われても仕方ない」
165	かずさ	Kazusa	「そうやって相手の心変わりに期待するところが 最低だって言ってるんだ」
166	春希	Haruki	「っ…」
167	かずさ	Kazusa	「お前は最低だ、春希。 ………だから、意地でも嫌ってなんかやるものか」
168			唇の、温かく柔らかい感触を、 手の甲に感じ取ってしまっても…
169			『おやすみ』
170			『かずさは、少し落ち着いてきた』
171			『食事も摂るようになったし、 手の治療も受け入れてくれるようになった』
172			『まぁ、相変わらずちゃんと話はできてないけど。 それにはもう少し時間がかかりそう』
173			『今のかずさは、少し心が弱ってる』
174			『この前のコンサートのこととか、ホームシックとか、 まぁ、その他色々あって、感情を抑えられてない』
175			『だから、今はまだ、はっきり告げられない』
176			『決断できなくてごめん。 何度も何日も、辛い思いをさせてごめんな』
177			『それじゃあ、また明日』
178			『追伸』
179			『新しいプロジェクトが決まった。 雑誌を一冊、任せてもらえることになった』
180			『と言っても、想像つくと思うけど。 もしかしたら、あまりいい気はしないかもしれないけど』
181			『隔月刊アンサンブル特別増刊。 つまり、冬馬かずさ特集号』
182			『分不相応だとは思う。 多分、誰かの意向が働いてて、 実力で勝ち取った仕事じゃないとも思う』
183			『それでも、チャンスだから、 頑張ってみたいって思ってる』
184			………	.........
185	春希	Haruki	「っ…」
186	春希	Haruki	「はい、北原です！」
187	春希	Haruki	「はい、はい…いえ、とんでもない」
188	春希	Haruki	「ご無沙汰してます…曜子さん」
189			……	......
190			…	...
191	かずさ	Kazusa	「美代子さん、怒ってるだろうなぁ…」
192	春希	Haruki	「そりゃ…当たり前だろ」
193			翌朝。
194			俺が勝手に事務所と連絡を取ったことを話したら、 予想通り、かずさは散々文句を言った。
195			挙句、そろそろ事務所に顔を出せという俺の言葉に 散々ごねてみせて、俺の出勤を一時間遅らせた。
196	かずさ	Kazusa	「なぁ、なんて言い訳すればいいと思う？」
197	春希	Haruki	「まぁ、正直に話すしかないだろうな。 誠意を見せれば向こうだって」
198	かずさ	Kazusa	「…男に捨てられたショックで 何も手につかなかったって？」
199	春希	Haruki	「………おい」
200			…というか、今もまだリアルタイムで遅刻中だけど。
201	かずさ	Kazusa	「お前が正直に話せって言うからだ。 それがあたしの真実なんだから」
202	春希	Haruki	「…そこまでぶっちゃける必要ないだろ。 だいたいお前、最初は熱出してたんだから、 素直に病気で寝込んでたって言えば…」
203	かずさ	Kazusa	「熱出したのも怪我したのも寝込んだのも、 全部、お前がコンサートに来なかったから…」
204	春希	Haruki	「あ～わかったわかった。 俺が全部悪うございました！」
205	かずさ	Kazusa	「あ、痛っ！ こら、ちゃんとまっすぐ通せよ。 お前、へったくそだなぁ…」
206	春希	Haruki	「スタイリストと比べられても困る」
207			かずさの長く艶やかな髪が、 俺のかけるブラシをすり抜けていく。
208			一房手に取るだけで陽の光を複雑に反射して、 手のひらをさらさらと水のように流れていく、 まるで癖がないという癖の強い芸術品。
209			天才ピアニスト冬馬曜子の最高傑作は何かと聞かれたら、 俺なら、この髪とその持ち主だと断言するくらい…
210	かずさ	Kazusa	「大体、顔出したって何も話すことなんかない」
211	春希	Haruki	「追加公演、どうすんだよ？」
212	かずさ	Kazusa	「どうしようかなぁ… 何しろ今は、弾けるイメージが全く浮かばないからなぁ」
213	春希	Haruki	「プロの自覚あるのかよ、お前…」
214			そんな台詞をファンが聞いたらどう思うんだ…
215			実力とやる気がまるで比例しない気まぐれな天才。
216			こんないい加減な奴のピアノに魅了された人間は 心の底から気の毒としか言いようがない。 …俺も含めて。
217	かずさ	Kazusa	「…去年のクリスマスまでは、あったよ。 あたしにはもうピアノしかないって、 そう自分に言い聞かせてた」
218	春希	Haruki	「………」	"........."
219	かずさ	Kazusa	「だから、こうしてピアノで金取れるようになったんだ。 毎日十時間、全然サボってなかった。 歯を食いしばって頑張ってたんだよ」
220	春希	Haruki	「…ごめん」
221	かずさ	Kazusa	「そこじゃない。 お前が謝るのはこの次の台詞の後だ。 …春希のせいで、全部吹き飛んだ」
222	春希	Haruki	「っ…」
223			つまり今のこいつは、 新進気鋭のピアニスト冬馬かずさじゃないって…
224			峰城大付属三年Ａ組の… 遅刻も居眠りも当たり前で、世間に反抗してばかりの、 そんな、五年前ですら時代遅れだった不良娘。
225			俺が見破れなかった、単なる俺の憧れだと思ってた。
226			…俺のこと、こんなに拘ってるなんて知らなかった、 あの時の。
227	かずさ	Kazusa	「今のあたしには、もう日本で弾く理由がない。 今さら追加公演なんて言われても、ピンと来ないよ」
228	春希	Haruki	「なんでそんなこと言うんだよ。 本心じゃないくせに、無理に投げやりになるなよ」
229	かずさ	Kazusa	「春希には関係ないだろ。 …あたしのことなんか、何も関係ないだろ」
230	春希	Haruki	「何度言わせるんだ… ピアノと俺を天秤にかけるな。 あまりにも釣り合わな過ぎだろ」
231	かずさ	Kazusa	「お前こそ何度言わせるんだ… それを判断するのはあたしだ、お前じゃない」
232	春希	Haruki	「かずさ…」
233	かずさ	Kazusa	「お前の価値をお前ごときが決めていい訳ないだろ。 あたしを受け入れられないんなら黙ってろ」
234	春希	Haruki	「視野、狭すぎるだろ。 世界、小さすぎるだろ」
235	かずさ	Kazusa	「こんな、何にも興味を持たない人間のピアノをさ、 未だにありがたがってる人たちがいる。 …芸術って、馬鹿みたいだな」
236	春希	Haruki	「………」	"........."
237	かずさ	Kazusa	「みんな目を覚ましてくれよ… あたしなんて、こんなヘボなんだぞ？ …見に来る価値なんか、ないんだぞ？」
238			本当に、なんて幼稚な奴。
239			五年経って、ハタチを超えて、大人になって… なのになぜか、ますます駄々っ子になりやがった。
240			こんな、あまりにも幼稚な感性の持ち主が、 どうやってあの豊かな表現力を身につけたんだ？
241			………芸術って、本当に馬鹿みたいだ。
242			………	.........
243	かずさ	Kazusa	「っ…」
244	春希	Haruki	「後は…一人で行けるな？」
245	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
246			株式会社冬馬曜子オフィスは、 西御宿の駅から更に１０分ほど歩いたところにある 結構小さめな雑居ビルの３Ｆに居を構えている。
247			所属アーティストの顔ぶれと比べれば、 あまりに小規模なオフィスではあるけれど、 そもそも活動拠点が海外なので、ほぼ支障はないらしい。
248			普段は工藤さんという事務員が一人だけ詰めていて、 国内に限定した雑務を一人で切り盛りしてるらしい。
249			つまり、去年まではそこそこ暇な仕事だったらしいけれど、 ここ数か月は忙しさに目を回してるに違いなく… というか、真夜中に電話しても大抵すぐ繋がるし。
250	春希	Haruki	「かずさ…」
251	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
252			と、そのビルの前に着いた途端、 かずさの足が５分間地面に縫いつけられた。
253			…職員室に呼び出された時だって、 もうちょっと堂々としてたんだけどな、こいつ。
254	春希	Haruki	「…やっぱり、中まで付き添うか？」
255	かずさ	Kazusa	「………行くよ。 一人で、叱られてくる」
256	春希	Haruki	「そっか」
257	かずさ	Kazusa	「もしかしたらクビかもしれない。 でもって、損害賠償の裁判起こされて…」
258	春希	Haruki	「そんなわけないから。 とにかくドアを開けたらすぐに頭下げろ。 で、大きな声で謝れ」
259	かずさ	Kazusa	「う…」
260			今朝、かずさが久しぶりに携帯の電源を入れたとき、 事務所からの留守電が三桁を超えていた。
261			結局、かずさの足をここへ向けさせた決定打は その大量の留守電メッセージで…
262			ついでに今、かずさの足を重くさせているのも その大量の留守電メッセージだった。
263	かずさ	Kazusa	「なぁ、春希… もしあたしがクビになったらさ、 あたしの居場所が、どこにもなくなったらさ…」
264	春希	Haruki	「今日さ、ちょっと遅くなる」
265	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
266	春希	Haruki	「夕方から人に会う約束してるんだ。 帰り、何時になるかわからない」
267	かずさ	Kazusa	「…そうかよ」
268			と、吐き捨てるように応えたのは、 多分、帰りが遅くなることに対してじゃなくて、 俺が、かずさの問いかけを遮ったせい。
269			続く言葉を聞きたくなくて逃げたことを、 感じ取ってしまったせい。
270	春希	Haruki	「それでさ、晩飯なんだけど…」
271	かずさ	Kazusa	「雪菜だろ、どうせ」
272	春希	Haruki	「それは…」
273	かずさ	Kazusa	「週末に恋人に会うのは当たり前だろ。 なに隠そうとしてんだよ、馬鹿馬鹿しい」
274			かずさの怒りは結構深いらしく、 ふてくされるだけでなく、きっちり反撃までしてきた。
275	春希	Haruki	「…必ず日が変わる前には帰る。 ちゃんと飯作るから大人しく待っててくれ」
276	かずさ	Kazusa	「いいよ別に。泊まってきてもさ。 …なんならあたしが部屋空けようか？」
277	春希	Haruki	「ちゃんと帰るって…」
278	かずさ	Kazusa	「たまには独りの夜があってもいいよ。 …お前がいなければ、思う存分泣けるから」
279	春希	Haruki	「だ～か～ら～！ そういうこと言うなって言ってんだよ！」
280	かずさ	Kazusa	「っ…」
281			そして、俺への攻撃のはずが、 いつの間にか自分に倍のダメージが返ってくるという、 絵に描いたような自爆に見舞われる。
282			だから放っておけないってのに…
283	春希	Haruki	「必ず今日中に帰る！ 何があろうと絶対に電話する！ だから待ってろ！」
284	かずさ	Kazusa	「春希…」
285	春希	Haruki	「それじゃ、しっかり謝るんだぞ！ あと、追加公演のことは態度を保留していい。 また今晩にでもゆっくり考えよう！」
286	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
287	春希	Haruki	「じゃあな！ また夜に」
288			………	.........
289			後ずさっても、踵を返しても、 かずさの不安げな視線が俺から外れた気配はなかった。
290			本当は、一緒についていたいけれど。 心配で心配で、まだ全然目が離せないけれど。
291			それでも、今日だけは外せない。 これも、かずさのためだから。
292	かずさ	Kazusa	『雪菜だろ、どうせ』
293	かずさ	Kazusa	あの時、俺が言葉に詰まったのは、 それが図星だったからじゃなくて、実はその逆で。
294	かずさ	Kazusa	“彼女”と二人きりで会うことを 気づかれずに済んだことにほっとしていたから…
295	かずさ	Kazusa	かずさの指摘は、半分正解で、半分間違いだった。
296	かずさ	Kazusa	確かに今夜、普段通りなら、 いつもの時間にいつもの場所で、 雪菜と会うことになってる。
297	かずさ	Kazusa	けれどあの時、俺が言葉に詰まったのは、 雪菜と会うことを指摘されたからじゃなくて。
298	かずさ	Kazusa	もう一人の相手に気づかれずに済んだことに、 ほっとしていたから…
299	春希	Haruki	「おはようございます、北原です」
300			今のかずさは、もう俺一人では背負えない。 そもそも俺が背負おうとすることが間違ってる。
301			だって俺は、かずさを拒否してしまった…
302			世界で一番あいつを傷つけた、 世界で一番の罪人なんだから。
303	春希	Haruki	「あ、はい、かずさなら今事務所に入っていきました。 それで俺は、どちらに伺えばいいんですか…曜子さん？」
304			だから、今のかずさに一番必要な人を頼るしかない。
305	春希	Haruki	「…末次？　なんだ、近所まで来てるんですか。 はい、はい…」
306			ここ五年間。延べにして二十年近く。 側であいつのことを見続けて、 あいつのことを一番わかってる人。
307	春希	Haruki	「え…？ あの…もう一度言ってください」
308			今のところ、世界でただ一人、 いつまでもあいつを支えていける人を…
309	春希	Haruki	「どこ、ですって…？」
310			………	.........
311			……	......
312			…	...
313	春希	Haruki	「あ、雪菜…俺」
314	春希	Haruki	「その、今夜だけど」
315	春希	Haruki	「悪い、駄目になった。 急に夜遅くに打ち合わせが入って…」
316	春希	Haruki	「ああ、明日はそっちに顔出せると思う。 けど、今夜は」
317	春希	Haruki	「…本当にごめんな」
318	かずさ	Kazusa	「あ」
319	春希	Haruki	「よ」
320			十数時間ぶりの再会は、 俺たちのマンションから徒歩五分の、 南末次町の駅前だった。
321	かずさ	Kazusa	「なんでお前が先にいるんだ？ 今日は何時になるかわからないって…」
322	春希	Haruki	「だってもう、１０時だ」
323			多分、少し疲れたような顔をして、 軽く手を上げてみせた俺を、 かずさは少しの驚きとともに受け入れた。
324	かずさ	Kazusa	「…何時から待ってたんだ？」
325	春希	Haruki	「さっき着いたばかりだよ」
326	かずさ	Kazusa	「本当に？」
327	春希	Haruki	「嘘つく理由も、待ってる理由もないだろ」
328	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
329			なんて真っ赤な嘘は、 もし、かずさが俺の冷え切った手に触れたら、 すぐにばれてしまうだろう。
330			だって俺がこの場所に着いたのは、 たったの二時間前…
331			一度部屋まで戻り、 まだかずさが帰ってないことを確かめたら、 すぐにここまで引き返してきてしまった。
332	春希	Haruki	「じゃ、帰ろうか。 腹減っただろ？」
333	かずさ	Kazusa	「まぁな。 お前に絶対外で食べるなって命令されたから。 …きっとものすごいご馳走が待ってるんだろうな」
334	春希	Haruki	「…簡単なものでいいよな？ 空腹が最高のスパイスだよな？」
335			かずさと一緒にいられる時間を、 五分増やすためだけに。
336			………	.........
337	春希	Haruki	「それじゃ…」
338	かずさ	Kazusa	「ああ、決めた。 …て言うか、最初から決めてたんだけどな」
339	春希	Haruki	「そっか…そっかぁ」
340			かずさは、本当に俺に言われたそのままに、 事務所のドアを開けると同時に、 思いっきり頭を下げて謝ったらしかった。
341			その後、かずさの心配は外れ、俺の予想は当たり、 クビどころか、泣かれるほど心配され、 俺に対してよりも、よほど罪悪感を刺激されたとか。
342			それからも、数時間に渡って色々と話し合い、 今後のことを、自分の意志で決めていった。
343			…怪我が治ったらすぐに練習を再開し、 追加公演は予定通り開催するってことも。
344	かずさ	Kazusa	「きっと酷いことになると思う。 練習不足だし、モチベーション最悪だし」
345	春希	Haruki	「それは…」
346			かずさに言わせれば、 そして俺以外の人間が客観的に見れば、 それは事実として俺のせいで間違いないらしい。
347			だってある人が、まったく同じことを言ってた。 客観的に見られる人かは置いといて。
348	かずさ	Kazusa	「けど、それが今のあたしの本当の実力だ。 …ちゃんと、受け止めるよ」
349	春希	Haruki	「かずさ…」
350			昨日まで… いや、俺と二人きりの時は、 自分の心をだだ漏れにさせてしまっていたかずさは…
351			俺との狭い世界から外に放り出された時、 頑張って、立派に見栄を張ってみせてくれた。
352	かずさ	Kazusa	「正直、まだ気持ちは全然整理できてない」
353			こういうかずさを見てると、 ふと、頭の中によぎる思いがある。
354			…俺が側にいる方が、 実はかずさのためにならないんじゃないかって。
355	かずさ	Kazusa	「けどやっぱり今のあたしは、 周囲の人たちにあまりにも迷惑を掛けすぎてる」
356			俺のしてることなんか、単なる自己満足の極みで、 かずさは、本当はもう一人で大丈夫なんじゃないかって。
357	かずさ	Kazusa	「美代子さん、コンサート関係のスタッフ、 あたしで稼ごうとする酔狂なスポンサー、 …もっと酔狂な、あたしのピアノを聴きに来る人たち」
358			そして今、俺の心に湧き上がる寂寥感こそが、 俺がかずさを手放さない最大の、 そして唯一の理由なんじゃないかって。
359	かずさ	Kazusa	「………それから、雪菜」
360	春希	Haruki	「………」	"........."
361			俺は、間違ってるんだろうか。
362			ただいたずらにかずさを苦しめて、 自分の心の安寧だけを追求してるんだろうか。
363			けれど…
364	かずさ	Kazusa	「…母さんと春希には申し訳ないなんて思ってないぞ？ だって、おあいこだからな」
365	春希	Haruki	「曜子さんは…」
366	かずさ	Kazusa	「今だって呑気に温泉行ってるんだぞ？ 相変わらず、娘のことほったらかしでさ」
367	春希	Haruki	「………」	"........."
368			かずさが、俺の言葉を遮ったのは、 この後に続くのが彼女に対しての擁護だと 思ったかららしい。
369	かずさ	Kazusa	「ま、いいけどさ。 あの人には、倍にして返してもらう。 これからも、散々迷惑かけてやるんだ」
370			それは、ある意味当たっていたけれど、 それでも今のかずさにとって、 俺の意図を１００％汲み取ることは不可能で…
371	春希	Haruki	「なぁ、かずさ」
372	かずさ	Kazusa	「なんだよ？」
373	春希	Haruki	「お前が母親を愛してるのはわかってるけどさ、 それでも、曜子さんだけに負担をかけるのは…」
374	かずさ	Kazusa	「仕方ないだろ… 今までのあたしの世界、半分滅んだんだから」
375	春希	Haruki	「っ… だからさ、いい加減もっと視野を広げてさ」
376			そして俺も、今のかずさに 自分の意図を１００％伝えることは不可能で。
377	春希	Haruki	「曜子さんだけじゃなく、スタッフや、友達や… それにファンだって。 お前のこと好きな人たち、沢山いるんだからさ」
378			だからこんな、 かずさが鼻で笑うような一般論しか口に出せない。
379	かずさ	Kazusa	「向こうがあたしに期待するのは勝手だけどさ、 別に、あたしが期待することは何もないよ」
380	春希	Haruki	「そんな寂しいこと言わないでさ… 工藤さんなんか、いい人じゃん。 それに、柴田さん夫婦だって…」
381	かずさ	Kazusa	「…美代子さんも柴田さんも好きだけど、 コンサートが終わったら、 もう二度と会うことはないから」
382	春希	Haruki	「なら、ならさ… ウィーンにだって、 お前のことを好きでいる人は…」
383	かずさ	Kazusa	「あたしに指図するな。 …あたしを日本にいられなくした奴が」
384	春希	Haruki	「っ…」
385			鼻で笑うだけでなく、 かえってかずさを傷つけるだけの一般論しか…
386	かずさ	Kazusa	「お前なんかに何がわかる… あたしと冬馬曜子は、 あたしがこの世に生まれる前から繋がってるんだ」
387			それでもかずさは、俺の前で踏ん張った。
388	かずさ	Kazusa	「あたしの進むべき道は、冬馬曜子が示してくれる。 …子供の頃から、ずっと、そうやってきたんだ」
389			今までなら泣き声に変わっていた場面でも、 しっかりと俺の横顔を睨み、強い口調で俺を否定した。
390	かずさ	Kazusa	「確かに一時期、 お互いがお互いを見失ったこともあったけど、 それだって、相手を思った末のすれ違いだった」
391	かずさ	Kazusa	「…そう教えてくれたのは、お前だったよな？」
392	春希	Haruki	「ぁ…」
393			否定しながらも、肯定してくれた。 強がりながらも、甘えてくれた。
394			そして俺は、かずさのその態度を 嬉しく思ってはいけないのに、 胸に詰まる気持ちを止められない。
395	かずさ	Kazusa	「だからあたしは、これからもあの人と歩いてく。 …そして、いつか越えてやる」
396	かずさ	Kazusa	「だって、あたしにとって冬馬曜子は、 目標で、先生で、ライバルで…全てなんだから」
397			その台詞を初めて聞いた日のことを、まだ覚えてる。
398			学園祭を間近に控えた、冬馬家の地下スタジオ。
399			かずさは熱に浮かされて、 あの頃のこいつが絶対話すはずのない心のうちを、 俺にだけ語ってくれたんだっけ。
400	かずさ	Kazusa	「昔に、戻っただけだよ。 ただ、それだけだ」
401			そしてあれから五年…
402	かずさ	Kazusa	「だから、さ…」
403			今のかずさが心のうちを語れるのは、 やっぱり、俺しかいない。
404	かずさ	Kazusa	「今度こそ、今度こそ、今度こそ…さ。 絶対、お前の前から、消えてやるよ」
405	春希	Haruki	「かずさ…」
406			かずさは、頑張った。 今自分にできる最大のやせ我慢をしてみせた。
407			けれど、一生懸命頑張ったその先には…
408	かずさ	Kazusa	「もう、ここにいたって仕方ないんだ」
409			どうすればいいんだよ…
410	かずさ	Kazusa	「お前につけられた傷を、 お前に治療してもらったって治るわけないんだ」
411			コンサートまで『隠し通した』としても、 その後どうするんだよ…
412	かずさ	Kazusa	「それどころか、 次から次へと新しい傷ができるだけだ。 …お前に優しくされるたびに、増えていくんだ」
413			俺は…こいつを放っておけるのか？
414	かずさ	Kazusa	「だからもう、さっさと日本公演を終わらせて、 ウィーンに帰るんだ」
415			手放せるのか？ 一人にしておけるのか？
416	かずさ	Kazusa	「北原病院から退院するんだ 自宅療養で、ゆっくり時間をかけて治すんだ」
417			俺は、俺は…
418	かずさ	Kazusa	「お前みたいな悪い男に惑わされることのない、 いつも通りの、平和な生活に戻るんだ」
419	春希	Haruki	「かずさ…っ」
420	かずさ	Kazusa	「っ！？ は、春希…？」
421			こいつを…捨てられるのか？
422	春希	Haruki	「頑張れ、頑張れ… かずさ、頑張れ！」
423	かずさ	Kazusa	「や、やめ…やめてくれよ。 こんなことされると…後が辛いよ」
424	春希	Haruki	「今度こそ、リベンジだ。 お前の凄さを日本中に見せつけてやれ！」
425	かずさ	Kazusa	「キツいよこんなの…生殺しだよ。 また、傷が増えてくよ」
426	春希	Haruki	「“友達”を励まして何が悪い。 …何が、悪いって言うんだよ」
427	かずさ	Kazusa	「だってあたし、全然諦められてないんだぞ…？」
428			俺の腕が、かずさの肩を抱いている。
429	かずさ	Kazusa	「今は普段どおりに振る舞えてるけど、 一人になると、泣けて来るんだぞ…？」
430			無理やり身体を寄せられて、 俺の胸に押し付けられたかずさが、 身をよじって抵抗してる。
431			けれどその全身に込められた力は決して全力じゃなくて、 かずさの迷いと、ちょっとの喜びが伝わってきて…
432			だから俺は、そんなかずさの泣き言にも怯まず、 ますますその腕に込める力を強くする。
433	かずさ	Kazusa	「それに、それに… 誰かに見られたらどうすんだよ」
434	春希	Haruki	「別に、どうもしない」
435	かずさ	Kazusa	「雪菜に…見られたらどうすんだよ」
436	春希	Haruki	「どうもしないって言ってるだろ。 こんなの、隠す気もない」
437	かずさ	Kazusa	「春希…」
438			かずさが心配してることなんか、 今の俺にとっては完全に的外れだった。
439			だって、外だから… 誰かに見られるかもしれないからこそ、 俺はこうして、かずさに触れられる。
440			もし部屋に戻ってしまったら。 二人きりになってしまったら。
441			誰にも見とがめられないってわかってしまったら、 ここでやめられる自信なんかないんだから。
442	かずさ	Kazusa	「お前は…本当に酷い奴だ」
443	春希	Haruki	「…かもな」
444	かずさ	Kazusa	「やっぱ駄目だ…」
445			かずさの抵抗が、解ける。
446	かずさ	Kazusa	「ふられたのに。 脈はないって思い知らされたのに」
447			俺から逃れようとしていた力は反転して、 逆に、俺の胸にその身体を押し付けてくる。
448	かずさ	Kazusa	「…なのに、こうしてお前に抱きしめられると、 嬉しい気持ちを抑えられなくなる」
449			隠していた喜びを、弾けさせてしまう。
450	かずさ	Kazusa	「お前に甘えて、強がって、舞い上がって、 こんなにも痛い女になってしまう…」
451	春希	Haruki	「いいよ…今だけは」
452	かずさ	Kazusa	「あ～もうっ！ くそっ、くそっ…なんでだよ！」
453			そして、俺の許しを得た瞬間、 喜びも悲しみも、一気に外へと噴き出させる。
454	かずさ	Kazusa	「あたしは、あたしは… こんなにもお前のことが好きなのに！ なのにどうしてうまくいかないんだよ！」
455			きっと、周囲の家の人には聞こえてしまっている。
456			誰かに見られることを恐れていたかずさは、 もう今は、自分の気持ちを誰に聞かれることも厭わない。
457	かずさ	Kazusa	「そんなにあたしのことが嫌いか？ こんな痛い女はお断りなのか？　春希…」
458	春希	Haruki	「そんなこと…一言も言ってないだろ…」
459	かずさ	Kazusa	「だよなぁ… だってお前、待ってただろ？ 実はあたしのこと、駅でずっと待ってたんだろ？」
460	春希	Haruki	「待ってないよ」
461	かずさ	Kazusa	「嘘つくな。 だって春希の手、こんなにも冷たいじゃないか。 ずっと外に…駅前にいたんじゃないか」
462	春希	Haruki	「待ってないって…」
463			肩に回した俺の手に、 かずさの手が重ねられる。
464			その重ねた二人の手を、 かずさの頬が挟み込む。
465			かずさの手のひらは温かく、 けれど頬は、俺の手と同じくらい冷たくて。
466			だから俺は、もう片方の腕を必死で抑え込み、 両手でかずさを抱きしめることだけを回避する。
467			今は、何も言えない。 気づかれたらいけない。
468			俺の本当の気持ちも、 そして…曜子さんの、本当の気持ちも。
469			せめて、コンサートが終わるその日まで。 それが、彼女との約束なんだから。
470	曜子	Youko	『白血病、なんだってさ…』

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