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1 | | 「みんな飲み物行き渡りましたか~? は~い、それじゃ歓迎会始めますよ~。杉浦さん、ようこそ開桜グラフ編集部へ! かんぱ~い!」\k\n「「「かんぱ~い!」」」\k\n
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2 | | 「って、ちょっと待て松岡! なんで上司の俺を差し置いてお前が音頭取ってんだよ!?」\k\n「いや、だって浜田さんに乾杯任せたら泡が全部消えちゃうし」\k\n 御宿の繁華街、とあるビルの六階にある、とある有名居酒屋チェーン。\k\n そんな何の変哲もない、いかにも計画性のない幹事が当日になって慌てて選びそうな店のお座敷で、周囲の喧騒にも負けない元気な乾杯の音頭とともに皆のグラスが弾け、その宴は始まった。
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3 | | 「さ、小春っちも一言!」\k\n「……えっと、すいません鈴木さん。その呼ばれ方にはいい印象がないのでやめてくれませんか?」\k\n「も~、堅いこと言わないの。ほらほら、みんな注目してるよ?」\k\n と、いきなり“小春っち”と馴れ馴れしく呼ばれたその少女は、皆の注目を受けて戸惑いつつも、こほんと咳払いを一つすると、わざわざ立ち上がり……
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4 | | 「ええと……皆さん、今日は私のために、わざわざ歓迎会を開催していただき、本当にありがとうございます」\k\n そして、この無礼講の場に似合わない真剣な表情と声で、えらく堅苦しい挨拶を始めた。\k\n「今はまだ、何の役にも立たない新人アルバイトですけれど、一日でも早く仕事を覚えて皆さんのお役に立ちたいと思っていますので、今後とも厳しく鍛えてください。どうかよろしくお願いします」\k\n 最後に深々とお辞儀をすると、少女はぺたんと床に座り、もう一度ちょこんと頭を下げた。\k\n 結局、挨拶は最後まで生真面目で、地味で、遊びがなく、その少女の愛らしい見た目や仕草からは想像もできないくらい華やかさに欠けていた。
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5 | | 「ホント期待してるからね小春っち。何しろ最近のウチ、その“ただのアルバイト”が一週間続いたことないんだよねぇ」\k\n「そういうこと言うのやめてよ鈴木さん。それだとウチがまるでブラックみたいじゃん」\k\n「何言ってんだ松岡、ブラックでない出版社が生き残ってる訳ないだろこの出版不況のご時世に」\k\n「木崎さんもさらっと肯定しちゃったらマズいでしょ……」\k\n しかしまぁ、ここにいる人たちは、社会の先輩として人間ができているのか、それとも心底いい加減なのか、彼女の堅苦しい態度をさらっと受け流して勝手に盛り上がる。
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6 | | こうして、新しい仲間にもなんとか好意的に受け入れてもらえた、堅苦しくも愛くるしい少女……いや、女性の名は、杉浦小春。\k\n 青泉大学一年。そして、昨日からこうして中堅出版社である開桜社の編集部で働いている新人アルバイト。\k\n ついこの間、二十歳になったばかりの、まだ十分すぎるほどあどけなさが残るポニーテールの彼女は、ちょっと苦い味に顔をしかめながら、グラスのビールを喉にこくんと運んだ。
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7 | | 「ささ杉浦さん、ぐっとぐっと」\k\n「あ、ありがとうございます……でもそろそろサワー系に移行させていただけたらと」\k\n
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8 | | 「了解了解、ちょっと飲み物のメニュー取って」\k\n 一通り挨拶も終わり、料理も運ばれ、ご歓談の時間になると、まずは今日の幹事にして若手編集の松岡が、小春の隣を占拠し、積極的に話しかけてきた。
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9 | | 「でさ杉浦さん、なんでウチでバイトしようって考えたわけ? やっぱ就職はこっち方面希望なの?」\k\n「えっと、そうですね。理由は三つありまして……一つはその通りで、こういう業種に興味あるのは本当です」\k\n「そっかそっかぁ……大学卒業したら是非ウチに来てよ」\k\n 女性社員が少ない(いても守備範囲外ばかり)開桜グラフ編集部において、久々の女子バイトで、客観的に見ても可憐と言ってまったく差し支えない小春を松岡が狙わない理由はなかったから。\k\n「それにやっぱり、お金も欲しいし。大学生って思ったより出費かさみますよね」
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10 | | 「うんうん、で、あと一つは?」\k\n「あと一つは……もっともっと、自分の世界を広げたいなって」\k\n「自分の世界……?」\k\n「ほら、学校だけだと、今の自分の周りが世界の全てだって錯覚しちゃうじゃないですか」\k\n「あ、ああ、そういやそうかな?」\k\n「だから、その小さな世界の中ですれ違いが起こったりすると、世界全部が敵に回っちゃうっていうか、何も信じられなくなるっていうか、そういう悲しいこと感じちゃうんですよね、お互い」\k\n「そ、そう……?」
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11 | | 「だからわたし、そんな小さな世界で一緒にいた親友と約束したんです。お互いに、お互い以外の大きな世界を持とうって」\k\n
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12 | | 「…………」\k\n「今まで通り素直で正直で、けれど少しだけ、今までとは違う大人のつきあいができる、そんな素敵な関係になれたらいいなって、そういう……あ、ごめんなさい、変な自分語りしちゃって」\k\n いつの間にか、隣の先輩社員の表情が戸惑い気味になっていたのに気づいた小春は、少し恥ずかしそうに縮こまると慌てて会話を打ち切り、誤魔化すようにメニューで顔を隠す。\k\n けれどそれは、今の小春にとっては仕方のないことで……\k\n なぜなら彼女には、その誓いを語ることなく、曖昧な笑顔で流すことなんかできない一年の月日があったから。
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13 | | 峰城大付属三年の冬。卒業を間近に控えた残りの数十日。\k\n そんな、普通なら友との別れを惜しみ、旅立ちの希望に思いを馳せるはずの日々を、小春は、針のムシロの上で過ごした。\k\n 様々な誤解が誤解を呼び、最終的にはそれを事実で上書きしてしまい。\k\n 結果的に親友を裏切って、最終的には覚悟を決めて親友を裏切って。\k\n 周囲の悪意からなる攻撃に晒され、最終的にはその悪意にわざと身を晒し。\k\n たったひとつを除いて居場所をなくし、最終的にはその居場所に全てを捧げ、求めた。
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14 | | だから杉浦小春は、現在、青泉大学の一年生。\k\n 本来、峰城大学の二年生だったはずの彼女は、今でも自他共に認める親友とは、大学も学年も違ってしまっている。
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15 | | 「うんうん、わかるわかる! 俺にもそういうとこあったわ~」\k\n で、そんな小春の悲壮な決意を全然理解していない松岡は、それでも、ありもしない共感をアピールしつつ、さらに小春との距離を詰める。\k\n「そっかそっか~、にしても君ってさ、本当にしっかりした考え方を持ってるんだね」\k\n「あ、いえ、別にそんなことは」\k\n それは『女の子の悩みに付け込んで口説くにはまず全肯定から』という、尊敬すべき先輩の教えに忠実に従った、ある意味健気な行動だったけれど。\k\n でも、その健気さが当の小春に届いたかどうかは甚だ疑わしかった。
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16 | | 「ほんと、なんか他人とは思えないわ。これからも相談乗るから何でも聞いてよ。あ、俺も鈴木さんみたいに君のこと『小春ちゃん』って呼んでも……」\k\n と、松岡がさらにかさにかかって攻め込もうとしたとき……\k\n「……呼んでも無駄だよ? 松っちゃん」\k\n 向かいに座っていた、この場では小春を除いて唯一の女子である鈴木が意味ありげにぽつりと呟いた。\k\n「なに? どういう意味? 鈴木さん」\k\n「だって小春っちってさぁ、真面目そうに見えるけど実は……いや、見た目通り、めっちゃ真面目な彼氏持ちだよ?」
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17 | | 「うぐっ……!? けほっ、けほぉっ」\k\n と、その衝撃発言を受けて飲みかけのビールを喉に詰まらせてしまったのは、鈴木が表向きに話しかけた松岡の方ではなく、真に話しかけていた相手の方だった。\k\n「か、彼氏って……そうなの?」\k\n「そうそう、しかもその彼氏ってのが、仕事はできるわ、マジ融通が利かないわ、先輩にも全然遠慮しないわっていう厄介な男のコでね~、まぁまず松っちゃんが戦いを挑んでも説教で返り討ちにされるのが確定してるみたいな」\k\n「ちょっ、なにその俺の後輩みたいな気にくわない完璧主義者………………え?」\k\n と、その鈴木の比喩表現に思い当たる節があり過ぎた松岡は、はっとして隣の小春に振り返る。
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18 | | 「……何の証拠があってそのようなことをおっしゃるんですか鈴木先輩?」\k\n と、小春の方は、もう松岡の方なんか気にせずに、殊勝な態度もあっさり引っ込め、ただ厳しい視線で鈴木の方を睨んでいた。\k\n この融通の利かなさに加えて、相手の敵愾心を煽る強い態度が自身を幾度も傷つけているのに、小春はそこに関しては、いつまで経ってもなかなか反省を活かせない。\k\n「えっとぉ、そうですねぇ~。理由は三つありまして~」\k\n「……喧嘩売ってますか? 売ってますよね?」
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19 | | 「え? え?」\k\n いきなりの女性陣の一触即発な雰囲気についていけなくなった松岡が二人の顔を交互に見るが、どうやら二人の視界にはもう彼は全然入ってなさそうだった。\k\n「一つは小春っちの履歴書に、『峰城大学付属学園卒業』って書いてあったこと」\k\n「でもわたし三年後輩だから、一緒に学校に通った時期はありません」\k\n「一つは、まだ誰のことか言ってもいないのに完全に個人を特定しちゃってること」\k\n「っ……」
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20 | | 「そしてもう一つは……昨日、見ちゃったんだよね~。御宿の駅のホームであなたと北原君が言い合いしてるとこ……」\k\n「…………っ」\k\n「おおかた、彼に黙って同じ職場に押しかけちゃったんでしょ? それで彼に怒られて喧嘩になって……あなたって、思い詰めると結構大胆なことしでかしそうなタイプだよね」\k\n「………………もうその案件に関しましては解決済みですので心配ご無用です」\k\n 確かに昨夜は大喧嘩になりかけたけれど、そんなのはお互い全然融通の利かない二人にとっては日常茶飯事なのだから……
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21 | | 峰城大付属三年の冬。卒業を間近に控えた残りの数十日。\k\n 小春は、三歳年上の大学生と出逢い、喧嘩し、一緒に働き、なんとなく気が合わず、だからなんとなく気になって、気づいたら恋をしていて、一時は世界の全てを敵に回してまで彼の側にいることを望み……自分が、心の底から融通の利かない“女”だったということを初めて思い知らされた。\k\n その時の、そして現在にまで連なる相手が、北原春希。\k\n 峰城大学付属学園の三年先輩で、前のアルバイト先の先輩で、そして昨日から、現在の開桜グラフ編集部でもまた先輩となった、小春の融通の利かない恋人。
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22 | | 「ま、また北原か……お前は俺が手に入れられないものをどれだけ持っていけば気が済むんだよ……」\k\n「ま~大半は松っちゃんの自業自得だけど、今回の件に関しては同情の余地がないでもないよね~」\k\n そんな新人アルバイトのごく個人的な衝撃の事実を受け、またしても深い敗北感に打ちひしがれつつ、松岡はいつの間にか追加していた日本酒をぐいっとあおる。\k\n その声と態度に、もはや獲物を狙う光は見えず、ただ濁った負け犬の目で腐りきった声を絞り出しながら。\k\n「あの野郎……会社にプライベート持ち込むとすぐに文句言うくせに、自分は彼女はべらせて優雅に出勤かよ……」\k\n「優雅にって言ってもあんたより二時間は早く来てるけどね、彼」\k\n「そっか……だから今日の飲み会、夜から取材だって言って逃げたんだな、あいつ」\k\n もしこの席に春希がいたら、現在の事態は更に収拾のつかないことになっていたことは想像に難くなく。
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23 | | 「……言っておきますけれど、今回のアルバイトにプライベートはまったく関係ありませんから」\k\n と、なんだか湿っぽくなってしまった若手組の雰囲気を和らげるため……では全然ない口調で、小春が相変わらずお堅い言葉を連発する。\k\n「だって、わたしはここに働きに来たんです。誰とつきあっていようが仕事中はまったく関係ありません」\k\n「そんなこと言うけどさぁ小春っち。最初は仕事のつもりで話してても、だんだん普段の地が出ちゃって、いつの間にかデレデレ甘えちゃってたりとか、そういうことが絶対ないって言えるの?」\k\n「ありません! どうしてもお疑いになるのでしたら、今後職場では、春希先輩とは一切口をききませんからご安心ください!」\k\n「いや、それだと仕事成り立たないだろ……」
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24 | | 開桜社新人アルバイト、杉浦小春……\k\n この融通の利かなさに加えて、相手の敵愾心を煽る強い態度が自身を幾度も傷つけているのに、いつまで経ってもなかなか反省を活かせない不器用なままの女の子は、コップに残っていた最後のビールをぐいっと飲み干すと、予定していたサワーではなく、なぜか芋焼酎をロックで注文した。
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25 | | 「ね~ね~、そんでさそんでさ~、どうなのよ実際」\k\n「そんなどこにも固有名詞のない質問には答えようがありません」\k\n「だからさ、北原君との関係よ。具体的に、包み隠さず、細かく、詳細に語ってくれてもいいんだよ?」\k\n「わたしにとってはよろしくありません。だいたい『細かく』と『詳細に』って意味かぶってるじゃないですか」\k\n「……小春っちってさ、本当は北原君の彼女じゃなくてクローンなんじゃないの?」\k\n もはや完全に小春の隣から離脱して手酌でふてくされている松岡を無視して、今度は鈴木が事情聴取モードに入っていた。
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26 | | 「知り合ったのいつ? どこ? 付属でも大学でも一緒じゃなかったんでしょ? なんだろ、塾とかバイト先とか……」\k\n「ですから、仕事とプライベートは別だと何度言ったら……」\k\n「だって今飲み会だよ? 完全プライベートだよ? 逆に仕事の話がアウトだよ?」\k\n「そんなの詭弁じゃないですか、もう」\k\n 小春も、最初のうちは黙秘しようとしていたが、生来の性格からして、そうやってすっとぼけるのにも限界があり、結局、いちいち反応してしまっていた。
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27 | | 「じゃ、じゃあさ、まずは知り合った時期だけ教えてよ! そうだなぁ、二年前の夏より前かどうか」\k\n「……どうしてそんな具体的な時期なんですか?」\k\n「自分より前に知り合ってたかをえらく気にする大人げないお姉さんがいてね……」\k\n と、鈴木は小春と会話しつつ、左手でビールを注ぎ、右手でスマホを弄り誰かにメールを打つという、仕事の時よりもハードなマルチタスクをこなしていた。
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28 | | 「いくらプライベートでも、易々と人に話していいこととそうでないことがあります」\k\n「ふむふむなるほど、要するに北原君との馴れ初めは、とても人に言えないくらいにドラマチックでロマンチックなものだったと」\k\n「勝手に想像しないでください」\k\n その実況メールの宛先がとても気になったけれど、何事にも真剣なせいで応用が利かない小春は、鈴木のスマホに目がいきつつも、今は会話に集中するしかなかった。
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29 | | 「じゃあ次はさ、そのとき二人の間にどういうイベントがあったか教えてよ。イエスかノーで答えてくれるだけでいいから!」\k\n「答えませんから。わたし絶対に答えませんからね」\k\n「そうだなぁ……例えば進路をめぐってのトラブルとか?」\k\n「だから答えないって……」\k\n「あとは友情と恋との板挟み?」\k\n「え……」\k\n「三角関係?」\k\n「っ!?」\k\n「略奪愛?」\k\n「なんでそんなにずかずか詮索するんですかっ!?」\k\n その非難は多分、小春を知る者からは『自分のこと棚に上げすぎ』と呆れられるレベルのブーメランだったけれど、それでも叫ばずにはいられなかった。
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30 | | 「……まさか当たってる?」\k\n「全然! まったく! これっぽっちも!」\k\n ……解答者のパーフェクト正解に対する賞賛の声として。
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31 | | 「も~、いい加減にしてくださいよぉ鈴木さん」\k\n「あはは、ごめんごめん」\k\n 宴もたけなわ。完全無礼講となった歓迎会のテーブル。\k\n その上に、三○分も経たないうちに焼酎のグラスを五つ並べ、小春は泣き言をこぼす。\k\n そのグラスの数は、同じ三○分の間に鈴木がメールの送信ボタンを押した回数といい勝負だったけれど、そっちの方はどうやら今は着信拒否をされてしまったようで、徐々に差が開き始めている。
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32 | | 「いくら同じ職場で働くことになったからって……わたしたち、まだ知り合って二日目なんですよ?」\k\n「まぁねぇ、けどあたしたち、北原君とはもう三年以上のつきあいだし」\k\n「それとこれとどういう関係が……」\k\n
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33 | | 「悪いな杉浦さん。要するに鈴木、っていうか俺たちはさ、君をダシにして、北原のことを詮索してたんだよ」\k\n「え……?」\k\n その、突然割り込んできた声に、小春が顔を上げて正面を見据えると……
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34 | | 「あいつ自分のことなかなか話さないからね。長い付き合いなんだからもうちょっとプライベートでも頼って欲しいところあるんだけどな」\k\n そこには開桜グラフのベテラン組である浜田と木崎が、いつの間にか小春に優しい視線を向けていた。\k\n「そこにいきなり北原のカノジョだろ? そりゃもう、千載一遇のチャンスだとか思っちゃうわけよ、特にその噂好きな詮索系女子は」\k\n「あ~ひど~い。最初にこの作戦考えたの浜田さんじゃん」\k\n「けど俺、そこまであからさまに踏み込めなんて言ってないぞ」\k\n「鈴木を使う時点で言ったも同然でしょ」\k\n「なんだよ木崎、お前、どっちの味方だ?」\k\n そんな、『ここでネタばらし。実はターゲット……と松岡以外、全員仕掛け人』という状況に、小春も思わず苦笑い……なんかできるはずもなく、呆然と三人の顔を見つめた。\k\n「まぁその……悪い、ちょっと調子に乗った」
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35 | | 「ごめんね小春っち?」\k\n「いえ、そんな、別に」\k\n それでも、彼らを責める気には全然なれなかった。\k\n だってそれは、完全に二年前の自分の所業だったから。\k\n 三歳年上の大学生と出逢い、喧嘩し、一緒に働き、なんとなく気が合わず、だからなんとなく気になって……\k\n 手当たり次第に知り合いを頼って、彼の過去を知るために走り回って、怒って、拗ねて。\k\n だから知り合って二月後、彼がやっと、付属時代の心の傷とか、ずっとし続けている後悔とか、想い続けているひとたちとかのことを話してくれたとき、どれだけ嬉しかったか……\k\n あらゆる意味で禁じられた恋をしてしまうくらい、嬉しかったかを、思い出したから。\k\n それに……
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36 | | 「実は以前の北原君ってさ、結構周りから見ててハラハラするところがあったんだよ」\k\n「そうそう、ちょっと自滅型っていうか、自分を省みない働き方をしててね」\k\n「最初は俺たちも気づかなかったんだけど、バイト時代のあいつの上司が、そういうのに目ざとくてな」\k\n「自分に向けられる目には全然気づかないのにねぇ、麻理さん」\k\n「でも今は、その頃とは全然違って、すごく落ち着いていい感じなんだよな、北原」\k\n「……そう、見えます? 皆さんにも、見えてくれてます?」\k\n「でさ、俺たちとしては、よっぽどできたカノジョでもいるんじゃないかって噂してたところでの、君の登場なわけだ」\k\n「…………」
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37 | | 三人の、ちょっとお節介で、ちょっとほんわかする会話を聞きつつ、小春は酒のせいだけでなく、頬が上気するのを感じていた。\k\n なんだか涙が出るほど嬉しくなってしまったから。\k\n 自分の恋人に。自分が一番心配している、一番大切な人に、あの頃からこういう気の置けない場所があったことが。\k\n あの二年前、春希が小春を助けることができたのは。\k\n 二人が押し潰され、共倒れにならずに済んだのは。\k\n きっと、彼に、こうして自分を支えてくれる場所があったから。\k\n だから今、小春は自分がしようとしていることが、間違っていないと確信できたから。
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38 | | 「だからね、浜田さん? 今の北原なら安心でしょ? ほら、こうして帰りを待ってくれてるコもいるわけだし」\k\n「なんだよお前、あの話本気だったのかよ?」\k\n「あ~、木崎さんのヨーロッパ出張? 確か結納と重なっちゃったんだっけ?」\k\n「あ、結婚されるんですか? おめでとうございます……それはそうと春希先輩がなんですって?」\k\n と、小春は思いっきり社交辞令的な祝福をしつつ、今の会話に出てきたキーワードの方に興味津々だった。
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39 | | 「いや、だからね、行けなくなっちゃった俺の代わりに北原を推薦してんだけど、なかなか浜田さんが首を縦に振ってくれなくてね」\k\n「だってお前、いくらなんでも、あいつ一年目だぞ?」\k\n「そうだよ木崎さん、松っちゃんはともかく、あたしだっているんだし。むしろあたし行きたいし!」\k\n「いや確かに代役送り込むなら北原一択なんだけど……語学力的な意味で」\k\n「え~、ひど~い浜田さん!」\k\n「文句言うならTOEICでA取ってからにしろよ……」\k\n そんな、昨日バイトで入ったばかりの小春には、名実共に雲の上の話に春希が取り沙汰されていることが、やっぱり嬉しくて。\k\n 全然ついていけない仕事の話にもかかわらず、小春は、三人の会話に心地よさそうに耳を傾ける。
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40 | | 「それにですね、実は今回のヨーロッパ出張、そもそも俺よりも北原の方が適任の仕事が入るかもしれないんですよ」\k\n「はぁ、何だそりゃ?」\k\n「実はアンサンブルの編集長から打診来てたんですよ。ヨーロッパ行くならインタビュー取ってきて欲しい相手がいるって」\k\n「アンサンブルってことはクラシックか……どっかのオーケストラか?」\k\n「いえ、ピアニスト。ほら、若手でかなり有望株の日本人がいるじゃないですか」\k\n
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41 | | 「あ~、もしかして!」\k\n「ご明察、冬馬かずさ。あの冬馬曜子の娘にして……」\k\n「あ~、なるほど。そういえば、確か北原の同級生……」
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42 | | 「冬馬……なんですって?」\k\n「え?」\k\n「え?」\k\n「え?」\k\nその瞬間、ほどよくアルコールが回っていたはずの三人は、なぜか一気に冬の屋外に放り出されたような寒気を感じた。
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43 | | 「春希先輩を……冬馬かずさに会わせる、ですって……?」\k\n「こ、小春っち……?」\k\n「何言ってんですか……何、言っちゃってるんですか、あなたがたは……っ!」\k\n「す、杉浦さん!?」\k\n そして、その寒気の正体が、目の前の可憐な少女から発せられた、とてもそうとは思えない低く重い声だと気づくのに、数秒の時間を要した。\k\n さらに、次に小春が発した言葉が、三人をさらなる混沌へと誘うことになる。
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44 | | 「わたしが行きます……」\k\n「え? え? どこに?」\k\n「ヨーロッパに決まってるじゃないですか。何言ってるんですか」\k\n「いや、だから何言ってるんだって聞きたいのはこっちの方……」\k\n
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45 | | 「とにかくっ!」\k\n「ひぃっ!?」
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46 | | 「春希先輩をヨーロッパになんか……そんな危険な場所になんか、絶対に行かせませんから!」\k\n「え、え~」\k\n「いや、明らかに君が行く方が危険だろ?」\k\n「大丈夫です! わたし卒業旅行でヨーロッパ行きましたから!」\k\n「だからそういう問題じゃ……」\k\n「語学力ですか? 出張前にTOEIC受けます! 絶対にA判定取ります!」\k\n「どうしちゃったんだよおい!?」
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47 | | 「わたし、わたし……今までだってたくさん泣いたんです! そして、たくさん泣かせたんです!」\k\n「それ全然答えになってないよ小春っち!?」\k\n 小春の脳裏に、窓際の泣き顔が浮かぶ。\k\n「だからもう……あんなこと、嫌……っ」\k\n ずっと今でも忘れたことのない、胸が締めつけられるように綺麗で、けれど哀しい思い出をまとった、あの、冬馬かずさの親友で、北原春希の恋人だったひとの泣き顔が。\k\n「やだ、やだ……春希先輩、行っちゃやだ……行かせちゃやだよぅ……っ、ぅ、ぅぅ……ぇぐっ……っ!」
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48 | | 「お、お、おい! どうすんだよこれ! なんとかしろよお前ら!」\k\n「知らないよ? あたし知らないよ! 泣かせたの木崎さんだからね?」\k\n「ええぇぇぇっ! 俺ぇ!?」\k\n「春希先輩ぃぃぃ~!」\k\n「北原~! 誰か北原を呼んでくれぇぇぇっ!」\k\n 今まで普通に受け答えしていたから、誰も気づいていなかったけれど……\k\n 杉浦小春は、すでにこの時点で、完全に泥酔していた。
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49 | | 「うう……」\k\n 窓から差し込む朗らかな朝の光が……小春の頭痛をますます刺激する。\k\n あの、阿鼻叫喚の宴の翌日。\k\n 小春は、週に一度くらいの頻度で見慣れている天井……春希の部屋で、目が覚めた。\k\n ベッドの隣には、なぜか疲れ切った様子で眠る春希。\k\n 時計を見ると、午前七時半。\k\n いつもならとっくに起きているはずの恋人をここまで疲弊させた原因を考えるたびに、様々な理由からの頭痛が小春を襲い、逃げるように浴室に駆け込んだ。
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50 | | 「ううう……」\k\n そして今は午前八時。\k\n シャワーを浴び、バスタオル姿で鏡と向き合いながら、小春はさっきの春希と同じような苦悶の表情を浮かべていた。\k\n あの後のことは、よく覚えていない……のならよかった。\k\n 逃げようとする編集部員たちを座らせて、自分と春希との馴れ初めを半年分も語って聞かせたこととか、やっと迎えに来た春希に思いっきり泣きながら甘えて、おんぶをせがんだこととか、思い出さなければ良かった。\k\n
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51 | | 『今回のアルバイトにプライベートはまったく関係ありませんから』\k\n その、今となってはあまりに空々しい宣言が、小春の後頭部にブーメランとして突き刺さっていた。\k\n ……というか、わざわざそれらの発言を議事録としてまとめた親切な先輩のメールが、早朝の小春をますますいたたまれなくさせてくれた。
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52 | | 「……もうバイト行けない」\k\n 自分が恥をかいたことも、春希に恥をかかせたことも大して悔いてはいなかった。\k\n 外面だけをよく見せたいなんて思想は元々ないし、今さらこの程度のことで春希とぎくしゃくするような関係じゃない。\k\n ただそれよりも痛かったのは、ずっと隠していた……いや、隠していたつもりだった、自分の“女”加減の激しさ。
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53 | | 鏡に映っているのは、もちろん、小春自身。\k\n シャワーを浴びて、バスタオル一枚で、髪も結ばず……\k\n さらりと自然に流れるロングヘアの自分が、昨日の自分の激情を思い起こさせる。\k\n これは、春希には一度も見せたことのない髪型。\k\n 意識していたのか、それとも無意識だったのか、今となってはわからないけれど……\k\n けれど多分、これからも、自分からは絶対に見せようとしないはずの、髪型。\k\n「よしっ!」\k\n 頭痛の消えない頭を無理やり振って、髪をまとめ始めた小春は、心の中で、つい先ほどの自分の言葉をあっという間に撤回する。
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54 | | やっぱり今日も、バイトに行こう。\k\n そして、皆に謝ろう。\k\n そしてそして……これからも、あの場所で一緒に頑張ろう……愛しいひとと。\k\n もしかしたら先輩は、まだ怒っているかもしれない。\k\n そしたら、一生懸命謝って、もしかしたら喧嘩して……\k\n 最後に、激しく仲直りしよう。\k\n もういいじゃん。\k\n どうせ重いよ、わたし。\k\n 先輩の職場に内緒で押しかけてしまうくらい、重いよ。\k\n そんなこと……わたしの先輩が知らない訳ないよ。
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55 | | 「うんっ……できたっ」\k\n 鏡の中には、いつものポニーテール。\k\n これが、本物の杉浦小春。\k\n 春希だけの、みっともなくて、嫉妬深い、馬鹿女の完成。\k\n
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56 | | 「せ~んぱいっ、おはようございます~」\k\n 心から勝手に湧き出てきた、明るく楽しげな声とともに……\k\n
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57 | | 小春は、バスタオルを放り投げ、春希の眠るベッドに、もう一度、するりと潜り込んだ。
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