White Album 2/Script/3003
Text
| Speaker | Text | Comment | |||
|---|---|---|---|---|---|
| Line # | JP | EN | JP | EN | |
| 1 | かずさ | 「インタビュー…だって?」 | |||
| 2 | 曜子 | 「25日の10時から。 先方からこちらのホテルに来てくれるって」 | |||
| 3 | かずさ | 「そういうのはしないって言っただろ? 授賞式とか、最低限に留めてくれって何度も」 | |||
| 4 | 曜子 | 「昔なじみで世話になってる人なのよ。 しかも、向こうのスタッフも偶然現地入りしてるって… そんな状況だったから断りづらくって」 | |||
| 5 | かずさ | 「そんなのあたしは知らないね」 | |||
| 6 | 曜子 | 「なんてワガママな…」 | |||
| 7 | かずさ | 「…母さんにそんなこと言われるとは思わなかった。 『クリスマスミサ行くわよ。夜行列車で』 とか今日になっていきなり言い出す人に」 | |||
| 8 | 曜子 | 「前々から約束してたじゃない。 今年こそは一緒にバカンス行こうって」 | |||
| 9 | かずさ | 「ミサなんてどこでもやってる… なんでわざわざストラスブールなんだよ?」 | |||
| 10 | 曜子 | 「まぁ騙されたと思って一度街を歩いてみなさい。 価値観変わるから」 | |||
| 11 | かずさ | 「ったく…」 | |||
| 12 | 曜子 | 「冷凍ミカン食べる?」 | |||
| 13 | かずさ | 「…どこで買ったんだよそんなの」 | |||
| 14 | ……… | .........
| |||
| 15 | 曜子 | 「…ところで」 | |||
| 16 | かずさ | 「今度はなに?」 | |||
| 17 | 曜子 | 「そろそろ、来年のツアー計画発表したいんだけど」 | |||
| 18 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 19 | 曜子 | 「いい加減、サインしてくれないかな? もう会場を押さえる期限に来てるんだけど」 | |||
| 20 | かずさ | 「なんで…あんなところに行くんだ?」 | |||
| 21 | 曜子 | 「あんなところとはご挨拶ね。 わたしたちの生まれ故郷に対して」 | |||
| 22 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 23 | 曜子 | 「ちゃんとしっかりした理由はあるわよ。 …今年でヨーロッパも一通り回ったし、 そろそろ新しい地域に進出しようと考えてたの」 | |||
| 24 | かずさ | 「だからって日本に決める理由はないだろ。 …アメリカなんかどうかな?」 | |||
| 25 | 曜子 | 「今のあなたは、日本で高いのよ。 それも、劇的に」 | |||
| 26 | かずさ | 「高い…って」 | |||
| 27 | 曜子 | 「ジェバンニ国際4位が効いたわね… あなた今、日本でアイドル扱いされてるらしいわよ?」 | |||
| 28 | かずさ | 「なんだよそれ…勘弁してくれ」 | |||
| 29 | 曜子 | 「おかげで来日公演の提示額が いきなり倍に跳ね上がるし… 今日本に行かないテはないのよ」 | |||
| 30 | かずさ | 「この銭ゲバピアニスト…」 | |||
| 31 | 曜子 | 「経営者ですから」 | |||
| 32 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 33 | 曜子 | 「そろそろ…いいじゃない。 もう五年も経ってるのよ?」 | |||
| 34 | かずさ | 「………突然訳わかんないこと言わないで。 ただめんどくさいだけだ。 別に行きたくないなんて」 | |||
| 35 | 曜子 | 「わたしだってね、 死ぬときは生まれ故郷でって思ってるの」 | |||
| 36 | かずさ | 「あと100年は大丈夫だよ。あんたなら」 | |||
| 37 | 曜子 | 「その時にね… 娘に『絶対に帰らない』って言い張られて、 看取られずに逝くのは嫌だもの」 | |||
| 38 | かずさ | 「あんたの方が長生きするって…言ってるだろ」 | |||
| 39 | 曜子 | 「バカンスから帰るときにもう一度返事して。 …それでも駄目なら諦めるから」 | |||
| 40 | かずさ | 「三年も日本に置き去りにしたり、 突然ヨーロッパに来ないかって言ったり、 今度はいきなり帰ろうって…勝手だね」 | |||
| 41 | 曜子 | 「今頃気づいたの? かずさ、あなた何年わたしの娘やってるのよ?」 | |||
| 42 | かずさ | 「…もういい」 | |||
| 43 | 春希 | 「こっちは今駅に着いたところ」 | |||
| 44 | 雪菜 | 「そっか…こっちは今、連絡バス待ち。 今から乗り継ぎだから、わたしの方が遅くなるかな…」 | |||
| 45 | 春希 | 「パリがもう凄い雪でさ、 今日中に着かないかと思ったよ」 | |||
| 46 | 雪菜 | 「こっちも。空港到着が3時間も遅れちゃって… もう、一緒に街を歩きたかったのにな」 | |||
| 47 | 春希 | 「予定なら陽が沈む前には合流できてたのにな。 空港にだって迎えに行くはずだったのに…」 | |||
| 48 | 雪菜 | 「二人でいられる時間、減っちゃったね…」 | |||
| 49 | 春希 | 「ごめん… まさか明日も仕事を入れられるとは…」 | |||
| 50 | 雪菜 | 「あ、そっちは仕方ないよ。 もともと仕事の出張なんだもん。 わたしが残念なのは、あくまで今日のこと」 | |||
| 51 | 春希 | 「にしてもさぁ… だいたい、新人をこき使いすぎなんだよあの会社は」 | |||
| 52 | 雪菜 | 「それだけ期待されてるってことだよ!」 | |||
| 53 | 春希 | 「というか多分、新人だと見られてないんだと思う…」 | |||
| 54 | 雪菜 | 「あはは…それはあるかもね。 だってバイト時代を含めると、もう三年でしょ?」 | |||
| 55 | 春希 | 「でもなぁ…それとこれとは…」 | |||
| 56 | 雪菜 | 「いいんだよ。 わたしが無理言って合流しちゃうだけなんだから…」 | |||
| 57 | 春希 | 「だって、約束だろ? …絶対に、一週間以上離れたりしないって」 | |||
| 58 | 雪菜 | 「ん………約束」 | |||
| 59 | 春希 | 「なのに一週間の海外出張なんてさ…」 | |||
| 60 | 雪菜 | 「さっきも言ったでしょ? お仕事なんだから仕方ないって。 それに…」 | |||
| 61 | 春希 | 「ん?」 | |||
| 62 | 雪菜 | 「約束は、絶対に破られたりしないよ。 だからわたしは、ここまで来たの。 …春希くんを、追いかけて」 | |||
| 63 | 春希 | 「雪菜…」 | |||
| 64 | 雪菜 | 「なぁんてね! 実は昔から行ってみたかったの! ストラスブールのクリスマスミサ!」 | |||
| 65 | 春希 | 「…とと」 | |||
| 66 | 雪菜 | 「もう春希くんの出張先がフランスって聞いたときから、 わたしも行きたくてウズウズしちゃってて… だから上司の人には大感謝」 | |||
| 67 | 春希 | 「しなくていいから。 つけ上がるから」 | |||
| 68 | 雪菜 | 「だからさぁ、空港に雪が積もってて、 着陸できずに旋回してる時はドキドキだったよ。 間に合ってよかったぁ…」 | |||
| 69 | 春希 | 「ああ…間に合ってよかった。 クリスマスミサにも、一週間ルールにも、 それに…」 | |||
| 70 | 雪菜 | 「それに?」 | |||
| 71 | 春希 | 「………後で、話すよ」 | |||
| 72 | 雪菜 | 「? あ、バス来ちゃった。 それじゃ、後でね。 多分、あと1時間くらいで着くと思うから」 | |||
| 73 | 春希 | 「ああ、それじゃこっちは、 先にホテルにチェックインしとく」 | |||
| 74 | 雪菜 | 「うん、わたしも駅に着いたらまた電話するね」 | |||
| 75 | 春希 | 「…行き方、わかるか?」 | |||
| 76 | 雪菜 | 「大丈夫だよぉ! …ちゃんとフランス語とドイツ語の入った 電子辞書持ってきたから」 | |||
| 77 | 春希 | 「………頑張れ」 | |||
| 78 | 雪菜 | 「それじゃ、後でね」 | |||
| 79 | 春希 | 「さて、と…」 | |||
| 80 | かずさ | 「…それで? 今どこなの?」 | |||
| 81 | 曜子 | 「それがねぇ… 偶然ばったりエレーヌに会っちゃって。 覚えてるエレーヌ? 去年パリ響の…」 | |||
| 82 | かずさ | 「そんなことはどうでもいい。 あたしは、母さんが今どこにいるかと聞いてるんだ」 | |||
| 83 | 曜子 | 「だからね、聞いてよかずさ。 ほら、水上バス下りたところまでは一緒だったでしょ? あの時に実はわたしたちの後ろの席に偶然彼女が…」 | |||
| 84 | かずさ | 「…要するにあんたは、 偶然知り合いと再会したんで、 娘ほっぽり出して旧交を温めてたと」 | |||
| 85 | 曜子 | 「…まぁ、そうとも言うわね」 | |||
| 86 | かずさ | 「っ…やっぱりミサまでホテルで寝てればよかった。 あんたが市内観光になんか連れ出すから。 しかも、こんな雪の中」 | |||
| 87 | 曜子 | 「まだ二時間くらいあるし、 仮眠くらいなら取れるでしょ」 | |||
| 88 | かずさ | 「そういう問題じゃない…携帯切ってるし。 どれだけ探したと思ってるんだ… 寒いわ滑るわで散々だ」 | |||
| 89 | 曜子 | 「とにかく、そういうことだから… こっちは合流するのにもう少し時間かかる。 ついでにミサの時にエレーヌ紹介するわね」 | |||
| 90 | かずさ | 「で、どこで合流するって?」 | |||
| 91 | 曜子 | 「ここからじゃ、ホテルに戻るのも面倒だし… 大聖堂の前で、11時ってことで」 | |||
| 92 | かずさ | 「ハチ公前よりも見つけにくい気がするんだけど…」 | |||
| 93 | 曜子 | 「大丈夫よ、携帯もあるし。 それじゃ、現地でね」 | |||
| 94 | かずさ | 「はぁ…」 | |||
| 95 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 96 | かずさ | 「ひとまず、ホテルに戻る、か」 | |||
| 97 | ??? | 「ああ、それじゃこっちは、 先にホテルにチェックインしとく」 | |||
| 98 | かずさ | 「日本語…か」 | |||
| 99 | かずさ | 「さて、と」 | |||
| 100 | ??? | 「…行き方、わかるか?」 | |||
| 101 | かずさ | 「………?」 | |||
| 102 | 春希 | 「………頑張れ」 | |||
| 103 | かずさ | 「………え」 | |||
| 104 | タクシー運転手 | 「どちらまで?」 | |||
| 105 | 春希 | 「ホテル『クール・デュ・○○ボー』までお願いします」 | |||
| 106 | ……… | .........
| |||
| 107 | かずさ | 「あ………」 | |||
| 108 | かずさ | 「あ、あ………あああっ!」 | |||
| 109 | タクシー運転手2 | 「どちらまで?」 | |||
| 110 | かずさ | 「あ、あ…あの車追いかけてっ!」 | |||
| 111 | タクシー運転手2 | 「???」 | |||
| 112 | かずさ | 「あ……… あのタクシーについていってください…」 | |||
| 113 | ……… | .........
| |||
| 114 | ……… | .........
| |||
| 115 | かずさ | 「はぁっ、はぁっ、はぁぁ…っ」 | |||
| 116 | かずさ | 「………あ、あれ?」 | |||
| 117 | かずさ | 「うそ…いない? た、確かにこっちに…」 | |||
| 118 | かずさ | 「………っ!」 | |||
| 119 | 春希 | 「ホテル『クール…』」 | |||
| 120 | 春希 | 「ここ、か」 | |||
| 121 | フロント | 「いらっしゃいませ」 | |||
| 122 | 春希 | 「2名で予約してた北原ですが…」 | |||
| 123 | かずさ | 「はっ…あっ…はぁっ…はぁ、はぁ、ぁ…」 | |||
| 124 | かずさ | 「はっ、はっ………っ!?」 | |||
| 125 | かずさ | 「~~~っ、 い、い…痛…っ」 | |||
| 126 | 現地の男性 | 「大丈夫かいお嬢ちゃん?」 | |||
| 127 | かずさ | 「だ、だ………大丈夫…っ」 | |||
| 128 | 現地の男性 | 「…とてもそうは見えないけど。 ちょっと見せてごらん」 | |||
| 129 | かずさ | 「大丈夫… 本当に大丈夫………っ!?」 | |||
| 130 | 現地の男性 | 「あ…これはダメだ。 見てごらん」 | |||
| 131 | かずさ | 「あ…」 | |||
| 132 | 現地の男性 | 「ほら、ヒールが折れてしまっている。 これじゃまともに歩けない」 | |||
| 133 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 134 | 現地の男性 | 「肩を貸そう。 ホテルはどこだね?」 | |||
| 135 | かずさ | 「………っ」 | |||
| 136 | 現地の男性 | 「それとも病院に行くかね? それならすぐ近くに…」 | |||
| 137 | かずさ | 「大丈夫…」 | |||
| 138 | 現地の男性 | 「お、おい… 何をするつもりだね?」 | |||
| 139 | かずさ | 「こうすれば…歩ける」 | |||
| 140 | 現地の男性 | 「やめたまえ! 雪だぞ? 裸足なんて正気の沙汰じゃない!」 | |||
| 141 | かずさ | 「ありがとう… 助かりました」 | |||
| 142 | 現地の男性 | 「骨を痛めてたらどうするんだ! 戻ってきなさい!」 | |||
| 143 | かずさ | 「っ………春希」 | |||
| 144 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 145 | 春希 | 「浜田さん…」 | |||
| 146 | 『浜田 和紀』 | ||||
| 147 | 『12/25取材概要』 | ||||
| 148 | 『お疲れさま、浜田です』 | ||||
| 149 | 『直前で申し訳ないけど、明日の取材内容について』 | ||||
| 150 | 『詳細はPCのメアドに添付ファイルで送ってあるから、 そっちをしっかり見ておくように。 とりあえずこちらは概要だけ』 | ||||
| 151 | 『仕事内容はインタビュー取材。 アンサンブルの編集長にどうしてもと頼まれた。悪い。 お前も色々と世話になってるだろ?』 | ||||
| 152 | 『なんでも取材対象が、 毎年この時期にバカンスでそこを訪れるので、 ちょうどスケジュールが合ったらしい』 | ||||
| 153 | 『カメラマンは現地の人間が当日合流する。 北原はインタビューの方だけ担当してくれればいい』 | ||||
| 154 | 『言葉のことを心配してるなら問題ない。 ちゃんと日本語が通じる相手だ』 | ||||
| 155 | 『なにしろ取材対象は』 | ||||
| 156 | かずさ | 「はぁっ、はぁっ………ぃっ!」 | |||
| 157 | かずさ | 「は、はぁ…あ、ぁぁ…」 | |||
| 158 | かずさ | 「………………………ぁ」 | |||
| 159 | かずさ | 「あは…」 | |||
| 160 | かずさ | 「あはは…」 | |||
| 161 | かずさ | 「あはははは…ふふ…ふふふ…っ」 | |||
| 162 | かずさ | 「………っ、 ぅ、ぅぅ………ぃぅっ…」 | |||
| 163 | ??? | 「春希………っ」 | |||
| 164 | 春希 | 「っ…あれ? なんだよ、もう着いたのか雪………っ!?」 | |||
| 165 | 春希 | 「………え」 | |||
| 166 | かずさ | 「春希…」 | |||
| 167 | 春希 | 「かず………さ?」 | |||
| 168 | かずさ | 「………偶然、だな」 | |||
| 169 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 170 | 自分が今、どんな顔をしているのかすら全然わからない。 | ||||
| 171 | 足が動かなくて、 噴水の縁に腰掛けたまま立つこともできない。 | ||||
| 172 | 頭の中では、全力で走り出している。 必死で逃げている。 | ||||
| 173 | 変わらぬ長い黒髪の… けれど、まだ上があったのかよってくらい、 凄まじく綺麗になった目の前の女性から。 | ||||
| 174 | かずさ | 「お前…ぜんっぜん変わんないな。 すぐにわかったよ」 | |||
| 175 | 春希 | 「………っ」 | |||
| 176 | 嫌だから逃げたいんじゃない。 会いたくなかったから背を向けようとしたんじゃない。 | ||||
| 177 | 逆、だ。 | ||||
| 178 | だから、話をしてはいけないって。 無視しなくちゃ、いけないんだって。 | ||||
| 179 | かずさ | 「なんとか言えよ…」 | |||
| 180 | 春希 | 「………元気そうだな」 | |||
| 181 | なんで今… このタイミングでお前なんだよ? | ||||
| 182 | かずさ | 「まぁな。 楽しくやってるよ」 | |||
| 183 | 春希 | 「そっか…よかったな」 | |||
| 184 | かずさ | 「…ああ」 | |||
| 185 | 俺、雪菜にプロポーズしようとしてたんだぞ? | ||||
| 186 | 今度こそ、お前と… もう、何度目になるかもわからない、 『永遠にさよなら』をするはずだったんだぞ? | ||||
| 187 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 188 | 『なんとか言え』と言われて、 やっと一言二言搾り出したきり、 結局、また沈黙の底に沈んでしまう。 | ||||
| 189 | なんで? どうして? | ||||
| 190 | なんで今、俺の目の前にいる? 俺がここにいることを知ってたのか? それとも、単なる偶然? | ||||
| 191 | どうして俺がお前の取材をすることになってる? 誰が決めたんだ? 編集長? 冬馬曜子? …お前は、どこまで知ってるんだ? | ||||
| 192 | 俺と会うことを、承諾したって言うのか…? | ||||
| 193 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 194 | そんな、聞けばわかるはずの数々の疑問を、 けれど一つも口から出せずにいた。 | ||||
| 195 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 196 | かずさが、じっと俺を見下ろしてる。 | ||||
| 197 | けれど俺は、その視線を受け止めることもできず、 ただじっと、足下に目を落としたまま。 | ||||
| 198 | かずさの顔が見れない。 | ||||
| 199 | だって、一度見ただけでわかってしまったから。 | ||||
| 200 | 五年見ないうちに、また進化しやがったことも。 けど、紛れもない冬馬かずさ本人だってことも。 | ||||
| 201 | 一目でそれとわかってしまった俺の記憶の強さも… | ||||
| 202 | かずさ | 「………っ」 | |||
| 203 | そんな、人の目も見ない、言葉も交わさない… 最低な俺の態度に、かずさは深い失望のため息をつき… | ||||
| 204 | かずさ | 「じゃあ… あたし、ホテルに戻る途中だから」 | |||
| 205 | 春希 | 「ああ…」 | |||
| 206 | とうとう、痺れを切らしたらしかった。 | ||||
| 207 | あまりにも最悪の再会だった。 | ||||
| 208 | 懐かしさに笑い合うことも、 お互いの尽きぬ近況報告も、 感激の涙も… | ||||
| 209 | 何もかも、俺が台無しにした。 | ||||
| 210 | だって、台無しにする必要があった。 俺たちの再会を、運命にすることは許されなかった。 | ||||
| 211 | だって、今の俺は… | ||||
| 212 | かずさ | 「それじゃ…元気で」 | |||
| 213 | 春希 | 「かず…冬馬も、な」 | |||
| 214 | かずさ | 「っ………ん」 | |||
| 215 | このままじゃ、明日の取材が酷いことになるって… もしかしたらキャンセルされる可能性もあるって わかってたけど。 | ||||
| 216 | けれど今は、プライベートの時間だ。 これは仕事じゃない。 何も関係なんかない。 | ||||
| 217 | ピアニスト冬馬かずさと、開桜社北原春希の間に どんな接点があったとしても… | ||||
| 218 | ただのかずさとただの俺には、 もう、何の関係も… | ||||
| 219 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 220 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 221 | かずさが、背中を向ける。 | ||||
| 222 | 実際にその背中を見送った訳じゃない。 だって、俺の視線はずっと下を向いたままだから。 | ||||
| 223 | だから、俺が見たものは、背中じゃなくて足。 かずさのコートの裾から覗く、ふくらはぎと、かかと… | ||||
| 224 | 春希 | 「………なんだよ、それ?」 | |||
| 225 | かずさ | 「え…?」 | |||
| 226 | そこに目の焦点が合ったとき、 俺の頭が、当たり前の違和感にやっと辿り着いた。 | ||||
| 227 | 春希 | 「お前…なんで裸足なんだよ? 靴はどうしたんだよ?」 | |||
| 228 | かずさ | 「あ………あぁ」 | |||
| 229 | かずさのかかとが持ち上がる。 | ||||
| 230 | と、その下から見えた足の裏は、 さらに違和感が酷いことになっていた。 | ||||
| 231 | 春希 | 「なにやってんだよお前… 雪、積もってるってのに!」 | |||
| 232 | 脚全体を覆っていたストッキングは、 かかとのところで破れ、白い足裏を覗かせていた。 | ||||
| 233 | いや、白いだけなら良かった。 けれどそこに、青く腫れ上がった凍傷と、 赤くすりむけた傷までも覗かせていたとなれば… | ||||
| 234 | かずさ | 「さっきヒールが片方折れてさ。 歩きにくかったから、捨ててきた」 | |||
| 235 | 春希 | 「捨ててきたって…おい」 | |||
| 236 | かずさ | 「別に問題ないよ。 安…くはないけどありふれたブーツだったし」 | |||
| 237 | 春希 | 「ブーツの話なんかしてないだろ! お前、足が…」 | |||
| 238 | かずさ | 「雪を直に踏みしめるのも結構気持ちいいぞ? …まぁ、後でぐちゃぐちゃになるのが難点だけど」 | |||
| 239 | 春希 | 「かずさ!」 | |||
| 240 | かずさ | 「………っ」 | |||
| 241 | いつの間にか、立ち上がっていた。 | ||||
| 242 | さっきまで、いくら頭で命令しても、 言うことを聞いてくれなかった足が、 やっぱり言うことを聞かないまま、今度は勝手に動いてた。 | ||||
| 243 | 春希 | 「そんな足で本当に歩いて帰れるのかよ?」 | |||
| 244 | かずさ | 「大丈夫…」 | |||
| 245 | そして声も喋りも、 いつの間にか元通りに大きく、回るようになっていた。 | ||||
| 246 | 春希 | 「ちょっと、触るぞ」 | |||
| 247 | かずさ | 「いきなり女の脚にか? お前、相変わらず厚かまし… | |||
| 248 | かずさ | っ!?」 | |||
| 249 | 春希 | 「…足首も痛むのか?」 | |||
| 250 | かずさ | 「っ…別、に」 | |||
| 251 | 春希 | 「くじいてるだろこれ… ヒール折ったって…転んだんじゃないのか?」 | |||
| 252 | かずさ | 「別に」 | |||
| 253 | さらに行動も… いつもの、他人から見たらお節介に映るらしい 自分を取り戻してた。 | ||||
| 254 | 春希 | 「ここで強がる意味がどこにあるんだよ… お前こそ、相変わらず意地っ張りじゃないか」 | |||
| 255 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 256 | そうなればそうなったで、 今のかずさの状態の深刻さがわかってくる。 | ||||
| 257 | さっきからずっと我慢してたんだ、こいつ… | ||||
| 258 | 春希 | 「捻挫かな? それとも骨折…」 | |||
| 259 | かずさ | 「くじいただけだって…大丈夫」 | |||
| 260 | 春希 | 「…とりあえず、 怪我してることは認めるんだな?」 | |||
| 261 | かずさ | 「………ああ」 | |||
| 262 | 春希 | 「ちょっとここで待ってろ。 タクシー呼んでくる」 | |||
| 263 | かずさ | 「いいよ。 ホテルまで歩いてすぐだ」 | |||
| 264 | 春希 | 「けど…」 | |||
| 265 | かずさ | 「こんな近い距離でタクシーなんか呼んだら 逆に運転手が可哀想だ。 他人を巻き込んでまで余計なお節介しようとするな」 | |||
| 266 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 267 | そして、今もまだ、必死で強がってんだ。 | ||||
| 268 | 多分、最初に俺が取った冷たい態度のせいで… | ||||
| 269 | かずさ | 「じゃ…今度こそ本当に戻るから」 | |||
| 270 | 春希 | 「待てよ」 | |||
| 271 | けれど、そんな強がりを見透かしてしまった以上、 看過することなんかできるわけがない。 | ||||
| 272 | かずさの前に立ち、背中を向けると、 ゆっくりと雪の積もる地面に膝をつく。 | ||||
| 273 | 染み込む雪解け水が、 膝を凍りつかせるほどに冷たい。 | ||||
| 274 | こんな地面に裸足で立つなんて、 あまりにも愚かな選択だとしか言いようがない。 | ||||
| 275 | かずさ | 「お前、何を…」 | |||
| 276 | 春希 | 「おぶされ」 | |||
| 277 | かずさ | 「…ご免だ」 | |||
| 278 | 春希 | 「ホテルまでだ。 嫌でも我慢しろ。 …歩いてすぐなんだろ?」 | |||
| 279 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 280 | だから俺は、さっきまでの最低な自分を都合良く忘れ、 かずさに向けて、強く干渉していく。 | ||||
| 281 | 責任感という免罪符を得られたから… | ||||
| 282 | かずさ | 「…いいのか?」 | |||
| 283 | 春希 | 「何が?」 | |||
| 284 | かずさ | 「お前、無理してないか?」 | |||
| 285 | 春希 | 「知るか」 | |||
| 286 | かずさ | 「…そう、か」 | |||
| 287 | 無理してないなんてことは、 さすがに今の俺には言えなかった。 | ||||
| 288 | 言えなかった、けど… | ||||
| 289 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 290 | それでもこいつは、 そんなおれの煮え切らない態度に妥協した。 | ||||
| 291 | その、長い艶やかな髪が俺の頬を撫で、 続いて、背中に柔らかな重みが伝わってくる。 | ||||
| 292 | 鼻腔に届く涼やかな香り。 首筋にかかる熱い吐息。 腕に込められた、ちょっと躊躇ぎみの力。 | ||||
| 293 | かずさを[R象^かたど]る全てが、 俺の五感を刺激する。 | ||||
| 294 | 春希 | 「行く、ぞ」 | |||
| 295 | かずさ | 「ん…」 | |||
| 296 | そんな全身を巡る快感を悟られないよう、 俺は、何事もなかったかのように立ち上がり、 雪の中、注意深く一歩目を進める。 | ||||
| 297 | さく、さくという音とともに、 俺とかずさが、ゆっくりと動き出す。 | ||||
| 298 | かずさ | 「なぁ…」 | |||
| 299 | 春希 | 「ん?」 | |||
| 300 | かずさ | 「北原………で、なくていいか?」 | |||
| 301 | 春希 | 「勝手にしろ…かずさ」 | |||
| 302 | かずさ | 「春希…」 | |||
| 303 | でも、もうすぐ終わるから。 | ||||
| 304 | かずさをホテルまで送り届けたら、 俺たちは、もう… | ||||
| 305 | ……… | .........
| |||
| 306 | …… | ......
| |||
| 307 | … | ...
| |||
| 308 | 春希 | 「うん…それで今もその人のホテル」 | |||
| 309 | 雪菜 | 「そっかぁ…大変だったね」 | |||
| 310 | 春希 | 「ごめん、本当に… 迎えに行けなくて」 | |||
| 311 | 雪菜 | 「ううん、そんなこといいよ。 それよりも、その人大丈夫なの?」 | |||
| 312 | 春希 | 「ん、大丈夫。 骨には異常ないみたいで、 ゆっくりなら歩けるっぽい」 | |||
| 313 | 雪菜 | 「よかったぁ。 せっかくこんな綺麗な街に来たのに、 ホテルから出られないんじゃ可哀想だもんね」 | |||
| 314 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 315 | 雪菜 | 「春希くん?」 | |||
| 316 | 春希 | 「あ、ああ… それで、悪いんだけど、 その人の連れの人が帰ってくるまで…」 | |||
| 317 | 雪菜 | 「ん…大丈夫。 ホテルならわかるし、大聖堂も… すっごいよね、街中のどこからでも見えるもん」 | |||
| 318 | 春希 | 「ミサには間に合わないかもしれないけど、 後で必ず合流するから…ごめん」 | |||
| 319 | 雪菜 | 「だから、謝らなくていいんだよ。 だって、海外旅行中でも人の面倒見ちゃうなんて、 とっても春希くんらしいじゃない」 | |||
| 320 | 春希 | 「………ごめん」 | |||
| 321 | 雪菜 | 「それじゃあね… 今からチェックインしてくるから」 | |||
| 322 | 春希 | 「うん…」 | |||
| 323 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 324 | 春希 | 「ごめん、雪菜」 | |||
| 325 | 曜子 | 「何よ、エレーヌと一緒にずっと待ってたのに」 | |||
| 326 | かずさ | 「しょうがないだろ、足痛めたんだから」 | |||
| 327 | 曜子 | 「だったら怪我したときにどうしてすぐ連絡しないの。 救急車でもヘリでも何でも呼んだのに」 | |||
| 328 | かずさ | 「…そうやってすぐ大げさにするからだ」 | |||
| 329 | 曜子 | 「それにしても…」 | |||
| 330 | かずさ | 「とにかく、そういう訳でミサには行けなくなった。 連れの人にも謝っておいて」 | |||
| 331 | 曜子 | 「…戻ろうか? そっちに」 | |||
| 332 | かずさ | 「いらない。 母さんがいたって意味がない」 | |||
| 333 | 曜子 | 「母親に向かってよくもまぁ… 確かに、役に立たないことは保証するけど」 | |||
| 334 | かずさ | 「じゃ、そろそろ切るから」 | |||
| 335 | 曜子 | 「でも、せっかくのイブにホテルで独り寝だと、 気が滅入ってこない?」 | |||
| 336 | かずさ | 「………別に」 | |||
| 337 | 曜子 | 「ほんと、我が娘ながらストイックなコ… それでよくもまぁあんな色ボケたピアノが弾けるわね」 | |||
| 338 | かずさ | 「そんなの単なる遺伝だ」 | |||
| 339 | 曜子 | 「でも、わたしの血が濃かったら、 ここまで執念深い女になったりは…」 | |||
| 340 | かずさ | 「じゃ! あたしの分まで楽しんできて。 それとミサの最中に電話してこないこと。 マナー違反だからな」 | |||
| 341 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 342 | かずさ | 「執念深くて…悪かったな」 | |||
| 343 | 春希 | 「救急箱、借りてきたから」 | |||
| 344 | かずさ | 「…別にそこまでしなくてもいいって言ったのに」 | |||
| 345 | 春希 | 「入ったら…マズいかな?」 | |||
| 346 | かずさ | 「春希だってミサに出るつもりだったんだろ? その…そろそろ行かないと間に合わないんじゃ?」 | |||
| 347 | 春希 | 「けど… 消毒と湿布、しないと」 | |||
| 348 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 349 | 春希 | 「入ったら…駄目か?」 | |||
| 350 | かずさ | 「………ほら」 | |||
| 351 | 春希 | 「悪い、な」 | |||
| 352 | かずさ | 「なんで謝るんだよ? 余計なお節介を焼く方が」 | |||
| 353 | 春希 | 「余計だから、じゃないのか?」 | |||
| 354 | かずさ | 「早く入れ。寒い」 | |||
| 355 | 春希 | 「ああ…」 | |||
| 356 | なにやってんだ、俺… 本当に、何をやってるんだ。 | ||||
| 357 | かずさは、別に治療なんか必要ないって言った。 もう、俺の助けなんかいらないって言ったんだ。 | ||||
| 358 | それどころか、俺がこうして部屋に居座ることの方が、 かずさにとって苦痛かもしれないってのに… | ||||
| 359 | 春希 | 「とりあえず、その…」 | |||
| 360 | かずさ | 「ん?」 | |||
| 361 | 春希 | 「別に、変な意味じゃなくて、 治療をするために絶対必要なことだから、 敢えて言わせてもらうけど…」 | |||
| 362 | かずさ | 「もってまわった言い方しなくていい。 要点だけ話せ」 | |||
| 363 | 春希 | 「ストッキング…脱いでくれ」 | |||
| 364 | かずさ | 「わかったよ…変態」 | |||
| 365 | 春希 | 「言うと思ってたから焦ったりしないぞ」 | |||
| 366 | そもそも、そう思われたって仕方ない。 | ||||
| 367 | 夜中と言ってもいい時間に、 女性一人の部屋に押しかけて、 あまつさえ、こんな誤解を受けそうなことを… | ||||
| 368 | 春希 | 「っ!? って、俺の目の前で脱ぐな馬鹿!」 | |||
| 369 | …してるってのに、その女性一人の方は、 あまりにも従順で、無防備だった。 | ||||
| 370 | 俺のことなんか… もう、男として意識してないのかな。 | ||||
| 371 | ……… | .........
| |||
| 372 | かずさ | 「熱っ!」 | |||
| 373 | 春希 | 「少し我慢しろ。 凍傷になりかけてんだから温めないと」 | |||
| 374 | かずさ | 「熱い、痛い、傷にしみる。 こんなことやってられるか」 | |||
| 375 | 春希 | 「ワガママ言うなよ…」 | |||
| 376 | 洗面器に張ったお湯に足を浸そうとしても、 かずさは表面に爪先をつけただけで すぐに抜け出してしまう。 | ||||
| 377 | かずさ | 「ワガママなんかであるもんか。 春希だって同じ目に遭ってみればわかる」 | |||
| 378 | 春希 | 「俺はそもそも裸足で雪の中を歩いたりしない」 | |||
| 379 | かずさ | 「…この冷血漢め」 | |||
| 380 | 春希 | 「もともと血が冷たかったら凍傷にもならないかもな。 ほら、拭くぞ」 | |||
| 381 | いちいち突っかかってくるかずさを適当にあしらい、 仕方ないのでタオルに浸したお湯で足を拭く。 | ||||
| 382 | 傷の回りの汚れを落とし、 それから足の裏や指の間まで念入りにぬぐう。 | ||||
| 383 | タオルを何度もお湯に浸し、 なるべく足全体が温まるように… | ||||
| 384 | 春希 | 「足首の方はどうだ?」 | |||
| 385 | かずさ | 「何の問題もない」 | |||
| 386 | 春希 | 「ここ…押しても?」 | |||
| 387 | かずさ | 「…っ! 別に」 | |||
| 388 | 春希 | 「…と言う前に息を呑むな」 | |||
| 389 | かずさ | 「平気だ」 | |||
| 390 | 春希 | 「じゃあ、こっちは?」 | |||
| 391 | かずさ | 「~~~っ!」 | |||
| 392 | 春希 | 「…全然平気じゃないだろ」 | |||
| 393 | かずさ | 「春希が強く押すからだ」 | |||
| 394 | 春希 | 「そうしないと症状が掴めないだろ。 …やっぱ湿布して包帯で固定しないとな」 | |||
| 395 | かずさ | 「そんなことしたら明日以降も外出できない。 バカンスが台無しだ」 | |||
| 396 | 春希 | 「諦めろ。自業自得だ」 | |||
| 397 | かずさ | 「悪かったなぁ…」 | |||
| 398 | 春希 | 「とりあえず、先に傷口の消毒するぞ。 その後湿布と包帯」 | |||
| 399 | かずさ | 「ったく、なんてめんどくさい」 | |||
| 400 | 春希 | 「擦り傷と打ち身としもやけを一気にこさえるからだ。 ほら、足こっち向けて。 しみると思うけど我慢しろよ」 | |||
| 401 | かずさ | 「できるか」 | |||
| 402 | 春希 | 「するんだ」 | |||
| 403 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 404 | ふてくされたようにやっと黙ったかずさの足を取り、 脱脂綿に含めた消毒薬を、 かかとの傷口につける。 | ||||
| 405 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 406 | 少しだけしみたような表情を見せたけど、 今度は、足首の時ほどの反応はなかった。 | ||||
| 407 | だから少しだけ安心して、 まずは一つ目の傷の治療に集中する。 | ||||
| 408 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 409 | なんだか… 昔も、こんなことあったような。 | ||||
| 410 | 俺の余計なお節介に、 かずさが文句ばかり垂れて。 | ||||
| 411 | けれど何だかんだ言いつつ、 俺のすることを受け入れて。 | ||||
| 412 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 413 | ああ、そうそう。 学園祭の三日くらい前だ。 | ||||
| 414 | かずさが熱を出して倒れてて。 | ||||
| 415 | それを見つけた俺が、慌てて医者呼んで、 雑炊作って、ギターの練習しながらずっと側にいて… | ||||
| 416 | 春希 | 「なぁ…そういえばさ」 | |||
| 417 | かずさ | 「ん…?」 | |||
| 418 | 春希 | 「………なんでもない」 | |||
| 419 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 420 | だから、馬鹿か俺は。 | ||||
| 421 | そんな五年前の、たった一日二日のこと、 今さら持ち出してどうするんだよ。 | ||||
| 422 | そんな五年前の、俺の大事な思い出を… 今さら、大事なんだってわざわざ本人に話して 一体どうしようってんだよ。 | ||||
| 423 | 春希 | 「次…湿布貼るぞ」 | |||
| 424 | 傷口を絆創膏で塞ぐと、 今度は足首の腫れの方に取りかかる。 | ||||
| 425 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 426 | 湿布の粘着面のシートを剥がすと、 お馴染みの匂いに、かずさが嫌そうな顔をする。 | ||||
| 427 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 428 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 429 | けれど俺が少し厳しめの視線を向けると、 そしらぬ顔でそっぽを向いたりして追及をかわす。 | ||||
| 430 | …少しくらいは気が咎めてるんだろうと、 なるべく好意的に解釈することにしよう。 | ||||
| 431 | 春希 | 「よし…こっちも終わり」 | |||
| 432 | 絆創膏に湿布に… かずさの、元から白かったはずの足は、 様々な白い布で不自然に白く染め上げられた。 | ||||
| 433 | けれどこの上にもう一つ、 今度は包帯でぐるぐる巻きにして、 全てを不自然に覆い尽くす必要がある。 | ||||
| 434 | …んだけれど。 | ||||
| 435 | 春希 | 「まだ…冷たいか?」 | |||
| 436 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 437 | 足先から裏にかけて、 触れるだけで凍りついてしまいそうなくらいだ。 | ||||
| 438 | この状態で包帯なんか巻いたら、 凍傷の方にはしつこく付きまとわれるかもしれない。 | ||||
| 439 | 春希 | 「やっぱ、お湯で温めた方が…」 | |||
| 440 | かずさ | 「もう無理だろ」 | |||
| 441 | 春希 | 「う…」 | |||
| 442 | 絆創膏と湿布のせいで、 もはや足を湯で温めることは不可能になっていた。 | ||||
| 443 | それは十分に予測できたことではあったけど、 でも、その事態を呼び込んだのはかずさの態度で。 | ||||
| 444 | かずさ | 「もういいよ。 あとは自分でやるから」 | |||
| 445 | 春希 | 「かずさ…」 | |||
| 446 | かずさ | 「ちっともありがたくなかったけど、 それでも形式的に感謝だけはしといてやるよ。 ありがとな」 | |||
| 447 | 春希 | 「その言葉を素直に喜べる奴がいたら 俺とは友達になれそうにないんだけど」 | |||
| 448 | かずさ | 「冗談だよ。 お前もミサ目当てに今日ここに来たんだろ? 今ならまだ間に合うぞ」 | |||
| 449 | 確かにもう、後は包帯を巻くだけだから、 かずさ一人でもなんとかなるだろう。 | ||||
| 450 | …というか、元々今までの治療だって、 かずさ一人でなんとかなったかもしれないけど。 | ||||
| 451 | 春希 | 「けど、お前も…ミサ」 | |||
| 452 | かずさ | 「さすがにこの足じゃな。 今夜くらいは大人しくしとくよ」 | |||
| 453 | だからもう、 俺にはこれ以上の世話をする義理も意味もない。 | ||||
| 454 | かずさの言う通り、今ならぎりぎりミサに間に合う。 急いで連絡を取れば、雪菜と合流だってできるかも。 | ||||
| 455 | 今の俺にとっては、それが明確な正解。 今の、『雪菜の俺』にとっては… | ||||
| 456 | かずさ | 「じゃあな、春希。 メリークリスマス」 | |||
| 457 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 458 | 選択肢は、一つしかないんだ。 | ||||
| 459 | ……… | .........
| |||
| 460 | …… | ......
| |||
| 461 | … | ...
| |||
| 462 | 春希 | 「あちっ…」 | |||
| 463 | かずさ | 「馬鹿かお前…」 | |||
| 464 | 春希 | 「誰のためだと…」 | |||
| 465 | かずさ | 「頼んでない、別に」 | |||
| 466 | 春希 | 「ほら、足出せ」 | |||
| 467 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 468 | 洗面器に張り替えたお湯は多分50度を軽く超えていて、 そこに手を浸すと、あっという間に赤く染まっていった。 | ||||
| 469 | 春希 | 「…冷て」 | |||
| 470 | かずさ | 「っ…は、ぁ」 | |||
| 471 | そんな火傷しそうな手を冷まそうと、 俺は、氷のように冷え切ったところに触れる。 | ||||
| 472 | …かずさの、足へと。 | ||||
| 473 | 春希 | 「どう、だ?」 | |||
| 474 | かずさ | 「なんか…しびれてきた」 | |||
| 475 | 春希 | 「それって、感覚戻ってきたってことか?」 | |||
| 476 | かずさ | 「ん…かも」 | |||
| 477 | 傷口を避けながら、 右足を両手で包み込むように握った。 | ||||
| 478 | 手のひらや指先からどんどん熱が奪われ、 かずさの足の冷たさと混ざり合っていく。 | ||||
| 479 | かずさ | 「…んぅ」 | |||
| 480 | しばらくの間、そうやってただ足に触れ、 手に篭もった熱を伝え終わった頃、 ゆっくりと手を動かし、マッサージする。 | ||||
| 481 | 春希 | 「痛かったら言えよ」 | |||
| 482 | かずさ | 「ちょっと…くすぐったい」 | |||
| 483 | 春希 | 「そっちは我慢しろ」 | |||
| 484 | かずさ | 「………うん」 | |||
| 485 | 足の裏を指で押し、爪先を手のひらでこすり、 足全体を握りしめ、 少しでも血行を復活させようと力を込める。 | ||||
| 486 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 487 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 488 | 本当に、なにやってんだろうな、俺。 こんなこと、女友達程度の相手にはしないぞ普通。 | ||||
| 489 | というか… 雪菜以外の相手には、 明らかに問題ある行為だろ、これ。 | ||||
| 490 | 春希 | 「…どうだ?」 | |||
| 491 | かずさ | 「ん…ちょっとは動かせるようになった、指」 | |||
| 492 | 春希 | 「じゃ次、左な」 | |||
| 493 | かずさ | 「うん」 | |||
| 494 | 春希 | 「~っ」 | |||
| 495 | かずさ | 「だから熱いって…」 | |||
| 496 | 春希 | 「でも、ま、さっきよりは平気だ。 何しろ手の方が冷え切ってるからな、今度は」 | |||
| 497 | かずさ | 「そう、か」 | |||
| 498 | 春希 | 「そうだよ。 ほら、左足」 | |||
| 499 | かずさ | 「ん…」 | |||
| 500 | 赤くなった両手をタオルで拭いて、 今度はかずさの左足を包み込む。 | ||||
| 501 | かずさ | 「ふぅぅ…ん」 | |||
| 502 | 俺の手の熱が染み込んでいくのに合わせ、 かずさが悩ましげに天井を見上げ、 鼻にかかったため息を漏らす。 | ||||
| 503 | …そういう声出すのは、 個人的には控えて欲しかったけど。 | ||||
| 504 | かずさ | 「はぁ…ぁ」 | |||
| 505 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 506 | こっちの足も、俺の手から熱がひくタイミングで、 その血の巡りを取り戻そうとマッサージをする。 | ||||
| 507 | 小さくて、白くて…そして柔らかいかずさの足。 | ||||
| 508 | まだ、温もりを取り戻してない。 冷たくて心細さを感じさせないでもない、足。 | ||||
| 509 | 春希 | 「こっち終わったら、お湯替えてもう一度な」 | |||
| 510 | かずさ | 「………ん」 | |||
| 511 | かずさはもう、『あとは自分でやる』とも、 『ミサに行けよ』とも、『じゃあな』とも言わない。 | ||||
| 512 | 俺のしつこさに説教するのを諦めたのか、 俺に言われるまま、左右の足を交互に差し出す。 | ||||
| 513 | この部屋の中だけ時間が止まってるみたいに 俺たちは、そんな単調で後ろめたい作業を繰り返す。 | ||||
| 514 | ……… | .........
| |||
| 515 | 春希 | 「右…」 | |||
| 516 | かずさ | 「ん」 | |||
| 517 | そうして俺の両手が、 かずさの左右の足を何度か往復し、 一往復するたびにお湯も張り替えて。 | ||||
| 518 | そんなことを繰り返していくうちに、 かずさの足は、ゆっくり、ゆっくりと、 本来の体温を取り戻しつつあった。 | ||||
| 519 | …ミサの開始時間は、過ぎていた。 | ||||
| 520 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 521 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 522 | ベッドに腰掛け、素足を差し出すかずさ。 | ||||
| 523 | 膝立ちで、その足に両手で触れ、 手のひらの熱で温め、マッサージを繰り返す俺。 | ||||
| 524 | …端から見たら、主従関係というか、 SとMというか、すごく歪んで見えるかもしれない。 | ||||
| 525 | 春希 | 「………な」 | |||
| 526 | かずさ | 「ん…?」 | |||
| 527 | けれど、俺たちの立場は、関係は… | ||||
| 528 | そんな、『歪んではいても近しい』ものとは、 絶対的に違うはずだって。 | ||||
| 529 | 春希 | 「バカンス…か?」 | |||
| 530 | かずさ | 「お前は?」 | |||
| 531 | 春希 | 「仕事… 俺、今年から出版社に就職したんだ」 | |||
| 532 | かずさ | 「社会人…なのか。 あの春希が…」 | |||
| 533 | 春希 | 「遅ればせながら、な」 | |||
| 534 | かずさ | 「そっか… 大学も、卒業したんだ」 | |||
| 535 | 春希 | 「もう、五年だから」 | |||
| 536 | かずさ | 「五年………なんだな」 | |||
| 537 | 春希 | 「うん…」 | |||
| 538 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 539 | 進むけれど、弾まない会話。 上がらないテンション。 合わせられない瞳。 | ||||
| 540 | 数時間前の再会の瞬間と同じように、 俺はかずさの足ばかりを見つめて、 決してその目を見ようとはしない。 | ||||
| 541 | ただ、それは無関心という訳じゃなくて、 無関心を装っているだけなのは明白で。 | ||||
| 542 | だって、この部屋に入ったときから、 気になって気になって仕方なかった。 | ||||
| 543 | 春希 | 「それで、さ」 | |||
| 544 | かずさ | 「ん?」 | |||
| 545 | けど、駄目だ。 そんな下世話で、立ち入ったことを聞いたら… | ||||
| 546 | 春希 | 「誰と、来てるんだ?」 | |||
| 547 | 聞くなって… | ||||
| 548 | かずさ | 「…なんでそう思う? あたしが一人じゃないって」 | |||
| 549 | 春希 | 「だって…ツインルームだろここ。 それに荷物だって」 | |||
| 550 | かずさ | 「聞きたいのか? あたしの連れのこと」 | |||
| 551 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 552 | だから、聞いたら駄目だって。 | ||||
| 553 | かずさ | 「あたしの相手の男のこと、 そんなに聞きたいのか?」 | |||
| 554 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 555 | もし、かずさの言う通り男と一緒だったら、 資格もないくせに、思いっきり傷つくだろ。 | ||||
| 556 | そして、相手が男であろうとなかろうと、 それを聞いてしまった以上は… | ||||
| 557 | かずさ | 「………なんてな、嘘だ。曜子だよ。 昨日、いきなり連れ出されたんだ。 急にストラスブールのミサに行きたいとか言い出して」 | |||
| 558 | 春希 | 「っ…そ、そっか。 そうなんだ」 | |||
| 559 | だから、ほっとするなよ俺。 そんなあからさまに、嬉しそうな顔するなよ。 | ||||
| 560 | 資格も、ないのに。 | ||||
| 561 | かずさ | 「お前も…」 | |||
| 562 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 563 | ほうら見ろ。 | ||||
| 564 | かずさ | 「誰かと、一緒なんだろ? 電話、してたもんな」 | |||
| 565 | 聞いたら、答えなくちゃならなくなるだろ。 それがわかってて、どうして聞いたんだよ。 | ||||
| 566 | かずさ | 「仕事関係の人か?」 | |||
| 567 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 568 | こっちは、かずさを安心させる言葉を 言うことができないのに。 | ||||
| 569 | …って、なんだよ安心って。 | ||||
| 570 | かずさ | 「プライベート、か?」 | |||
| 571 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 572 | 俺に相手がいなかったらかずさが安心するのか? | ||||
| 573 | 俺に相手が…大事なひとがいない可能性を、 まるでいいことみたいに表現するって、どういうことだよ。 | ||||
| 574 | かずさ | 「雪菜………か?」 | |||
| 575 | 春希 | 「………っ」 | |||
| 576 | 今の俺は、その問いかけにだけは、 まったくの無反応を貫くことはできなくて… | ||||
| 577 | かずさ | 「そっ………か」 | |||
| 578 | そして、俺の、ほんの少しだけ下に動いた頭を、 かずさは、見逃してはくれなかった。 | ||||
| 579 | かずさ | 「そうなんだ…」 | |||
| 580 | 春希 | 「………ん」 | |||
| 581 | 俺の手の中から、かずさの足がするりと抜け出していく。 | ||||
| 582 | でも今の俺には、それを引き留める力も、義務感も… そして、必要性もないはずだった。 | ||||
| 583 | かずさ | 「一緒に、来てるんだ。 雪菜と、フランスまで一緒に」 | |||
| 584 | 春希 | 「まぁ、な」 | |||
| 585 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 586 | かずさが、また天井を見上げ、 ほう、とため息をつく。 | ||||
| 587 | さっきの悩ましげな吐息とは違い、 敢えて感情を込めずに、気怠げに。 | ||||
| 588 | かずさ | 「いつ、なんだ? お前たち、その…」 | |||
| 589 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 590 | そんなかずさの口から漏れたその質問は、 二通りの意味に取れた。 | ||||
| 591 | 未来を問いかけているのか、 過去を確かめているのか。 | ||||
| 592 | でも『ちゃんと質問の意図を絞り込めよ』って、 細かい指摘をする俺は、今この場にはいなくて。 | ||||
| 593 | だから… 伝えたいことだけを、正直に。 | ||||
| 594 | 1.近いうちに申し込むつもりだ | Choice | |||
| 595 | 2.二年前からつきあってる | Choice | |||
| 596 | 春希 | 「近いうちに… 向こうがOKしてくれたら、だけど」 | |||
| 597 | かずさ | 「………っ」 | |||
| 598 | ある意味、決定的な言葉を告げながら、 クローゼットにちらりと目をやる。 | ||||
| 599 | そこにかけられたコートのポケットには、 [Rそのため^プロポーズ]のアイテムがしまい込まれている。 | ||||
| 600 | その、魔法のリングが、 俺に勇気を与えてくれた。 | ||||
| 601 | 過去からの因縁に連なる思い出の魔女に、 最後の戦いを挑む勇気を。 | ||||
| 602 | 冒険を、終わらせてしまうための勇気を。 | ||||
| 603 | 春希 | 「つきあい始めたのは… 大学四年になる直前、かな。 だから、もうすぐ二年になる」 | |||
| 604 | その答えが、本当にかずさの求める内容に 則したものだったのか、俺にはわからない。 | ||||
| 605 | けど、何を答えても、それは多分 かずさの聞きたかったことであり… | ||||
| 606 | そして俺にとっては、何を答えても、 話したくないことだったかもしれなくて… | ||||
| 607 | 結局のところ、二人にとっては、 もう意味のないはずのことだった。 | ||||
| 608 | かずさ | 「………随分と時間がかかったんだな」 | |||
| 609 | 春希 | 「ま、色々あってな…」 | |||
| 610 | かずさ | 「色々、か」 | |||
| 611 | その時、かずさが思い浮かべた『色々』に、 かずさ自身は登場していたんだろうか。 | ||||
| 612 | 俺と雪菜の回り道に… けれど、それ故固く結ばれた絆に、 どれだけ深く関わってるか自覚してるんだろうか。 | ||||
| 613 | …なんて、伝えるつもりもないけれど。 俺も雪菜も、墓まで持っていくつもりだけど。 | ||||
| 614 | かずさ | 「よかったな。本当によかった… お前には、勿体なさ過ぎる相手じゃないか」 | |||
| 615 | 春希 | 「そう思う、俺も」 | |||
| 616 | かずさ | 「本当に、本当にいいコだもんな、雪菜」 | |||
| 617 | 春希 | 「ああ…」 | |||
| 618 | かずさ | 「世界中探しても、あんな素敵な恋人はいないぞ。 可愛くて、優しくて、心が綺麗で、一途で…」 | |||
| 619 | 春希 | 「わかってる、よ」 | |||
| 620 | かずさが、雪菜を褒めちぎる。 俺たちを、祝福する。 | ||||
| 621 | 雪菜の友達として相応しい言葉。 友達の彼に対しての合格点の態度。 | ||||
| 622 | かずさ | 「おめで、と」 | |||
| 623 | 春希 | 「うん…」 | |||
| 624 | かずさ | 「うん、うん… そっか、そっかぁ…は、はは…」 | |||
| 625 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 626 | だけど、かずさは気づいてない。 | ||||
| 627 | 自分のそんな優等生な態度の中に潜む、 致命的な矛盾に。 | ||||
| 628 | かずさ | 「お幸せに、な。 …なんて、言うまでもないことだけどさ」 | |||
| 629 | 雪菜が、すぐ近くにいるってわかってるのに… | ||||
| 630 | なのにかずさから、 『会いたい』の一言が出てこない。 | ||||
| 631 | すぐに連絡が取れるのに。 俺がかずさのことを話すだけで、 あっという間に駆けつけてくるに決まってるのに。 | ||||
| 632 | それでもかずさは、 頑なに今の時間を壊そうとしない。 | ||||
| 633 | 春希 | 「かずさも…おめでとう。 凄いじゃないか、ジェバンニコンクール」 | |||
| 634 | かずさ | 「全然。 だって、四位だぞ?」 | |||
| 635 | 春希 | 「でも、クラシックファンでなくても 誰でも知ってる有名なコンクールで入賞だ。 もう、日本人の全員がお前の名前を覚えたぞ?」 | |||
| 636 | そして俺は、 そんな穏やかな会話の流れに抗えない。 | ||||
| 637 | かずさ | 「…なんだよ、それ。 いつの間にそんなことになってんだよ?」 | |||
| 638 | 春希 | 「発表があった日は、 お前のことを取り上げないニュースはなかった。 あのインタビュー、テレビで10回くらい見たぞ」 | |||
| 639 | かずさ | 「勘弁してくれ… なんで日本人はそんな妙な反応するんだ?」 | |||
| 640 | 結局俺は、最後の戦いを終わらせられない。 自分で決着をつけられない。 | ||||
| 641 | ただ、時間切れを待つだけだった。 | ||||
| 642 | ……… | .........
| |||
| 643 | 春希 | 「これで…よし。 立てるか?」 | |||
| 644 | かずさ | 「…なんとか」 | |||
| 645 | 最後に、右の足首を包帯で固定して、 これで治療は全て終わった。 | ||||
| 646 | 春希 | 「痛くないか? きつくないか?」 | |||
| 647 | かずさ | 「ん…どっちも平気」 | |||
| 648 | かずさは、まだ少し足を引きずりながら、 けれどそれほど痛そうな仕草も表情もなく、 動かない足首でゆっくり歩いてみせた。 | ||||
| 649 | その『平気』という言葉が、 今度は強がりではないって信じられた。 | ||||
| 650 | だから… | ||||
| 651 | 春希 | 「それじゃ、俺そろそろ」 | |||
| 652 | かずさ | 「………ああ」 | |||
| 653 | 俺がここにいる意味が、なくなった。 | ||||
| 654 | 春希 | 「曜子さんに…よろしくな」 | |||
| 655 | かずさ | 「言っとく」 | |||
| 656 | クローゼットを開け、コートを取り出す。 | ||||
| 657 | 後ろ髪を引かれないと言えば… 嘘かどうかすらわからないけれど。 | ||||
| 658 | でも、引きつるような焦燥感や、 狂おしいほどの寂寥感みたいなのとは、 とりあえず無縁でいられた。 | ||||
| 659 | ただ、さっきのかずさの態度と同じように、 気怠い無常感みたいなのがじわじわと全身を覆う。 | ||||
| 660 | 春希 | 「お大事に、な」 | |||
| 661 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 662 | 時計を見ると、もう午前1時半。 ミサもそろそろ終わる頃。 | ||||
| 663 | 雪菜とイブを一緒に過ごすという約束も、 一週間ルールも… | ||||
| 664 | 何もかも反故にして、 さらに嘘の言い訳までついて、 かずさと一緒にいることを選んだ俺。 | ||||
| 665 | 最低の選択に対する自嘲。 雪菜への後ろめたさ。 そんな感情が、錐を揉み込むように心に刺さる。 | ||||
| 666 | 俺、今から雪菜にどんな顔して会えばいいんだろう。 なんて言葉をかけたら許してくれるんだろう。 | ||||
| 667 | 春希 | 「おやすみ…」 | |||
| 668 | かずさ | 「………っ! は、春希!」 | |||
| 669 | 春希 | 「え…」 | |||
| 670 | かずさ | 「そ、その… お前、明日発つのか?」 | |||
| 671 | 春希 | 「え…?」 | |||
| 672 | 心だけが既にここになかったせいで、 その、かずさの切羽詰まった表情に、 今の今まで気づかなかった。 | ||||
| 673 | かずさ | 「日本に…帰っちゃうのか?」 | |||
| 674 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 675 | ここにいる意味がなくなったと思ってたのは、 俺の方だけだった…のか? | ||||
| 676 | かずさ | 「いや…そんなこと聞いても意味ないんだけどな。 ただ旅先で偶然会っただけなんだし、それに… 雪菜と、一緒なんだもんな」 | |||
| 677 | 春希 | 「かずさ…」 | |||
| 678 | 俺の方だけが、切り替えてたのか? | ||||
| 679 | かずさ | 「別に、なんでもない。 たださ…久しぶりに日本の知り合いに会ったから、 ちょっと懐かしくなっちゃっただけでさ」 | |||
| 680 | もしかして、かずさ… | ||||
| 681 | 春希 | 「明日のこと…聞いてないのか?」 | |||
| 682 | かずさ | 「…明日?」 | |||
| 683 | 春希 | 「そっか…」 | |||
| 684 | どうやらこの、最後の最後での温度差は、 俺たちの情報格差のせいだったらしい。 | ||||
| 685 | 俺は、明日があるって知っていた。 けれどかずさは、今日限りだって… | ||||
| 686 | 春希 | 「じゃあ… 『また明日』な」 | |||
| 687 | かずさ | 「え…」 | |||
| 688 | そんなかずさの情報不足のおかげで… | ||||
| 689 | いや、情報不足のせいで、 こいつの本音っぽい態度を垣間見てしまった。 | ||||
| 690 | 春希 | 「………っ」 | |||
| 691 | 無常感は一瞬で吹き飛び、 様々な思いが頭の中をかき回すように飛び交った。 | ||||
| 692 | ……… | .........
| |||
| 693 | それから自分のホテルにどうやって戻ったのか、 まったく覚えていない。 | ||||
| 694 | ただ気がついたら、 目の前のベッドで雪菜が眠ってて。 | ||||
| 695 | 俺はその頬を撫で、軽くくちづけて、 そのままソファーに寝転がり目を閉じた。 | ||||
| 696 | でも…結局一睡もできなかった。 | ||||
| 697 | ……… | .........
| |||
| 698 | …… | ......
| |||
| 699 | … | ...
| |||
| 700 | 雪菜 | 「雪、あらかた溶けちゃったね」 | |||
| 701 | 春希 | 「うん…」 | |||
| 702 | 12月25日。 午前7時過ぎ。 | ||||
| 703 | 夜半に降っていた雪は、 日付が変わる頃には雨に変わったらしかった。 | ||||
| 704 | 街を覆っていた雪は消え、朝方に雨も消え、 代わりに川から立ち上る霧が、 早朝の街をまたしても白く取り囲む。 | ||||
| 705 | けれど、今の俺は… | ||||
| 706 | 雪菜 | 「どうしたの? 元気ないみたい」 | |||
| 707 | 春希 | 「そんなことは…」 | |||
| 708 | 中世から抜け出たような木造りの家々も。 立ちこめる朝もやに幽玄に煙る川岸も。 | ||||
| 709 | そんな、普段なら感嘆すべき景色が、 目には入ってたけど、 頭にはまったく入ってこなかった。 | ||||
| 710 | 雪菜 | 「もしかして風邪でもひいた? だからベッド使えばよかったのに。 ソファーなんかで寝るから」 | |||
| 711 | 春希 | 「雪菜を…起こしちゃうかなって」 | |||
| 712 | また、嘘を重ねた。 | ||||
| 713 | 雪菜を起こさなかったのは、 配慮に見せかけた逃避だった。 | ||||
| 714 | だってあの時の俺には、 雪菜の温かい肌に触れる資格はなかったから。 | ||||
| 715 | 雪菜 | 「そんなこと構わなかったよ。 当たり前でしょ?」 | |||
| 716 | 春希 | 「ごめん、本当にごめん」 | |||
| 717 | 雪菜 | 「ううん、わたしこそ… 春希くん戻ってきたときに起きれなくてごめんね?」 | |||
| 718 | 春希 | 「雪菜…ごめんな」 | |||
| 719 | 雪菜 | 「もういいよぉ… そこまで申し訳なさそうにされると、 わたしまで辛い気持ちになっちゃう」 | |||
| 720 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 721 | 俺の、その後ろめた過ぎる態度は、 昨夜の大反則のせいで、 絶妙にカモフラージュされてしまっていた。 | ||||
| 722 | イブに、雪菜と会えなかった。 一週間、雪菜と会えなかった。 | ||||
| 723 | 雪菜が楽しみにしてたクリスマスミサも、 俺が台無しにしてしまった。 | ||||
| 724 | 雪菜 | 「春希くんは、正しいことをしたんだから。 もっと胸を張ってよ」 | |||
| 725 | 雪菜にそんなに酷いことをしてしまった事実が、 俺のこの態度に、説得力を持たせてしまっていた。 | ||||
| 726 | 雪菜 | 「それに、ちゃんとこうして会えたんだから。 ストラスブールの街を一緒に歩いてるんだから… だから、わたしはもう十分だよ」 | |||
| 727 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 728 | だから雪菜は、俺の心の中身に気づかない。 後悔の理由を見誤ってしまってる。 | ||||
| 729 | 雪菜 | 「今日のお仕事は何時から?」 | |||
| 730 | 春希 | 「朝の10時から。 夕方…5時には終わると思う」 | |||
| 731 | 雪菜 | 「じゃあ、今夜は一緒に過ごせるかもね。 観光もできるかもね…」 | |||
| 732 | 春希 | 「約束する。 昨日の埋め合わせ、絶対するから」 | |||
| 733 | 雪菜 | 「だからそんなに決めつけないの。 仕事なんて予定通り行く方が珍しいって、 わたしだってよく知ってるんだから」 | |||
| 734 | 春希 | 「ごめ………いや、わかった。 なるべく努力する」 | |||
| 735 | 雪菜 | 「うん、それくらいでいい。 わたしのために頑張ってくれれば、それでいいよ」 | |||
| 736 | 春希 | 「…ありがとう」 | |||
| 737 | いつもなら、もう少しワガママを言ったかもしれない。 | ||||
| 738 | けどここは旅先で、しかも日本ですらなくて、 知ってる人間がお互いしかいないこんな環境だから、 雪菜も気を使ってくれてるんだってわかる。 | ||||
| 739 | 雪菜 | 「それじゃ、ホテルに戻ろうか? そろそろ朝食の時間じゃない?」 | |||
| 740 | 春希 | 「うん」 | |||
| 741 | 雪菜の差し出した左手を、右手でぎゅっと握る。 | ||||
| 742 | そしてもう片方の手は、 ポケットの中の小箱に触れていた。 | ||||
| 743 | 結局、イブの夜という絶好の機会を逃してしまった。 全部、自分のせいで。 | ||||
| 744 | 雪菜 | 「どんなものが出るのかなぁ、楽しみ。 昨夜は時間なかったから、 空港のハンバーガーショップだったんだよねぇ」 | |||
| 745 | 春希 | 「朝食にそんな期待したって無駄。 日本とそんなに変わらないって。 …その代わり夜に期待してて」 | |||
| 746 | 雪菜 | 「うん! ほどほどに期待しとく」 | |||
| 747 | 春希 | 「…ほどほどに任せて」 | |||
| 748 | 雪菜の手のひらと言葉から、 温かいぬくもりを感じつつ… ホテルに戻る道すがら、もう一度決意を新たにする。 | ||||
| 749 | これ以上、 こんな後ろめたい気持ちを抱えきれない。 こんな、綺麗だけど心の苦しい場所にいられない。 | ||||
| 750 | だから、あと一日だ。 かずさへの取材を終わらせて、 一刻も早く日本へ戻ろう。 | ||||
| 751 | 俺と雪菜がいるべき場所に、帰ろう。 | ||||
| 752 | ……… | .........
| |||
| 753 | 春希 | 「開桜社の北原と申します。 今日はどうかよろしくお願いします」 | |||
| 754 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 755 | 春希 | 「このたびはお忙しいところ、 こちらの無理を聞いていただきありがとうございました。 編集長の吉松からも、冬馬さんにくれぐれもよろしくと」 | |||
| 756 | 曜子 | 「………ギター君?」 | |||
| 757 | 春希 | 「…北原です。 お久しぶりです」 | |||
| 758 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 759 | 今まで一度しかそう呼ばれたことはないけれど、 なんとなく、懐かしい響きがした。 | ||||
| 760 | やっぱりインパクトあったからな…この人との出会いも。 | ||||
| 761 | 春希 | 「それで、かずさ…さんは?」 | |||
| 762 | 曜子 | 「ちょ、ちょっと待って! 中に入るの、少しだけ待ってちょうだい!」 | |||
| 763 | 春希 | 「冬馬さん?」 | |||
| 764 | 曜子 | 「ここでこういう展開は予想してなかったわよ… どうしてあなたが来るのよ?」 | |||
| 765 | 春希 | 「ええと…今年から開桜社に入社しまして」 | |||
| 766 | 曜子 | 「…それはおめでとう。 そっか、もう大学卒業したのか。 大きくなったわねぇ」 | |||
| 767 | 春希 | 「…ありがとうございます」 | |||
| 768 | そしてなぜか彼女の方も、 一度しか会ったことのないはずの俺に対して、 随分と印象が強かったみたいだった。 | ||||
| 769 | 曜子 | 「…と、それはそれとして、困ったわねぇ」 | |||
| 770 | 春希 | 「何か問題でも?」 | |||
| 771 | 曜子 | 「…ないとでも思ってるの? いきなりあなたと顔を合わせたりしたら、 あの子、パニックになりかねないわよ」 | |||
| 772 | 春希 | 「ええと…」 | |||
| 773 | それは既に昨日… しかも、かずさじゃなくて俺の方が… | ||||
| 774 | ってのは置いておくとしても、 なんだか全然話が通ってないみたいだった。 | ||||
| 775 | そもそも取材を承諾したのは冬馬曜子事務所なのに、 その社長たる曜子氏は、取材者の名前も知らないし。 | ||||
| 776 | そしてかずさと俺が、昨夜… | ||||
| 777 | かずさ | 「いいよ、入ってもらって」 | |||
| 778 | 春希 | 「あ…」 | |||
| 779 | 曜子 | 「かずさ?」 | |||
| 780 | かずさ | 「別に、誰でも興味ない。 さっさと終わらせてさっさと帰ってもらう」 | |||
| 781 | 部屋の奥から、懐かし…くもない声が聞こえてきた。 | ||||
| 782 | 気怠げで、冷たくて、事務的で… 知らない人が聞いたら、 取材嫌いのアーティストが板についた態度。 | ||||
| 783 | 曜子 | 「…あなた知ってたの?」 | |||
| 784 | かずさ | 「あんたこそ知らなかったのかよ…」 | |||
| 785 | これが最後とばかりに悲壮な決意で臨んだ、 かずさとの再びの対面は… | ||||
| 786 | こんな感じで、いきなり肩透かしから始まった。 | ||||
| 787 | ……… | .........
| |||
| 788 | 春希 | 「…それで、インタビューの後、写真撮影になります。 15時頃カメラマンが合流する予定になってますので」 | |||
| 789 | かずさ | 「写真なんて冗談じゃ…」 | |||
| 790 | 曜子 | 「はいはい、綺麗に撮ってやってね? 元が無愛想だからその辺上手くごまかして頂戴」 | |||
| 791 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 792 | 春希 | 「予定は以上ですが、 何か質問はありませんか?」 | |||
| 793 | 曜子 | 「あ~、いいからいいから。 さっさと始めましょ」 | |||
| 794 | 春希 | 「かずささんもいいですか?」 | |||
| 795 | かずさ | 「勝手にしろ」 | |||
| 796 | 春希 | 「そういえば、足の方は大丈夫…」 | |||
| 797 | かずさ | 「何のことだ?」 | |||
| 798 | 春希 | 「………では始めます。 よろしくお願いします」 | |||
| 799 | 取材対象の『快い』同意のもと、 俺はICレコーダーのスイッチを入れて、 テーブルの上に置いた。 | ||||
| 800 | 春希 | 「まず最初に… ジェバンニ国際ピアノコンクール入賞 おめでとうございます」 | |||
| 801 | かずさ | 「何か月前の話をしてるんだ… そんなの、もうとっくに忘れた」 | |||
| 802 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 803 | 曜子 | 「つまりもう次の目標に向けて動き出してるってこと! ほら、過去の栄光に囚われず、 ひたすら前を見続けて、ね?」 | |||
| 804 | かずさ | 「何が栄光だ。 四位なんて選外もいいところだ。 大体、冬馬曜子と同じ順位なんて…」 | |||
| 805 | 曜子 | 「いきなり大人げないわよ、かずさ」 | |||
| 806 | かずさ | 「そうやって最初からいちいち口を出すなら 全部あんたが答えればいいんだ」 | |||
| 807 | 曜子 | 「よくもまぁそんな大きな口が叩けるわね。 あんな権威の落ちまくったコンクールに入賞した程度で」 | |||
| 808 | かずさ | 「だから興味がないって…」 | |||
| 809 | 曜子 | 「大体、わたしは日本人で最初の入賞者だったのよ? そしてあなたは8人目」 | |||
| 810 | かずさ | 「それが何だよ?」 | |||
| 811 | 曜子 | 「今みたいに数十人単位で海を渡ってく時代と比べて、 ヨーロッパ以外の外国人にどれだけ狭き門だったか… 今なんて毎回誰かしら入賞してるし、珍しくも何とも」 | |||
| 812 | かずさ | 「すぐそうやって自分が上だって決めつける! 大人げないのはどっちだ!」 | |||
| 813 | 春希 | 「…どっちもだと思います」 | |||
| 814 | ……… | .........
| |||
| 815 | 春希 | 「続いて、来年の活動予定についてですが… 一部では日本公演との噂もあるようですが」 | |||
| 816 | かずさ | 「行かない」 | |||
| 817 | 春希 | 「そう、ですか」 | |||
| 818 | 曜子 | 「あ~、いえ、現在はまだ白紙の状態で… 来年は欧州以外でも コンサートツアーを企画していることは確かです」 | |||
| 819 | かずさ | 「それでも日本へは行かない。 これだけは確かだ」 | |||
| 820 | 曜子 | 「かずさ…」 | |||
| 821 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 822 | かずさ | 「…安心したか?」 | |||
| 823 | 曜子 | 「え?」 | |||
| 824 | 春希 | 「日本のファンは、 あなたの演奏に直接触れる機会を熱望していますが?」 | |||
| 825 | かずさ | 「決めるのはあたしだ。 冬馬曜子でも、ましてや…」 | |||
| 826 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 827 | かずさ | 「…生まれ故郷とか、そういう郷愁に興味はない。 あたしには[Rウィーン^こっち]の水が合ってるんだ。 当分、動くつもりはない」 | |||
| 828 | 春希 | 「そうですか、残念です」 | |||
| 829 | かずさ | 「いい加減な社交辞令はよしてくれ」 | |||
| 830 | 春希 | 「そんなんじゃ… いえ、すいません」 | |||
| 831 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 832 | ……… | .........
| |||
| 833 | 春希 | 「冬馬曜子さんについては…」 | |||
| 834 | かずさ | 「本人に聞けばいいだろ。 そこにいるんだから」 | |||
| 835 | 春希 | 「かずささんから見た曜子さんのことを… 師匠として、ライバルとして、 そして母親としてどう思われてるか…」 | |||
| 836 | かずさ | 「あたしの師匠はフリューゲルだ。 ここ数年、この人には教えてもらってない」 | |||
| 837 | 曜子 | 「だぁってめんどくさいんだもん。 それにわたし、ひとに教えるの苦手」 | |||
| 838 | かずさ | 「おかげでなかなか差が縮まらない。 ライバルとしては高い壁だってのは認めてる」 | |||
| 839 | 曜子 | 「どうりで昨日雪が降った訳ね。 そんな殊勝な台詞、初めて聞いたわ」 | |||
| 840 | かずさ | 「そして母親としては… ご覧の通り、最低だ」 | |||
| 841 | 曜子 | 「…どうりで今日は止んでる訳ね」 | |||
| 842 | 春希 | 「そうですか? 先ほどからお二人の会話を聞いていると、 友達というか、姉妹みたいな感じですが」 | |||
| 843 | かずさ | 「いくら話が通じようと、 母親として機能しないんだからしょうがない」 | |||
| 844 | 曜子 | 「はいはい…」 | |||
| 845 | 春希 | 「機能しない…って」 | |||
| 846 | かずさ | 「家事はしない。めったに家に帰らない。 帰ってきたかと思えば友達連れ込んで大騒ぎ。 一緒に暮らしてても、結局昔と何も変わらない」 | |||
| 847 | 春希 | 「昔って…いつの頃ですか? どんな状況の話ですか?」 | |||
| 848 | かずさ | 「…知ってるくせに」 | |||
| 849 | 春希 | 「読者は、知りません」 | |||
| 850 | かずさ | 「っ、そんなこと人に話す義理なんかない! とにかく、あたしは…」 | |||
| 851 | 春希 | 「全然違います。 …そんなの、昔と全然違う」 | |||
| 852 | かずさ | 「なんだと?」 | |||
| 853 | 春希 | 「いいお母さんじゃないですか。 どこが気に入らないんですか?」 | |||
| 854 | かずさ | 「母親としては全部だ。最低の母親だ。 どうして子供は親を選べないんだろうな」 | |||
| 855 | 春希 | 「つまらない一般論だ」 | |||
| 856 | かずさ | 「喧嘩売ってんのか?」 | |||
| 857 | 春希 | 「吹っ掛けてるのはそっちだろ? 娘をバカンスに連れ出す母親のどこが最低だ?」 | |||
| 858 | かずさ | 「あたしは行きたいなんて一言も言ってない。 しかもこんな取材があることを隠してまで…」 | |||
| 859 | 春希 | 「それでも一緒にいること、お前全然嫌がってないだろ。 一緒にいてもいいって気にさせてくれる親なんだぞ? お前、その価値全然認めないつもりか?」 | |||
| 860 | かずさ | 「っ! 自分と比べるな! 他人の家の事情なんてあたしは知ったことか!」 | |||
| 861 | 春希 | 「羨ましがって何が悪い! 妬んでどうしていけない! お前、完全に仲直りしてんのに贅沢にも程があるだろ!」 | |||
| 862 | かずさ | 「春希! お前!」 | |||
| 863 | 曜子 | 「は~いはい、そこまで~。 今は仕事中ですよ~、お互い」 | |||
| 864 | 春希 | 「あ…」 | |||
| 865 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 866 | 曜子 | 「ギター君もね、わたしの味方してくれるのは嬉しいけど、 取材側が自分の意見を押しつけるのはどうかな?」 | |||
| 867 | 春希 | 「す、すいません…」 | |||
| 868 | 曜子 | 「ぶっちゃけ、かずさだってネタのつもりなんだから、 そこで君が本気で反応しちゃ、 カッコ悪いんじゃないかなぁ?」 | |||
| 869 | かずさ | 「ネタでなんかあるものか。 あんたは母親としては…」 | |||
| 870 | 曜子 | 「黙れバカ娘。 昔の男と再会したからって舞い上がってんじゃない」 | |||
| 871 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 872 | 春希 | 「え…?」 | |||
| 873 | 曜子 | 「それとも、自分の中ではまだ昔だなんて…」 | |||
| 874 | かずさ | 「…黙れバカ母。 あたしも黙るから、黙れよ」 | |||
| 875 | 曜子 | 「はいはい」 | |||
| 876 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 877 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 878 | 曜子 | 「ま、そんなわけで、喧嘩両成敗。 さて、続きをどうぞ開桜社さん」 | |||
| 879 | 春希 | 「あ、え、その…すいません」 | |||
| 880 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 881 | 春希 | 「それじゃ次の質問を…」 | |||
| 882 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 883 | 春希 | 「もし、ピアニストという道を選ばなかったとしたら、 今の自分はどうなっていたと思いますか?」 | |||
| 884 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 885 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 886 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 887 | 春希 | 「あの…曜子さん」 | |||
| 888 | 曜子 | 「ん? どうしてわたしに振るの?」 | |||
| 889 | 春希 | 「かずささんにさっき言った『黙れ』、 撤回していただけますか?」 | |||
| 890 | 曜子 | 「………あ~」 | |||
| 891 | 春希 | 「そういう人間なんです、彼女。 よくわかってるでしょうけど」 | |||
| 892 | 曜子 | 「君もよくわかってるわねぇ…」 | |||
| 893 | かずさ | 「………っ」 | |||
| 894 | ……… | .........
| |||
| 895 | かずさ | 「ピアニストになってなかったら? そんなの、引きこもりに決まってる」 | |||
| 896 | 春希 | 「そりゃそう思うけど…」 | |||
| 897 | 曜子 | 「思うんだ…」 | |||
| 898 | かずさ | 「一人で住むには大きすぎる家があって、 使い切れない金があって、お手伝いさんもいて… それでも働こうなんて奴の気が知れない」 | |||
| 899 | 曜子 | 「やっぱり育て方間違えた?」 | |||
| 900 | かずさ | 「別に間違えてなんていなかったよ。 何しろ、その頃は育てられてなかった」 | |||
| 901 | 曜子 | 「はいはい…」 | |||
| 902 | かずさ | 「本当ならあたしは、付属を卒業した後も、 進学もせず、就職もせず、日本に引きこもって、 無為で無駄で、最高の時間を過ごしてたはずなんだ」 | |||
| 903 | かずさ | 「ところが今のあたしは、 未だに一日十時間練習させられてる。 冗談みたいに毎日ピアノと向き合ってる」 | |||
| 904 | かずさ | 「………全部、お前のせいだよ」 | |||
| 905 | 春希 | 「っ…」 | |||
| 906 | 曜子 | 「ここは…オフレコでお願いね?」 | |||
| 907 | ……… | .........
| |||
| 908 | …… | ......
| |||
| 909 | … | ...
| |||
| 910 | 曜子 | 「お疲れさま」 | |||
| 911 | 春希 | 「…こちらこそ。 色々とありがとうございました」 | |||
| 912 | インタビューは、当初の予定から30分ほど延長して、 なんとか無事ではなかったけれど タイムリミットに救われた。 | ||||
| 913 | そして今は、こちらも30分遅れて到着した 現地のカメラマンが、まるで口説いているかのように かずさをカメラのレンズ越しに視姦してる。 | ||||
| 914 | 俺と曜子さんは、街角のオープンテラスに腰掛け、 そんな見せ物みたいな光景を遠くから他人事に眺めては、 ますますかずさの不興を買っていた。 | ||||
| 915 | 曜子 | 「今までわたしも娘も、 各国の色んなメディアから取材受けてきたけど、 間違いなく今回のが一番酷かったわね」 | |||
| 916 | 春希 | 「…申し訳ありません。 経験不足…は言い訳になりませんけど、 いずれ上司共々改めてお詫びさせていただきます」 | |||
| 917 | 曜子 | 「別に謝ってもらう必要はないわよ。 酷かったのはかずさの方だから。 わたしがフォローに回るなんて生まれて初めてかも」 | |||
| 918 | 春希 | 「…そうですか? いつもあんな感じだと思ってましたけど」 | |||
| 919 | 曜子 | 「そう、ギター君にはいつもあんな感じだったんだ…」 | |||
| 920 | 春希 | 「え…」 | |||
| 921 | 曜子 | 「色んな感情出しまくって、ぶつけまくって、 後悔して、ためらって、空回りして… あんな乙女を生んだ覚えはないんだけどね」 | |||
| 922 | 春希 | 「…それはともかく、 冬馬さん、よく俺のこと覚えてましたね」 | |||
| 923 | 曜子 | 「二年前アンサンブルに載った、 日本で最初のかずさの特集記事… あれ書いたのあなたでしょ?」 | |||
| 924 | 春希 | 「…知ってたんですか」 | |||
| 925 | 曜子 | 「いいえ、気づいたのよ。 あそこまであの子のことを理解してる人間、 わたしの知る限り、日本には一人しか残ってないから」 | |||
| 926 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 927 | かずさのことで俺に踏み込んでくる曜子さんを、 なんとか別の話題で振り切ろうとしたけれど、 どうやら年季が違うらしかった。 | ||||
| 928 | 曜子 | 「だからわたしのコンサートチケット送ったのに、 結局、ふられちゃったわね。 …最前列で空いてたのはあなたの席だけだったわよ」 | |||
| 929 | 春希 | 「…すいません。 そんなプラチナチケットとは知らなくて」 | |||
| 930 | 曜子 | 「いいのよ、あの時はそういう運命だったんでしょ。 あなたと、かずさは」 | |||
| 931 | 春希 | 「え…?」 | |||
| 932 | 曜子 | 「にこりともしないわね、あの子… あんなんでいいの? おたくの雑誌」 | |||
| 933 | 最後に付け加えた一言を聞きとがめ、 ふと、彼女に振り返ったとき、 すでにその表情は、ふてくされる娘の方に注がれていた。 | ||||
| 934 | やっぱり、年季が違ってる。 …まぁ、あまり年季年季と本人に言うと、 誉め言葉とは取ってもらえなさそうだけど。 | ||||
| 935 | 春希 | 「あれがいいらしいんですよ日本では。 ミステリアスだとか何とか」 | |||
| 936 | 曜子 | 「ふてくされてるだけなのにねぇ」 | |||
| 937 | 春希 | 「…ですね」 | |||
| 938 | 相変わらず、 カメラマンに熱い調子で語りかけられているかずさは、 いつも通りの無愛想で無気力な無表情だった。 | ||||
| 939 | 俺も曜子さんも、 『あ、かなり機嫌悪いなこれ』とすぐに見破れる、 相当にぶーたれた態度が表に滲み出てたけど… | ||||
| 940 | あれもプロカメラマンのレンズを通せば、 きっと物憂げな美女に変身してしまうんだろう。 …何しろ、素材が素材だし。 | ||||
| 941 | 曜子 | 「ねぇ、ギター君」 | |||
| 942 | 春希 | 「なんですか?」 | |||
| 943 | 曜子 | 「わたしのこと、恨んでるかしら?」 | |||
| 944 | そんな、いつも通りのかずさを眺めながら 曜子さんがほんの少し自嘲気味に呟く。 | ||||
| 945 | 信じられないくらい、母親っぽく。 | ||||
| 946 | 春希 | 「…どうしてそんなふうに思うんです?」 | |||
| 947 | 曜子 | 「だって、かずさを[Rウィーン^こっち]に連れてきたのは… あの子とあなたを引き裂いたのは…」 | |||
| 948 | 春希 | 「冬馬さん」 | |||
| 949 | 曜子 | 「…なに?」 | |||
| 950 | 春希 | 「やっぱり彼女はあなたについて来て正解だった」 | |||
| 951 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 952 | そんなふうに、 かずさのことを気遣った態度を取られたら、 もう俺には、何も言えない。 | ||||
| 953 | 春希 | 「こっちで家族と暮らしていたからこそ、 今の冬馬かずさがあるんだと思います。 あいつにしてはまっすぐで、あいつなりに一生懸命で…」 | |||
| 954 | 曜子 | 「…そんなこと言う人はギター君だけよ。 あなた、もしかして両親いないの?」 | |||
| 955 | 春希 | 「ま…否定はしません」 | |||
| 956 | 確かに、いない“ようなもの”だし… | ||||
| 957 | 曜子 | 「わたしもね…胸を張れる訳じゃないけど、 この五年間、それなりに上手くやってきたつもり」 | |||
| 958 | 春希 | 「はい」 | |||
| 959 | だから、五年ぶりに会ったかずさは、 見た目だけじゃなく、心も少し大人になっていた。 | ||||
| 960 | 曜子 | 「かずさは本気でピアノと向き合うようになった。 間にわたしを挟んだりせずに、 自分だけの意志で…」 | |||
| 961 | だから、五年間頑張ってきたかずさは、 世界中の権威あるコンクールを勝ち抜く腕と、 強い意志を手に入れた。 | ||||
| 962 | 曜子 | 「それでもね… 師匠や、ライバルや、母親が側にいるだけじゃ、 どうにもならないこともある」 | |||
| 963 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 964 | 富は、もともとあった。 名声は、自分で手に入れた。 | ||||
| 965 | そして… | ||||
| 966 | 曜子 | 「ね、ギター君。 あの子はね、五年前から何も…」 | |||
| 967 | 春希 | 「俺…」 | |||
| 968 | 曜子 | 「え?」 | |||
| 969 | 春希 | 「ずっと前からつきあってる彼女がいます。 結婚を考えてる相手がいるんです」 | |||
| 970 | 曜子 | 「………そのこと、かずさに言ったの?」 | |||
| 971 | 春希 | 「伝えられたかどうかはわかりません。 けれど、伝えようとしました」 | |||
| 972 | 曜子 | 「そう…」 | |||
| 973 | それは、あまりに唐突で、 そしてなんの意味もない自分語り。 | ||||
| 974 | …の、はずだった。 | ||||
| 975 | かずさ | 「おい雑誌記者! もういいだろ? 疲れた!」 | |||
| 976 | 春希 | 「あ…はいはい。 お疲れさまでした~!」 | |||
| 977 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 978 | 少し離れた通りで、 カメラマンのしつこいアタックを受けながら、 いい加減痺れを切らしたモデルが呼びかけてくる。 | ||||
| 979 | だからもう、取材も終わり。 これで、何もかも終わり… | ||||
| 980 | ……… | .........
| |||
| 981 | 春希 | 「本日は…本当にありがとうございました」 | |||
| 982 | 曜子 | 「編集長によろしくね。 また今度連絡するからって」 | |||
| 983 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 984 | あの後カメラマンは、かずさの頬にキスしようとして、 思いっきり足を踏まれ、すごすごと退散していった。 | ||||
| 985 | 春希 | 「ギャラの方は後日、 冬馬曜子オフィスの方に振り込ませていただきます。 請求書の方、よろしくお願いします」 | |||
| 986 | 曜子 | 「はいはい、その辺は秘書に任せてあるから、 直接事務所の方にお願い」 | |||
| 987 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 988 | 物珍しそうに眺めていた見物人も去り、 俺たち三人だけが残った、昼下がりの街並み。 | ||||
| 989 | 春希 | 「それじゃ、これで…」 | |||
| 990 | 曜子 | 「元気でね、ギター君」 | |||
| 991 | 春希 | 「北原です…」 | |||
| 992 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 993 | 俺たちの、最後の時間が近づいていた。 | ||||
| 994 | 曜子 | 「ほらかずさ、 あなたも何か言いなさいよ。 一応、今日の主役なんだから」 | |||
| 995 | かずさ | 「………知るか。 元々、取材なんて乗り気じゃなかった」 | |||
| 996 | 曜子 | 「別れてから思いっきり後悔するくせに。 後で泣かれても、わたし慰めないわよ?」 | |||
| 997 | かずさ | 「~~~っ! 早く日本へ帰れ! 二度と国外に出てくるな!」 | |||
| 998 | 曜子 | 「…ごめんね? 最後の最後までこんな娘で」 | |||
| 999 | 春希 | 「いえ…昔もこんなもんでしたから」 | |||
| 1000 | かずさ | 「っ…」 | |||
| 1001 | とうとうかずさは、後ろを向いてしまった。 | ||||
| 1002 | その顔に今、どんな表情が貼りついているのか、 もう、確認することもできなくなってしまった。 | ||||
| 1003 | 春希 | 「失礼します。 お二人とも、お元気で」 | |||
| 1004 | 曜子 | 「…ギター君もね?」 | |||
| 1005 | だから俺も、かずさに背中を向ける。 | ||||
| 1006 | もう、あいつがこっちを見てくれないなら、 あいつを見つめる意味もないんだから。 | ||||
| 1007 | 俺には、帰るところがあるんだから。 | ||||
| 1008 | 雪菜が、待ってるんだから。 | ||||
| 1009 | 石畳の道を踏みしめるように、 一歩、二歩と歩き始める。 | ||||
| 1010 | これが最後だと。 二度とかずさと会うこともないんだと。 地面を踏みしめるごとに言い聞かせる。 | ||||
| 1011 | だからどうだって訳でも… どうしようって訳でも、ないんだけど… | ||||
| 1012 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 1013 | ないん、だけど… | ||||
| 1014 | まだ、雪菜と約束した時間には、 一時間くらいの余裕があった。 | ||||
| 1015 | 春希 | 「っ、 かずさっ!」 | |||
| 1016 | かずさ | 「なんだよ! しつこいぞ春希!」 | |||
| 1017 | 春希 | 「あ…」 | |||
| 1018 | かずさが、いつの間にかこっちを向いていた。 | ||||
| 1019 | 俺が振り返った瞬間、その目を見開いて、 すぐにこっちの言葉に反応を返してきた。 | ||||
| 1020 | かずさ | 「なんなんだよ? 言いたいことがあったらハッキリ言えよこの馬鹿」 | |||
| 1021 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 1022 | 何度、最後だって決めれば気が済むんだよ。 | ||||
| 1023 | 俺の決断って、そんなに脆いものだったっけ? 軽くて、儚いものなんだっけ…? | ||||
| 1024 | かずさ | 「自分から呼びかけておいてシカトかよ? 一体何がしたいんだよお前は…っ」 | |||
| 1025 | 春希 | 「かずさのピアノ…久しぶりに聴きたいな」 | |||
| 1026 | かずさ | 「………春希」 | |||
| 1027 | それは、完全に弾みで、 自分でも、どうしてそんなことを言ってしまったのか、 前後の文脈からも完全に意味不明で。 | ||||
| 1028 | 春希 | 「なんちゃらコンクールでなんか賞取ったんだろ? 昔よりも、ずっとずっと上手くなってんだろ?」 | |||
| 1029 | 仕事で覚えてた単語も、次々と記憶から抜け落ちて、 駄々っ子みたいな『この馬鹿』が顔を出す。 | ||||
| 1030 | 春希 | 「聴かせてくれよ… 俺、お前のファン第一号だったよな? だったら今、少しくらい弾いてくれたって…」 | |||
| 1031 | かずさ | 「何言ってんだよお前。 ピアノなんかどこにも…」 | |||
| 1032 | 春希 | 「探すよ! 楽器屋とか酒場とか! きっとすぐに見つかるからさ、だからさ…」 | |||
| 1033 | もう、自分でも意味がわからない。 | ||||
| 1034 | 何にそんなに駆り立てられてるのか。 どうしてこんなに悔しいのか。 | ||||
| 1035 | かずさ | 「無理に…決まってるだろ」 | |||
| 1036 | 春希 | 「なんで!? 俺がこんなに頼んでるのに!」 | |||
| 1037 | そして… どうしてこんなに、寂しいのか。 | ||||
| 1038 | かずさ | 「ペダル…踏めないだろ。 この足じゃ」 | |||
| 1039 | 春希 | 「………ぁ」 | |||
| 1040 | かずさが軽く右足を引きずってみせたのと同時に、 何もかも吹っ飛んでた記憶が一気に蘇る。 | ||||
| 1041 | カメラマンに『膝から下は写さないで』って、 そんな細かい指示を出していたことも忘れてた。 | ||||
| 1042 | かずさ | 「昨日から知ってるじゃないか。 お前が、手当てしてくれたんじゃないか」 | |||
| 1043 | 突きつけられた自分の身勝手さが、 冬の冷たい風と一緒になって、 俺を急激に冷ましていく。 | ||||
| 1044 | かずさ | 「知ってるのに… 随分と、無粋なこと、言うんだな」 | |||
| 1045 | かずさと俺の最後の思い出を、 苦く味付けていく。 | ||||
| 1046 | ……… | .........
| |||
| 1047 | …… | ......
| |||
| 1048 | … | ...
| |||
| 1049 | 雪菜 | 「春希く~ん!」 | |||
| 1050 | 春希 | 「あ…」 | |||
| 1051 | 待ち合わせ時間からは、 まだ30分も早かった。 | ||||
| 1052 | 雪菜 | 「春希くん! お待たせ!」 | |||
| 1053 | そして、待ち合わせ場所から、 100メートル以上も離れてたのに。 | ||||
| 1054 | 雪菜は、ちゃんとそこにいて、すぐに俺を見つけ、 嬉しそうに駆け寄ってきてくれた。 | ||||
| 1055 | 雪菜 | 「はぁっ、はぁっ、はぁぁ… お仕事お疲れさまでした~」 | |||
| 1056 | 春希 | 「雪菜…」 | |||
| 1057 | 俺の帰るべき場所が、 俺を、迎えに来てくれた。 | ||||
| 1058 | 雪菜 | 「…って、決めつけちゃったけど、 どう? 仕事の方は片づいた?」 | |||
| 1059 | 春希 | 「ん…完璧終わり。 これで帰国までは完全フリー」 | |||
| 1060 | 12月25日。 クリスマス本番の夕暮れ。 | ||||
| 1061 | そろそろ街のライトアップが始まり、 クリスマスを祝う人々が続々と街に溢れ出てくる頃。 | ||||
| 1062 | 雪菜 | 「やったぁ! それじゃ今夜はずっと一緒なんだね… こんな綺麗な街の中を」 | |||
| 1063 | 春希 | 「うん…」 | |||
| 1064 | この時期のストラスブール旧市街は、 街中を覆うクリスマスデコレーションにつられ、 こうして国内外から観光客が押しかけてくる。 | ||||
| 1065 | 雪菜 | 「それじゃどこ行こうか? すぐに食事にするのももったいないよね。 まずは通りを歩きたいなぁ」 | |||
| 1066 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 1067 | そんな、世界中の人を魅了する、 この街のクリスマスの夜も。 | ||||
| 1068 | 雪菜 | 「春希くん?」 | |||
| 1069 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 1070 | 巨大なツリーも、 きらびやかな電飾も、 バカラのシャンデリアも。 | ||||
| 1071 | 雪菜 | 「…もしかしてお腹すいてる? やっぱり食事が先の方がいい?」 | |||
| 1072 | 春希 | 「ううん…」 | |||
| 1073 | 雪菜 | 「じゃあ…どうしたい?」 | |||
| 1074 | 春希 | 「こう、したい…」 | |||
| 1075 | 雪菜 | 「え………ぇぇぇっ!?」 | |||
| 1076 | 少なくとも俺にとっては、 目の前にいる可憐な女性に、 なに一つ勝てるものなんかありはしなかった。 | ||||
| 1077 | 春希 | 「………」 | "........."
| ||
| 1078 | 雪菜 | 「春希、くん?」 | |||
| 1079 | 少なくとも俺にとっては、 俺の腕の中にいる、可憐な女性には… | ||||
| 1080 | 雪菜 | 「ね、ねぇ、ちょっと… みんな、見てるよ?」 | |||
| 1081 | 春希 | 「それで?」 | |||
| 1082 | 雪菜 | 「………」 | "........."
| ||
| 1083 | 雪菜の言う通り、みんなが一度はこっちに目を向ける。 | ||||
| 1084 | だってここは、往来のど真ん中。 | ||||
| 1085 | 通りを歩く人々にとっては、 こんなところで抱きあうカップルなんか、 通行の迷惑もいいところだから。 | ||||
| 1086 | 春希 | 「ごめんな、雪菜…」 | |||
| 1087 | 雪菜 | 「…それ、今朝から何度も聞かされてきたけど、 今のが一番意味わかんないよ?」 | |||
| 1088 | 春希 | 「もう、全部終わったから。 今度こそ、本当に、何もかも」 | |||
| 1089 | 雪菜 | 「…そうなんだ?」 | |||
| 1090 | 春希 | 「これからは… ずっと、雪菜と一緒だから」 | |||
| 1091 | だから、そんな俺の言葉も、俺の行動も… | ||||
| 1092 | 雪菜にとっては意味不明で、 何の感慨も、感動も覚えたりするはずはないけれど。 | ||||
| 1093 | 雪菜 | 「それは…嬉しいな」 | |||
| 1094 | それでも雪菜は、いつの間にか俺の背中に手を回し、 この無理やりな抱擁を、優しく受け止めてくれる。 | ||||
| 1095 | ただ、時間切れで帰還しただけのこの俺に。 | ||||
| 1096 | 結果としてしか雪菜を選べなかった、 こんな、最低な… | ||||
| 1097 | 春希 | 「ごめん…」 | |||
| 1098 | 雪菜 | 「だからぁ」 | |||
| 1099 | 春希 | 「メリー・クリスマス」 | |||
| 1100 | 雪菜 | 「………メリー・クリスマス」 | |||
| 1101 | ……… | .........
| |||
| 1102 | かずさ | 「別に、母さんは残っててもよかったのに。 友達と積もる話もあったんじゃないの?」 | |||
| 1103 | 曜子 | 「怪我してる娘を一人帰す訳にもいかないわよ。 少しは母親として機能しないとね」 | |||
| 1104 | かずさ | 「………ごめん」 | |||
| 1105 | 曜子 | 「何が?」 | |||
| 1106 | かずさ | 「インタビューの時… 酷いこと言ったりして」 | |||
| 1107 | 曜子 | 「別に気にしてないわよ。 あの時のかずさ、あまりにも舞い上がりすぎてるのが 丸わかりだったし」 | |||
| 1108 | かずさ | 「…そういうところが 母親として失格だって言ってるのに」 | |||
| 1109 | 曜子 | 「別に、泣いてもいいわよ? 今なら誰も見てやしないから」 | |||
| 1110 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1111 | 曜子 | 「冷凍ミカン食べる?」 | |||
| 1112 | かずさ | 「なぁ…」 | |||
| 1113 | 曜子 | 「ん~?」 | |||
| 1114 | かずさ | 「本当に、知らなかったのか? あいつが来てるってこと」 | |||
| 1115 | 曜子 | 「今回ばっかりはね…」 | |||
| 1116 | かずさ | 「そっか…」 | |||
| 1117 | 曜子 | 「日本からの取材ってことを隠してたのは、 あなたが日本公演に乗り気じゃなかったから。 彼が開桜社に入ってたなんて全然…」 | |||
| 1118 | かずさ | 「あんたのお遊びじゃ、なかったんだ…」 | |||
| 1119 | 曜子 | 「運命の巡り合わせかしらね? 東京でもウィーンでもなく、 ストラスブールで再会なんて」 | |||
| 1120 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1121 | 曜子 | 「母親にそんな目つきで睨む娘ってどうなのよ?」 | |||
| 1122 | かずさ | 「運命とか奇跡とか、 そういうのは信じないことにしてるんだ。 予言とか呪いとかも信じなくちゃならなくなるから」 | |||
| 1123 | 曜子 | 「わたしは全部信じてるけどね。 だからこそ、あなたが生まれたんだし」 | |||
| 1124 | かずさ | 「………寝る」 | |||
| 1125 | 曜子 | 「あ、そ」 | |||
| 1126 | ……… | .........
| |||
| 1127 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1128 | 曜子 | 「…寝た?」 | |||
| 1129 | かずさ | 「なんだよ?」 | |||
| 1130 | 曜子 | 「来るときに言ったでしょ? 『バカンスから帰るときにもう一度返事して』って」 | |||
| 1131 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1132 | 曜子 | 「日本公演の話… 五年ぶりの、凱旋帰国のこと」 | |||
| 1133 | かずさ | 「それ、は…」 | |||
| 1134 | 曜子 | 「今回は断っておくわ。 もうちょっと時期を置いて改めて検討するって」 | |||
| 1135 | かずさ | 「え…」 | |||
| 1136 | 曜子 | 「もう、強く言わないから安心して。 ちゃんと心の整理ができてからにしましょう」 | |||
| 1137 | かずさ | 「なんだよそれ… 前にも言ったじゃないか。 別にあたし、日本を嫌がってなんか…」 | |||
| 1138 | 曜子 | 「いくらなんでも、そろそろ大丈夫だって思ってた。 五年も経ったんだから、少しは吹っ切れてるだろうって」 | |||
| 1139 | かずさ | 「な…」 | |||
| 1140 | 曜子 | 「しかしこれはなんというか… 正直、あなたの諦めの悪さを甘く見てたわ」 | |||
| 1141 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1142 | 曜子 | 「今帰っても、いい演奏ができるって保証がない。 あなたはそれを無意識のうちにわかってたのね」 | |||
| 1143 | かずさ | 「………」 | "........."
| ||
| 1144 | 曜子 | 「そういう訳だから… 帰ったら、新しいスケジュールを立てましょう。 もう、日本公演のことは…」 | |||
| 1145 | かずさ | 「………やるよ」 | |||
| 1146 | 曜子 | 「っ…かずさ?」 | |||
| 1147 | かずさ | 「行くよ、日本。 最初の予定通りでいいから」 | |||
| 1148 | 曜子 | 「…今となってはわたしは反対なんだけど」 | |||
| 1149 | かずさ | 「どうせ口約束で色々と手配してたんだろ? このまま進むか、全部キャンセルして赤出すか、 経営者として判断してみなよ」 | |||
| 1150 | 曜子 | 「………破産はしないわよ」 | |||
| 1151 | かずさ | 「決まりだな。 冬馬曜子オフィス存続のため頑張るよ」 | |||
| 1152 | 曜子 | 「かずさ…」 | |||
| 1153 | かずさ | 「話はそれだけ? それじゃ今度こそ寝るから」 | |||
| 1154 | 曜子 | 「本当にいいの?」 | |||
| 1155 | かずさ | 「最初から言ってる。 別に、嫌じゃないって」 | |||
| 1156 | 曜子 | 「辛い現実、待ってるかもしれないわよ? だって、彼は…」 | |||
| 1157 | かずさ | 「知ってる」 | |||
| 1158 | 曜子 | 「なら…」 | |||
| 1159 | かずさ | 「それでも…行くよ。 ピアノ、弾くよ」 | |||
| 1160 | 曜子 | 「どうして?」 | |||
| 1161 | かずさ | 「あいつ…聴かせろって言った。 あたしのピアノ、聴きたいって言ったんだ…」 | |||
| 1162 | 曜子 | 「………」 | "........."
| ||
| 1163 | かずさ | 「ならさ… 祝福の曲、弾いてやらないと、さ」 | |||