White Album 2/Script/3107

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1	孝宏	Takahiro	「あれ？　北原さん」
2	春希	Haruki	「あ…」
3			道を譲ろうとした自転車が急に止まったかと思うと、 聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
4	孝宏	Takahiro	「なに？　どうしたの今日は？ ウチに用？」
5	春希	Haruki	「孝宏君こそ、こんな時間から出かけるの？」
6			けれど、それは奇跡と呼ぶには値しない、 ちょっとした偶然程度の出来事だった。
7			…何しろ、ここから小木曽家までは、 もう２００メートルも離れてないんだから。
8	孝宏	Takahiro	「それがさ、レイトショーのチケット二枚もらったんだ。 友達と見ようって約束してた奴だったし、 今日は舞台挨拶もあるって言うから渡りに船でさ」
9	春希	Haruki	「へぇ、もらったんだ？」
10	孝宏	Takahiro	「ああ、母さんから。 知り合いにこの映画館の株主がいるらしくてさ」
11	春希	Haruki	「そう…」
12			そして、孝宏君が今この時間に外にいる理由も、 偶然でも奇跡でもなかった。
13			人払い、だ。
14	孝宏	Takahiro	「ウチ来ても姉ちゃんいないよ？ 一時間くらい前に柳原さんが来て一緒に出かけた」
15	春希	Haruki	「そうなんだ…」
16			しかも、本人まで…か。
17	孝宏	Takahiro	「おっかしいなぁ。 今日、会う約束してた？」
18	春希	Haruki	「いや…違うよ。 今日は[R小木曽家^きみんち]に行くんじゃないんだ。 この先に別の用があるだけで」
19	孝宏	Takahiro	「ふぅん？」
20			俺に気を使ってくれてるのか。 …お母さんの配慮かな。
21	孝宏	Takahiro	「あ、そういえばさ… 北原さんに会ったからついでに聞いちゃうけど」
22	春希	Haruki	「ん？　なに？」
23	孝宏	Takahiro	「最近、姉ちゃんと喧嘩でもした？」
24	春希	Haruki	「…どうして、そう思うのかな？」
25			それは、十分に予想された質問だった。
26	孝宏	Takahiro	「だってさ、最近変なんだよ。 仕事から帰ってきたらすぐ部屋に引きこもっちゃうし、 食事も外で済ませてきてリビングには顔出さないし」
27			そして、孝宏君の口から語られる雪菜の現状も、 十分に予想できるものだった。
28	孝宏	Takahiro	「一昨日なんか、廊下で顔合わせたのに、 なんか避けるように部屋に逃げ込むんだぜ？」
29			雪菜がそういう状態にあるということも、 孝宏君がそのことに気づいているということも。
30	孝宏	Takahiro	「いい加減俺も腹立って何度も部屋ノックしたらさ、 これ見よがしに鍵掛ける音がしてさ」
31	春希	Haruki	「………」	"........."
32	孝宏	Takahiro	「…なるほど、やっぱり心当たりあるんだ。 そうやって黙り込んじゃうところを見るとさ」
33	春希	Haruki	「…かなわないな、君には」
34			本当に、かなわない。 小木曽家の、家族を愛する気持ちには。
35			誰もが皆、お互いのことを気に掛けて、 ほんのちょっとした異常にもすぐ目が行き届き、 そして、相手のために理屈抜きで力になろうとする。
36			北原家には存在せず、 冬馬家では一方通行気味の、 そんな、微笑ましくも骨太な愛情。
37	孝宏	Takahiro	「何やってんだよ北原さん。 ついこの間婚約したばっかでさぁ」
38	春希	Haruki	「…そうだね」
39			もう少しで俺は、 この温かい家族の中に迎え入れてもらうはずだった。
40			雪菜の指に光る宝石は、 俺のそんな未来を照らす輝きになるはずだった。
41	孝宏	Takahiro	「ちゃんと早く仲直りしといてくれよ？ いい加減、ウチの雰囲気悪いんだよね～」
42	春希	Haruki	「…ごめん」
43			なのに、ごめん。 本当に、ごめん。
44	孝宏	Takahiro	「だからぁ、謝らなくてもいいってば。 ちゃんと態度で示してくれればさ…」
45	春希	Haruki	「あ…悪い。 そろそろ行かないと」
46			それは、もう… 俺が、謝る以外で君たちにできることは、もう…
47	孝宏	Takahiro	「あ、ああ…じゃあね」
48	春希	Haruki	「うん…楽しんでおいで」
49			………	.........
50			孝宏君は出かけていった。 そして、雪菜も不在。
51			小木曽家で俺を待っているのは、二人だけ。
52			つまりそれは、自分たちの子供には見せたくない場面も… 聞かせたくない話も辞さないという意志なのかもしれない。
53	雪菜	Setsuna	「………ねぇ、朋」
54	朋	Tomo	「ん～？」
55	雪菜	Setsuna	「さっきから、どうして何も言わないの？」
56	朋	Tomo	「何も…って？」
57	雪菜	Setsuna	「人を無理やり外に連れ出したかと思ったら、 ずっとお茶飲んでぼうっとしてるだけ」
58	朋	Tomo	「暇だったからね」
59	雪菜	Setsuna	「そんなはずないよね？ いつもの朋なら、少しでも時間が空いたら エステかトレーニングじゃない」
60	朋	Tomo	「…たまには何もしたくない週末もあるって」
61	雪菜	Setsuna	「わたしのこと、気にしてくれたんだよね。 先週のこと、心配してくれたんだよね」
62	朋	Tomo	「…何のことかなぁ」
63	雪菜	Setsuna	「この前はごめんね… 恥ずかしいところ見せちゃって」
64	朋	Tomo	「謝る必要なんかないよ。 だってわたしは、雪菜の味方で、友達で…」
65	雪菜	Setsuna	「ありがとう… でも、わたし大丈夫だから。 これからも頑張るって決めたから」
66	朋	Tomo	「え…？」
67	雪菜	Setsuna	「だから、あんな恥ずかしいことしておいてなんだけど、 忘れて欲しいんだ、あの時のこと」
68	朋	Tomo	「忘れる…って」
69	雪菜	Setsuna	「さっき朋『何のことかな』って言ってくれたよね？ だから、難しいことじゃないよね」
70	朋	Tomo	「………」	"........."
71	雪菜	Setsuna	「わたしは泣いてなかった。 そもそも、泣くようなことなんか何もなかった」
72	朋	Tomo	「雪菜…？」
73	雪菜	Setsuna	「確かに、少しヘコむことがあったのは本当だけど、 でも今までだって、何度もこういうことあった。 …何度も切り抜けてきたんだよ」
74	朋	Tomo	「それは…」
75	雪菜	Setsuna	「だから今度も頑張る！　一生懸命頑張る！ ずっとそうやって一緒に歩いてきたんだもん… 今度だって、絶対に大丈夫だよ！」
76	朋	Tomo	「っ…雪菜、やめようよ。 無理して強く振舞うの、やめようよ…」
77	雪菜	Setsuna	「無理じゃないよぉ。 だって、心を強く持てば報われないことはないって、 わたしに教えてくれたのは…」
78	朋	Tomo	「そんなに、頑張らないでよ… 泣いていいんだよ… 雪菜は、傷ついていいんだ、今は」
79	雪菜	Setsuna	「…なに、言ってるのよ」
80	朋	Tomo	「もっと、弱い自分を見せてもいいんだよ。 わたしたちにも。 そして、彼にもさぁ」
81	雪菜	Setsuna	「違うよ…人に頼っちゃいけない。 これは、わたしの心の問題。 わたしが心を強く持ちさえすれば、絶対に解決する…」
82	朋	Tomo	「今、雪菜がやるべき一番正しいことは、 北原さんにすがりつくことだよ！」
83	雪菜	Setsuna	「だから違うよ」
84	朋	Tomo	「なりふり構わないことだよ。カッコつけないことだよ。 自分のせいにしないことだよ。抱え込まないことだよ！」
85	雪菜	Setsuna	「違うんだってば…」
86	朋	Tomo	「行かないでって、絶対に別れないって、 本当の心のうち、話すことだよ！ 彼にも、みんなにも！」
87	雪菜	Setsuna	「っ…」
88	朋	Tomo	「そうすれば、彼はきっと戻ってくる。 自分がどれだけ雪菜を傷つけてたかを思い知れば… だって、責任感強い人だもん」
89	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
90	朋	Tomo	「わたしたちも力貸すから… 絶対に、北原さんの気持ち、動かしてみせるから…」
91	雪菜	Setsuna	「………余計なことしなくていいよ」
92	朋	Tomo	「え…」
93	雪菜	Setsuna	「わたしたちの…“三人”の問題だよ。 あなたたちは、関係ない」
94	朋	Tomo	「関係ないって、そんな…」
95	雪菜	Setsuna	「っ…ごめん。ちょっと言い方キツくなっちゃった。 でも、ほんと何もしなくていいから」
96	朋	Tomo	「わたしは別に気にしないけどさぁ、 それって、水沢さんや飯塚さんに悪いんじゃない？ 今まで何度助けてもらったと思ってるの？」
97	雪菜	Setsuna	「わかってる。みんな大好き。 …それでもごめんなさい。今回だけは」
98	朋	Tomo	「…なんで？」
99	雪菜	Setsuna	「だって、きっとみんな、春希くんを責める。 彼が間違ってるって、そんな間違ったこと言い出す」
100	朋	Tomo	「…つまりそれくらい、 彼が雪菜に言ったのって酷いことなんだよね？ わたしたちが理解できないって思うくらい」
101	雪菜	Setsuna	「っ！ そういうこと言うから、話したくないんだよ…」
102	朋	Tomo	「だから、みんなが介入するのを避けてるんだ。 彼に一方的に非があるってわかってるからこそ…」
103	雪菜	Setsuna	「春希くんは間違ってない！」
104	朋	Tomo	「っ…」
105	雪菜	Setsuna	「ただ、ちょっとすれ違っただけだよ。 話し合えば、絶対にわかってくれるんだよ」
106	朋	Tomo	「雪菜…」
107	雪菜	Setsuna	「だからお願い。今は春希くんに何も言わないで。 わたしが話すから。 時間を掛けて、ゆっくり話すから…」
108	朋	Tomo	「………」	"........."
109	雪菜	Setsuna	「彼のことなら、わたしが一番よくわかってる。 お願い。今はとにかくそっとしておいて」
110	朋	Tomo	「雪菜…っ」
111	雪菜	Setsuna	「わたし、なんとかするから。 だから彼を、絶対に追い込んだりしないで…」
112	朋	Tomo	「もう遅いよ…」
113	雪菜	Setsuna	「………え？」
114	雪菜の父	Setsuna's Father	「休みの日に呼び立てて悪かったね」
115	春希	Haruki	「いえ、そんな… そんなことありません」
116	雪菜の母	Setsuna's Mother	「………」	"........."
117			小木曽家のリビングは、 俺が上がったときにはもう、 重苦しい雰囲気に包まれていた。
118			それは、俺の抱えている気の重さがそうさせたのか、 ご両親が最初からそういう感情で俺を見ているせいなのか。
119			多分、その両方なんだろうけども。
120	雪菜の父	Setsuna's Father	「本来なら、私たちが直接君と話すようなことは… しかも雪菜のいないときにというのは、 あまり誉められたことではないのはわかっている」
121	春希	Haruki	「別に、そんなこと気にしてません」
122	雪菜の父	Setsuna's Father	「ただ、家内が雪菜のことをとても気にかけていてね。 それに北原君は、他人と言うには少し違うと思っている。 …異論があるなら訂正させてもらうが」
123	春希	Haruki	「異論なんて、ないです。 嬉しいことだと、思ってます」
124			それは、本当に嬉しいことのはずだった。
125			今まで数え切れないくらい小木曽家にお邪魔して、 お母さんや孝宏君にはとっくの昔に身内扱いされて。
126			けれど、お父さんに そういうニュアンスのことを言われたのは、 多分、これが初めてで。
127	雪菜の父	Setsuna's Father	「それじゃ、本題に入ろうか」
128	春希	Haruki	「はい…」
129			なのに今の俺は、 そうして家族に近い存在として認めてもらったことすら、 笑顔で受け止められない。
130	雪菜の父	Setsuna's Father	「まず確認だが、北原君、 私たちが今日、なぜ君を呼んだのか、 おおよそのことは見当はついているかな？」
131	春希	Haruki	「はい…」
132	雪菜の母	Setsuna's Mother	「っ…」
133			お父さんと正面から対峙する俺を、 お母さんの方は横から覗き込むように、 ちら、ちらと忙しなく見つめては視線を外す。
134			それは、いつもの、 俺に対して雪菜の愚痴とのろけ話をだだ漏れに話して、 雪菜にひんしゅくを買いまくるあの女性とは別人で。
135			緊張と、不審と、心配と恐怖の混ざった 祈るような目をしていた。
136	雪菜の父	Setsuna's Father	「今月の初め頃…前回ここに来たとき、 君は、雪菜との将来のことについて、 色々と含みがあるようなことを言っていた」
137	雪菜の母	Setsuna's Mother	「お、お父さん、それは… ほら、勝手に決めつけてたのはわたしと孝宏で。 それに、随分と先の話だって…」
138			そして多分… 俺も、彼女と同じような視線で、 二人を見つめ返しているんだろう。
139	雪菜の父	Setsuna's Father	「そういうことなら訂正してくれればいい。 何の約束もなかったと。 雪菜と将来について相談したことなどないと」
140	春希	Haruki	「いえ…」
141			膝の上に置かれた手はしっかりと握られ、 その中には零れ出るほどの汗が滲んでいる。
142			これからの展開が、手に取るように読める。
143	春希	Haruki	「あの時の少し前… 雪菜に…お嬢さんに指輪を渡しました。 そして、将来のことを申し込みました」
144			決して望んでいないけれど、 避けられるとも考えられない展開が。
145	雪菜の父	Setsuna's Father	「それはつまり、結婚を前提にと… そういうことだと思っていいんだね？」
146	春希	Haruki	「はい………あの時は」
147	雪菜の母	Setsuna's Mother	「あ…っ」
148	雪菜の父	Setsuna's Father	「あの時は…か」
149			ご両親は、その一言を、 俺の失言だと思ったかもしれない。
150	雪菜の父	Setsuna's Father	「それはつまり、どういうことなのかな？ 私たちは、まだあの時の認識のままでいいのかな？」
151			けれどそれは、予定調和。 この先の会話の流れを読み切って、 その方向に話題を進めていく、俺の作戦。
152	雪菜の父	Setsuna's Father	「君は、雪菜と… うちの娘と将来と共にしたいと思っている。 そう考えていいのかな？」
153	春希	Haruki	「それは…」
154			本当は、進めたくなんかない。 けれど、その方向に進めざるを得ない。
155			何をどうやって逃げようとしても、 最終的に、ここに戻ってきてしまうなら、 なるべく、長く傷つく展開はやめにしたい。
156			俺だけじゃなく、 お父さんも、お母さんも…
157	春希	Haruki	「ごめんなさい… あの時とは、事情が変わりました」
158	雪菜の母	Setsuna's Mother	「っ、北原さん！」
159	雪菜の父	Setsuna's Father	「………」	"........."
160	春希	Haruki	「俺は、雪菜とは… お嬢さんとは、結婚できません。 プロポーズ、撤回させてください」
161	雪菜の母	Setsuna's Mother	「あ、あ、あ… ～ぃぁぁぁぁ…っ」
162			もう、解放してください。 罪は認めるから、早く罰で精算してください。
163			どんなに重い罰でも受けるから。 だから早く…俺の人としての過ちを認識してください。
164			………	.........
165	雪菜	Setsuna	「何、それ…」
166	朋	Tomo	「今…ちょうど話し合ってるところ… あなたの両親と、彼」
167	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
168	朋	Tomo	「今日、雪菜を連れ出したのはさ… 頼まれたんだ…あなたのお母さんに。 …雪菜抜きで、北原さんと話し合いたいからって」
169	雪菜	Setsuna	「どうし、て。 何で、そんなこと…」
170	朋	Tomo	「わかってたからじゃない？ 雪菜がいると、絶対に北原さんを庇うからって」
171	雪菜	Setsuna	「そんなこと聞いてないよ！ なんでお父さんとお母さんが… 朋！　あなたが喋ったの！？」
172	朋	Tomo	「言い出したの、お母さんからだよ… とっくに気づかれてたんだよ。 雪菜の様子、ただごとじゃないって」
173	雪菜	Setsuna	「………っ」
174	朋	Tomo	「だから昨日、 北原さん呼び出して本当のところ聞いてみた。 …飯塚さんと水沢さんに協力してもらって」
175	雪菜	Setsuna	「依緒と…武也くん、まで…？」
176	朋	Tomo	「もうみんな知ってるんだよ。 北原さんが雪菜になんて言ったのか。 …どんな酷いことをしちゃったのか」
177	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
178	朋	Tomo	「もう、雪菜一人でなんとかできる話じゃないよ。 だって雪菜、北原さん許しちゃうもん。 彼を反省させること、できないもん」
179	雪菜	Setsuna	「反省なんて…だって、する必要ないよ。 ただ、三人でいられる方法、考えれば… もっといい方法さえ思いつけば…」
180	朋	Tomo	「そんなんじゃ北原さん帰ってこないよ！ 冬馬かずさと一緒にヨーロッパ行っちゃうよ！」
181	雪菜	Setsuna	「っ…やめて！ やめてやめてやめて！」
182	朋	Tomo	「雪菜！」
183	雪菜	Setsuna	「どうしてみんな、春希くんを追い詰めるの？ なんでそんなに急いで結論を出そうとするの！？」
184	朋	Tomo	「それは、だって… 今のあの人、言ってること滅茶苦茶だよ！ 雪菜にしたこと、あまりにも酷すぎるよ！」
185	雪菜	Setsuna	「まだ終わってない…わたしたち全然終わってないのに！ どうして関係ない人たちが 勝手に終わらせようとするのよ！」
186	朋	Tomo	「っ… 関係…ない？」
187	雪菜	Setsuna	「やめて、やめてってば… 春希くんを否定するのは…思い込みだけで怒るのは… 終わったって、決めつけるのは、やめてぇ…っ！」
188	朋	Tomo	「そんな… そんなこと…言わないでよ」
189	雪菜	Setsuna	「…帰る。 これで足りるよね」
190	朋	Tomo	「わたし、わたし、雪菜のことが心配で、さぁ…っ」
191	雪菜	Setsuna	「もう電話してこないで。 掛けてきても、取らないから」
192	朋	Tomo	「っ…ぁ、ぁ…っ、 そりゃ、悪かったと、思うけど、さぁ…っ」
193	朋	Tomo	「でも、でもさぁ… そんな言い方って…ないじゃん…っ！」
194	雪菜の父	Setsuna's Father	「………」	"........."
195	雪菜の母	Setsuna's Mother	「…っ、ぅ、ぅ…ぅぅっ」
196			お父さんは、厳しい顔で俺を見つめている。
197			お母さんは、すすり泣きが止まらない。
198			娘の彼氏“だった男”の身勝手な言葉に、 二人とも、あまりにも深刻なダメージを受けている。
199			これって、つまり… 娘の彼氏を、ただのボーイフレンドだなんて 思っていなかったって…
200			小木曽家にとって特別な存在だって、 そう認めてくれていた事の裏返し。
201	雪菜の父	Setsuna's Father	「………理由を聞こうか」
202	春希	Haruki	「他に…好きな女性ができました」
203	雪菜の母	Setsuna's Mother	「っ…そ、んな」
204			だからこそ俺の言葉も、 ただの元彼以上の重みをもって、 この人たちの心に突き刺さっているはずで。
205			手塩に掛けて、本当に愛情込めて育てた娘を ずたずたに引き裂かれた怒りと、悲しみと…
206			多分、俺では測ることのできない激しい憎しみに、 激しく、身を焦がしているはずで。
207	雪菜の母	Setsuna's Mother	「そんなの、いくらなんでも嘘よね…？ あなたがそんなこと、雪菜に言うはずが…」
208	春希	Haruki	「お母さん…」
209			なのにまだ、俺を信じようとしている人がいて。
210	雪菜の母	Setsuna's Mother	「本当はなにか別に理由があったんでしょ？ あの子が酷いワガママを言ったりとか…」
211	春希	Haruki	「そんなこと…ないです、まったく」
212	雪菜の母	Setsuna's Mother	「お式のこととか…招待客で揉めたとか？ あ、それとも結婚後もお仕事を続けるかどうかで 意見が合わなかったとか…？」
213	春希	Haruki	「ですから、違います」
214	雪菜の母	Setsuna's Mother	「も、もしわたしたちが口出ししたせいだったら、 そんなこと気にしなくていいのよ？ 当人同士の意志が一番大事ですもの…だから、ね？」
215	春希	Haruki	「違うんですお母さん。 本当に…俺の一方的な心変わりです。 雪菜は何も悪くありません」
216	雪菜の母	Setsuna's Mother	「っ！？ そ、そんな………そんなっ」
217	春希	Haruki	「っ…」
218			その、無償の信頼が…
219			そして、それが跡形もなく崩壊していくさまが、 余計に、俺に痛みを与える。
220	雪菜の父	Setsuna's Father	「君は…」
221			そして…
222	雪菜の父	Setsuna's Father	「君は、そういうことだけは言わない男だと思っていた」
223	春希	Haruki	「お父さん…」
224			痛みを紛らす暇もなく、 次の、鋭い錐が、俺の胸をえぐっていく。
225	雪菜の父	Setsuna's Father	「立場上、お互い印象はよくなかったかもしれない。 私は君のことを避けていたし、 君は私を煙たがっていたかもしれない」
226	春希	Haruki	「そんなことは…なかったです」
227	雪菜の父	Setsuna's Father	「しかし、私が君にそういう態度を取ったのは、 君が雪菜に全面的に信頼され、愛されているからで… それが私には、もう覆せないことだと思っていたからで」
228	春希	Haruki	「え…」
229			感情的にならず、冷静に…
230			けれどそれは、俺の裏切りに対して、 感情を動かされていないという訳では、決してなく。
231	雪菜の父	Setsuna's Father	「それ見たことか、とか、 お前は騙されているんだ、とか…」
232	雪菜の父	Setsuna's Father	「そういう言葉では、絶対に娘を諭せない… 心の底から雪菜を一番に考えてくれている、 嫌になるくらい信頼できる男だと思っていたから…っ」
233	春希	Haruki	「っ………ごめんなさいっ」
234			思わず、声が上ずる。
235			父親に叱ってもらった記憶がもうほとんど残っていない 俺に掛けられた、それは、父親のように威厳のある声。
236			いつかこの人を父と呼べる日が来たとき、 傾けた酒瓶と共に耳に届くと夢想していたこともあった。
237			けれど今、俺の耳に届いているのは、 心優しき邂逅の声でも、 愛情の篭もった説教の声でもなく。
238			“自分の家族”を護るため、 “敵”に向けられる、強く激しく厳しい、糾弾の声。
239	春希	Haruki	「ごめんなさい… 申し訳ありませんっ」
240	雪菜の父	Setsuna's Father	「………」	"........."
241			俺が、その威嚇に完全に屈してしまったのを見て、 お父さんは、余計に悲しそうに深いため息をつく。
242			多分、俺が反論どころか、 言い訳すらしなかったから。
243			『自分は悪くない』という態度を、 結局一度も見せられなかったから。
244	雪菜の父	Setsuna's Father	「それで… これから、どうするつもりなんだね？」
245	春希	Haruki	「雪菜とは、もう一度話し合います。 わかってくれとは言えませんが、 せめて、早く忘れてくれるように」
246	雪菜の父	Setsuna's Father	「しかし君は、この街にいる。 同じ街で暮らして、働いて… 電車や道端で顔を合わせるかもしれない」
247	春希	Haruki	「それは…」
248	雪菜の父	Setsuna's Father	「なのにそんなことを言うのは、酷な話じゃないのか？ ずっと雪菜の近くにいながら、忘れろだなんて…」
249	春希	Haruki	「…安心してください。 もう、二度と会うことはないと思います」
250	雪菜の父	Setsuna's Father	「それをどうやって私たちに信じろと言うんだ？」
251	春希	Haruki	「俺、もうすぐこの街から離れます。 …四月から、海外で暮らすつもりです」
252	雪菜の父	Setsuna's Father	「海外… もしかして転勤ということか？」
253	雪菜の母	Setsuna's Mother	「あ、あの…っ、 雪菜と別れるというのも、本当はそれが原因なんじゃ…？ あの子を待たせるのが可哀想だからって、それで…」
254	春希	Haruki	「違うんです、お母さん…」
255			お母さんは、最後まで俺に都合の良い解釈を 必死に考えようとしてくれる。
256			そしてやっぱり、そのことが俺の罪を 余計に鮮明に浮かび上がらせてしまう結果になり…
257	春希	Haruki	「彼女が、向こうに住んでるんです」
258	雪菜の母	Setsuna's Mother	「え…」
259	春希	Haruki	「ウィーンに…行きます。 今まで色々と、お世話になりました」
260	雪菜の母	Setsuna's Mother	「あ………あ、あっ！？」
261			お母さんは、気づいてしまった。
262			俺の、相手に。
263			五年前… 雪菜が『久々に連れてきた学校のお友達』のことに。
264	春希	Haruki	「…もう、いいですか？ それとも、まだ何かありますか？」
265			それは、完全に逃げだった。
266			これ以上の追及をかわすための、 最低な話のまとめ方だった。
267	春希	Haruki	「もし、これ以上話す事がないようでしたら、 俺、そろそろ…」
268			それでも今の俺は、そう言うしかなかった。
269			その名前を今ここで出せるほど、 俺の心は強くなんかなかったから。
270			椅子に腰掛けたまま微動だにしない二人に一礼すると、 俺は、リビングの扉を開け…
271	？？？	???	「………」	"........."
272	春希	Haruki	「え…」
273			ドアの目の前… 廊下にいた人影と、ばったり遭遇する。
274	雪菜の母	Setsuna's Mother	「あ…っ！」
275			その姿にいち早く気づいたお母さんが、 真っ赤に泣き腫らした目を、大きく見開く。
276			つまりそれは、俺だけでなく、 ご両親にとっても想定していなかった事態で…
277	春希	Haruki	「聞いてた…の？」
278	？？？	???	「………っ」
279			肩が、震えてる。
280			暗がりの中で俯いてるから表情は伺えないけど、 その両拳は強く握られ、全身が硬直してる。
281	春希	Haruki	「ごめん…」
282	？？？	???	「～っ！」
283			それだけで、“彼”がいつから聞いていたのか、 その間、どんな気持ちでいたのかが 痛いほど伝わってきて…
284	春希	Haruki	「ごめん、孝宏君、俺…」
285	孝宏	Takahiro	「うあああああああああ～っ！」
286			そして、その握り込まれた拳が宙を舞ったとき…
287			俺は、ゆっくりと目を閉じた。
288	雪菜の母	Setsuna's Mother	「孝宏っ！？」
289	孝宏	Takahiro	「なんだよそれなんなんだよぉ！ あんた一体何言ってんだよ！ 頭おかしいんじゃないのか！？」
290			後頭部を襲う硬い衝撃。 頬と口元に広がっていく熱さ。
291			喉と鼻の奥に流れ込んでいく、 温かい鉄錆の味…
292	春希	Haruki	「ごめん… ごめんな」
293	孝宏	Takahiro	「話しかけんなぁっ！」
294	春希	Haruki	「っ…」
295	孝宏	Takahiro	「姉ちゃんは、姉ちゃんは… 姉ちゃんは、どうなるんだよっ！」
296	孝宏	Takahiro	「付属の頃から付き合ってきたんじゃないのかよっ！？ 婚約、したんじゃなかったのかよっ！ 俺の兄貴になるつもりだったんじゃないのかよっ！？」
297	春希	Haruki	「孝宏…く…っ」
298	孝宏	Takahiro	「返せよ！　姉ちゃんの五年間を… あんたにめちゃめちゃにされた五年を返してくれよ！ 北原ぁ！」
299	雪菜の母	Setsuna's Mother	「や、やめ…やめなさいっ、孝宏っ！ やめなさいってばぁ…っ、ぅ、ぅ…っ…お父さんっ！」
300			………	.........
301	雪菜	Setsuna	「それで…春希くんは？」
302	孝宏	Takahiro	「………」	"........."
303	雪菜の母	Setsuna's Mother	「っ…ぅ、ぅぅ…」
304	雪菜	Setsuna	「春希くんはっ！？」
305	雪菜の父	Setsuna's Father	「ついさっき、帰った。 まだ５分も経ってない」
306	雪菜	Setsuna	「っ！」
307	雪菜の父	Setsuna's Father	「やめなさい、雪菜！」
308	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
309	雪菜の父	Setsuna's Father	「もう遅い。 今から外出なんて認めないぞ」
310	雪菜	Setsuna	「ふざけないでよっ！ みんなで春希くんに酷いことして！ よってたかって彼のこと傷つけて！」
311	雪菜の母	Setsuna's Mother	「雪菜…」
312	雪菜	Setsuna	「嫌い…みんな嫌い、大嫌い！」
313	孝宏	Takahiro	「姉ちゃん…」
314	雪菜	Setsuna	「春希くんを追い詰める人なんか… 彼をわたしから引き離そうとする人たちなんか大嫌い！」
315	春希	Haruki	「…いて」
316			灼けるように熱かった頬に冷たい風が触れて、 やっと痛みを感じられるようになってきた。
317			まだ、ほんの少し視界が歪んでる。
318			口中の切り傷の血と鼻血が混ざり合い、 舌先に嫌な味が広がったままだった。
319			…けれど、それらの傷の痛みは、 ほんの今まで感じることもできずにいた。
320	雪菜の父	Setsuna's Father	『やめなさい、孝宏。 やめろと言っているのがわからないのかっ！』
321	雪菜の父	Setsuna's Father	『他人に暴力を振るうんじゃない。 この人は…うちとは何の関係もない人だ』
322	雪菜の父	Setsuna's Father	『北原君…うちの息子が酷いことをした。 どうか許してくれ』
323	雪菜の父	Setsuna's Father	『もし病院に行くような怪我だったら、 治療費は責任をもって全額負担する。 本当にすまなかった』
324	雪菜の父	Setsuna's Father	『そして、どうかお願いだ。 私から呼び出しておいて失礼だとは思う。しかし…』
325	雪菜の父	Setsuna's Father	『二度と、ここへは来ないで欲しい』
326	春希	Haruki	「………ごめん、なさい」
327			お父さんの言葉と、 お母さんの泣き顔と。
328			そして、孝宏君の手加減のない拳が…
329			そんな、家族を愛してるってダイレクトに伝わる気持ちが、 痛くて、痛くて…
330			心臓が、握り潰されてしまいそうだったから。
331	春希	Haruki	「っ…」
332	雪菜	Setsuna	「よかった…間に合った」
333			そして再び、一瞬で傷の痛みが吹き飛ぶような 心の痛みに襲われる。
334	春希	Haruki	「雪菜…なんで」
335	雪菜	Setsuna	「近道があるんだ。 近所に住んでる人しか知らない、 狭い裏道なんだけどね」
336	春希	Haruki	「………」	"........."
337			息を切らせながらも、 雪菜は、ちゃんと理由を話してはくれた。
338			けれどそれは、追いかけてきた理由じゃなくて、 追いつくことができた理由だった。
339			………	.........
340	雪菜	Setsuna	「ちょっと冷たいけど我慢してね」
341	春希	Haruki	「っ…」
342			雪菜の言う通り、公園の水道で濡らしたハンカチは、 熱を持った頬ですら凍りつかせるくらい冷たかった。
343			けれど俺は、それを辛いと思えるはずもなかった。 …ハンカチを絞った雪菜の手の冷たさを、 同時にその頬で知ってしまったから。
344	雪菜	Setsuna	「ごめんね、孝宏がとんでもないことしちゃって…」
345	春希	Haruki	「雪菜が謝ることじゃないし、 もちろん孝宏君も悪くなんかない」
346	雪菜	Setsuna	「ううん、悪いよ…こんなに傷つけて。 わたしの大事な人なのに、みんな、酷い」
347	春希	Haruki	「雪菜…」
348			酷いのは、俺の方なのに。 雪菜は未だに、俺を贔屓しすぎてる。
349			本心と現実逃避と思い込みがないまぜになり、 今まで以上に俺への想いが増幅してしまってる。
350			まるで俺みたいに、 世界を敵に回しそうになってる。
351	雪菜	Setsuna	「今度は染みるかもしれないけど、 こっちも我慢、ね？」
352	春希	Haruki	「いいよ、そんな…」
353	雪菜	Setsuna	「ほら、動かないで。 大人なら我慢できるよ」
354			雪菜は、有無を言わせてくれなかった。
355			俺の前にその姿を見せた時、 彼女は用意周到にも両手に薬箱を抱えてた。 それも家庭の常備薬が全部入った大きな箱を。
356			俺が来ていたこと。 俺が両親と話したこと。 そして俺が傷を負ったこと。
357			様々な心を乱す事実が乱れ飛ぶ中、 雪菜は、俺の傷を治すこと以外の思考を切り捨てて、 その、抱えて走るには重すぎる荷物を選んでしまった。
358	春希	Haruki	「っ…」
359	雪菜	Setsuna	「あ、ごめん」
360			そんな、そそっかしくて、微笑ましくて、 そして…愛しい思い込みが、 今、俺の頬の傷を癒す。
361			少しの痛みと、冷たさと、 そして限りない温かさとともに。
362			………	.........
363	雪菜	Setsuna	「はい…これでおしまい。 お疲れ様でした」
364			最後にガーゼを口元に被せ、テープで貼りつけると、 雪菜は取り出していた薬を薬箱の中にしまっていく。
365			穏やかな表情で。 いつもと変わらない雰囲気で。
366			まるで何事もなかったかのように。 何事もなかった頃の二人みたいに。
367	雪菜	Setsuna	「ちょっと喋りにくいかな？ 何か喋ってみて？」
368	春希	Haruki	「…もう、俺を庇おうとするなよ」
369	雪菜	Setsuna	「…そんなこと喋ってって言ってるんじゃないよ。 一言でいいんだよ。 ただ、テープが剥がれないか確かめたいだけなんだよっ」
370			けれどそれは、俺のたった一言で露呈するくらい、 バレバレな強がりでしかなくて。
371	春希	Haruki	「間違ってる人間に手を差し伸べるなよ。 もう、いい加減に自分を傷つけるのは…」
372	雪菜	Setsuna	「それを決めるのはわたしだよ。 春希くんにどうこう言われることじゃないよ…」
373	春希	Haruki	「………」	"........."
374			それでも、こんな強情な…
375			どうしても俺の非を認めようとしない雪菜を 初めて知ったのは、あの時だったっけ。
376	雪菜	Setsuna	「三人でいいよ…」
377	春希	Haruki	「え…」
378	雪菜	Setsuna	『ただ、ずっと三人でいたかったから。 わたしを仲間外れにして欲しくなかったから』
379	雪菜	Setsuna	「ううん、三人がいいんだよ。 だから、何も終わってないんだよ、わたしたち…」
380	雪菜	Setsuna	『行こう、春希くん。 まだ、終わってないんだよ、わたしたち』
381	春希	Haruki	「………っ」
382			俺たちは今、同じ時間、同じ場所の記憶を共有してる。
383			けれど、それは多分偶然じゃなくて…
384			ただ、あの時と今の状況が、 あまりにも似すぎていたから。
385	雪菜	Setsuna	「そうだよ… だって、それこそが、 わたしが昔から望んでいたことだもの」
386	春希	Haruki	「雪菜…」
387	雪菜	Setsuna	「春希くんと、かずさと、わたしの三人に、戻ろう？ あの学園祭の…祭りの前の日に、戻ろうよぅ？」
388			あれから五年経ったのに… 雪菜は、あの頃のままで。
389	雪菜	Setsuna	「わたしのせいでかずさがいなくなって、 もう二度と実現できないって思ってた」
390			自分が悪いって決めつけて。 だから俺に罪がないって、デタラメな論理展開をして。
391	雪菜	Setsuna	「だから春希くんと二人で、同じ大きさの、 違う幸せを積み上げていくことになるんだって。 一緒に、生きていくんだって、そう信じてた…」
392			ずっと、俺以上に損な役ばかりを引き受けていた。
393	雪菜	Setsuna	「けど、けど… それができないのなら…」
394	雪菜	Setsuna	「ううん、違う！ できないのは辛くない、悔しくないっ」
395			けれど…
396	雪菜	Setsuna	「ただ、５年前の… 今と同じくらい、ううん、 それ以上の大きな幸せに包まれるだけだよ」
397			けれどさ、雪菜…
398	雪菜	Setsuna	「だから、ねぇ、春希くん。 わたしを、入れてよ… 仲間はずれに、しないでよぉ…っ」
399			今度ばかりは、もう…
400	春希	Haruki	「駄目、だよ…」
401	雪菜	Setsuna	「どうして…？」
402			だって、今から三人のバランスを保つには、 もう、俺は雪菜を愛し過ぎてしまってる。
403	春希	Haruki	「そんなの、誰も認めてくれるわけないだろ」
404	雪菜	Setsuna	「誰も認めてくれなくてもいいよ。 三人が幸せになれるんなら、わたしは他には何も…」
405			それでも無理やり三人でいることを選んだら、 二度と二人に戻ることができなくなってしまう。
406			…かずさとも、雪菜とも。
407	春希	Haruki	「駄目だ… 雪菜まで、そんなこと言うな」
408			そんな、どっちつかずでもない、 どっちとも深く繋がってしまう人生は、 俺の世界で一番大切な二人を不幸にしてしまう。
409	雪菜	Setsuna	「言うよ、言わせてよ… だってわたし、春希くんもかずさも大好きなのに。 せっかくまた、三人に戻れるかもしれないのに」
410	春希	Haruki	「俺…ウィーンに行くんだ。 だからもう、三人は無理なんだよ」
411	雪菜	Setsuna	「っ…」
412			だから、選ぶしかない。 雪菜のいない、未来を。
413			…たとえ目的と手段を入れ替えてでも、 雪菜まで、先の見えない未来に巻き込むわけにはいかない。
414	雪菜	Setsuna	「かずさと一緒に行くんだ…」
415	春希	Haruki	「うん…」
416			雪菜の指が、恐る恐る俺の肩に触れる。
417			抱きしめてきても、口づけてきても、 拒絶することなんかできないのに。
418			決して、それ以上は踏み込まない。 どこまでも俺を困らせないように頑張ってる。
419			いや、それどころか…
420	雪菜	Setsuna	「だったら、わたしも行く。 ウィーンに、一緒に」
421	春希	Haruki	「雪菜…」
422			どこまでも、俺に、かずさに譲歩する。
423	雪菜	Setsuna	「これからも春希くんと… そして、これからはかずさとも一緒にいる。 大丈夫、足手まといになんかならないから」
424			俺やかずさの理不尽を責めず。 二年前に捨てたはずの罪悪感を必死に思い出し。
425	春希	Haruki	「駄目だ」
426	雪菜	Setsuna	「どうして！？」
427			自分の責任ならば、 自分が改めれば何もかも解決するって。
428			そんな、悪夢のような妄想に浸ろうとする。
429	春希	Haruki	「だって雪菜には家族がいる、依緒がいる、柳原がいる。 他にもたくさんの、繋がる人たちがいる」
430	雪菜	Setsuna	「そんなのなくしたっていい！」
431			俺の、誰も幸せになれない選択を、 もっと、誰も幸せになれない選択で否定しようとする。
432	雪菜	Setsuna	「家族も、友達も、仕事も… わたしたち三人以外に、欲しいものなんか何も…」
433	春希	Haruki	「いいわけないだろ！ そんなの耐えられるわけないだろ！」
434			そんな歪な選択をしてしまったら、 傷つくに決まってる。
435			だって雪菜は、周りと触れ合わずには生きていられない。
436			誰かに頼り、頼られ、自分の持つ強さで人を助け、 自分の抱える弱さを人に助けられながら、 生きていくしかないんだ。
437			…雪菜が、というより、世界のほとんどの人が、だ。
438			雪菜は、世界の中でしっかり根付いて生きていく 樹木のような…普通の人間だ。
439			だからこそ地面から… 世界から切り離されると枯れてしまう。
440			それに…
441	春希	Haruki	「雪菜だけじゃない。 かずさだって…」
442	雪菜	Setsuna	「い、至らないところは改める。 無理せずに頑張る。かずさとしっかり話し合う。 だから、だから…だから…っ」
443	春希	Haruki	「無理だよ… 雪菜がいくら頑張っても、 かずさが頑張れない」
444	雪菜	Setsuna	「っ…ぃ、ぅ… 取らない、取らないよ… もう、かずさの春希くん、取ったりしないからぁ…っ」
445	春希	Haruki	「………っ」
446			違う、違うんだ、雪菜…
447			かずさだって、まだ雪菜のことが好きだ。 ずっと、好きなままでいたんだ。
448			でも…違うんだ。 雪菜の『三人』と、かずさの『三人』は違うんだ。
449			雪菜の求める『三人』には、周りに広い世界がある。
450			自分たちを取り囲む暖かさや、優しさや… 時には厳しさにみんなで触れながら、 大きく広く、正しく生きていく、そんな生き方だ。
451			でもかずさは、違うんだ…
452			５年間、どれだけ世界を広げようとしても駄目だった。 曜子さんと、そして思い出の中にしか 居場所を見つけられなかった。
453			ピアノはかずさを広い世界に知らしめた。 けれどピアノは、広い世界をかずさに与えられなかった。 …かずさが、拒絶したから。
454			雪菜が樹木なら、かずさは浮き草だ。 地面に根を張って強く生きていくことはできないんだ。
455			地面と、世界と隔絶したところで、 水から少しずつ栄養をもらって生きていくしかないんだ。
456	春希	Haruki	「俺だけ、なんだ。 あいつに必要なの、俺だけなんだよ」
457	雪菜	Setsuna	「ぁぁぁぁぁ…っ」
458			好きか嫌いかじゃない。
459			今まで広い世界と触れあって生きてきたけれど、 別に、[R世界^おや]と触れあわずにでも生きていられる俺だけが、 [R浮き草^かずさ]の[R水^せかい]になれるって…ただそれだけ。
460	春希	Haruki	「雪菜…もう俺のこと忘れてくれ」
461			けどそれを説明したところで、 雪菜にはわかってもらえるわけがない。
462	春希	Haruki	「俺も、雪菜のこと、忘れるから」
463			だから告げるのは、一方的な別れの言葉だけ。
464	雪菜	Setsuna	「あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ！」
465	春希	Haruki	「かずさと行くよ… 俺、かずさと一緒に行くんだ」
466	雪菜	Setsuna	「うあああああああああっ！ いやあああぁぁぁぁぁぁ～っ！」
467			かずさと、行く。
468			もう、俺たち以外には誰もいない、 かずさのためだけの世界で、俺は生きていく。
469			かずさを守るため、 これからも俺だけは世界と触れていくかもしれない。
470			けれどその刺激を、かずさのところに持ち込まない。
471			もう、揺れない。
472			かずさと俺の世界に、誰も、入れない。
473			………	.........
474			……	......
475			…	...
476	かずさ	Kazusa	「あ…」
477	春希	Haruki	「何やってんだよ、こんなとこで。 今、何時だと思ってんだ」
478			雪菜と俺と、 どっちが先に立ち去ったのかも覚えていない。
479			どこの道を通って帰ってきたのかもよく覚えてない。
480			それでも俺は、いつの間にか自分の部屋にたどり着き…
481			とっくに日付の変わった深夜。 底冷えのする玄関の前で出迎えられた。
482	かずさ	Kazusa	「お前、その顔…」
483	春希	Haruki	「先にこっちの質問に答えろよ。順番だろ」
484			商売道具の両手を吐息で温めながら、 意味もなく屋外で俺を待っているかずさに…
485	かずさ	Kazusa	「部屋で待ってたんだけど、 お前、なかなか帰ってこないから。 それで電話してみても繋がらなかったから」
486	春希	Haruki	「ああ…切ってた、悪い」
487	かずさ	Kazusa	「だから、ちょっとマンションの外に出てみて、 ちょっと駅前まで迎えに行ってみて、 行き違いだったら嫌だなって急いで戻って」
488	かずさ	Kazusa	「で、やっぱ帰ってないから部屋で不貞寝しようとして、 結局眠れなくって、最初に戻る」
489	春希	Haruki	「…で？」
490	かずさ	Kazusa	「あとは…それを５回繰り返し？」
491	春希	Haruki	「…そんな暇があったら早く寝ろ。 お前、もうコンサートまで一週間切ってるんだぞ」
492			馬鹿だこいつ… なんて非生産的な奴なんだ。
493	かずさ	Kazusa	「そんなことよりも順番だ。 春希、お前その顔…」
494	春希	Haruki	「あ、そうだ、これ飲むか？ さっきコンビニで買ってきたんだけど」
495	かずさ	Kazusa	「…あからさまに逃げやがったな？」
496	春希	Haruki	「さて、なんのことやら」
497	かずさ	Kazusa	「本当にどうしたんだよ？ 怪我してきたり、ワインなんか買ってきたり」
498	春希	Haruki	「帰り道で飲もうとしたんだけど…」
499	かずさ	Kazusa	「けど？」
500	春希	Haruki	「お前にエサ与えてないことに気がついたから」
501	かずさ	Kazusa	「…今、何時だと思ってんだ」
502			けれど、そんなかずさのあまりに非生産的ないじらしさは、 俺を、絶望の淵からほんの少しだけ引き上げてくれた。
503	かずさ	Kazusa	「本当はさ、お前、 またあたしに黙って勝手に傷ついてきたんだろ？ 顔だけじゃなく、心もさ」
504	春希	Haruki	「っ…さて、なんのことやら」
505			…余計なこと、しやがって。 罰を受けなければいけない俺を、救いやがって。
506	かずさ	Kazusa	「あたしに黙って自分を追い込むな。 お前はもう、お前のものじゃないんだぞ？」
507	春希	Haruki	「お前『の体』はもう、 お前『だけ』のものじゃない、だろ。 必要な部分まで省略するな」
508	かずさ	Kazusa	「似たようなものだ。 お前はあたしのものだ」
509	春希	Haruki	「かずさ…」
510			雪菜は、きっと今でも泣きやんでいないのに。 小木曽の家から笑顔を消してしまったのに。
511			全部、俺のせいなのに。 その俺だけが救われていいはずがないのに。
512	かずさ	Kazusa	「相変わらずお前は誰でも追い込むんだな。 相手だけじゃなく自分にも容赦しない。 世界一のいじめっ子だよ」
513	春希	Haruki	「俺が傷ついてるって思うなら、 もうちょっと優しく慰めようとかいう気はないのか」
514			なのに、お前がそんなに俺に懐いてしまうから、 俺は、余計にお前に癒しを感じてしまうんじゃないか。
515	かずさ	Kazusa	「へぇ、春希はどんなコースがお望み？」
516	春希	Haruki	「その…何も言わずに優しく抱きしめるとか」
517			求めてはいけないものまで 手に入れようとしてしまうんじゃないか。
518	かずさ	Kazusa	「………してもいいんなら、容赦しないぞ？」
519	春希	Haruki	「あ…」
520			お前に、隙を見せてしまうんじゃないか。
521	かずさ	Kazusa	「あたし、お前を思いっきり抱きしめるぞ？ ものすごい勢いでキスするぞ？ 最後まで止まらないぞ？」
522	春希	Haruki	「…それは優しく慰めるとは言わないだろ」
523	かずさ	Kazusa	「何もかも、忘れさせてやるぞ？」
524	春希	Haruki	「……それは男の台詞だろ」
525	かずさ	Kazusa	「あとは、お前の決断だけだ」
526	春希	Haruki	「………」	"........."
527	かずさ	Kazusa	「あたしは、お前がおあずけをやめてくれるまで… 行儀よくお座りして、一生懸命尻尾振って、 今か今かと待ってるだけなんだからな？」
528			かずさが喉を鳴らした気がした。
529			もしかしたら、俺の心の隙を敏感に感じ取ったことで、 スイッチが入ってしまったのかもしれない。
530			俺を求める欲望と、 俺を救いたいという気持ち。
531			それは、かずさの中で両立できる、 二つの激しい想い。
532	春希	Haruki	「かずさ、俺…」
533	かずさ	Kazusa	「…なんてな。 お前にそんな勇気があるわけないよな」
534	春希	Haruki	「え…」
535			でもかずさは、 そのどっちもポジティブな気持ちを押さえ込む。
536	かずさ	Kazusa	「勇気ないくせに、強いもんな。 あたしの優しさなんか全然必要としないもんな」
537	春希	Haruki	「そんなこと…」
538	かずさ	Kazusa	「ま、気長に待つよ。 あたしが欲しくなったらいつでも言ってくれ。 もうお前を拒むことなんか二度とないんだからな」
539			でも、その我慢もやっぱり俺のため。 俺の気持ちを優先したいと言う、穏やかな想い。
540			今のかずさは、何をするにも俺、俺、俺…
541			もう、俺の影が射さない冬馬かずさという単一の人間は、 この世には存在しないのかもしれない。
542	かずさ	Kazusa	「とにかく、部屋に入れよ。 …なんて、あたしの部屋じゃないんだけどさ」
543			だったら、俺は…
544	かずさ	Kazusa	「っ… 春希…？」
545			俺は…
546	かずさ	Kazusa	「………いいの、か？」
547			何故か、かずさの方が確かめてきた。
548			玄関に入った途端、 背中から強く抱きすくめられ、 俺に全身を拘束されてしまったかずさの方から。
549	かずさ	Kazusa	「我慢、できるか？ 自分を許せるか？」
550			かずさの問いかけは、 普通に考えれば訳がわからない。
551			だって、俺に無理やり奪われそうになってるのに、 俺のことしか心配していない。
552	春希	Haruki	「かずさ…」
553			そのいじらしさがまた、俺の脳にじわりと染み込み、 少しずつ、心の痛みを麻痺させていってくれる。
554	かずさ	Kazusa	「…せっかく抱きしめてくれるなら、 ブーツを脱いでからにして欲しかったな。 このままじゃ、ベッドまで行けないぞ？」
555			癒されちゃ、いけないのに…
556			なのにかずさの身体は、 こんなにも柔らかくて温かい。 こんなにも、いい匂いがする。
557	かずさ	Kazusa	「だから… １０秒だけ、離せ」
558	春希	Haruki	「………っ！」
559			………	.........
560	春希	Haruki	「かずさ…かずさ…っ」
561	かずさ	Kazusa	「春希…」
562			強く押し倒し、全身でのしかかって拘束し、 激しくその身体をまさぐっても。
563			上着を引きちぎるようにはだけさせ、 その隙間から強引に手を入れて、 その豊満で柔らかな胸を揉みしだいても。
564	かずさ	Kazusa	「嬉しい、よ」
565			スカートの中に手を入れ、 太股やお尻や中心を不躾に撫でまわし、 窪みのすべてに指を差し入れ、押し込んでも。
566	かずさ	Kazusa	「あたし…やっとお前の役に立てるんだな」
567			それでもかずさはますます身体の力を抜き、 目をゆっくりと閉じ、熱い吐息をこぼし、 全身全霊で俺を受け入れようとする。
568	かずさ	Kazusa	「ほんのちょっとだけど… お前を、救うことができるんだな」
569	春希	Haruki	「あ、あ…っ」
570			その持続時間の儚さを知っていて…
571			それでもかずさは、 今の自分が俺の鎮痛剤に過ぎないことを、 幸せとして受け止めようとする。
572			………	.........
573			……	......
574			…	...
575	春希	Haruki	「………」	"........."
576	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
577	春希	Haruki	「…ごめん」
578	かずさ	Kazusa	「…ま、ある程度は予測してたよ」
579			そして結局…
580			俺の『ごめん』は、 奪ってしまったことにではなく、 奪ってやれなかったことにかかってしまった。
581	春希	Haruki	「お前を抱けば幸せになれるってわかってる。 嬉しさで満たされるってわかってるんだ。 でも…」
582			誓ったはずだった。
583			日本では、かずさを求めないって。 全てに決着がつくまで、これ以上愛を育まないって。
584			それがたとえ、どんなに無駄なこだわりでも。 誰も幸せになれることのない約束でも…
585			もし破ってしまったら、 今後するはずの正しい誓いも守れなくなってしまう。 ずっと、ずるい人間のまま一生を終えてしまうから。
586	かずさ	Kazusa	「春希…お前は本当に馬鹿だ。 強情で、意固地で、理屈屋で… どうしようもない愚かな奴だ」
587	春希	Haruki	「ごめんな、かずさ。 俺が迷うたびに、何度も振り回して」
588	かずさ	Kazusa	「いいよ、もう。 お前の自分勝手な生殺しには慣れた。 それに…」
589	春希	Haruki	「それに？」
590	かずさ	Kazusa	「そういうお前だからこそ、 あたしの全てをかけて抱きしめる意味がある」
591	春希	Haruki	「かずさ…」
592			そんな俺を、 かずさは、無条件に受け入れてくれた。
593	かずさ	Kazusa	「な、春希… 愛してる」
594	春希	Haruki	「俺も…」
595			俺たちは、互いに高め合おうとか、 悪いところを直して行こうとか、 そういう前向きな発展は望まない。
596			何も変わらず、何も足さず、何も引かず。 今の自分たちを何もかも肯定し、受け入れる。
597	かずさ	Kazusa	「だから、せめてあたしの胸で泣いてくれ。 少しでも、あたしを必要としてくれよ」
598	春希	Haruki	「うん…」
599			未来なんかない。 そんなものいらない。
600			ただ、今が永遠に続けば、それでいい。
601	春希	Haruki	「なぁ、かずさ…」
602	かずさ	Kazusa	「ん？」
603	春希	Haruki	「幸せに…なろうな？ 俺たち」
604	かずさ	Kazusa	「うん…」
605			そして、永遠の幸せを生きる。
606			大切な人たちを根こそぎ踏みにじっておきながら…
607			いや、踏みにじってしまったからこそ、 俺たちだけは、幸せにならないといけない。
608			でないと、あれだけ多くの人を踏み台にした意味がない。
609	かずさ	Kazusa	「任せておけよ、春希。 今度は…あたしがお前を護る」
610			しばらく後、かずさが呟いたその言葉を、 俺は夢うつつで聞いていた。
611			その時の俺が泣いていたかどうかは、 もう、俺にはわからなかった。

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Mini After Story and Extra Episode
The Path Back to Happiness	The Path Forward to Happiness	Dear Mortal Enemy
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6002	6102	4001	4006
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6005		4004	4009

Novels
The Snow Melts, And Until The Snow Falls	The Idol Who Forgot How to Sing	Twinkle Snow ~Reverie~		After the Festival ~Setsuna's Thirty Minutes~	His God, Her Savior
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5004	5104	5204	5209

Short Stories
Princess Setsuna's Distress and Her Minister's Sinister Plan	Koharu Climate After the Passing of the Typhoon	This isn't the Season for White Album	Todokanai Koi, Todoita
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