White Album 2/Script/3905

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	Speaker		Text		Comment
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1	雪菜	Setsuna	「それじゃね、春希くん」
2	春希	Haruki	「ごめん、雪菜… 本当に、俺、なんて言ったらいいか…」
3	雪菜	Setsuna	「あ～、もう、駄目だよ。 見送りになんて来ないで寝てなくちゃ」
4	春希	Haruki	「っ………ごめん」
5			頭痛と悪寒のせいで、言葉を出すのも辛かった。
6			けど、そんな泣き言を言ってる場合じゃなかった。 俺が雪菜にした仕打ちのことを考えたら…
7	雪菜	Setsuna	「今週、寝る間もないくらい忙しかったんだよね？ 週末くらいはゆっくり休んでおこう？」
8	春希	Haruki	「だからって… 何回約束破ったら…」
9			誕生日パーティをすっぽかした翌日の金曜日。
10			昨日果たされなかった一週間ルールに基づいて、 俺たちは約束通り、俺の部屋で逢瀬を果たした。
11			このまま雪菜と明日まで二人きりで過ごし、 明日の夕方から小木曽家に赴いて、 今度こそ雪菜の家族と誕生日を祝うはずだった。
12			なのに…
13	雪菜	Setsuna	「こんなに疲れてるのに、 わたしの相手してる場合じゃないよ。 また、元気になったら埋め合わせしてもらうから」
14	春希	Haruki	「雪菜…」
15			日をまたがないうちに、雪菜は今、 こうして俺の部屋から帰ろうとしている。
16			明日の小木曽家での約束も全てキャンセルした。
17			せっかく記念日の重なった週だったのに、 二人で過ごした時間はたったの二時間。
18			全部、俺のせいだ…
19	雪菜	Setsuna	「ほら、そんなに落ち込まないでよ。 気にしてたら余計に体おかしくしちゃうよ？」
20	春希	Haruki	「ご、ごめ…」
21	雪菜	Setsuna	「だからぁ、もうゴメンはなし！ しゃんとしなさい、しゃんと！ …って、病人にそれは酷だね、ごめん」
22	春希	Haruki	「病気、なんかじゃ…」
23			雪菜が俺のことを病気と診るのも無理はなかった。
24			せっかく作ってくれた夕食も ほとんど食べられなかった。
25			話しかけてくれても、半分も耳に入らずに、 何度も聞き返す羽目になってしまった。
26			顔色がどう見ても青白かった。 額からの汗と、悪寒が止まらなかった。
27			そして…
28	雪菜	Setsuna	「そういう過信は春希くんの悪い癖だよ？ とにかく、今週末はずっと寝てること。 休日出勤とかしちゃ駄目だよ？」
29	春希	Haruki	「雪菜ぁ」
30	雪菜	Setsuna	「それじゃあ、おやすみなさい。 あ、それと、プレゼントありがとう」
31	春希	Haruki	「誕生日…おめでとう」
32	雪菜	Setsuna	「うん………んっ」
33	春希	Haruki	「ん…」
34	雪菜	Setsuna	「じゃ」
35			最後に、軽く唇を押しつけると、 雪菜は踵を返し、廊下を歩いていく。
36			突然、体調がおかしくなった俺を、 当然のようにつきっきりで 看病してくれようとしたけれど…
37			今の俺は、そんな雪菜の優しさを受け入れられるほど 心を強く、図太く保てなかった。
38			………	.........
39			……	......
40			…	...
41			どうなってんだ、俺。 こんなことがあっていいのかよ…
42			昨日から… いや、少し前から何か変だ、俺。
43			雪菜のことを考えると…
44			雪菜を想うと。雪菜を気遣うと。 雪菜に罪悪感を抱くと。 雪菜への秘密を思い出すと。
45			雪菜へと愛を語ろうとすると。 雪菜を抱きしめようとすると。 雪菜を裏切ろうとすると…
46			体と心が暴れ出す。 肉体と精神の均衡が保てなくなる。 何もかも…機能しなくなる。
47	携帯アナウンス	Cellphone Voicemail	「留守番電話サービスに接続します。 合図の後にメッセージをお願いします」
48	春希	Haruki	「今日は暗号なし。 …雪菜、さっき帰ったから。 もう、戻ってきていいぞ」
49	春希	Haruki	「俺、部屋で寝てるから。 用があったら声かけてくれ。 それじゃ、おやすみ…」
50			そんな、自分の体調を言い訳にした訳じゃないけど、 俺は、二日続けて雪菜を裏切った。
51			雪菜の求める俺からどんどん逸脱していき、 かずさの求める俺へと…
52	春希	Haruki	「…ははっ」
53			雪菜を部屋に泊めるために かずさを部屋から追い出しておいて、 『かずさの求める俺』もないもんだ…
54			あまりにも自分勝手な論理過ぎて、 乾いた笑いしか出てこない。
55			それに今の俺は、かずさを受け入れる自信すらなかった。
56			こんな状態の俺が、今、あいつを目の前にしたところで、 もしかしたら、さっきの雪菜の時みたいに…
57	春希	Haruki	「え…」
58			と、俺がドアに手を掛けるよりも早く、 その重い扉が開く音がした。
59			しかもそれは、俺の部屋の扉じゃなく…
60	かずさ	Kazusa	「…おかえり、春希」
61	春希	Haruki	「………かずさ？」
62			隣の… 今、誰もいないはずの部屋の扉が開いた音だった。
63	かずさ	Kazusa	「今、留守電聞いた。 …もしかして、あたしのせいか？」
64	春希	Haruki	「………何言ってんだ。 それどころじゃないだろ。 何で、お前…」
65	かずさ	Kazusa	「ん…？」
66	春希	Haruki	「どうしてここにいるんだよ…？ 俺、俺………言ったよな、今日…」
67	かずさ	Kazusa	「あ～… ４番ね。 ちゃんと聞いてる」
68	春希	Haruki	「だったら…だったらなんで？ どうして俺の言うこと聞かないんだよ…？」
69			『他の女を連れ込むから一晩出ていけ』 …って命令をどうして守らないんだよ？
70			俺の言ってることは、素直に訳しても そんな最低で、傲慢で、相手のことを何も考えてない、 酷い命令だったことはわかりきっていたけれど…
71			それでも、かずさがその指示に従わないことってことは、 まったく想定してなかったし、 とてもじゃないけど容認なんかできなかった。
72			だって、かずさが本当に隣の部屋にいたとしたら、 俺は、その命令よりも酷いことをしてるって意味になる。
73	春希	Haruki	「お前、まさか…先週も？」
74	かずさ	Kazusa	「…ごめん、一度も守ったことない。 外泊、めんどくさかったから」
75	春希	Haruki	「～～～っ！？」
76			先週も、先々週も…
77			俺が、雪菜との一週間ルールを果たしていた日… いつも隣の部屋には、かずさがいたなんて。
78	春希	Haruki	「ふ………ざけるな」
79	かずさ	Kazusa	「ごめんな、春希」
80			雪菜の、雪菜との、あのときの声を、 思いっきり聞かせてしまっていたなんて。
81			よりにもよって、 一番聞かせるべきじゃない奴に、あんな…
82	春希	Haruki	「どうして最後まで隠しておかなかった… なんで今になってバラしたんだよ…？」
83			最低の命令が無視されていた事実に、 俺は最低なキれ方で返し、最低の上塗りをする。
84	かずさ	Kazusa	「今すぐ、お前に会いたかったから。 このチャンスを逃したくなかったから」
85	春希	Haruki	「かずさ…っ」
86			けど、対するかずさの受け答えも、 最低さでは負けてなかった。
87	かずさ	Kazusa	「雪菜とのこと、心配してるふりしておきながら、 雪菜が帰ったことを嬉しく思ってる 凶悪なあたしがいるから」
88			思いっきり無理して悪びれずに。 歯を食いしばっていけしゃあしゃあと。
89	かずさ	Kazusa	「今日の春希が雪菜じゃなくあたしを選んでくれたって… そんなふうに勝手に思い込んで身体を火照らせてる、 ド淫乱なあたしがいるから…」
90			全ては、俺のため。 俺にこれ以上の罪悪感を抱かせないため。
91			最低の女に翻弄される俺を作り上げるために、 かずさは、不敵な笑みを口の端に浮かべる。
92	かずさ	Kazusa	「な、春希… 今から、あたしの部屋においでよ。 それともあたしが、お前の部屋に行こうか？」
93			唇をぶるぶる震わせて。 俺の目をまっすぐ見ることなく。
94	春希	Haruki	「俺は、俺はさ…」
95	かずさ	Kazusa	「なぁ、今から抱き合わないか？ 雪菜の代わりに、あたしで我慢しないか？」
96	春希	Haruki	「かずさ、聞いてくれよ。 俺、本当は…」
97	かずさ	Kazusa	「そうやって割り切れないならさ、 ちょっとだけ考え方、変えてみないか？」
98	春希	Haruki	「考え方…って？」
99	かずさ	Kazusa	「あたしに…おしおきをしてくれよ」
100	春希	Haruki	「っ！？」
101	かずさ	Kazusa	「ご主人様の命令にずっと背いてたやんちゃな犬を、 厳しくしつけてくれよ」
102	春希	Haruki	「お、お前…」
103	かずさ	Kazusa	「いや、違うな… しつけて、ください、だ」
104	春希	Haruki	「お前は…っ」
105			そんな、馬鹿な…
106	かずさ	Kazusa	「なぁ…なぁ、春希ぃ…」
107	春希	Haruki	「かずさ…」
108			かずさが悪ぶって、俺を誘惑するたびに。
109			わざといやらしい言葉を連発して挑発するたびに。
110			俺を、欲情したような上目遣いで見つめるたびに。
111	かずさ	Kazusa	「あたしに、おしおき…してください」
112	春希	Haruki	「っ！」
113	かずさ	Kazusa	「っ…ぁ、あぁぁ…春希っ」
114			俺… 興奮、してしまってる。
115			自制なんて全然効かないまま、 かずさを強く抱きしめてしまっている。
116	春希	Haruki	「こ、この…この馬鹿っ」
117	かずさ	Kazusa	「うん、だから、だから… 言い聞かせて…あたしの身体に。 春希の、これで…」
118			かずさが、俺のズボンの前に手を触れる。 自分でも、そこがものすごいことになってるのがわかる。
119			だからこそ、あまりの興奮と、 そして、同時に湧き出てくる絶望感に、 喉がカラカラに乾いていく。
120	春希	Haruki	「かずさ…かずさぁ…」
121	かずさ	Kazusa	「あ、あぁ…春希。 もっと、もっともっと強く…あぁぁっ」
122			だって…
123			さっき雪菜といるときは、 一度も反応しなかったのに。
124			雪菜の前で、 “男”でいることができなかったのに。
125			………	.........
126			……	......
127			…	...
128	かずさ	Kazusa	「………んっ」
129	春希	Haruki	「…どした？」
130	かずさ	Kazusa	「春希の…またなかで動いた」
131	春希	Haruki	「ごめん…やんちゃな奴で」
132	かずさ	Kazusa	「やんちゃなくせに引きこもりだけどな。 …ずっとあたしのなかから、出ていこうとしない」
133	春希	Haruki	「………」	"........."
134	かずさ	Kazusa	「…冗談だ。むしろ嬉しい。 だから、いつまでもいてくれていいんだ」
135	春希	Haruki	「かずさ…」
136			どうなってんだよ、俺…
137			いつの間にか、頭痛も寒気も吐き気も全ておさまってる。
138			汗だけは、さっきと同じようにたくさん掻いたけど、 それはかずさも同じことで…
139			俺たちは、シーツをべとべとに濡らすくらい、 互いを激しく濡らして絡みあった。
140	かずさ	Kazusa	「雪菜と…しなかったんだろ？ だから、溜まってたんだろ？」
141			かずさのなかに、何度も熱いのを出した。 それどころか、何度出してもおさまらなかった。
142	かずさ	Kazusa	「あたしのせいで、我慢しちゃったんだろ？ だったらそれ…あたしのなかに全部出せばいい」
143	春希	Haruki	「っ…」
144	かずさ	Kazusa	「ん、んぅ………また、跳ねたぞ？」
145			だから今も、入れたまま動かずに抱き合ってる。 …動いてないのに、たまに勝手に暴れるけど。
146			今の俺は、ケダモノと言ってもいいくらい“男”だった。 ほんの数時間前とは、全然違う俺だった。
147			かずさと、いるから？ かずさのことだけを、考えているから…？
148	かずさ	Kazusa	「別に…あたしはどっちでもいいんだからな？ 雪菜を抱いても、あたしを抱いても」
149	春希	Haruki	「…わかってる」
150			本当は、『雪菜としなかった』んじゃない。 正確には、何もできなかっただけ。
151			いつも通り、雪菜が夕食を作ってくれて、二人で食べて。
152			雪菜への誕生日プレゼントと、 俺へのバレンタインチョコレートの交換という、 いつも以上に盛り上がるイベントを経て。
153	かずさ	Kazusa	「ただ、たまたまあたしを選んでくれたら、 今日はラッキーだったなって思うだけだ」
154	春希	Haruki	「わかってるって…」
155			キスをして、服を脱がせて、脱がされて。 愛撫して、愛撫されて…
156			けれど、そこから先に進めなくなってしまった。
157	かずさ	Kazusa	「だから、だからさ… あんまり自分を追い込まなくていいんだからな？」
158	春希	Haruki	「かずさ…」
159	かずさ	Kazusa	「別にあたし…あたしさぁ、 お前と雪菜のこと、嫌ってわけじゃないんだからな？」
160	春希	Haruki	「いいよ、もう」
161	かずさ	Kazusa	「雪菜のことだってずっと好きだし、 お前たちが、その…婚約したことだって」
162	春希	Haruki	「いいんだってば」
163	かずさ	Kazusa	「そりゃ、ちょっとびっくりはしたけどさぁ… いきなりだなって思っちゃったけどさぁ… でも、でも、祝福する気持ちだって本当に…」
164	春希	Haruki	「かずさ…っ」
165	かずさ	Kazusa	「っ…ぁ、ぁぁ…は、春希… いきなり、動くなよぉ…ぁぁぁ、んっ」
166	春希	Haruki	「………悪い」
167			つい昨日のことを忘れたかのように、 かずさがまた嘘をつく。
168			こいつは俺がちょっとでも苦しそうな態度を取ると、 すぐに心にもないことを言って俺を安心させようとする。
169			結局リバウンドに襲われて、 余計にお互い辛くなるってわかってるのに…
170	春希	Haruki	「もう、休んだらどうだ？ かずさが目覚めても俺、側にいるからさ」
171	かずさ	Kazusa	「…入れられたままでか？ こんなに気持ちいいままでか？」
172	春希	Haruki	「…なら、抜こうか？」
173	かずさ	Kazusa	「わかった、余計なこと言わない。 一言も喋らない。ずっと黙ってる。 だから…このままでいてくれ」
174	春希	Haruki	「お前、なぁ…」
175	かずさ	Kazusa	「男はどうか知らないけどさ… 女…っていうか、あたし今、すごくいいんだ。 これ、ずっと終わらせたくないんだよ」
176	春希	Haruki	「そ、そういう意味じゃなくて… そりゃ俺も気持ちいいけどさ。 …ずっと黙ってられても困るってことが言いたいだけで」
177	かずさ	Kazusa	「じゃあ…何か喋った方がいいのか？」
178	春希	Haruki	「できれば。 どうせ俺も、このままじゃ眠れそうにないし」
179	かずさ	Kazusa	「なら春希…お前が質問してくれ。 いつもの取材みたいに、さ」
180	春希	Haruki	「わかった…」
181			だから俺は、嘘でも沈黙でもない、 毒にも薬にもならないかずさの声を求める。
182			夜が明けるまで。 お互い疲れ果てるまで。 波が去るまで。
183			罪を、忘れるため。 …どちらに対しての罪かすら、綺麗さっぱり忘れるため。
184			………	.........
185	かずさ	Kazusa	「爺さんは… あたしが日本に行くの、嫌がってたな」
186	春希	Haruki	「そうなのか？」
187	かずさ	Kazusa	「二か月もウィーンを離れるってのが気にくわないって。 あたしが練習サボって男にうつつ抜かすんじゃないかって、 本気で心配してた」
188	春希	Haruki	「………」	"........."
189			毒にも薬にもならないかずさの述懐は、 けれど、インタビュー記事としては十分すぎる内容だった。
190			マーティン・フリューゲル。 冬馬曜子、かずさ母子の師匠にして、 現代クラシック音楽界の系譜に必ず出てくる演奏家の一人。
191	かずさ	Kazusa	「何しろ立派な前例があるからな。 類い希なる才能を持ちながら、男にうつつを抜かして 練習をサボってばかりだった、爺さんの一番弟子…」
192			…そんな歴史的偉人も、口の悪い愛弟子たちにかかれば、 『ただの口うるさい爺さん』という庶民的な表現に 落ち着いてしまう。
193	春希	Haruki	「でも…あの人は大成しただろ」
194			ま、母子ともども表現にブレがないことを考えると、 もともとの人物評も 事実そんな感じなのかもしれないけど。
195	かずさ	Kazusa	「爺さんに言わせれば、曜子がジェバンニ国際で 優勝できなかったのはあの頃の淫蕩生活のせいだって。 …確かその翌年にあたしが生まれたんだけどな」
196	春希	Haruki	「………」	"........."
197	かずさ	Kazusa	「だからってこっちまで同じ目で見られるのは心外だった。 …あたし、爺さんのレッスン、 さぼったことなんかないんだぞ？」
198	春希	Haruki	「うん…」
199	かずさ	Kazusa	「自主練習だって毎日十時間… ほとんど毎日、欠かしたことなんかなかったんだぞ？」
200	春希	Haruki	「凄いな…かずさは」
201			インタビューの時にも言ってたっけ。 『全部、お前のせいだ』って…
202	かずさ	Kazusa	「ところが日本に来てみれば、 男にうつつを抜かして最初の公演は大失敗」
203	春希	Haruki	「………」	"........."
204	かずさ	Kazusa	「しかも、二週間後に追加公演が迫ってきてるのに、 全然練習を再開してないときてる」
205	春希	Haruki	「しょうがないだろ… お前、怪我したんだから」
206	かずさ	Kazusa	「怪我した理由も男絡みだったけどな。 怪我が治っても男にうつつを抜かしてるけどな」
207	春希	Haruki	「………………」
208			その自虐に行くことは予想できてた。
209			けれど、毒にも薬にもならない話題を求めてた俺としては、 本当は触れて欲しくないところだったんだけど…
210	かずさ	Kazusa	「不思議だよな…爺さんにはどうしてわかったんだろ？ あたしが男でつまずくって。 母さんと同じ轍を踏むって」
211	春希	Haruki	「かずさ…」
212	かずさ	Kazusa	「あたし、爺さんに男の話なんかしなかったのに。 お前の話なんかしなかったのになぁ」
213	春希	Haruki	「それは…」
214			多分、噂の出所はあそこだろうな…
215	かずさ	Kazusa	「あたしは母さんとは違うのに。 五年間、ずっと男なんか寄せ付けなかったのに。 …お前しか、いないのに」
216	春希	Haruki	「かずさ…」
217	かずさ	Kazusa	「他の男なんか興味ないのに。 これからも一生、興味なんてないのに」
218	春希	Haruki	「そういうこと…言うなよ」
219	かずさ	Kazusa	「どうして？」
220	春希	Haruki	「だって…」
221			重すぎる、から。
222			かずさの一生を受け止められないってわかってる 今の俺には…
223	かずさ	Kazusa	「前にも言っただろ？ あたしにとって男って呼べるのは、 世界に一人だけだって」
224			『…何度突き放しても近づいてくる男なんか、 世界で一人しかいないんじゃないかって、思った』
225	春希	Haruki	「世界、狭すぎるだろ、そんな…」
226			いくら、男と抱き合ってる最中だからって、 そんな極端なこと言わないで欲しい。
227			そんなこと言われたら、 お前のこれからが心配になるじゃないか。
228	かずさ	Kazusa	「狭いって、思うか？ あたしの世界」
229	春希	Haruki	「お前さ… 自分のこといくつだと思ってんだよ…」
230			お前の言う通りなら、 俺たちの別れはもう二週間後に迫ってるんだぞ？
231	かずさ	Kazusa	「刷り込みだって思うか？ 『いつか必ず俺よりもっといい男が現れる』って、 そんなくだらない台詞、言うか？」
232	春希	Haruki	「だからさぁ… そういうのをくだらないって言うなよ」
233			なのに未だにそんな幼稚なことばかり… お前、俺と離れても幸せにやっていけるのか？
234	かずさ	Kazusa	「だって、くだらないじゃないか… お前以外の男なんて、全然くだらないじゃないか」
235	春希	Haruki	「俺こそが、そのくだらない男の最たるものだろ」
236	かずさ	Kazusa	「そんなわけあるか」
237			そこまで俺に拘られると、困るよ。
238	春希	Haruki	「お前に釣り合わないくせに、最低なことばかりして… お前も雪菜も、二人とも傷つけて」
239	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
240			そんな激しい態度取られたら、 俺、お前から目が離せなくなる。
241			お前から、離れられなくなってしまう…
242	春希	Haruki	「俺はただ、五年前にかずさの目の前にいた、 唯一の男ってだけで… それ以外のことなんか、なにも」
243	かずさ	Kazusa	「それ以外のことに、どんな意味があるってんだよ？」
244	春希	Haruki	「…かずさ？」
245			そうやって、俺がどんなに強く振り切ろうとしても。
246			かずさが俺の体を抱きしめる強さは、 五年前の、俺の服の袖を掴む力と何も変わらなかった。
247	かずさ	Kazusa	「五年前のあたしの世界だって、 お前や雪菜と同じくらいには広かったよ。 あたしの周りには、数百人の男がいたんだよ」
248	春希	Haruki	「それは…」
249			だって俺たちは、三人とも同じ学園に通う、 何の変哲もない学生だったんだから。
250			…かずさが、ほんのちょっと特別だっただけで。
251	かずさ	Kazusa	「なのに、本気であたしを選んでくれたのは… 本気であたしに向き合ってくれたのは、 一人しかいなかったんだよ」
252			その『ちょっとだけな特別』に、 ある者は萎縮して、ある者は羨望して、ある者は憎悪して。
253			特別であるが故に、 その特別から敢えて目を逸らしてた。
254	かずさ	Kazusa	「雪菜はさ… 自分を選んだ数百人の男の中からお前を選んだ」
255	春希	Haruki	「………」	"........."
256	かずさ	Kazusa	「けどあたしはさ… 最初からお前一人にしか選ばれなかったんだよ」
257			けれど俺は、皆が知ってた『かずさの特別』の意味を 知らなかった。
258	かずさ	Kazusa	「なのに今さら、世界はもっと広いなんて… 他にもいい男がいるなんて言われたって、 そんなの信じられるもんか」
259			だから、見た目が特別なんだって痛い勘違いをして、 その誤解を積み重ねたまま、痛いアタックを仕掛けて。
260	かずさ	Kazusa	「それなら、たった数百人の中のたった一人を… あの時、まだ普通だったあたしを選んでくれた男を 想い続けてた方がいいよ」
261			たまたまそれが、 そんな見当外れな攻撃を予想もしてなかった 相手の急所に当たってしまっただけで。
262	かずさ	Kazusa	「お前を…ずっと想ってた方が、楽しいよ」
263	春希	Haruki	「っ…」
264			そして、そのときの傷は、 五年経った今でも、こんなにかずさを疼かせる。
265			冬が来るたびに、その痛みと想いを気づかせる。
266	かずさ	Kazusa	「どうしてそれじゃ駄目なんだ？ それだって、十分運命的じゃないか」
267	春希	Haruki	「本当に、そんなのが楽しいのかよ… 俺に、辛い仕打ちばかり受けてるくせに。 悲しい思いばかりさせられてるくせに」
268	かずさ	Kazusa	「でも！ でもこうして抱きしめてくれてる。 今は想いが通じてる！」
269	春希	Haruki	「かずさ…かずさぁ」
270	かずさ	Kazusa	「実を結ばなくてもいい。花を咲かせるだけでいい。 …散るまでの時間を、精一杯幸せに過ごすから」
271	春希	Haruki	「お前に… 一生、幸せになってもらいたいって俺の願いは？」
272	かずさ	Kazusa	「もう叶ってる… よかったな、春希」
273	春希	Haruki	「そんな…」
274			『嘘だ』って、 俺が決めつけるのは簡単だけど。
275			『嘘だ』って、 かずさに認めさせることは、 もう、今の俺には…
276	かずさ	Kazusa	「…そろそろ寝よう？ お前も、だいぶ落ち着いてきたみたいだし」
277	春希	Haruki	「ぁ…」
278			毒にも薬にもならないはずのかずさの言葉は、 やっぱり俺にとって、そんな生温いものであるはずもなく。
279			かずさのなかに包まれたままの俺は、 少しずつ力を失い、俺たちを終焉へと誘う。
280	かずさ	Kazusa	「このままで、いいかな…？ 重くないかな？」
281	春希	Haruki	「重い方がいい。 かずさを感じられる方がいいよ、俺」
282	かずさ	Kazusa	「………ありがとう。 全身で感じてくれ、あたしの身体」
283	春希	Haruki	「ん…かずさも、な」
284	かずさ	Kazusa	「おやすみ」
285	春希	Haruki	「おやすみ…」
286			その言葉と共に、かずさの全身からすぅっと力が抜け、 予告通り、心地良い重さが俺の体全体に広がる。
287			柔らかく、温かく、艶めかしく、香しいかずさの身体が、 俺と、二度と離れないかのように巻きつく。
288			頬を触れさせ、背中をさすり、胸を押しつけ、 腹を合わせ、股をこすり、足を絡め、吐息を聴かせ。
289			大事なところは、優しく繋がったまま…
290	かずさ	Kazusa	[F16「もう一つだけ、ワガママを言わせてくれるならさ…」]
291	春希	Haruki	「ぇ…？」
292	かずさ	Kazusa	[F16「花だけでなく、新しい芽を吹かせてくれたら… ][F16そしたらあたし、もっともっと、幸せに…」]
293	春希	Haruki	「それって…」
294	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
295	春希	Haruki	「かずさ…？」
296	かずさ	Kazusa	「………ん…んぅ」
297	春希	Haruki	「………」	"........."
298			それは、狸寝入りだったかもしれない。
299			最後の言葉の意図を謎のままにするための、 わざとらしい芝居だったかもしれない。
300	春希	Haruki	「おやすみ」
301			けれど今の俺は…
302			いや、二度と俺は、 その言葉の意味を確かめないって誓った。
303			………	.........
304			……	......
305			…	...
306	かずさ	Kazusa	「春希」
307	春希	Haruki	「………」	"........."
308	かずさ	Kazusa	「おい、春希ぃ」
309	春希	Haruki	「ん…んぅ」
310	かずさ	Kazusa	「お前、まだ寝てていいのかよ？ だって、今日…」
311	春希	Haruki	「すぅぅ…すぅ…」
312	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
313	春希	Haruki	「んぅぅ…くぅぅ…」
314	かずさ	Kazusa	「………ん」
315	春希	Haruki	「んぅ…？」
316	かずさ	Kazusa	「ん、んぅ…ちゅぷ…」
317	春希	Haruki	「ん、んぅぅ…ん、む」
318	かずさ	Kazusa	「ちゅぅぅ…あ、あむ…ん、んむぅ」
319	春希	Haruki	「ん…は、あぁ…あ、んぅ…ちゅ…」
320	かずさ	Kazusa	「んっ、んぅっ、んぅぅ…は、ぁぁ、ぁ… は、春希…ぁ、あむっ、ん、んぷぁぁ…っ」
321	春希	Haruki	「はぁっ、はぁっ、はぁぁ…あ、ああ…かずさ…っ、 はぁむ…ん、んむ…ちゅぅぅ…あ、んぷっ」
322	かずさ	Kazusa	「ちゅぅぅ…ん、んぁぁ…ん、ん…んんんんっ！ ぷぁっ、ぁ…は～、は～、はぁぁぁぁ～…」
323	春希	Haruki	「はぁぁ…はぁ、ぁぁぁ… あ、あ…かずさっ」
324	かずさ	Kazusa	「あ、あぁぁ…ぁぁ…はぁ、はぁぁ… おはよ、春希」
325	春希	Haruki	「おはよじゃないだろ… お前、なんでこんな…」
326			それは、おはようのキスにしては激しすぎて、 二人とも口の周りはあっという間にべとべとだった。
327	かずさ	Kazusa	「あ、いや… 呼びかけても起きないから、ちょっと…」
328	春希	Haruki	「起きなかっただけで舌入れるのかお前は」
329			それはあまりにも…良すぎるだろ。
330	かずさ	Kazusa	「いや、だって、その…」
331	春希	Haruki	「ふあぁぁぁ～、まぁ、いいや。 で、今何時？」
332	かずさ	Kazusa	「だから、それを言わないとって思って… ８時半なんだよ」
333	春希	Haruki	「そっかぁ…随分と寝過ごしたなぁ。 せっかくの日曜なのに、ごめんな」
334	かずさ	Kazusa	「春希…」
335			いくら休日だからって、 かずさより寝過ごすなんて前代未聞だ。
336			やっぱり先週末からの妙な体調が何か関係…
337	かずさ	Kazusa	「月曜日…なんだけど」
338	春希	Haruki	「………」	"........."
339	かずさ	Kazusa	「一応、６時にお前のセットした目覚ましが鳴って… あたし、それで起きて二度寝して、今また起きて…」
340	春希	Haruki	「………月曜？」
341	かずさ	Kazusa	「昨夜、週明けには会社行かなくちゃって。 朝、仕度があるから今日はお前の部屋で寝ようって…」
342	春希	Haruki	「………」	"........."
343			………	.........
344	春希	Haruki	「シャ、シャツ！　靴下！ あれ？　洗濯済みのは！？」
345			それは、前代未聞にも程があった。
346	かずさ	Kazusa	「なぁ、そんなに慌てなくても。 出版業界なんて朝は遅刻しても平気なんじゃないのか？ どうせ働き出すのは夜中だろ」
347	春希	Haruki	「お前の歪んだ認識を正すのは後日として 月曜は朝イチから[R上司^はまださん]と打ち合わせなんだよ！」
348			かずさより寝過ごしたという問題じゃなくて、 会社に遅刻するほど寝過ごしたという事実。
349			いつも平日は、６時半には起きるはずのこの俺が…
350	かずさ	Kazusa	「あ、そうだ。 春希忙しそうだから、朝食はあたしが作ってやるよ。 お前も食べ…」
351	春希	Haruki	「二重の意味で結構！ それじゃ、行ってくるから！」
352	かずさ	Kazusa	「あたしが抜くと怒るくせに…」
353			『体調、どう？』
354			『今日から週明けだけど、どんな様子？』
355			『ちゃんと熱測った？　何度あった？ お医者さんには一度でも行った？』
356			『春希くん、こういうとき平気で我慢するから心配だよ… とにかく、絶対に無理しないでね』
357	春希	Haruki	「………」	"........."
358	駅アナウンス	Station Announcement	「１番線に、御宿行きが参ります。 黄色い線の内側でお待ちください」
359			どうやら間に合った… この電車に乗れば、なんとか１０時には会社に着く。
360			『先週はごめん』
361			『いつも心配かけます。 今、通勤途中』
362			とりあえず着いたらすぐに会議室に直行して、 浜田さんに進捗報告。
363			『体調の方なら大丈夫。 昨日からちゃんと熱は下がってたし、 今日もだいぶ調子は戻ってきてる』
364			それから自分の席に戻って通常業務。
365			…木曜早帰り、金曜もほとんど手を付けてなかったから、 メールを見るのが怖いかもしれない。
366			『それよりも先週のこと、本当にごめん。 今度絶対に埋め合わせするから。 ご家族にもよろしく伝えておいて』
367			午後からはアンサンブル編集部に直行して編集会議。 …議題は『冬馬かずさ特集号の編集方針について』。
368			今回の特集号は、編プロと共同とは言え、 俺が直接編集に[R携^たずさ]わるという意味で、記念すべき初仕事。
369			『電車来たのでこれで。 それじゃ、また連絡するから』
370			…まぁ、冬馬曜子事務所の強い意向という、 どう考えてもコネによるものだとしても、 せっかくのチャンスを活かさない手はない。
371			締め切り２末、発売は３初。 冬馬かずさの日本公演の熱気が冷めやらぬうちの、 ギリギリのタイミング。
372			週の初めからものすごいペースだな。 リハビリなんて言ってる場合じゃない。
373			大丈夫かな…
374			初めての責任編集。 しかも勝手知ったるグラフじゃないアンサンブル編集部。
375			浜田さんのサポートも限定的だし、 いつものメンバーのサポートも期待できない。 今週からしばらくは長い修羅場になるだろうな。
376			大丈夫かな…
377			雪菜のこと。小木曽家のこと。 将来のこと。約束のこと。
378			それから…
379	春希	Haruki	「…ふぅ」
380			なんて、色々と考えてても仕方ない。 とにかく今は、できることから片づけるしかない。
381			まずは会社、そして仕事。 いつも通りの、当たり前の日常へと戻っていくんだ。
382			俺の、本当の日常へと…
383	春希	Haruki	「…よしっ」
384			と、俺は膝に力を込め、 ベンチから立ち上がると、電車へと乗り込み…
385	駅アナウンス	Station Announcement	「一番線電車が発車します。 閉まる扉にご注意ください」
386			………	.........
387			……	......
388			…	...
389	かずさ	Kazusa	「う～ん…」
390	かずさ	Kazusa	「あいつはあんなに簡単そうにやってるのになぁ」
391	かずさ	Kazusa	「というか、多分簡単なんだろうなぁ」
392	かずさ	Kazusa	「と、それはともかく」
393	かずさ	Kazusa	「この警報ベル…どうやって消すんだ？」
394	かずさ	Kazusa	「…やっぱり春希の言う通り、 自分で料理なんかしない方が良かったのか？」
395	春希	Haruki	「その通りだ」
396	かずさ	Kazusa	「え…？」
397			玄関の外に漂う焦げ臭い匂いから、 俺はすぐに数日前と同じ惨劇を予感した。
398	かずさ	Kazusa	「どうしたんだよ春希…？ お前、さっき会社に…」
399	春希	Haruki	「話は後だ！　すぐ窓開けろ！」
400			…別に当たってて欲しくはなかったんだけど。
401			………	.........
402	春希	Haruki	「ほら、焼けたぞ。 今度こそキツネ色に」
403	かずさ	Kazusa	「あ、うん…」
404			目玉焼きを焦がすのはまぁスキル不足と言えるけど、 トーストを黒焦げにするのはかなりの注意力不足が 必要だと思うんだが…
405			ほんと、世界レベルで器用な人間のはずなのに、 漫画みたいに長所と短所のハッキリした奴だ。
406	かずさ	Kazusa	「で、話戻すけど… なんで戻ってきたんだよ春希？ …まさか駅から煙が見えた訳じゃないよな？」
407	春希	Haruki	「ちょっと忘れ物だ」
408	かずさ	Kazusa	「何を？」
409	春希	Haruki	「…レコーダー」
410	かずさ	Kazusa	「何でそんなものわざわざ取りに来たんだ？ 別に持って行かなくても…」
411	春希	Haruki	「……先週のお前のコメント。 ほら、お前の師匠の話。 あれが収録されてたから」
412	かずさ	Kazusa	「けど、あの時録音なんかしてなかっただろ？」
413	春希	Haruki	「………後から覚えてることを自分で吹き込んだんだ。 お前が寝た後でこっそり」
414	かずさ	Kazusa	「…本当か？」
415	春希	Haruki	「嘘ついてどうする」
416	かずさ	Kazusa	「いや、どうもしないけどさ」
417	春希	Haruki	「そうか…ならいいだろ」
418	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
419			かずさの視線が俺の背中で止まっているのを感じる。
420			そりゃ、今の受け答えは 多分、俺が聞いたとしても不自然に感じただろうからな…
421	春希	Haruki	「ほら、目玉焼き。 皿出せ」
422	かずさ	Kazusa	「あ、うん」
423			けど俺は、そんな疑惑の視線なんかお構いなしに、 出来たての目玉焼きをかずさの皿に載せると、 今度は冷蔵庫の生野菜を漁る。
424	かずさ	Kazusa	「それで…忘れ物見つかったのか？」
425	春希	Haruki	「うん、まぁ…」
426	かずさ	Kazusa	「じゃあ…これ食べ終わったら会社に戻るのか？」
427	春希	Haruki	「お前も…そろそろ練習に行く時間だろ？」
428	かずさ	Kazusa	「あ、うん。 そう、だけど」
429	春希	Haruki	「そっか…」
430	かずさ	Kazusa	「う、ん」
431	春希	Haruki	「………」	"........."
432	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
433			さっき部屋を出た時は 遅刻寸前で慌ててたせいで、 こんな妙な空気になることはなかった。
434			この、なんとも言えない寂寥感というか、 互いが互いに、心の中でだけ手を伸ばして、 相手のシャツの裾を軽く掴んでいるような微妙な感覚。
435	春希	Haruki	「あ、あのさ…」
436	かずさ	Kazusa	「ん？」
437			どっちが口火を切るか、 どう決着をつけるか、 右に左に、ゆらゆらと揺れながら、言葉を探し…
438	春希	Haruki	「実は…上司からお許しが出たんだ。 さっき電話で簡単な報告したら、 今日はもう来なくてもいいって」
439	かずさ	Kazusa	「…そうなのか？」
440			結局流れ着いたのは、楽な道。
441			今の俺にとって一番快適で、 何の波風もない、そんな穏やかな緑の道。
442	春希	Haruki	「午後から取材に出かけるらしくてさ、 今日はどうせ打ち合わせできないからって」
443	かずさ	Kazusa	「へ、へぇ…」
444	春希	Haruki	「それに俺、もともと今は出張扱いだろ？ …冬馬かずさ対応ってやつで」
445	かずさ	Kazusa	「じゃ、じゃあ…ここでこうしてるのが、 お前の仕事、ってことか？」
446	春希	Haruki	「さすがにそれだけじゃマズいけどさ… 今日はちゃんと仕事持ち帰れてるし。 …ほら、先週のお前のインタビューの起こし」
447	かずさ	Kazusa	「春希…」
448	春希	Haruki	「だからその、今日は部屋にいる。 今の仕事はメールが使えればどこでだってできるし」
449	かずさ	Kazusa	「そ、そっか…」
450	春希	Haruki	「うん」
451	かずさ	Kazusa	「春希…ずっと部屋にいるのか」
452	春希	Haruki	「まぁな」
453	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
454	春希	Haruki	「………」	"........."
455			そしてその道は、多分今のかずさにとっても…
456	かずさ	Kazusa	「な、なぁ…」
457	春希	Haruki	「ん？」
458	かずさ	Kazusa	「ど、どうせなら、こっちの部屋で仕事しないか？ あたし、邪魔しないから」
459	春希	Haruki	「………」	"........."
460			『邪魔しないも何も、練習はどうするんだ？』
461	かずさ	Kazusa	「見てるだけにする。 気が散るって言うなら、部屋の隅にいる。 お前が仕事に集中できるようにさ」
462	春希	Haruki	「…別に、気が散ることはないからいいけどさ、 ただ、気を使ってコーヒーとか淹れようとするなよ？ ＰＣにこぼしたら取り返しがつかないからな」
463			そんな空気を乱す指摘なんか誰もしない、 かずさにとっても快適で穏やかな道。
464			二人が、二人きりでいられる唯一の道だから。
465	かずさ	Kazusa	「わかってるって！ 春希がいるのに家事なんかするわけないだろ。 そういうのは全部お前に任せる」
466	春希	Haruki	「お前は…」
467			そうやって俺は、かずさの逃げを肯定する。
468			だって俺には、 そのことを責める資格なんかないから。
469			ほんの数十分外に出ただけで、 二人の世界に逃げ帰ってきてしまった今の俺には。
470			………	.........
471	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
472	春希	Haruki	「………」	"........."
473	かずさ	Kazusa	「レコーダー、使わないのか？」
474	春希	Haruki	「一応、頭の中に全部入ってるからな」
475			自分でも呆れるくらい、なんて拙い言い訳…
476	かずさ	Kazusa	「そっか…さすがだな、春希は」
477			けれどかずさは、そんな俺の言葉に素直に感心し、 俺の左肩に、こつんと頭を載せる。
478			多分、俺の言葉を疑っていないんじゃなくて、 考えることそのものをやめてしまっているんだろう。
479	春希	Haruki	「な…あれ書いていいか？ フリューゲル氏が語った冬馬曜子評」
480	かずさ	Kazusa	「淫蕩生活の末にあたしが生まれたって話か？ 別に構わないけど」
481	春希	Haruki	「………いや、そっちじゃなくて、 余裕で優勝できる実力があったってくだり」
482	かずさ	Kazusa	「そんなつまらないこと、別に確認しなくても…」
483	春希	Haruki	「あと、かずさは母親と違って 一度もレッスンを休んだことがないってことも」
484	かずさ	Kazusa	「そう書かれると、 母さんに比べてあたしが随分と小者に見えるな」
485	春希	Haruki	「事実なんだからしょうがないだろ… どう考えても、お前は曜子さんよりも努力家で…」
486	かずさ	Kazusa	「あの人はあたしよりも天才で…」
487	春希	Haruki	「俺はお前のその小者っぽいところ、好きだけどな」
488	かずさ	Kazusa	「ふん」
489			かずさは、少し拗ねたようで、 こつん、こつんと、何度も俺の肩に頭をぶつけてくる。
490	春希	Haruki	「そりゃお前、もちろん才能あるよ。 一般人とは比べものにならないくらい。 それにきっと、ピアニストと呼ばれる人種の中でも相当」
491	かずさ	Kazusa	「知るかそんなの」
492	春希	Haruki	「けど、コンクールで曜子さんと同じ順位にいるのは、 あの人をしのぐ努力をした成果なんだと思う…」
493	かずさ	Kazusa	「だったらさ、付属の頃、三年間さぼってた事実を どう説明するつもりだ？」
494			こつんこつんこつん…と、 しつこいくらいに何度も何度も頭をぶつけてくる。
495	春希	Haruki	「なんだよ、世間に天才と思われる方がいいのかお前？」
496	かずさ	Kazusa	「前から言ってるだろ？ あたしは、お前以外にどう思われようが関係ない」
497	春希	Haruki	「…はいはい」
498	かずさ	Kazusa	「そうやって聞き流すなよ…」
499			…ぶっちゃけ甘えてる。俺に。
500	春希	Haruki	「それで、俺の『冬馬かずさ小者評』については？ 俺にどう思われてるかは関係あるんだろ？」
501	かずさ	Kazusa	「半分ムカついて、半分悔しくって… そして半分、嬉しい」
502	春希	Haruki	「お前それ当社比１．５倍だぞ…」
503	かずさ	Kazusa	「あたしより小者の春希がさ、 あたしを小者扱いして 分不相応に守ってくれるところがさ…」
504	春希	Haruki	「かずさ…」
505	かずさ	Kazusa	「ん…ん」
506			振り向いた俺に、軽く唇を重ねると、 すぐにまたこつんと頭を俺の肩に載せる。
507			今度は、何度も叩いたりせず、 ぎゅっと髪を押しつけて。
508	かずさ	Kazusa	「嬉しい、よ」
509	春希	Haruki	「そっか…」
510			後半のコメントは、とてもインタビュー記事として 載せられるレベルじゃなかったけど。
511			ただ、俺の記憶には… 俺たち二人の思い出には、 永久保存してもいいかもしれない三流記事だった。
512	かずさ	Kazusa	「な、春希」
513	春希	Haruki	「今度は何だ？」
514	かずさ	Kazusa	「あたし、ウザいかな？」
515	春希	Haruki	「全然」
516	かずさ	Kazusa	「だよな？　いいよなこれくらい？」
517			五年前…さんざん俺をそう罵った女の子は、 俺の即座の否定に、やっぱり女の子らしく表情を輝かせた。
518	かずさ	Kazusa	「…あと、たったの二週間だもんな。 このくらい、我慢できるよな？　春希なら」
519	春希	Haruki	「そもそも俺、最初からそう感じたことなんかない。 今だって我慢なんか全然してない」
520			かずさと一線を越えてしまったあの日以来、 かずさの肌の感触は、かずさから伝わる体温は、 もう二度と俺を苦しめることはなかった。
521	春希	Haruki	「それよりも、 二週間、二週間って連呼される方がウザい」
522	かずさ	Kazusa	「え…？」
523			それどころか今の俺は、かずさが肌を重ねてくるたび、 唇を触れさせてくるたび、俺を迎え入れてくれるたび、 心の安寧を取り戻していく。
524			裏切りの罪悪感以上に、 溶け合う高揚感がまさり、 二度、三度と同じ行為を繰り返したくなる。
525	春希	Haruki	「俺、そんな約束した覚えなんかないからな。 …お前が勝手に決めつけてるだけだからな」
526	かずさ	Kazusa	「春希…」
527	春希	Haruki	「まだ何も………決まっちゃいないんだからな」
528	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
529			けどそれは、 依存性の強いヤバめの薬に手を出してしまった時の 高揚感にも似ているかもしれず。
530	春希	Haruki	「だから、な…かずさ」
531	かずさ	Kazusa	「ぁ…」
532			だから俺は、熱に浮かされたように、 すぐ隣にいたかずさを強く抱きしめ、床に押し倒す。
533	春希	Haruki	「もっとたくさん、お前のこと感じたい」
534	かずさ	Kazusa	「は、春希…？」
535	春希	Haruki	「お前の温かさ、感じたい。 柔らかさ、触りたい。 匂い、嗅ぎたい」
536	かずさ	Kazusa	「ぁ、ぁぁ…」
537	春希	Haruki	「…いいよな？」
538	かずさ	Kazusa	「け、けど今… まだ朝の１０時、だぞ？」
539	春希	Haruki	「…それが？」
540	かずさ	Kazusa	「………今からだと、 たくさん、抱き合えるな」
541	春希	Haruki	「うん… 今日はまだ、１４時間もある」
542	かずさ	Kazusa	「それは…夢みたいな話だ」
543			………	.........
544			心を、落ち着かせるために。 俺が俺でいるために…
545	かずさ	Kazusa	「はぁ、ぁ、ぁ… あ、ぁぁ…春希、ぃ」
546			かずさという、依存性の高い薬が切れた時の…
547			今朝も、電車に乗ろうとした瞬間襲ってきた、 あの目眩と頭痛と動悸を、体の記憶から追い出すために。

Script Chart

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