White Album 2/Script/3023

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1	曜子	Youko	「ここで会うのは一週間ぶりかしらね」
2	春希	Haruki	「………」	"........."
3			激動の一日だった。
4			早朝からずっと曜子さんの携帯は繋がらず、 工藤さんや浜田さんにまで何度も問い合わせて、 あの親子の行方を捜し求めた。
5			やっと曜子さんから連絡が返ってきたのが１７時。 けれどその時彼女がいた場所は…
6	曜子	Youko	「それで、何から話せばいいかしら」
7	春希	Haruki	「まずは…あなたの今の状態を」
8			そこは、一週間前に会った病室。
9			午前中に連絡したときはいないって話だったのに、 その後で救急病院から転院してきたんだとか。
10			つまり、俺たちの状況はふりだしに戻った。 …いや、実質的には後退してた。
11	曜子	Youko	「あら、この期に及んでも わたしのことを優先してくれるの？」
12	春希	Haruki	「当たり前です。辛くないですか？ こうして俺と話してて大丈夫なんですか？」
13	曜子	Youko	「…別に悪くなってないわよ。 一進一退といったところ」
14	春希	Haruki	「…今すぐどうこうってことはないんですね？」
15	曜子	Youko	「ええ、ちょっと貧血気味なだけよ。 ベッドで休んで点滴受けたから今は平気」
16			俺に軽口が通用しないことを思い出したか、 曜子さんは、はぐらかすのをやめてくれた。
17	曜子	Youko	「ただ、大したことないのに救急車呼んじゃったから、 しばらくはこうしてなきゃいけないけどね」
18	春希	Haruki	「それって…」
19	曜子	Youko	「何しろかずさは、 わたしがこうなるのを初めて見たから、 パニックになっちゃってね…」
20	春希	Haruki	「………っ」
21	曜子	Youko	「ごめん、ギター君。 わたし、あの子の目の前で倒れちゃった」
22			かずさは、俺に傷つけられ続ける今の生活に耐え切れず、 俺の監視を振り切って、曜子さんの元に向かった。
23			それは、曜子さんが薬で眠っている早朝… 予期せぬ事態で自分の体調も整えられない、 虚勢を張る余裕もない時間帯で。
24	曜子	Youko	「せっかくあなたが頑張って 隠し通そうとしてくれたのに、 どうやら台無しにしてしまったみたいね」
25	春希	Haruki	「…俺のせいです」
26			そんな時、防波堤になると誓ったはずの俺は、 かずさを落ち着かせられたと甘く考えて、 迂闊にも眠ってしまっていた。
27			それどころか、かずさの感情を強く刺激して、 自ら防波堤を決壊させる方向へ波を追い込んだ。
28			こんな大事なときに限って… もう、自分を責める言葉しか思い浮かばない。
29	曜子	Youko	「罰、かしらね。 自分の娘を騙そうとした」
30	春希	Haruki	「それも俺のせいです。 あいつを騙そうって考えたのも、 曜子さんにそうさせたのも…」
31	曜子	Youko	「あなた、ちょっと自分で背負い込もうとしすぎよ。 たかが昔の男が、親よりもしゃしゃり出てくるのは どうなのよ？」
32	春希	Haruki	「…すいません」
33	曜子	Youko	「…そこで謝るのも確信犯よね。 わたしが巻き込んだことに文句一つ言わずに」
34	春希	Haruki	「…そこまで言うなら、お互い様ってことで」
35	曜子	Youko	「そうね。 落としどころはその辺にしておきましょうか」
36			曜子さんが、自分の娘を騙そうとした罰を受けるのなら、 俺は、自分の大切な人を傷つけた罰を受けるべきだから。
37	春希	Haruki	「それで、かずさは…？」
38	曜子	Youko	「どこに行ったかは知らない。 でも多分、前よりも簡単に見つかると思うわ。 …しばらくは立ち上がる気力も失ってたもの」
39	春希	Haruki	「っ…曜子さん。 俺は、どうすればいいんですか？」
40	曜子	Youko	「わたしがどうすればいいか教えてくれたら、 その質問に答えてあげるわ」
41			罰を受けるべきとか、そういう話じゃない。
42			ただ、かずさが心に深い傷を負ったことが、 俺の心にまで、深い傷を刻み込んだ。
43			………	.........
44	高柳	Takayanagi	「…とりあえず、前回と同じ薬を投与しといて。 で、目覚めたら僕に直接連絡して」
45	看護師	Nurse	「精密検査の方は？」
46	高柳	Takayanagi	「あ～、それも僕が診断してからにする。 とにかく今日はずっとこっちに詰めてるから…」
47	かずさ	Kazusa	「ちょっと待ってくれよ… これ、一体どういうことなんだよ？」
48	高柳	Takayanagi	「あ～、大丈夫大丈夫、 お母さん、少し安静にしてたらすぐ退院できるから」
49	かずさ	Kazusa	「なんでみんな、 こんなに『わかってる』んだよ！？」
50	看護師	Nurse	「病室で騒がないでください。 患者さんが起きてしまいますから」
51	高柳	Takayanagi	「まぁ落ち着いて。 こういうのは大袈裟に見えるけど よくあることなんだから」
52	かずさ	Kazusa	「よくあるってどういうことだよ？ 母さん、何度もこうなったことあるのか！？」
53	看護師	Nurse	「お静かに！」
54	かずさ	Kazusa	「っ…」
55	高柳	Takayanagi	「ええと、かずさちゃん、だっけ？ ちょっと喫茶室でお茶でもしようか？」
56	かずさ	Kazusa	「母さんは…母さんは平気だよな？ ただの貧血なんだよな…？」
57	高柳	Takayanagi	「…とにかく落ち着こう。 今はお母さんを休ませてあげようね」
58	かずさ	Kazusa	「で、でも…」
59	高柳	Takayanagi	「今は眠ってるだけだ、平気だよ。 ささ、僕と一緒に…」
60	曜子	Youko	「…自分の孫と同じくらいの娘を引っかけようとするな。 相変わらずあんたは」
61	かずさ	Kazusa	「っ…母さん！」
62	高柳	Takayanagi	「…曜子ちゃん」
63	曜子	Youko	「…何だか、またいらぬ世話をかけたみたいね。 でももう大丈夫だから。ありがとうノリ君」
64	高柳	Takayanagi	「しかし、君の体のことは…」
65	曜子	Youko	「娘と二人きりにして頂戴。 …わたしから話すから」
66	かずさ	Kazusa	「…母、さん？」
67			………	.........
68			……	......
69			…	...
70	曜子	Youko	「…と、まぁそんなところ」
71	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
72	曜子	Youko	「………」	"........."
73	かずさ	Kazusa	「は、はは…」
74	曜子	Youko	「かずさ…」
75	かずさ	Kazusa	「冗談だろ…？」
76	曜子	Youko	「ええ、超悪質な冗談よ。 …と言えば、今からでもあなたは信じてくれる？」
77	かずさ	Kazusa	「っ…ぁ、ぁぁ…」
78	曜子	Youko	「………」	"........."
79	かずさ	Kazusa	「そ、んな…なんで… なんで今、なんだよ…」
80	曜子	Youko	「本人よりショック受けられても困るのよね。 あくまでも症状が出たのはわたしの方なんだから」
81	かずさ	Kazusa	「あんた約束したよなぁ！ 娘より先に死なないって言ったよなぁ！？」
82	曜子	Youko	「人生、基本的には先送りよ。 そんなことを本気で信じてる方が痛いんじゃない？」
83	かずさ	Kazusa	「っ…」
84	曜子	Youko	「人間、死ぬときはあっけないもんよ。 わたしだって今まで何度もそういうの見てきたし」
85	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
86	曜子	Youko	「そりゃ、まぁ…病気になったのも、 それをあなたに知られたのも不本意ではあるけれど…」
87	かずさ	Kazusa	「………………」
88	曜子	Youko	「でも、知られてしまった以上は、 少しでも前向きに捉えないとね。 あなたもいざって時のこと、覚悟しておいた方が…」
89	かずさ	Kazusa	「………………………ぅぇっ」
90	曜子	Youko	「う…」
91	かずさ	Kazusa	「う、うぅ…ひぅっ、ひっく…う、うぇ、うぇぇ…っ、 そ、んな…そんな、そんな、そんな…嘘、だぁ…っ」
92	曜子	Youko	「あ、あ、あ…ちょっと、かずさ…」
93	かずさ	Kazusa	「母さん…母さん母さん母さん…っ、 嫌だ、嫌だぁ…死ぬな、死んじゃ駄目だぁぁ…っ」
94	曜子	Youko	「あなたは…」
95	かずさ	Kazusa	「長生きするって、言ったじゃないか… あたしのために、体に気をつけるって… なのに、なのに…ぅ、ぅぇ…ぇぇぅっ、う、うあぁぁ…」
96	曜子	Youko	「………」	"........."
97	かずさ	Kazusa	「どうしたら…あたしどうしたらいいんだよ… 何もなくなっちゃったじゃないか… すがるもの、一日で全部なくしちゃったじゃないかぁ…っ」
98	曜子	Youko	「…あ～、ごめんごめん、よしよし！ ほら、こっちおいで！」
99	かずさ	Kazusa	「う、うあぁぁぁぁぁぁっ！ か、母さん…ふぇ、うえぇぇぇぇぇぇっ！」
100	曜子	Youko	「まったく… あなたが赤ん坊の時だって、 こんなことしなかったわよ？」
101	かずさ	Kazusa	「う、うぇっ、えぐっ、う、うあぁぁ… や、やだ…あたし、あたし…ぃ」
102	曜子	Youko	「…ま、しなかったからこそ、 こんな子に育っちゃったんだけどね。 ごめん、かずさ」
103	かずさ	Kazusa	「ふぇぇぅっ、う、うぐ…う、う…っ」
104	曜子	Youko	「このまますぐ死んだら確かに早すぎるけど… 安心なさい。そんなに簡単にはくたばらないから」
105	かずさ	Kazusa	「…本当？」
106	曜子	Youko	「一応、これでも１００まで生きるつもりだしね」
107	かずさ	Kazusa	「ま、また、裏切ったりしないよな？ そんなこと信じるのは痛いとか言わないよなぁ？」
108	曜子	Youko	「…あ～、さっきは言いすぎたわ、ごめん」
109	かずさ	Kazusa	「一緒に…いてくれるよな？ 母さんだけは、ずっと、ずっと一緒に…」
110	曜子	Youko	「かずさ…？」
111	かずさ	Kazusa	「帰ろう… コンサート終わらせて、早くウィーンに帰ろうよ。 家でゆっくり寝てれば、すぐに治るよ」
112	曜子	Youko	「………」	"........."
113	かずさ	Kazusa	「そして治ったら、またピアノ弾こう？ あたし、これからは母さんの面倒も見るからさ」
114	かずさ	Kazusa	「そうだ、一緒にコンサート開くなんてのもいいな。 連弾とかしたことないよな、あたしたち」
115	かずさ	Kazusa	「あたしも、母さんの添え物って言われないように、 もっと腕を上げないとな。 これからはコンサートもコンクールも、もっと沢山出て…」
116	曜子	Youko	「かずさ…」
117	かずさ	Kazusa	「頑張って、頑張って、 いつかあんたと並び立つくらいに… いや、超えてみせるからさ」
118	かずさ	Kazusa	「だから、だから… ずっと、あたしの…」
119	かずさ	Kazusa	「あたしの、ものすごく高い目標で… 呆れるくらい強い敵で…」
120	曜子	Youko	「かずさ」
121	かずさ	Kazusa	「っ…」
122	曜子	Youko	「もう、隠しごとはしないわ。 あなたをこれ以上、欺きたくないから」
123	かずさ	Kazusa	「母さん…？」
124	曜子	Youko	「ごめんなさい、かずさ…でも」
125	かずさ	Kazusa	「やめろ…やめて…っ」
126	曜子	Youko	「………わたしの冒険は、ここまでよ」
127	かずさ	Kazusa	「やめろぉぉぉぉぉっ！」
128			………	.........
129			……	......
130			…	...
131	春希	Haruki	「寒…」
132			夜間通用口から外に出たとき、 すでに日はとっぷりと暮れ、 真冬の冷たい風が容赦なく顔を打ちつけた。
133			時計を見ると、午後十時をとっくに過ぎている。
134			よく考えたら面会時間はとっくに過ぎていたはずなのに、 病院側も、色々と特例扱いにしてくれたみたいだった。
135			病院の敷地を抜け、足を踏み入れた峰城大キャンパスは、 試験期間中の夜ということもあり、人影は見当たらない。
136			それでも、学部棟の窓からいくつか明かりが漏れていて、 試験だけでなく、卒論発表や修論発表も 間近に迫っていることを伺わせる。
137			俺もあの明かりの下で、何度も夜を明かしてたっけ。
138	千晶	Chiaki	『んじゃさ、朝ご飯食べに行くときに起こして。 おやすみ～』
139	春希	Haruki	「………」	"........."
140			なんか、いつも妙な芋虫が 足元に転がってた気がするけど。
141			論文も書かないくせに、 寝袋持参で研究室に入り浸ってた同期生。
142			四年に進級できたはずなのに、 そこから徐々に顔を見せなくなり、 結局、卒業式で顔を合わせることはなかった。
143			そういえば、就職してから一度だけ、 偶然、街中で再会したっけ。
144			久しぶりに見たあいつは驚くほど綺麗になっていた… いや、多分元から素材は抜群だったんだろう。
145			近況を聞こうとする俺をはぐらかすかのように、 いきなり俺の耳をぺろりと舐めて、 けらけら笑いながら雑踏に消えていきやがった。
146			そしていつの間にか、ポケットには芝居の券が２枚。 それも、俺でも知っている有名劇団のプラチナチケット。
147			何を伝えたかったのかもさっぱりわからなかったけど、 それも含めて、ちっとも変わってなかったな、あいつ…
148	千晶	Chiaki	『………ね、春希？』
149	千晶	Chiaki	『あたしはね、 本当はあんたの想いの深さを知ってるよ？』
150	千晶	Chiaki	『物語にしても遜色のない、 あんたたちの綺麗な想いを知ってるよ？』
151	千晶	Chiaki	『ここまで引っ張ったんだ… どうせなら、最後まで突っ走って 綺麗な物語を綺麗なまま完結させて欲しいな』
152			女であることを感じさせない、 あの頃の俺にとっては貴重な女友達。
153			時々、妙に鋭いことを言いやがって、 『本当はこいつ、俺のこと何でも知ってるんじゃないか』 なんて思ったこともあったっけ。
154			和泉…
155			俺は今、お前の言う『想いの深さ』とやらに、 のたうち回ってる。
156			そしてお前の言うように、 『綺麗な物語を綺麗なまま完結させる』 なんてことはできそうにない。
157			なぁ、和泉…
158			あの頃お前は、俺の何を知ってた？
159			そして今のお前は、 これから俺がどうすればいいか、知ってるか？
160			………	.........
161			時計を見ると、そろそろ十一時。
162			随分ゆっくりと歩いていたせいで、 …ついでに、懐かしい思い出に浸っていたせいで、 大学から出るだけで３０分以上もかかってしまった。
163	春希	Haruki	「っ…」
164			冷たい風は、相変わらず体を芯から冷やし、 この場に立ち止まるのを厭わせる。
165			…けれど、ならどこへ移動しようかとなると、 途端に自分の思考が鈍っていくのがわかる。
166			曜子さんは、[R天岩戸の^かずさのいる]場所に心当たりがあると言った。 そして、そこは俺も十分に予想できる場所だった。
167			けれど、今そこに行く決心はつかない。
168			だって俺はまだ、天照大神の出てきた後の世界を 自分の中にイメージできていない。 だから今、その扉の前で踊る訳には行かない。
169			次にあいつに会うときは、 全てを決めた後でないとならない。
170			二週間の予定だけじゃない。 日本公演が終わるまでだけじゃない。
171			これからのかずさの人生と、俺の人生…
172			どこで生きていくか、誰と生きていくか…
173			全て、決心してからでないと、 会いに行くわけにはいかない。
174			………	.........
175			冬馬曜子の『ピアニストとしての死』は…
176			彼女に憧れ、彼女を敵視していたかずさにとって、 到底受け入れられる事実じゃなかった。
177			だってあいつは、そこしか見ていなかったはずなんだ。 冬馬曜子が全盛期のうちに彼女を超える日を。 直接対決で叩き潰して乗り越える日を。
178			自分の母親を嘲笑い、憎まれ口を叩きあい、 お互いを称えあい、抱きあって、泣きあう。
179			もしかしたら、その日がピアニストとしての 最終到達点となっても構わないほどに、 そこだけ目指してたんだと思う。
180			けれど、今日…
181			かずさの目指した頂は、唐突に消えた。
182			………	.........
183	春希	Haruki	「あ…」
184			もう、閉店してる。 相変わらず夜に稼ぐ気のない店だ。
185			…なんて愚痴をこぼす必要は、本当は全然ない。
186			だって俺は、別に腹が減ってた訳じゃない。 それに帰り道の途中だから、無駄足だった訳でもない。
187			ただ、もしかしたら…
188	小春	Koharu	『お店の前で陰気な顔して突っ立ってないでください。 他のお客さんが逃げちゃいます。 そんな顔はキッチンの中でしててください…たまには』
189	春希	Haruki	「………」	"........."
190			なんとなく、誰かが元気づけてくれるんじゃないかって…
191			理由もなく、そんな都合のいいことを考えていたのかも。
192			友達との卒業旅行の資金稼ぎのため、 『仕方なく』この店でバイトを始めた後輩。
193			生来の生真面目さと処理能力の高さと物怖じしない態度で、 いつしか店内の実権を握り、 なくてはならない存在になるまでに、たったの三か月。
194			結局、大学に進学してからも泣きつかれるまま バイトを続け、いつの間にやら数十人の常連を生み出す 看板娘になっていたっけ。
195			就職してから二、三度顔を出したことがあるけれど、 昔と変わらぬ不機嫌な表情でいつもくどくど説教された。
196			そういえば、一緒にいた雪菜が、 一度だけ、帰り際にぽつりとつぶやいた。
197	雪菜	Setsuna	『あの子、まだ春希くんのこと好きだよ、きっと』
198			けれどそれは、見込み違いもいいところで…
199			ただ俺は、彼女にとって駄目な男だっただけで。 けどだからこそ、彼女は俺を、絶対に放っておけなくて…
200	小春	Koharu	『先輩のことを知るためです。 自分にとって、わからない人でいて欲しくないから』
201	小春	Koharu	『わたしの近くにいる以上、 そういう態度は改めてもらわないと困ります』
202	小春	Koharu	『気になるからです。 先輩に興味を持ってしまうからです！』
203			そんな、誰彼構わぬ… いや、相手が弱っていればいるほど、 深く介入していこうとする、困った後輩。
204			…あいつなら、 目の前にかずさがいたらどうするだろうか。
205			何もかも信じられずに、 大切なものを失ってしまった人を目の前にして、 赤の他人とはいえ、果たして放っておけるだろうか。
206			杉浦小春…
207			君なら、今のかずさと出会ったら、何を思う？ 俺に似ているって、自他共に認める君だったら…
208			………	.........
209	曜子	Youko	「あの子は、ピアノを愛してる。 けど、わたしみたいに人生そのものじゃなかった」
210			曜子さんに言わせれば…
211			あいつは、ピアノがあれば生きていけるような、 純粋な音楽家じゃなかったらしかった。
212	曜子	Youko	「あの子は、ピアノを愛してる。 だって、弾いている間だけは、 愛する人と触れ合えたから」
213	春希	Haruki	「それって…曜子さんの」
214	曜子	Youko	「ま、確かにわたしも、 あの子の世界の中の数少ない住人ではあったでしょうね。 けど…もちろん今の喩えはわたしのことじゃないわよ？」
215	春希	Haruki	「………」	"........."
216			現実は、どこまでもシビアで、 そして、俺に甘すぎて…
217			だから、おれの煮え切らない態度に、 曜子さんは苛立ちを隠さなかった。
218	曜子	Youko	「そうやって、 ピアノを弾いている間だけ触れ合える人たちがいたから、 あの子は毎日、飽きもせずに弾きつづけていただけ」
219			現実に存在するけど、空想でしか会えない人。 そして、自分の側にいて、自分を導いてくれる人。
220			…空想と現実を含めても、ほんの数人だけが、 あいつの世界の全てだった。
221	曜子	Youko	「けど厄介なことに、 あの子はわたしほどピアノが好きじゃないくせに、 わたしより才能だけはありやがったのよね…」
222			そんな、たった数人と触れ合うためだけに 毎日休まず弾いていたピアノは…
223			皮肉にも、あいつの類稀なる血と才能のせいで 世界にまで花開いてしまった。
224	曜子	Youko	「そんなあの子が、 自分の道を、自分で見つけられるか… 実はわたしにも、自信がないのよね…」
225	春希	Haruki	「………」	"........."
226			だから、だから…
227			あいつの手元に、ピアノ“だけ”が残ったとしても…
228			その音の先に、触れ合う相手がいなければ、 それはもしかして、何の意義ももたらさないのかも…
229			………	.........
230	駅アナウンス	Station Announcement	「二番線、本日最終電車になります。 お乗り遅れのないようお願いします」
231	駅アナウンス	Station Announcement	「ドアが閉まります。ご注意下さい」
232			かずさは、これからどうなるんだろう…
233			あいつのことを、 『冬馬曜子の娘で世界に通用する若手ピアニスト』 としか知らない人たちは、多分あいつにこう言うだろう。
234			『母の進んできた道を引き継げ』と。 『母と同じように、世界へと羽ばたけ』と。 『母はもう、頑張りたくても頑張れないんだぞ』と。
235			そして、そういう人たちに対して俺は、 『あいつのこと何も知らないくせに勝手なこと言うな』と 激昂してしまうに違いない。
236			そんな簡単な話じゃない。 あいつがそんな決断、できるわけないじゃないか。
237			だってあいつは、実はすごく弱い奴で、 とんでもない甘ちゃんで、何の覚悟もなくて、 普通の人の普通の現実を生きてない。
238			しかも、そんな普通じゃない現実の中ですら、その才能と、 夢想混じりの苦しみを伴わない努力だけで上がってきた、 正真正銘、純粋培養の天才なんだから。
239	駅アナウンス	Station Announcement	「まもなく、一番線御宿行きが参ります。 白線の内側までお下がりください」
240			そして今…
241			あいつは、積み上げてきたものを全て失って、 根元からぽきりと折れてしまったんだから。 …誰でもない、俺のせいで。
242			それでも、決断しろって言うのか？
243			コンサートを予定通り開催するかしないのか。 この先、どうやって生きていくつもりなのか。
244			曜子さんの望むまま日本で一緒に暮らすのか、 曜子さんを説得して元通りウィーンで一緒に暮らすのか。 それとも…
245			曜子さんの進むはずだった道を引き継いで、 たくさんの人たちの上に立ち、一緒に世界に挑むのか。
246			曜子さんの進むはずだった道を引き継いで、 けれど誰の力も借りず、たった一人で世界に挑むのか。
247			それとも…
248			そして、諦めろって言うのか…？
249			お前のことが好きだった… お前が好きでいてくれた俺は、 もう、今の時間にはいないんだって。
250			想いが叶わなかったという現実と、 そろそろ、向かい合おうって。
251			お互いに。
252	駅アナウンス	Station Announcement	「二番線、発車いたします。 ドアが閉まります。ご注意下さい」
253			それとも、それともさ…
254			これは本当に、 最悪のたとえ話なんだけど…
255			あいつが、母親も捨て、ピアノも捨て。
256			今まで生きてきた世界に背を向けて、 自分の望む、小さな、新しい世界に包まれて。
257			そうして、周囲の期待や家族の思いを全て捨て去り、 弱い心のまま、強い力を振り回し、 普通の世界を壊してしまうという未来は…
258	春希	Haruki	「………」	"........."
259			なんて、馬鹿馬鹿しい。
260			できるわけがない。 そんな恐ろしい選択肢、あいつは絶対選べない。 泣きながら、その場に立ち尽くしてしまう。
261			だから、そんなたとえ話、あり得ない。
262			つまりそれは、あいつ一人じゃ為し得ない、 あいつには、物理的に選べない未来。
263			…誰かの、本気の後押しがない限り。
264			だったら…
265			あいつが決められないのなら、 その誰かが、あいつの人生を決めるのか？
266			誰かが、あいつに『～を選べ』って言うのか？
267			でもそれって、 そいつ自身の人生を決断するってことでも… あるんじゃないのか？
268			それは僭越なのかもしれない。 人の人生を弄ぶ、悪魔の所業なのかもしれない。
269			じゃあ、だからって、 その誰かは、何もしなくていいのか？
270			かずさを… 守らなくても、いいって言うのか？
271			………	.........
272			いつの間にか、日付が変わってた。
273			それでも編集部の窓からは、 相変わらず明かりが煌々と漏れている。
274			けれどそこに、 俺が今、一番頼りたいと思ってる人はいない。 …もう、二年も前から。
275			俺が社会に出る前に、そこで生きていくことの何たるかを 徹底的に叩き込んでくれた、社会人としての俺の大恩人。
276	麻理	Mari	『私に任せておけ。 編集長が総没と言ったって、 発売日にはお前の記事がちゃんと載ってるはずだ』
277	春希	Haruki	「………」	"........."
278			麻理さん…
279			俺、頑張ってきたんです。
280			少しでもあなたに追いつきたくて一生懸命働いてきました。 まだ一年目だけど、ほんのちょっとだけ自信もつきました。
281			おかげで、人との嬉しい繋がりが… 社会との大切なしがらみが、たくさん作れました。
282			麻理さん…
283			そんなあなたなら、今、何を選びますか？
284			それでも仕事ですか？ 人との繋がりですか？ 社会とのしがらみですか？
285			俺には、わからなくなってきてしまいました。
286			だから、帰ってきてくれませんか？ また、俺の上司に戻ってきてくれませんか？
287			そしてまた、俺を導いてくれませんか？
288	麻理	Mari	『北原って結構ナイーブだよな。 傷つきやすくて、自分で自分を責めてばかりで』
289	麻理	Mari	『だから余計落ち込むのか？ 誰も、自分を叱ってくれないから。 …叱った後、許してくれないから』
290	麻理	Mari	『じゃあ…私はお前を責めないよ。 だから、許しもしない』
291			…そうでしたね。 あの時、約束したんですよね。
292			自分で決めるって。人に委ねないって。 人の意見におもねることもしないって。
293			…そして、許しを請わないって。
294			たとえあなたの… 俺の周りの、誰の意にすら添わない結果になったとしても。
295			俺が決断するんだって。 俺が全ての責任を負うんだって。
296			俺が、その“誰か”になるんだって。
297			………	.........
298			終電もなくなった御宿の街。
299			俺は、温かい場所を探すこともなく、 あてもなく道端のガードレールに腰掛けた。
300			冷たい風に晒されて、暖房は缶コーヒーだけ。 空を見上げても、分厚い雲は星一つ見せてくれない。
301			そんな、人が佇むには辛すぎる夜…
302			なのに俺の脳裏には、 今まで触れあってきた沢山の人たちの暖かい表情が、 浮かんでは消えていく。
303			武也、依緒、柳原さん… 大学時代から、付属時代から続いている 数多くの同級生、先輩、後輩。
304			浜田さん、木崎さん、鈴木さん、松岡さん、 それとデスクに編集長。 今、俺がいるべき場所の先輩、上司たち。
305			それ以外にも、様々な仕事で関わった人たち、 プライベートで知り合った人たち、 年齢も性別も様々な、俺が名前を知っている人たち。
306			そして… 今の俺にとって、本当の家族よりも家族同然の人たち。 小木曽のお父さん、お母さん、孝宏君。
307			それから…
308			今まで生きてきた人生で、俺が一番大切にして、 俺を一番大切にしてくれたひと。
309			トラブルを起こすことも、 相手の態度に腹を立てることも、 自分が相手を怒らせることももちろんあったけれど…
310			全てが全てというわけには流石にいかないけど、 話し合い、本音をぶつけあい、やがて仲直りして、 いつしかまた、もとの暖かい表情に戻っていった。
311	春希	Haruki	「…ぬる」
312			だから、あいつも…
313			いつか、そんな皆と同じように、 ごく自然に他人に暖かい顔を見せられるようになる。
314			たとえ辛くても、やせ我慢でも、 きっと笑って生きていけるようになる。 必ず…
315	春希	Haruki	「………っ」
316			必ずって何％だ？ １００％か？ 絶対か？
317			あいつが、たくさんの人と繋がって、 たくさんの人に笑顔を振りまいて、 たくさんの人を幸せにして…
318			その結果、たくさんの人に幸せにしてもらう？ …それってどんなファンタジーだよ？
319			俺は、そんな夢物語を信じられるのか？ 信じ込むことが許されるのか？
320			俺には、数え切れない人たちとの思い出がある。 無数の、社会との繋がりがある。
321			それらは過去だけじゃなく、 今だって毎日新しい出会いを繰り返し、 その出会いがまた新しい社会との繋がりを生み出している。
322			かずさのそれとは似ても似つかない小さな世界だけど、 その世界の隅々まで繋がろうと手を伸ばしてる。
323			それは、かずさのそれとは似ても似つかない、 外に向かって開かれた世界。
324			そんな、全然違う世界に住む俺が、 『あいつはきっと大丈夫だ』なんて… そんなふうに、わかったように言えるはずが…
325	春希	Haruki	「あ…」
326			そうやって、いつまでも堂々巡りを繰り返し、 今日という日をやり過ごそうとしていた俺を…
327			神様は、許してはくれなかった。
328			とうとう、降ってきた。
329			ずっと三人でいることを誓い合った日にも。
330			三人から二人が抜け出してしまった日にも。
331			二人から一人が去り、 一人と一人が残されてしまった日にも。
332			一人と一人が、もう一度二人になろうとして、 けれどどうしても許しあうことができなかった日にも。
333			一人と一人が、何度もお互いを傷つけあった末に、 今度こそ、心の底から二人になろうと誓った日にも。
334			………二人が、再び三人になった日にも。
335			そして今日…
336			ああ、そうなんだ。 やっぱり、今日なんだ。
337			今日が、俺の人生の… そして、三人の分岐点なんだ。
338			今日、俺がする決断は、 俺の周りの沢山の人を巻き込むことになるんだ。
339	かずさ	Kazusa	『あたしの前から先に消えたのはお前だろ！？ 勝手に手の届かないとこに行ったのはお前だろ！』
340	かずさ	Kazusa	『あたしがつまらない男を好きになって何が悪い！』
341			だって、あの時からずっと。
342			俺の運命が転がり始めるのは、必ず冬だった。 その日には、雪が降っていた。
343			いつも、降っていたんだ…
344	春希	Haruki	「っ…」
345			胸が、痛い。
346			全身に染み入る冬の寒さよりも、雪の冷たさよりも、 もっと辛く苦しいものが、濁流のように押し寄せてくる。
347			もう、逃げられないって。
348			二つのうちの一つを選ぶしかないって。 …それも、一度選んだはずの選択肢を、もう一度。
349	春希	Haruki	「っ…ぅ、く…」
350			雪が、滲む。
351			体も心も掻き毟らんばかりの痛みが、 俺の目頭までも襲ってきたから。
352			どうして… どうして、かつて結論を出したはずのことで、 こんなに迷わなければならないんだよ、俺は。
353			何が正しいのか、わかってる。 正しくて、尊くて、嬉しいってわかってる。
354			それなのに俺は、迷う。
355			だって、これが最後の決断だから…
356			かずさは決められないから、 だから、俺が決める。
357			ただ一つだけの、俺の気持ちに従う。 …世界で一番大切な人を、選ぶ。
358			俺は、誰を幸せにしたいんだろう。 誰となら、間違えても後悔しないんだろう。
359	春希	Haruki	「～～～っ！」
360			これが最後… もう二度と引き返せない、最後の決断。
361			考えよう… この雪が、終わるまで。
362			だから、できれば…
363			せめて、朝まで降り続いてくれ、雪よ…

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