White Album 2/Script/2019

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	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	店員	Clerk	「では、こちらのブレスレットでよろしいですね？」
2	春希	Haruki	「えっと…はい、大丈夫です」
3	店員	Clerk	「ただ今サービスでイニシャルをお付けしていますが、 どうなさいますか？」
4	春希	Haruki	「イニシャル…？」
5	店員	Clerk	「はい、贈られる方のお名前ですとか日付ですとか… ほんの３０分ほどで出来ますけど」
6	春希	Haruki	「………」	"........."
7	店員	Clerk	「………」	"........."
8	春希	Haruki	「…いえ、結構です。 包んでください」
9	店員	Clerk	「かしこまりました。 しばらくお待ちください」
10	春希	Haruki	「は、はい…」
11			この店に来たときには、 ３０分ほどのロスなんて大したことなかった。
12			けど今は、乗り継ぎを考えたら、 もう結構ギリギリの時間。 …それもこれも、店内で２時間も逡巡してたせい。
13			いや、本音を言えば、 イニシャルを入れなかった理由は、 全然それだけじゃない。
14			あれから三年経ったけど、 まだ残ってたんだな、この店…
15	店員	Clerk	「お待たせしました。 商品と、２千円のお返しになります」
16	春希	Haruki	「ありがとうございます」
17			それどころか、店員さんもあの時と同じ人だった。 もしかして、個人経営のお店なのかもしれない。
18	店員	Clerk	「ありがとうございました。 またお越しください」
19			この店で三年前に買ったのは…
20			裏側に『ＳＥＴＳＵＮＡ』と刻印された、 誕生日プレゼントのシルバーリング、だった。
21			結局、当日に渡せなくて、 机の引き出しにしまい込んだまま…
22			今はもう、どこにあるのかもわからない、 あのシルバーリング。
23			今、手元にある雪菜へのクリスマスプレゼントより、 何倍も痛くて、熱くて、切羽詰まってて。
24			恥ずかしいくらい雪菜への求愛を込めた、 気合いの入ったプレゼントだったっけ。
25			だからこそ、その気持ちが空回りしてしまった瞬間、 俺たちの関係は、もの凄い勢いで壊れていった…
26			だからもう、あんな勘違いプレゼントは渡せない。
27			それでも必死で足掻いて、背伸びして、 ２時間かけて選び抜いた、ありきたりのブレスレット。
28			大して特別じゃない。 けれど、ほんの少しは特別かもしれない。
29			そんな、誰もが拍子抜けしない、 けれど過度な期待も抱かせない、 ごく普通の、女性に贈る、クリスマスプレゼント。
30			雪菜は、間違いなく笑顔で受け取ってくれるけど、 果たして心からの笑みを見せてくれるだろうか…
31	春希	Haruki	「あ…」
32			確かに天気予報では、 今年一番の寒気が来てるって言ってた。
33			ホワイトクリスマスの可能性に、 朝からワイドショーのキャスターも少し浮かれ気味だった。
34			けれど俺は、店内で２時間も迷ってた。
35			だから、目の前に突然開かれた雪景色は唐突で、 事前に仕入れておいた情報なんか関係なく、 数秒間、俺の足を道に縫いつけた。
36	春希	Haruki	「雪…」	"It's snowing..."
37			今年の初雪。	It's snowing for the first time this year.
38			世間的に一番歓迎される日に舞い降りた、 望まれて生まれた白い妖精たち。
39			空を見上げてはしゃぐ学生たち。 喫茶店の窓から外を眺めるカップルたち。 少し迷惑そうに早足で駆け抜ける、コート姿の社会人。
40			嬉しい人も、楽しい人も、ただ迷惑なだけの人も。
41			今日という日に降る雪の意味を、 少しは理解しているように…
42			普段より喜んだり、 普段より我慢したり、 普段より、互いの距離を近づけたりしていた。
43	雪菜	Setsuna	「雪…」	"It's snowing..."
44	雪菜	Setsuna	『冷たい冷たい！ 雪合戦できるよ、雪だるまも作れるよ！』	"It's cold, it's so cold! We can have a snowball fight in this snow, or how about a snowman!"
45	かずさ	Kazusa	『あはははは、やられた。見事にしてやられた。 まだまだだな、あたしも』	"Ahahahah, she got me good. Looks like I've still got ways to go."
46	春希	Haruki	『雪菜、まだだ、まだはしゃぐな！ 今は車を掘り出さないと。 あと冬馬、笑ってないで手伝え！』	"Setsuna, this isn't the time to play around! We have to get the car out of the snow first. And Touma, stop laughing and help me over here!"
47	雪菜	Setsuna	「雪…だ」	"It's snowing"
48	雪菜	Setsuna	『ずっと、こうしてたいね』	"I want to stay like this forever."
49	かずさ	Kazusa	『………ああ』	"...yeah"
50	春希	Haruki	『………』	"......."
51	雪菜	Setsuna	「雪だよ、春希くん」	"It's snowing, Haruki-kun"
52	駅アナウンス	Station Announcement	「ただ今車両点検のため、 上下線とも遅れが生じております。 ご迷惑をお掛けしております」
53	春希	Haruki	「あ…っ」	"a...!"
54			今までの２回の乗り継ぎは、 まだなんとかダイヤ通りに運行していた。
55			けれど、最後の乗り継ぎ駅で、 とうとう雪による運転障害に引っかかってしまった。
56	春希	Haruki	「遅れる…かな？」	"I'm going to be late"
57			時間は、午後４時１０分。 待ち合わせの４時半には、ダイヤさえ乱れなければ、 ちょうど５分前に到着するはずだった。
58			…とはいえ、この程度の不測の事態に対応できる 余裕を持てなかった時点で間違いなく俺のミス。
59			アクセサリーショップで食いつぶした時間が ここに来てボディーブローのように効いてきた。
60			せめて映画の上映時間には間に合うといいけど…
61			けど、もし数分だったとしても、 どうやら遅刻は避けられそうになかった。
62			だから、俺は…
63	雪菜	Setsuna	「春希くん？」	"Haruki-kun?"
64	春希	Haruki	「…ごめん」	"I'm sorry"
65	雪菜	Setsuna	「今どこ？　大丈夫？」	"where are you, is everything all right?"
66	春希	Haruki	「今移動中…ちょっと遅れる。 最後の最後でダイヤが乱れててさ」
67	雪菜	Setsuna	「そっか…しょうがないよね。 この天気だもん」	"Oh... I guess there isn't much we can do about it with this weather"
68	春希	Haruki	「そっちはもう着いてる？」	"are you there now?"
69	雪菜	Setsuna	「うん、ちょっと早めに来て ウィンドーショッピングしてたから。 …降り始めたのもこっち着いてからだったし」
70	春希	Haruki	「ごめん。 待ち合わせ、昼くらいにしとけば… 映画見る前に、一緒に店回っても良かったのに」	"Sorry, I was hoping we'd be able visit some stores before the movie"
71	雪菜	Setsuna	「お天気のせいだから仕方ないよ。 雪だったら…仕方ない…」	"there is no need apologize, it's because of the weather, right? because of the snow..."
72	春希	Haruki	「ちょっと遅れるけど…すぐ行くから。 もし映画始まっちゃったら、先に入ってて…」	"I'll do my best to get there as soon as possible, if the movie begins before I'm there you can go and watch it without me"
73	雪菜	Setsuna	「ううん、そんな………っ」	"no, I wouldn't..."
74	春希	Haruki	『遅れるけど…必ず行くから。 終わっちゃってても、顔だけ出すから』	"I'll be late, but I'll definitely be there. Even if the birthday party ends before I'm there, I'll still drop by"
75	雪菜	Setsuna	「………」	"........!"
76	春希	Haruki	「あ、でもチケット俺が持ってる… しまったぁ、本当にごめん。せっかくの…」	"Oh, but both tickets are with me. I'm really sorry about this"
77	雪菜	Setsuna	「ううん…いいんだよ。 もし映画に間に合わなかったら、 それこそ一緒にお店回ろうよ」	"Don't worry about it, if we don't get to see the movie we can always visit all the different stores like you wanted"
78	春希	Haruki	「ごめん、ごめんな、雪菜。 こんなはずじゃ、なかったのに」	"I'm so sorry, Setsuna. It wasn't supposed to be like this"
79	雪菜	Setsuna	「だからぁ、そんなに一生懸命謝られても…」	"Like I said, it isn't your fault"
80	雪菜	Setsuna	「………やめてよ。 必死で謝らないで。 そんなことしなくても、来てくれればいいんだから」	"Please stop, don't apologize so much. Everything's fine as long as you come"
81	春希	Haruki	「雪菜？」	"Setsuna?"
82	雪菜	Setsuna	「っ… ほんのちょっとの遅刻じゃない。 大げさなんだよ春希くんは」	"....You're just going to be a little late, nothing to lose sleep over"
83	春希	Haruki	「遅刻は遅刻だから…」	"I'm still going to be late though..."
84	雪菜	Setsuna	「そういうところ、やっぱり春希くんだよね。 全然変わってない」	"It's very like you to act like that, isn't it? that part of you never changed"
85	春希	Haruki	「雪菜…」	"Setsuna"
86	雪菜	Setsuna	「とにかく待ってるから、春希くんは気にしないで。 あ、でも無理に走ったりしないでね。 怪我でもされる方が嫌だよわたし」	"I'll be waiting here so don't worry. Oh and don't rush it either, I don't want you to fall and get hurt"
87	春希	Haruki	「あ…１０分遅れで発車するみたいだ。 そっち着くの４０分くらいになるかな」	"It looks like the train will leave in around 10 minutes, so it should take 40 minutes for me to get there"
88	雪菜	Setsuna	「ほうら見なさい。 十分映画に間に合うよ。 別に連絡なんかいらなかったのに」	"There was nothing to worry about, see? You'll make it in time for the movie too"
89	春希	Haruki	「とりあえず、着いたらまた連絡する。 悪いけど、どっか暖かいところで待ってて」	"I'll call you when I'm there. Find somewhere warm and wait in the meantime"
90	雪菜	Setsuna	「うん、わかってる。 それじゃ、またね」	"Okay, see you"
91	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
92	雪菜	Setsuna	「あと、２０分…？」	"20 minutes left?"
93	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
94	雪菜	Setsuna	「本当に？ 絶対に？」	"Really? Do you promise?"
95	雪菜	Setsuna	「っ…」	"...!!"
96	雪菜	Setsuna	「雪だよ…」	"It's snowing..."
97	雪菜	Setsuna	「春希くん、雪なんだよ…」	"It's snowing, Haruki-kun"
98	雪菜	Setsuna	「わたし、わたし……… 雪は嫌ぁ」	"......I hate snow"
99			………	.........
100	春希	Haruki	「はぁっ、はぁっ、はぁぁ…っ」	"Haa! haa..!! haaa....!"
101			電車が駅に到着したのは、４時３５分。
102			雪菜に電話したら、 本来の待ち合わせ場所である海浜公園から、 雪を避けて、ショッピングモールの方に移動してた。
103			あまり来たことのない場所のため、少し道に迷いつつ、 全力疾走で５分かけて、ようやく雪菜の指定した場所に 辿り着き…
104	雪菜	Setsuna	「走るなって言ったのに…」
105	春希	Haruki	「あ…」
106			たくさんの人が行き交う、 何の情緒もない場所で…
107			やっと、巡り逢った。
108	雪菜	Setsuna	「あ～あ、なんか湯気出てるよ。 ほら、ちょっと屈んで、春希くん」
109	春希	Haruki	「う、うん」
110			二週間ぶりの再会。 けれど、数か月ぶりの逢瀬。
111			…禁忌じゃないはずなのに、 自ら枷をはめていた俺と雪菜。
112	雪菜	Setsuna	「凄いね、ほんの数分で頭にこんな積もってる。 強くなってきたんだね」
113	春希	Haruki	「…今はかなり。 暗くなってきたし、視界も結構怪しかった」
114			けれど、顔を合わせた途端、 雪菜の態度は今までの重さを感じさせなくて。
115	雪菜	Setsuna	「今度は後ろ向いて。 うわ、コートも真っ白」
116			ちょっと世話焼きな普通の恋人みたいに、 てきぱきと俺の頭や背中の雪を払い、 普通のデートみたいに遠慮なく話しかけてくれる。
117			だったら俺は…
118	春希	Haruki	「じゃ、映画館の方行こうか？ そろそろ前の回は終わってる頃だろ」
119			そんな雪菜の態度に応えないといけない。
120	雪菜	Setsuna	「映画館と言えばポップコーンだよね」
121	春希	Haruki	「間違ってＬサイズ頼んだら駄目だからな。 ここのはバケツで出てくるから」
122			その態度が、嘘だろうと本物だろうと、 俺の中の公式設定で『明るく屈託のない雪菜』を 受け入れるしかない。
123	雪菜	Setsuna	「そんなことしたら夕ご飯食べられないね」
124	春希	Haruki	「それだけは勘弁してくれ。 ポップコーン数十個分のコストがかかってるから…」
125	雪菜	Setsuna	「…ちょっと春希くん。 今日のディナー、いくらかかってるの？」
126	春希	Haruki	「あ…」
127	雪菜	Setsuna	「そういえば、有海インテグラルホテルって言ってたよね。 あそこに入ってるお店って、高級店ばっかりじゃ…」
128	春希	Haruki	「気にするなってそんなの。 今日は俺の方から誘ったんだし」
129			だから俺は 『特別な日のデートに、思いっきり背伸びする彼氏』 になる。
130	雪菜	Setsuna	「駄目だよそんなの！ 春希くん、生活費のために バイト掛け持ちまでしてるのに！」
131	春希	Haruki	「半分はやりたくてやってることだし…」
132	雪菜	Setsuna	「わかった、じゃあ半分。 食事代、わたしも自分の分もつから。 で、今日のディナー、いくらかかってるの？」
133			そうすれば雪菜は 『彼氏のプライドよりも実を取る、しっかりした彼女』 で返してくれるから。
134	春希	Haruki	「駄目だってそんなの！ とてもじゃないけど簡単に出せる額じゃ…あ、いや」
135	雪菜	Setsuna	「わたし相手にそんなにお金かけても意味ないよ。 ラーメン屋だって喜んで付き合う女の子なんだよ？」
136			俺たちはもう、三年来の付き合いだから、 そういった、あうんの呼吸はお手の物。
137	春希	Haruki	「それでも今日はフランス料理で喜んでくれよ。 こっちにも見栄とか世間体とか諦めとかあるんだよ！」
138	雪菜	Setsuna	「諦めってどういうこと？ やっぱり春希くん無理してる！」
139			だからその気になれば、周囲の人々の誰にも 『ちょっとだけ女性上位の仲睦まじいカップル』と、 信じ込ませることができる。
140	春希	Haruki	「無理はしてるけど、 雪菜とは全然関係ない方向性だから！」
141			…こうやって、 自分たちすらも騙し続けることができれば、 ずっと幸せでいられたかもしれないのにな、俺たち。
142			………	.........
143			……	......
144			…	...
145	雪菜	Setsuna	「やまないね、雪」
146	春希	Haruki	「うん…」
147			左手で頬杖をついて、 右側にある窓から、外の降りゆく雪を眺める雪菜。
148			白い粒は、海の上の空を真っ白に染めておきながら、 けれど海に到達した瞬間に黒く溶かされて、 その圧倒的な戦力差に飲み込まれていく。
149			映画も終わり、食事もあらかた終わり、 俺的にようやく人心地ついた午後９時ちょっと前。
150			目の前の雪菜も、 さっきまでの高いテンションは少しなりを潜め、 少し素直に物憂げな表情を表に出し始めた。
151	春希	Haruki	「………」	"........."
152			それにしても、今日の雪菜は…
153	雪菜	Setsuna	「ん？　なに？ ああ、これ？」
154			と、頬杖をついていた左手を上げると、 その手首に嵌められたブレスレットを、 目の前のキャンドルで照らしてみせる。
155			俺がじっと雪菜を見つめていたのを、 どうやらそういうふうに解釈したらしい。
156	春希	Haruki	「いや、それは…」
157	雪菜	Setsuna	「どう？　似合うでしょ。 素敵な男性からプレゼントされたんだよ？ …気になる？」
158	春希	Haruki	「ならないって」
159	雪菜	Setsuna	「む～、春希くん、そういうの嫉妬したりしないんだ。 ちょっと悔しい」
160	春希	Haruki	「あのなぁ…」
161	雪菜	Setsuna	「とってもとっても嬉しかったんだよ。 その人のこと、今までよりずっと気になり始めたの。 …これでも嫉妬しない？」
162	春希	Haruki	「あ～嫉妬したし気になるな。 そんな凄い贈り物をした格好良くてゴージャスで 大金持ちの男に会ってみたいもんだなぁ」
163	雪菜	Setsuna	「はいどうぞ。 …大金持ちってのはちょっと外れかもしれないけど」
164	春希	Haruki	「…ミラーをしまえ。 今はまだ食事中だ」
165			その小さな鏡には、 不景気そうな青年がなんだか照れたみたいに そっぽを向いてるのが映っていた。
166			…前言撤回。 雪菜のテンションは、まだ下がりきってない。
167	春希	Haruki	「安物だぞ、それ」
168			食事前に渡したクリスマスプレゼントを、 すぐに左腕に嵌め、気がつくと右手でさすってた。
169	雪菜	Setsuna	「さっきも言ったじゃない。 わたしはやっすい女の子なんだよ」
170			気合の入った熱いプレゼントはなかなか届かないのに、 たった一日で思い立ったプレゼントは、 こうして簡単に受け取ってもらえる。
171			世の中って、本当にままならないもんだ…
172	雪菜	Setsuna	「こういうのに、ころっと騙されちゃうんだ。 せっかくの豪華ディナーも喉を通らないくらい 感激しちゃうんだ」
173	春希	Haruki	「費用対効果としては最悪というか逆効果なんだけど… でも、大丈夫か？」
174	雪菜	Setsuna	「なにが？」
175	春希	Haruki	「料理、喉を通らないって言ったろ？ 本当にあまり食べてないじゃないか」
176	雪菜	Setsuna	「………大丈夫だって」
177			そう、俺が思いを馳せていたのは、 雪菜の左腕に増えたアクセサリのことじゃなかった。
178			『映画館と言えばポップコーンだよね』って言ってたのに、 実際には飲み物にすら手を付けてなかったりとか。
179			ディナーの方も、 スープやサラダの頃はなんとか頑張ってたけど、 メインに辿り着いた辺りでは半分以上残してたりとか。
180			ワインも口を付けただけ。 そしてなにより、いつもより顔色が…
181	春希	Haruki	「本当は体調悪いんじゃないのか？ それなのに無理して雪の中出てきて…」
182	雪菜	Setsuna	「違うよ」
183	春希	Haruki	「けど…」
184	雪菜	Setsuna	「体はどこも悪くない。 熱だって平熱。なんなら測ってみる？」
185	春希	Haruki	「雪菜…」
186			テーブルに両手をついて、 『ん』とおでこを突き出してくる。
187			少し逡巡しつつも、その額に手を当ててみると、 確かにそこに、病的な熱さは感じなかった。
188	雪菜	Setsuna	「食べないのは、最近ダイエットしてたせい。 夜はパスタだけとか結構やるんだ。 だからもうお腹いっぱいになっちゃって」
189	春希	Haruki	「そういうの体に良くないぞ。 ちゃんと栄養が偏らないように…」
190	雪菜	Setsuna	「そう言われると思ったから黙ってたの。 …そのせいで余計な心配かけちゃったけどね」
191	春希	Haruki	「…絶対に大丈夫だな？ 嘘、ついてないな？」
192	雪菜	Setsuna	「春希くんのお財布と同じくらいには大丈夫だよ？」
193	春希	Haruki	「…そこまで俺をビビらせたいか。 今、救急車呼ぼうかと思ったぞ」
194	雪菜	Setsuna	「ふふ…お互い見栄っ張りだね」
195			何だか誤魔化されたような気もしないではないけど、 それでも雪菜は悪戯っぽく笑い、 そして俺の介入を許さない。
196			本当に全然平気なのか、本当はちょっと辛いのか、 こうして見た目だけじゃ判断はできなかったけれど。
197			ただ、雪菜から伝わってくるのは、 もしかしたらやせ我慢をしてまでも、 今のこの時間を大事にしようと頑張ってる想い。
198	春希	Haruki	「そういえばさ」
199	雪菜	Setsuna	「ん？　なに？」
200	春希	Haruki	「そのブレスレットいいな。 どうしたんだ？」
201	雪菜	Setsuna	「でしょでしょ！ 聞いてくれる？」
202			だったらせめて俺は、 その想いに応えるための努力を 惜しまないようにするしかない。
203			たとえどんなにわざとらしくて馬鹿馬鹿しくても、 雪菜と一緒にいるこの時間を、 俺も大事にしたいから。
204			………	.........
205	春希	Haruki	「あのさ…」
206	雪菜	Setsuna	「ん？」
207			デザートも終わり、 テーブルの上が綺麗に片づけられ、 後は食後のお喋りと会計を残すだけ。
208	春希	Haruki	「雪菜に…もう一つ渡すものがあるんだけど」
209	雪菜	Setsuna	「…うん」
210			けれど俺にとっては、それこそが 今日一日の金と時間の全てを使って作り上げた、 本題のための状況。
211	雪菜	Setsuna	「実は、いつ渡してくれるのかなって、 映画が始まる前から気にしてたんだよ。 …春希くん、随分もったいぶるんだもん」
212	春希	Haruki	「ごめん。 別にそういう訳じゃ…あるかもしれないけど」
213			今日渡すことは最初から決まってたのに、 何度も何度もタイミングを測って、 そのたびに出しかけては引っ込めてを繰り返してた。
214			雪菜と過ごす時間が、昔みたいに楽しかったから。 この楽しい瞬間を続けたいって迷ってしまったから。
215			何もかも終わってしまうのが怖かったから。
216	春希	Haruki	「これが、俺の書いた記事が載った本。 一応、バイトが記事書くのって異例らしいんだけど」
217	雪菜	Setsuna	「わ、珍しい。 春希くんのさり気ない自慢」
218	春希	Haruki	「一応、自分でも快挙だとは思ってるから」
219			本当は、雪菜にだけは話すべきじゃないのかもしれない。 隠し続けた方がいいのかもしれない。
220			雪菜との未来を閉ざされたくないのなら。
221	雪菜	Setsuna	「あれ…？」
222	春希	Haruki	「………」	"........."
223	雪菜	Setsuna	「…かずさ？」
224	春希	Haruki	「アンサンブルの今月号。 …とある若手ピアニストの特集記事」
225			でも、真逆だけど、雪菜にだけは言わなくちゃならない。 どうしても聞いてもらいたい。
226			雪菜との未来をこじ開けたいのなら。
227	春希	Haruki	「先月の開桜グラフに載ってた冬馬が凄い反響でさ。 急遽、音楽誌の方でも特集を組むことになったんだ」
228	雪菜	Setsuna	「開桜グラフって…」
229	春希	Haruki	「実は、そこが俺のバイト先。 雪菜から電話もらった時、しらばっくれてた。 …言えなくって、ごめん」
230	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
231	春希	Haruki	「怒った？」
232	雪菜	Setsuna	「読んでいい？」
233	春希	Haruki	「…ああ」
234			雪菜が、とうとうページを開き、俺の記事を探す。
235	春希	Haruki	「開桜グラフの記事を書いたのは、 俺の上司兼雇い主」
236			掛け率は、正直わからない。
237	春希	Haruki	「その人がかなりの切れ者でさ、 冬馬と俺が同級生だってすぐに見抜いて、 俺に振ってきた」
238			絶対に大きく分岐するに決まってるのに、 ここまで読めない数秒後の未来は何年ぶりだろう。
239	春希	Haruki	「つまり、俺が仕事をもらえたのはただの縁故」
240			きっと前の時も、 どちらかの選択肢の先には、 笑顔で俺を迎え入れる雪菜がいたはずだった。
241	春希	Haruki	「冬馬がこんな有名にならなければ、 絶対に回ってこなかった仕事だよ」
242			…俺の選ばなかった選択が。 だからこそ閉ざされてしまった未来が。
243	春希	Haruki	「だから、利用させてもらった」
244	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
245	春希	Haruki	「俺、冬馬のこと利用した」
246	雪菜	Setsuna	「………っ」
247	春希	Haruki	「就職に有利だと思ったから。 自分にとっていい経験が積めると思ったから」
248	雪菜	Setsuna	「………っっ」
249	春希	Haruki	「あいつを、売り渡した」
250	雪菜	Setsuna	「………ぷっ」
251	春希	Haruki	「ぷ？」
252	雪菜	Setsuna	「くく…ぷくく…あはははっ… な、なにこれ…凄いこと書いてるね」
253	春希	Haruki	「ど、どれが？」
254			そんな、厳かに審判を待つ俺に浴びせられたのは、 罵声でも嘲りでも、悲嘆でも叱責でもなく。
255	雪菜	Setsuna	「どれかもなにも… 最初から最後までメチャクチャじゃない。 あ、あはは…お腹いたい…ぷ…ふふっ」
256			えらく可愛い、くすくす笑いだった。
257	雪菜	Setsuna	「成績は三年間ずっと低空飛行だったとか」
258	春希	Haruki	「俺たちが見てやらなければ、 絶対卒業できなかったぞ」
259	雪菜	Setsuna	「お母さんに捨てられたって勘違いして、 付属時代はずっとグレてたとか」
260	春希	Haruki	「勘違いだろ。 その証拠に今は一緒に住んでる」
261	雪菜	Setsuna	「食事はファーストフードとコンビニばかり。 超がつくほどの甘党で、コーヒーに砂糖５杯って」
262	春希	Haruki	「全部事実だ。 雪菜だって目の当たりにしただろ？」
263	雪菜	Setsuna	「こんなこと書いちゃっていいの？ かずさ、期待の新鋭ピアニストなんでしょ？」
264			雪菜はやっぱり笑い続けてる。
265			俯いて、お腹を押さえて、 全身を小刻みに震わせて。
266			俺が予想せず、 けれど期待してたリアクションを取ってくれた。
267	春希	Haruki	「ウケ狙いだよ」
268	雪菜	Setsuna	「え？」
269			だから俺は、 雪菜がきっと期待してないリアクションを返す。
270	春希	Haruki	「そう書けば、反響大きいかなって。 現に雪菜だってウケただろ？」
271	雪菜	Setsuna	「春希くん？」
272			雪菜をまるで挑発するかのように、 その笑顔を消すような言葉を連ねる。
273	春希	Haruki	「今の俺にとって、 冬馬かずさってのは、そういう相手なんだ。 世間を驚かせて、俺が評価されるための取材対象」
274	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
275			そうやって、雪菜と俺の傷の内側に、 少しずつ踏み込んでいく。
276	春希	Haruki	「この仕事やってみてわかったんだ。 俺があいつに抱いてる感情って、 いつの間にか、こんな風に変わってたんだなって」
277			突き放してるように見せかけて、 実は、慎重に、慎重に言葉を選び。
278	春希	Haruki	「だから本当のことを書けた。 いいことばかりじゃなく、不都合なことも全部。 いや、むしろそっちの方を誇張して」
279			ここにいない人間に全てをひっかぶせて、 俺たちの新しい関係を構築するために。
280	春希	Haruki	「怒った？ 俺が冬馬のこと、こんな酷い扱いしてることに」
281			…つまり、俺は今自分が言っている通り、 本当にかずさを利用してる。
282	春希	Haruki	「俺たちの親友のこと、 こんな馬鹿にしたみたいなふうに書いて、 薄情だって思ったりした？」
283			雪菜が俺に同調しても、 かずさを庇い、俺を非難しても。
284			どっちに転んでもフォローできる、 万全の体制を敷きながら。
285	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
286			雪菜は、まだ俯いたまま。
287			怒りのあまり声も出ないのか、 悲しみで言葉を失ってるのか、 それとも…俺を庇う理由を必死で用意している最中か。
288	雪菜	Setsuna	「そんなわけないじゃない。 春希くんがそんなことするはずないよ」
289			なんて、色々な選択肢を用意するまでもなく、 そうやって一番愚かな選択をするに決まってる。
290			だって雪菜は、俺を否定しない。 何があっても、味方であり続ける。
291	雪菜	Setsuna	「だってこれは…これはさぁ…っ」
292			そうでなきゃ、三年前のあの日から、 未だに俺の側にいるなんて考えられない。
293	雪菜	Setsuna	「…ううん、よく書けてる。 かずさって確かにこんな感じだったもんね」
294	春希	Haruki	「…え？」
295	雪菜	Setsuna	「全部真実だよ、これ…かずさには悪いけど。 やだ、やっぱりおかしい。よく書けてるよ」
296	春希	Haruki	「？　そ、そう？」
297	雪菜	Setsuna	「うん、本人を知ってるからますます面白くて。 ふふ…ありがたく頂戴します。 そして、改めておめでとう」
298	春希	Haruki	「あ…ありがと」
299			けどその時の、雪菜の俺の庇い方には、 いつもより、ほんの少しだけ違和感が漂ってた。
300	雪菜	Setsuna	「なんか信じられないよね。 こうして雑誌で特集されるような有名人が、 わたしたちの親友だったなんて」
301			言おうとしたことを慌てて直前で飲み込んだような。
302	雪菜	Setsuna	「ううん、今も親友だよね。 わたしたち、今も三人なんだよね」
303	春希	Haruki	「雪菜…」
304			自分でも、何が言いたいのかわからなくて、 心のこもらない愛想笑いで誤魔化したような、 雪菜らしくない、言葉の軽さがあった。
305			………	.........
306			……	......
307			…	...
308	雪菜	Setsuna	「小降りになったね… 少し歩かない？」
309	春希	Haruki	「………あ、ああ」
310	雪菜	Setsuna	「？　どうしたの？ メール、誰から？」
311	春希	Haruki	「…武也」
312	雪菜	Setsuna	「武也くんもきっと今ごろデートだよね？ 何て言ってた？」
313	春希	Haruki	「………大した話じゃない」
314			なんて、軽く流したつもりになっていても、 心の中の動揺はとんでもないことになっていた。
315			あ、あ、あ…あの野郎っ！ 今の今まで、わざと隠してやがったな！
316	雪菜	Setsuna	「…春希くん？」
317	春希	Haruki	「っ…小降りになったし、 少し歩こうか」
318	雪菜	Setsuna	「…さっきこっちから誘ったんだけどなぁ」
319	春希	Haruki	「………そういうのは男から誘うのが礼儀なの」
320			………	.........
321	雪菜	Setsuna	「…カップルばっかりだね」
322	春希	Haruki	「やっとホワイトクリスマスっぽくなってきたからな。 …さっきまで吹雪いてたし」
323			やっと外を歩けるくらいの降りになったせいだろうか。
324			周囲は、肩を抱いたり手を繋いだり腕を組んだりした 男女がそこら中を歩いたり、雪の落ちる海を見てたりした。
325			俺にしてみればムードが削がれる気がするんだけど、 でも、どの彼も彼女も堂々としたもので、 俺や雪菜の視線なんか意に介してないようだった。
326	雪菜	Setsuna	「ね、なんだかデートみたいだね？」
327	春希	Haruki	「…そうだな」
328	雪菜	Setsuna	「『そうだな』じゃなくて『デートだろ』でしょ？」
329	春希	Haruki	「ご、ごめん」
330			そんなふうに、自分たち以外を空気みたいに扱うことは 俺には絶対に無理だと思い知った。
331			どうしても今みたいに嫌な照れが入ってしまう。
332	雪菜	Setsuna	「も～、ノリ悪いなぁ。 もっと堂々としててよ。 ここはカップルの聖地なんだよ？」
333			『こんな場所、来たくて来たんじゃない』
334	春希	Haruki	「もともとこういう人間だろ、俺。 堅物で地味で、一緒にいてもつまんない奴だよ」
335			…なんて開き直ったら、 今日の食事代の話題を蒸し返すことになるから、 言い出せる訳がない。
336	雪菜	Setsuna	「うん、そうだよね。 そういうところに憧れたんだもんね、わたし」
337	春希	Haruki	「っ…悪趣味な」
338			でも雪菜は、そんな俺のセンスのない返しにも、 空気を読まずに可愛く反応して、 ますます俺の逃げ場をなくしてしまう。
339	雪菜	Setsuna	「ホワイトクリスマス、なんだね」
340	春希	Haruki	「今日のうちに道が凍結したら、 明日は大変だろうなぁ」
341	雪菜	Setsuna	「真っ白だね」
342	春希	Haruki	「東京の雪はすぐに黒くなるけどな」
343	雪菜	Setsuna	「思い出すね」
344	春希	Haruki	「………」	"........."
345			天然じゃない。
346	雪菜	Setsuna	「三年前のクリスマス、思い出すよね」
347			雪菜は、わざと空気を読まず、 俺がどれだけ茶化そうと頑張っても許してくれない。
348	雪菜	Setsuna	「あの時も雪が降ってたよね。 ホワイトクリスマス、だったよね」
349	春希	Haruki	「とてもそんな雰囲気じゃなかったけどな、場所的に」
350	雪菜	Setsuna	「だよねぇ！ 和室に浴衣に露天風呂って、 どこにもキリスト教の入る余地なかったもんね」
351	春希	Haruki	「………」	"........."
352			俺の横で雪菜が、我が意を得たりと ころころ笑う。
353			何故なら、雪菜にとっては、 今のは茶化すのが正解だったから。
354	雪菜	Setsuna	「かずさの運転で、雪の中を猛スピードで走って、 くるって回って雪の壁に突っ込んじゃって」
355	春希	Haruki	「今までの人生で、 あの日以上の怖さと恥ずかしさを体験したことはないな」
356			俺と、そして多分、自分自身も、 思い出に引き込むスイッチを押すために。
357	雪菜	Setsuna	「それだけ？　今までの人生で あの日以上に目の保養をしたことはあるんだ？」
358	春希	Haruki	「それって…」
359	雪菜	Setsuna	「うら若き乙女の柔肌二人前～」
360	春希	Haruki	「泥酔してたから全然覚えてない！」
361	雪菜	Setsuna	「嘘だぁ～。 わたしたちが入っていったとき、 一気に酔いの醒めた顔してたよ？」
362	春希	Haruki	「雪菜こそかなり酔ってたじゃないか。 そんなあやふやな記憶なんか信用できるか」
363	雪菜	Setsuna	「そっか、わたしそんなに酔ってたんだ。 やっぱりよく覚えてるね。素面だった春希くんは」
364	春希	Haruki	「………」	"........."
365	雪菜	Setsuna	「そっか、覚えてるか。 あのときのわたしの裸」
366	春希	Haruki	「だから、そういうふうに恥ずかしいこと言うのは…」
367	雪菜	Setsuna	「でも残念だなぁ。 今のわたしじゃ、 もうあの頃みたいにすべすべじゃないかも…」
368	春希	Haruki	「…そんな訳ないだろ。絶対に、そんな訳ない。 今だってすべすべに決まってる。 ………確かめた訳じゃないけど」
369	雪菜	Setsuna	「…しみじみ言われると嬉し恥ずかしいなぁ。ふふ」
370	春希	Haruki	「もうやめよう。 みんな見てる」
371			周りのカップルが迷惑そうに睨みつけるくらい、 俺たちは場にそぐわない大声を張り上げてた。
372			けどそれって、 周りのカップルなんか目に入らないくらい、 二人の世界を築いてたってことにもなるわけで。
373	雪菜	Setsuna	「ううん、やめない。 あの時と同じ日に、 あの時と同じ雪が降ってるんだもん」
374	春希	Haruki	「雪菜…」
375			だから、周りのカップルなんか気にならず、 ただ、楽しいだけじゃない話も口を突く。
376	雪菜	Setsuna	「雪だね、春希くん」
377	春希	Haruki	「………」	"........."
378	雪菜	Setsuna	「ねぇ、春希くん。 春希くんは、雪は好き？」
379			『じゃあ、雪菜は？』
380	春希	Haruki	「別に…どっちでもない」
381			それは、流さないといけない。 特に、切り返すことだけは絶対にできない質問。
382			だって、俺たちの運命の分かれ道には、 必ず雪が降っていた。
383	雪菜	Setsuna	「覚えてないかなぁ？ あの時、車の窓から見えた雪」
384			許されることじゃないってわかってて、 かずさを抱きしめたときに見た雪。
385	雪菜	Setsuna	「旅館の外に降り積もってた雪は？ みんなでお酒飲みながら、 ただぼうっと窓の外を眺めてて」
386			俺に裏切られたその瞬間、 雪菜が窓から見上げていた雪。
387	雪菜	Setsuna	「お風呂に落ちて、すぐ解けちゃう… それでも次から次へと降ってきた雪は？」
388			雪菜に背中を押されて、かずさを探して。
389			ほんの一瞬だけ、 雪菜の存在を自分の中から消し去ったとき、 飛んでいく飛行機を覆い隠してくれた雪。
390			『あの時と同じ雪』は、 クリスマスだけに降った訳じゃない。
391	雪菜	Setsuna	「わたし、わたしはね… わたしは、雪が…」
392	春希	Haruki	「やめようぜ、雪菜」
393	雪菜	Setsuna	「っ…」
394	春希	Haruki	「三年前と雪とを絡めるのは、もうやめよう。 今日降ってる雪は、あの頃の雪とは違うんだ」
395	雪菜	Setsuna	「何が違うのかな？ 同じくらい白くて、同じくらい冷たくて、 …同じくらい綺麗なのに」
396	春希	Haruki	「そういうことじゃなくて、俺が言いたいのは…」
397			本当に恐れてるのは、 三年前と雪が絡まることじゃなくて。
398	雪菜	Setsuna	「それとも… あの時の雪景色には、かずさがいたから？」
399	春希	Haruki	「違うよ」
400			そこに、かずさが繋がってしまうこと。
401	雪菜	Setsuna	「ねぇ、春希くん。 春希くんは、今でも雪は好き？ そして…今でもかずさのこと、好き？」
402	春希	Haruki	「さっきも言っただろ。 俺はもう、冬馬のことは忘れた」
403	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
404			…大丈夫。 何度もシミュレーションしたはずだろ。
405			言葉にも詰まらなかったし、 不自然に無愛想にもならなかった。
406	春希	Haruki	「だから、三年前にこだわるの、もうやめないか？ …もしも雪菜が俺を許してくれるなら、だけど」
407			ごく自然に、ほんの少し突き放すだけの言い方で、 ちょっとは痛いけど、でも嘘じゃないことをアピールする。
408	雪菜	Setsuna	「三年前があったから、 今のわたしたちがあるんだよ…」
409	春希	Haruki	「でも俺にはもう何もない。 ただ一つ、罪が残ってるだけでさ」
410	雪菜	Setsuna	「罪…って」
411	春希	Haruki	「うん… 雪菜を裏切ったっていう、 一生消せない深い罪がさ」
412	雪菜	Setsuna	「そんなもの残ってない！ 春希くんに罪なんかない。 最初から何もない」
413	春希	Haruki	「そんな訳ないだろ。 俺がどれだけ雪菜のこと傷つけたか…」
414	雪菜	Setsuna	「それは二人の気持ちを知ってて、 抜け駆けしたわたしのせい。 …自分で勝手につけた、報いの傷だから」
415	春希	Haruki	「な？　やっぱりやめよう？ 結局そうやって罪の被りあいになるんだから、俺たち」
416	雪菜	Setsuna	「春希くん…っ」
417			予想通りのいつもの流れを、 予定通り、いつもと違った方法で食い止める。
418	春希	Haruki	「雪菜… 俺たち、リセットしよう？」
419	雪菜	Setsuna	「リセットって…全部なかったことにするの？ そんなの…わたしそんなのっ」
420	春希	Haruki	「違うよ。 なかったことになるのは、 俺たちが三人になる、その日から」
421	雪菜	Setsuna	「え…」
422			残すのは、雪菜との思い出だけ。
423			雪菜と出会って、屋上で再会して。
424			その声に一耳惚れして、口説きまくって、 弱みにまで付け込んで、 誰も知らない雪菜の素顔に触れて。
425			やっと俺の歌姫になるって言ってくれて、 あまりにも嬉しくて、手を取り合ったあの日まで。
426	春希	Haruki	「忘れよう？ あのときの雪も、それから………あいつも」
427			そこから先は、雪菜と俺だけの、 完全オリジナルストーリー。
428			軽音楽同好会に残ったのは結局二人だけ。 俺のギターに雪菜のボーカル。 素人に毛も生えてない、盛り上がらない三文ライブ。
429			けれど俺たちは、それで大自己満足で、 二人きりの打ち上げは、なんだかいい雰囲気で、 いつの間にか手と手が、唇と唇が触れあってて。
430			それは、あまりにも俺にとって分の良すぎる、 ご都合主義の塊とも言える設定。
431			自分の罪も、雪菜の罪悪感もなかったことにする、 究極の反則技。
432	雪菜	Setsuna	「忘れるの、かずさのこと？ 忘れられるの？」
433	春希	Haruki	「忘れたんだ、もう」
434	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
435			だけど、もういいだろ？
436			自分の罪を押し通すのも、 雪菜の罪を否定するのも。
437			そんな、三年間ずっと繰り返してきた 悲しいぶつかり合いに、 俺たちはもう疲れ果てた。
438	春希	Haruki	「お互い、すぐには納得できないかもしれない。 俺だって、自分を許すのにもう少し時間がかかる」
439	雪菜	Setsuna	「わたしは…」
440	春希	Haruki	「だから、ゆっくりと話し合っていこう。 これからも、メールしたり、電話したりしてさ。 …してもいいかな？」
441	雪菜	Setsuna	「そんなの、駄目なわけがない」
442	春希	Haruki	「ありがとう、雪菜」
443	雪菜	Setsuna	「…ずるいよ、春希くん」
444	春希	Haruki	「ずるいかな？」
445	雪菜	Setsuna	「あなたの言ってることはとても酷いのに、 差し伸べられてる手は、なんでこんなに優しいの？」
446			かずさを忘れて、いつか雪菜を選ぶという約束。
447			本当なら、とっくに為されているはずだった… ちょっとしたボタンの掛け違いのせいで、 三年も果たされることのなかった約束。
448	雪菜	Setsuna	「駄目なのに…最低なのに… 今の春希くんを否定できないよ、わたし」
449	春希	Haruki	「時間を掛けて、償い…ってのはおかしいよな。 リセットしたんだから。 お互いのこと、知っていこう？」
450	雪菜	Setsuna	「…っぁぁ」
451			俯いた雪菜の顔を覗き込むと、 きっと寒さのせいだけじゃなく、紅潮してた。
452			目は潤み、荒い息をつき、唇を震わせて… 昔見た、キスをした後のような表情をしてた。
453			そんな、魅力的で蠱惑的で扇情的で、 男にとってヤバすぎるものを無意識に見せてしまうのが、 いつもの清純な少女の裏にある雪菜の不安定さ。
454			こんな凄いものを 目の前で見せつけられてしまったら、俺は…
455	春希	Haruki	「…そろそろ帰ろうか」
456	雪菜	Setsuna	「え…」
457			…尻尾を巻いて逃げ出すしかない。
458			だってこのままじゃ、自分が抑えきれなくなる。
459			冷静だった頃の自分が立てた作戦を、 無視して暴走したい欲望に駆られてしまう。
460	春希	Haruki	「送ってく…って、 方向同じなんだから当たり前だよな。 電車、止まってないといいけど」
461	雪菜	Setsuna	「春希、くん…」
462	春希	Haruki	「行こう、雪菜。 駅、確かあっちだよな」
463			紅潮した、切なげな表情のまま、 雪菜が俺をまっすぐに見つめる。
464			そんな、吸い込まれそうな危うげな瞳を 直視できるはずもなく、 俺はぷいっと顔をそらして、来た道を戻る。
465			けれど…
466	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
467	春希	Haruki	「雪菜？」
468			そんな俺の逃げるような歩みに、 雪菜はついてこない。
469			切なげな女の瞳は、 今度は拗ねた少女の瞳に戻り、 責め立てるように俺を睨みつける。
470			そして…
471	雪菜	Setsuna	「………嫌」
472	春希	Haruki	「っ…」
473			拗ねた少女の瞳は、 拗ねた少女の口調へと伝染し、 直接、俺の耳と感情に訴えかける。
474	雪菜	Setsuna	「クリスマスなんだよ？」
475			最初は、少女のままの理不尽な我侭。
476	雪菜	Setsuna	「映画見て、レストランで食事して、公園を歩いて… ここまで覚悟させておいて、それはないよ」
477			続いて、口調は少女のまま、 言葉だけ、女性のそれをぶつけてくる。
478	春希	Haruki	「それは… こういうところに誘ったのは謝る。 けどそれには事情が…」
479	雪菜	Setsuna	「謝られても困る。 今日までなかったことにされるなんて、約束が違うよ」
480	春希	Haruki	「だから今日は、ただこうして話すだけで…っ？」
481			少女の口調に騙されて、 深く考えもせずにふたたび距離をつめたのは、 致命的なミスだった。
482	雪菜	Setsuna	「わたし、春希くんに、まだプレゼント渡してない。 あんな素敵なものもらったのに、何もお返しできてない」
483	春希	Haruki	「…そんなのいいって。 あれは俺が勝手に」
484	雪菜	Setsuna	「な～んて実はね…わざと何も買わなかったんだ。 プレゼント、お返しできないようにしたんだよ」
485	春希	Haruki	「え…？」
486			だって、そこに垣間見えた瞳は。
487	雪菜	Setsuna	「今日…泊まってくるって言ってきた」
488			可愛いワガママを秘めたというには危険すぎる、 男を深淵へと引きずり込む妖しさに満ちていた。
489	雪菜	Setsuna	「これが、わたしのお返し。 忘れてしまったプレゼントの、仕方なしの代用品」
490	春希	Haruki	「雪菜…」
491	雪菜	Setsuna	「とてもありきたりで、とても身勝手で、 とても押しつけがましいものだけど」
492			昔からそんな兆候はあったけど…
493	雪菜	Setsuna	「それでも、受け取ってくれませんか？」
494			ごり押しに、不意打ちに、騙し討ち。 そんな、イタズラ好きな雪菜の得意技は…
495	雪菜	Setsuna	「三年前に渡すつもりで ずっと包んであったままの、わたしを」
496			あれから三年経った今となっては、 男である俺を、狂おしいまでに惑わせる。
497			………	.........
498	雪菜	Setsuna	「わたしね、わたしねっ、 いつまで頑張ればいいのかわからない」
499	春希	Haruki	「ごめん、ごめんな…」
500	雪菜	Setsuna	「三年間、ずっと頑張ったんだよ？ ゆっくり、ゆっくり近づこうって我慢してたんだ」
501	春希	Haruki	「わかってる…」
502	雪菜	Setsuna	「けれど、ちっとも距離は縮まらなかった！ こうして触れあうこともできなかった…っ」
503	春希	Haruki	「っ…」
504	雪菜	Setsuna	「うん…こういうこと、できなかったんだよ」
505			つまり、俺たちは今、“こうして”触れあってる。
506			俺が雪菜の瞳に吸い込まれるように、 雪菜は俺の胸に吸い込まれていった。
507			あの、艶めかしい表情を、 こうして俺の胸に隠してしまえば、 残るは駄々っ子のような、けれど悲痛すぎる叫び。
508	雪菜	Setsuna	「あったかい… 雪なんか冷たくない、風なんか寒くない。 春希くんが、あっためてくれるから」
509	春希	Haruki	「うん…」
510			でもこうしている方が、俺は落ち着いていく。 …雪菜とは多分違った意味で。
511	雪菜	Setsuna	「今まで、どれだけゆっくり近づいていっても、 結局触れあおうとする瞬間に、怖くて離れてしまった。 春希くんも、わたしも」
512			でも俺たちは触れあったから。
513	雪菜	Setsuna	「ごめんね」
514	春希	Haruki	「ごめん」
515			だから雪菜は、二度と離れないつもりなのか、 さらに俺の胸の奥深くまで潜り込む。
516	雪菜	Setsuna	「わたしの方が、ごめん」
517	春希	Haruki	「俺が悪いんだってば」
518	雪菜	Setsuna	「駄目だよ… そうやって謝られると、 今までの自分を正当化しちゃう」
519	春希	Haruki	「雪菜…」
520	雪菜	Setsuna	「今までの自分が正しいって思っちゃったら、 今のわたしの想いは遂げられなくなっちゃう。 …だから、わたしは間違ってたの」
521	春希	Haruki	「っ…」
522			雪菜の体温が、柔らかさが、艶めかしさが… 俺の体内に染みいって、今度は全身を惑わせる。
523	雪菜	Setsuna	「だから今日は、考える時間もないまま、 わたしの決心が鈍らないうちに、奪って」
524			冷静な俺が、慌てちゃいけないって警告してる。 雪菜が本当に大切なら、余計に今は駄目だって。
525	雪菜	Setsuna	「この痛みを、和らげて欲しいの」
526			だって、今の雪菜は普通じゃない。 必要以上に無理して、必死で俺に近づこうとしてる。
527	雪菜	Setsuna	「ん…っ」
528			そう、無理しすぎてる。
529			俺を受け入れることにこだわりすぎて、 自分の気持ちが追いついてきてないことに、 気づいてない。
530	雪菜	Setsuna	「は、あ、む…んぅ…っ」
531			慌てなくてもいいのに。 俺たちには、まだ時間はたくさんあるのに。
532			けれど、今までの長すぎた辛く苦しい時間が、 雪菜を追い詰めてしまった。
533			…なんだ、結局俺のせいなんじゃないか。
534	雪菜	Setsuna	「ん…ちゅ、は、あむ…んぅんっ」
535			でも、これはきっと、比較すれば間違った判断。
536			いくつかある選択肢の中でも相当にリスクの高い、 副作用のある劇薬を使った治療法。
537	雪菜	Setsuna	「ぷぁ…あ………はぁ、はぁ、はぁぁ…っ」
538	春希	Haruki	「ぅぁ…あ、ぁぁ…」
539			なんて、頭でそんなことを考えてても全くの無駄。
540	雪菜	Setsuna	「はぁ…ぁ…久しぶり、だったね」
541			俺の体は、歓喜の雄叫びを上げて、 雪菜の唇をしゃぶり尽くしていた。
542	雪菜	Setsuna	「昔より一生懸命背伸びしたよ… 春希くん、ずいぶん背が伸びたね」
543	春希	Haruki	「どう、かな… 俺、昔はどうしたらいいかわかんなくて、 雪菜の高さまで屈んでた気がする」
544	雪菜	Setsuna	「そうだったんだ…ふふ。 そんな気づかないところでも優しかったんだね」
545	春希	Haruki	「今は…優しくないかな」
546	雪菜	Setsuna	「うん、凄かった。激しかった。 男の子じゃなくて、男のひとだった…」
547	春希	Haruki	「…悪い」
548			雪菜の下唇を、俺の唇で挟み込んで、 舌を動かしてねぶったり、舐めまくったりもした。
549			全然、優しくしなかった。 久しぶりなのに、久しぶりだからこそ、 まるで抑えが利かなかった。
550	雪菜	Setsuna	「でも、でもね… 昔と全然変わらないとこ、あったよ」
551	春希	Haruki	「何、が？」
552	雪菜	Setsuna	「春希くんの、左の八重歯… キスすると、いつもちょっとだけ当たるの」
553	春希	Haruki	「っ…」
554	雪菜	Setsuna	「懐かしい… 本当に、春希くんとのキスなんだね…」
555	春希	Haruki	「雪菜…っ」
556	雪菜	Setsuna	「ん、ん、ぅ…んぅぅぅぅぅ～っ」
557			今度は、雪菜の口の中へ無遠慮に舌をねじ込んで、 その口中の滑らかさを、 俺の粘膜を押しつけて堪能したり。
558	雪菜	Setsuna	「は、あ、んちゅ…はむ…あ、んぷっ、ん～」
559			雪菜の舌を俺の口の中に吸い込んで、 唇と舌と歯の全てを使ってじっくりと蹂躙したり。
560	雪菜	Setsuna	「ふぅ…あ、はぁ…あんっ… は、あ、あ…あはぁぁぁ…」
561			さっきより激しく、三年前よりもっと激しく、 雪菜以上に切羽詰まった、情欲まみれのキス。
562	雪菜	Setsuna	「はぁ、はぁ、はぁ…あ、ぁぁ…春希くん… わたし、わたしね…」
563	春希	Haruki	「もういい…もう、いいから」
564			選択は、まだ続く。
565	雪菜	Setsuna	「春希くんがね… あの頃の三人をリセットしようって言うんなら」
566	春希	Haruki	「喋らないで」
567			選んだ先に、また新たな選択が待ち構え、 前の選択がもたらす結果もわからないまま、 次々と迷いが連鎖していく。
568	雪菜	Setsuna	「わたしはね、 この、空白の三年間を取り戻さなくちゃならない」
569	春希	Haruki	「雪菜ぁ…」
570			事態は、俺の読みをはるかに上回る速さで動いてる。
571	雪菜	Setsuna	「春希くんが好きで好きで好きで好きで、 片時も離れたくない、甘えん坊のわたしに、 早く戻らならなくちゃ、ならないの」
572	春希	Haruki	「っ…」
573			『ルームナンバーは１７３２。 俺からのささやかなクリスマスプレゼント。 大丈夫、こっちは前払い済みだ』
574			だからもう… 俺には何が安全で、何が危険なのか、わからない。
575	春希	Haruki	「あのさ…」
576	雪菜	Setsuna	「ん…？」
577	春希	Haruki	「部屋…取ってある」
578	雪菜	Setsuna	「ん」
579			ただ、自分の欲望に忠実な道を…
580			一番、俺の本能が待ち望んでいた道を 選んだことだけは、わかっていた。
581			………	.........
582	春希	Haruki	「………」	"........."
583			窓の外は、相変わらず、雪が降ってる。
584			けど今目に映るのは、 すぐにでも止んでしまいそうな、弱くはかない雪。
585			深い黒をたたえた海と、光で白く飾られた橋とが、 どちらも眼下に納められるくらい、 はっきりとした夜景に変わってる。
586	春希	Haruki	「っ…」
587			なんて、高層階からの景色を無理やり楽しもうとしても、 今の俺の乱れた感情が元に戻るわけなんかない。
588			俺の持つ全てのチップを黒に載せて、 後はルーレットが何度も回るに任せてるみたいな、 果てしない焦燥と、ありえない高揚感に支配されたまま。
589			さっき、雪菜と部屋に入った瞬間… 自分でも、よく自制できたものだと思う。
590			雪菜にシャワーを勧めながらも、 本当は、今すぐ抱きしめて全てを奪いたいって、 ものすごい葛藤に苛まれていたなんて言えない。
591			今だって、濡れた肌の雪菜が浴室から出てきた瞬間、 獣の自分が目を覚まさないって保証はない。
592			まずは全身でのしかかって、 抵抗できないように押さえ込んでしまえばいい。 その後、激しくいたぶるか、じわじわ責め抜くか…
593			そんな恐ろしい迷いに舌なめずりするかもしれない。 それくらい、自分の理性に自信がない。
594			もう、完全に最初の思惑とずれてる。 今の俺は、雪菜に対して紳士で、そして真摯でいられない。
595			こんなんじゃ駄目だ。 とても雪菜を安心させることなんかできない。
596			雪菜は、チェックインの時も堂々としてたのに。
597			俺が震える手で『飯塚武也』と書いてる隣で、 ぴったりと俺に寄り添い、肩口に顔を埋め、 このホテルに泊まる意味を隠さなかった。
598			そして俺がもう一人の偽名に迷ってしまったとき、 素早くペンを奪い、すらすらと 『水沢依緒』って書き込んだ。
599	春希	Haruki	「ふぅ…っぷ」
600			コーラを無理やり喉の奥に流し込んで、 わざと炭酸混じりのため息を吐く。
601			………	.........
602			俺が落ち着かないと。 優しく、しないと。
603			もう引き返せない。 腹を決めるしかない。
604			けれど、だったら少しでも 雪菜に辛い思いをさせないように。
605			朝を迎えたとき、自分の選んだ道が正しかったって、 心の底から安心して、微笑んでもらえるように。
606	春希	Haruki	「あ…」
607			そんな、情けなくうろたえる俺を、 相変わらずの無愛想な表情で見上げてる奴がいた。
608			…俺の鞄の中に。
609			雪菜のバッグに入りきらなかったからって、 俺が預かってたアンサンブル。
610	春希	Haruki	「なんだよ…」
611			表紙に写った、長い黒髪と黒いドレスの女。
612			相変わらずカラスみたいな色彩感覚だな。
613	春希	Haruki	「そんな目で見るな。 いつもいつも俺のこと馬鹿にしやがって」
614			しかもそれが格好いいのがまたムカつく。
615			巻頭のカラーページをめくると、 そこはあいつの独演会。
616			かずさとピアノとステージと。 スポットライトと客席と、そしてまたかずさ。
617	春希	Haruki	「なんなんだよ…」
618			この、陶酔したような、満ち足りた表情はよ。
619			こんなに気持ちよさそうに弾く姿なんて、 俺にすら、一度しか見せてくれなかったくせに。
620			…なんて、結局寝ちまったから、 よく思い出せないんだけどな。
621			………	.........
622			なあ、かずさ。
623			お前、ヨーロッパに行ってよかったな。
624			成功してよかったな。 こんなに有名になって…凄いな。
625			俺みたいな素人と違って、 お前の本当の価値をわかってくれる人たちに囲まれて、 本当に、よかったな…
626	春希	Haruki	「はは…」
627			なんてな。
628			お前が有名人？ 期待の新鋭？ 美と才能と血統に恵まれたサラブレッド？
629			笑わせるぜ、この不良少女め。
630			お前なんか俺が更正させなければ、 今ごろは親の金で悠々自適に暮らすだけの、 ただの引きこもりだったくせに。
631	春希	Haruki	「っ…はは…っ、ははは………～っ」
632			あまりにも理不尽で、馬鹿馬鹿しくて…
633			乾いた笑いしか、出てこねえよ…
634	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
635	雪菜	Setsuna	「大丈夫…」
636	雪菜	Setsuna	「わたしは、ずっと春希くんが好きだった」
637	雪菜	Setsuna	「彼も、わたしを愛してくれるって言った。 わたしを…求めてくれた」
638	雪菜	Setsuna	「だからわたしたちの前に、障害なんか何もない。 …当たり前のことを、当たり前にするだけだよ」
639	雪菜	Setsuna	「不安なんか、かけらもない。 後悔なんか、するわけない。 だって、昔のことなんか全部忘れたんだから」
640	雪菜	Setsuna	「………ごめん、かずさ」
641	雪菜	Setsuna	「わたし、今日、 あなたから春希くんを奪う」
642	雪菜	Setsuna	「もう誰にも、渡さないよ」
643	雪菜	Setsuna	「は、春希くん…」
644	春希	Haruki	「あ…」
645	雪菜	Setsuna	「…？」
646	春希	Haruki	「えっと… 何か、飲む？」
647	雪菜	Setsuna	「う、ううん… わたしは、いい」
648	春希	Haruki	「そう」
649	雪菜	Setsuna	「う、うん…」
650	春希	Haruki	「………」	"........."
651	雪菜	Setsuna	「あ、あの…」
652	春希	Haruki	「こっち、来る？」
653	雪菜	Setsuna	「っ…え、あ、ええと」
654	春希	Haruki	「大丈夫だよ… お互い、焦らずいこう。 朝まで、時間はたっぷりあるんだし」
655	雪菜	Setsuna	「う…うん」
656	春希	Haruki	「座ったら？」
657	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
658	春希	Haruki	「雪菜？」
659	雪菜	Setsuna	「っ…あ、ええと… は、春希くんは、その、シャワー…」
660	春希	Haruki	「…そっか、そうだな。 ごめん、気が回らなくて」
661	雪菜	Setsuna	「そんなこと…」
662	春希	Haruki	「じゃあ、ちょっと待ってて。 すぐに出てくるから」
663	雪菜	Setsuna	「いいよ、ゆっくりあったまっても。 朝まで、時間はたっぷりあるよね？」
664	春希	Haruki	「…だな。 雪菜の言う通りだ」
665	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
666	春希	Haruki	「それじゃ…」
667	雪菜	Setsuna	「あ、あの…」
668	春希	Haruki	「ん？」
669	雪菜	Setsuna	「春希くん、なんだか、その…」
670	春希	Haruki	「…なに？」
671	雪菜	Setsuna	「…ううん、なんでもない。 待ってるから」
672	春希	Haruki	「うん」
673	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
674	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
675	雪菜	Setsuna	「え、ええと…」
676	雪菜	Setsuna	「先に脱いでおいた方がいいかな？」
677	雪菜	Setsuna	「…脱がせてもらう方がいいよね？」
678	雪菜	Setsuna	「～っ、 や、やっぱり何か飲も」
679	雪菜	Setsuna	「あれ？」
680	雪菜	Setsuna	「かずさ…」
681	雪菜	Setsuna	「………っ」
682	雪菜	Setsuna	「ごめん、かずさ。 今からのわたし、見ないで」
683	雪菜	Setsuna	「………？」
684	雪菜	Setsuna	「…なんで、ベッドの上にあるの？」
685	春希	Haruki	「っ…」
686			もうすぐだ… 今夜で、終わりだよ…
687			明日からは楽になれる。 本当に、二人になれるんだ。
688			だってさ… 人間、自分の体を重荷には感じないだろ？ 自分の重みに潰される奴はいないだろ？
689			だから、もし雪菜が俺の半身になったなら、 もう、重く感じることなんかない。
690			俺も雪菜も、自分が自分にかけた呪縛から、 やっと解き放たれるんだ。
691	春希	Haruki	「～～～っ！」
692			なぁ、かずさ…
693			俺、今日でお前のこと忘れるんだ。 これからは、雪菜と二人だけの歴史を作るんだ。
694			本当は、もっと早くこうなってるはずだった。
695			お前が俺のことなんか歯牙にもかけなければ、 今ごろ俺たちは、今よりずっと幸せに生きてきた。
696			…なんて、全部俺のせいなのに、 そうやってお前に責任被せようとするなんて酷いよな。
697			だけど俺、お前には謝らないからな。
698			だって、雪菜を泣かせたのは俺だけど、 お前だって俺と一緒に雪菜を裏切っただろ？
699			俺たち、共犯だっただろ？
700	春希	Haruki	「っ…う、く…ぅぁぁぁぁ…っ」
701			じゃあな。 さよならだ、かずさ…
702			………	.........
703			『（写真）峰城大学付属学園在学中の冬馬かずさ』
704			『欠席日数は、１年次が５４日、２年次が９１日。 普通科に移った３年次は３７日。 （但し３年次は卒業確定後の留学準備のため）』
705			『なお、冬馬かずさは三年間の在学期間中、 特に大きな病気もなく、健康そのものだった』
706	雪菜	Setsuna	「ぷっ…」
707	雪菜	Setsuna	「春希くんらしい嫌味だよね」
708			『（写真）峰城大学付属学園　第二音楽室』
709			『峰城大付属には、音楽室が三教室ある。 普通科専用の第一音楽室。 音楽科専用の第三音楽室』
710			『第二音楽室は、主に臨時の予備教室として 利用されていたが、冬馬かずさが在学した三年間は、 彼女の専用練習場として占拠されていた』
711	かずさ	Kazusa	『…留年するぞお前ら？ あたしなんかに付き合ってると』
712	春希	Haruki	『何言ってんだ、逆だ。 お前が卒業するんだよ。 俺たちと付き合ってるばっかりに』
713	雪菜	Setsuna	『学園祭が終わったらマン・ツー・ツーだからね？ わたし、英語だけは春希くんより成績いいんだ』
714	春希	Haruki	『どうせ俺たち推薦も卒業もほとんど確定だし、 追試の追試の追試までつきあってやるからな』
715	かずさ	Kazusa	『…馬鹿じゃないのか？』
716	春希	Haruki	『ここには冬馬より馬鹿はいません』
717	雪菜	Setsuna	「っ…ふふ…ふふふっ…」
718	雪菜	Setsuna	「ほんと、酷いよ春希くん。 かずさのことになると、悪口ばっかり」
719			『（写真）峰城大付属学園祭ステージにて』
720			『曜子との確執から、 ピアノを弾くことのない日々が続いていたが、 それでもかずさは音楽から離れることができなかった』
721			『この時のステージでは、キーボードに留まらず、 サックス、ベースと多芸ぶりを披露し、 数年ぶりに聴衆の喝采を浴びた』
722	春希	Haruki	『俺のギターを、 初めて真面目に聞いてくれた奴だから』
723	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
724			『入学当時、かずさは音楽科の同級生や担任教師と 何度も衝突し、そのあまりの激しさや冷たさのため、 たった数日で周囲から完全に孤立した』
725			『しかし、そこに至るには、授業内容、練習時間、 演奏レベルとその全てに妥協を許さない、 彼女の向上心の高さも一つの要因となっていた』
726			『冬馬かずさは、 母・冬馬曜子の類い希なる才能とともに、 間違いなく、その厄介な性格も受け継いでいた』
727	春希	Haruki	『あいつ性格は悪いんだけど、 悪に徹しきれないお人好しな部分が面白いんだ、とか…』
728	春希	Haruki	『評判とか噂とか、そんなのが何だってんだよ。 冬馬ってさ、根は優しい奴なんだよ本当に。 くそ、皆にわかってもらえないの悔しいなぁ』
729	雪菜	Setsuna	「っ…ぅ」
730			『孤高で激情家のかずさは、 奔放で激情家の曜子同様、 日本の音楽界に収まりきらなかった』
731			『しかしそのことが、曜子の恩師でもある、 名伯楽マーティン・フリューゲルとの出会いを生み、 かずさの才能を飛躍的に開花させていく』
732	春希	Haruki	『俺たちにできることはさ… あいつの決断を尊重することくらいしかないよ』
733	春希	Haruki	『だから俺は… あいつが望んだ通り、笑って送り出す』
734	雪菜	Setsuna	「っ…ぅ、ぅぅ…」
735			『彼女は今、ウィーン郊外の一軒家で暮らしている。 尊敬する師であり、目標とするライバルであり、 かつて絶縁していた母である、冬馬曜子と共に』
736			『まだ生まれたばかりの才能が、 これからどのような足跡を刻むことになるか、 冬馬かずさのこれからの活躍に期待したい』
737			『あと一つ、僭越ながら追伸』
738	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
739			『かずさ本人も、彼女の行く末を見守ろうとする人々も、 偉大なる先達に感謝しなければならない』
740			『冬馬かずさは、本人がどれだけ否定しようとも、 冬馬曜子がいなければ存在しえなかったのだから。 アーティストとしてだけでなく、一人の人間として』
741	雪菜	Setsuna	「～～～っ！ ぅ、ぅ…ぅぇぇ…ぇぅ…っ」
742			………	.........
743			……	......
744			…	...
745	春希	Haruki	「雪菜…」
746	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
747			浴室のドアを開けると、 部屋の中は相変わらず静寂と薄暗がりに満ちていた。
748			雪菜は、広いベッドの上にぺたんと座り込み、 顔を伏せたままこっちを見ない。
749	春希	Haruki	「雪菜？」
750			ゆっくりと正面に周り、顔を覗き込むと、 そこから更に顔をそらしてしまう。
751			それが、恥ずかしさによるものなのか、 それとも他の感情なのか…
752			自分の感情を制御するだけで必死な今の自分では、 判断することもできない。
753	春希	Haruki	「どうしたの？ …怖くなった？」
754	雪菜	Setsuna	「…（ふるふる）」
755			その問いかけには首を振って応えたけれど、 やっぱり俺の方を向いてはくれない。
756			怖くないと言った。 恥ずかしそうな様子でもなかった。
757			けれど雪菜の様子は、 つい１０分前と比べても、あきらかに変わっていた。
758	春希	Haruki	「雪菜…」
759	雪菜	Setsuna	「っ…」
760	春希	Haruki	「あ…」
761			正面を向かせようと、 ゆっくりと頬に伸ばした手は、 咄嗟に振り払われた。
762			俺の中の時間が一瞬だけ止まる。 それは、あまりにも想定していなかった行為だったから。
763	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
764			それでも雪菜は、 今までみたいに慌てて『違うんだよ』って言わない。
765			だからそれは『違わない』行為だって。
766	春希	Haruki	「どうして…」
767			雪菜は、今になって、 俺を拒絶してるんだって、気づいた。
768	雪菜	Setsuna	「………」	"........."
769			ベッドの脇に膝をついて、 雪菜の顔を、下から覗き込む。
770			湯上がりのほてった肌はなりを潜め、 白磁のような、凍りついた表情がそこに張りついてる。
771			ただ、全てが冷めてしまったような全身とは対照的に、 伏せた瞳だけは熱く、そして赤く息づいて…
772	春希	Haruki	「あ…」
773			きっと、泣き腫らした目が、 ベッドの脇に置かれた『それ』に注がれてた。
774	春希	Haruki	「ごめん…しまい忘れてた」
775			俺たち二人に視線を注ぐ、 写真の中のかずさ。
776			今から俺たちがしようとしてることを、 一番見られたくない相手に見つめられ、 どうしても少し混乱してしまう。
777	春希	Haruki	「…え」
778			だから慌てて雑誌をしまおうと伸ばした手を、 白く細い手がやんわりと押さえたときには…
779			バツの悪さに嫌な予感が混ざり込み、 それ以上、どこも動けなくなってしまう。
780	雪菜	Setsuna	「本当はね…」
781			十分ぶりに聞いた雪菜の声は、か弱く、か細く。
782			自分が今抱えている不安定な気持ちを、 ものの見事に表現してしまっていた。
783	雪菜	Setsuna	「わたし、この記事、もう何十回も読んだんだ。 …発売日に自分で買って、ね」
784	春希	Haruki	「あ…」
785			本当は、予想できない事態じゃなかった。
786			かずさが、あろうことか表紙を飾った本を、 雪菜が見逃すはずがないって、 少し考えればわかることだった。
787	雪菜	Setsuna	「特に１２ページから１６ページのところ。 かずさの生い立ちから、日本を発つまでの話」
788	春希	Haruki	「１２ページ…」
789			だからこうやって、 俺の担当分をあっさり特定されることも、 想定しておかなくちゃならないことだった。
790	雪菜	Setsuna	「穴が開くほど読んだ。 いつも、最初は苦笑いから始まって、 そのうちおかしさがこみ上げて、声を出して笑って」
791	春希	Haruki	「酷い文章だからな…」
792	雪菜	Setsuna	「読み終わった頃には、 涙が止まらなくなってた」
793	春希	Haruki	「………」	"........."
794	雪菜	Setsuna	「ねぇ、春希くん…もう一度答えて」
795	春希	Haruki	「うん…」
796	雪菜	Setsuna	「春希くんは…かずさのことを、忘れたの？」
797	春希	Haruki	「忘れたよ」
798			だから…
799			俺のこの答えをなかなか信じてもらえないことも、 十分に想定しておくべきことだったに決まってる。
800	雪菜	Setsuna	「どうやって、忘れたの？」
801			切り抜けないと。
802			ここは何も言わず雪菜を抱きしめて、 ゆっくりと頭を撫でて、 ただ彼女が落ち着くまで、ずっと側にいて…
803	春希	Haruki	「三年も経ったんだ… どんな想いだって、いつか自然に消えてくよ」
804			なんて、そんな言葉を使わない誤魔化しなんて、 俺の使えるコミュニケーションツールじゃない。
805	春希	Haruki	「そう、三年もかかった… その間、雪菜に辛い思いをさせた。 本当に、ごめん…」
806			だから、言葉を尽くして。 相手に、心の底から納得してもらって。
807	春希	Haruki	「ごめんな、雪菜…」
808			身体に触れるのは、 心に触れてから…
809	雪菜	Setsuna	「っ！」
810	春希	Haruki	「あ…」
811			また、しくじった。
812			もう一度頬に伸ばした手は、 もう一度、さっきより激しく振り払われた。
813	雪菜	Setsuna	「何を忘れたって？ 何を消したって？」
814			こっちが言葉を尽くしたつもりでも、 相手に伝わっていなければ、 心に触れたことになんか…
815	雪菜	Setsuna	「三年前の春希くんと、 何が変わったって言うの…？」
816	春希	Haruki	「せ…雪菜？」
817			ならない。
818	雪菜	Setsuna	「もう、正直に言っちゃうね」
819			ホテルに入るまでの、 堂々と俺に身体を預けた雪菜とは違う。
820	雪菜	Setsuna	「春希くんが本当のこと話してくれないから、 わたし、切れちゃうね」
821			赤く腫れた目で、 ようやく俺を正面から見据え、 もう、何もかも諦めたように、堂々と俺を否定する。
822	雪菜	Setsuna	「わたしね、この記事、もう何十回も読んだんだ。 読むたびに、笑って、泣いて…」
823	雪菜	Setsuna	「心と身体の両方が痛くて、たまらなくて… 自分を抱きしめたまま、眠れない夜を過ごしたよ」
824	春希	Haruki	「っ！？」
825	雪菜	Setsuna	「だって…言ってること何も変わってないんだもん。 かずさを追い続けてた、あの頃の春希くんと」
826	春希	Haruki	「何を… そんなこと、あるわけ…」
827			論破、しないと。
828			抱きしめて誤魔化せない俺だから。 言葉を連ねて言い負かすことだけは得意な俺だから。
829	春希	Haruki	「俺、あいつを利用したんだ。売り渡したんだ。 ただウケ狙いで、悪口ばかり面白おかしく書き殴って…」
830	雪菜	Setsuna	「こんなに愛が籠もってるのに？ かずさへの気持ちが滲み出てるのに！？」
831	春希	Haruki	「………」	"........."
832			…なのに、 たった一言で、黙らされてしまう。
833	雪菜	Setsuna	「そうだよね、春希くんはかずさのこと、 いつも悪く言ってた」
834	雪菜	Setsuna	「照れくさそうに、自慢げに、 まるで自分のことみたいに…」
835	雪菜	Setsuna	「最初は悪口ばかりだけど、 そのうち一生懸命庇い始めて、 でも、最後は余計なお説教で照れ隠し」
836	雪菜	Setsuna	「これは、この文章はさぁ… あの頃の春希くんの言葉そのままだよ…っ」
837	春希	Haruki	「ぁ…ぅ」
838			否定する言葉が頭に浮かんでも、 口が否定してしまう。
839	雪菜	Setsuna	「こんな想いを込めたラブレター見せつけられて、 わたし、どうやって納得すればいいの…？」
840			全然、そんなつもりじゃないんだ。
841			ただ、採用されればいいって。
842			ちょっと誇張して、下手をすれば捏造までして、 自分の評価さえ上がればそれでいいって。
843			かずさへの想いなんか何も関係なく、 ただネタ的に美味しい物を並べただけで。
844	雪菜	Setsuna	「嘘つき」
845	春希	Haruki	「っ…」
846	雪菜	Setsuna	「春希くんの、嘘つき」
847	春希	Haruki	「ぁ…ぁ」
848	雪菜	Setsuna	「嘘つき…嘘つき嘘つき嘘つき…っ」
849			そんな…
850			俺が頭の中でついた嘘まで、 勝手に見抜かないでくれよ…
851	雪菜	Setsuna	「さっき、わたしがお風呂から上がったとき… 春希くん、イタズラを見つかった子供みたいな顔してた」
852			それはきっと、慌ててベッドの下に隠したから。
853	雪菜	Setsuna	「すぐには理由がわからなかったけど… でも、春希くんが出てくるまでに、わかっちゃった」
854			何度読んでも、笑えて、泣けて… 自分が書いたくせに、 どうしようもなく心揺さぶられる記事の載った本を。
855	雪菜	Setsuna	「春希くん、さ。 さっき、かずさと話してたんだよね」
856	春希	Haruki	「そんなこと、できるわけ…」
857			できるわけ、ある。
858	雪菜	Setsuna	「かずさに背中押してもらったんだよね？」
859	春希	Haruki	「あいつは…いない」
860			本当は、いる。
861	雪菜	Setsuna	「かずさのことあきらめる勇気を、 かずさにもらったんだよね？」
862	春希	Haruki	「っ…」
863			俺のメッセージは、 あいつの特集記事に形を変えて、 ずっとあいつに語りかけてる。
864	雪菜	Setsuna	「わたしを抱くために、 かずさに励ましてもらったんだよね？」
865			アンサンブルの表紙を飾っているあいつの姿は、 今でも俺のこと、馬鹿にしてるっぽい口調で、 だけどぶっきらぼうに励ましてくれる。
866	雪菜	Setsuna	「ずるいよね、春希くん」
867			だからもう… 雪菜の言葉を否定することができない。
868	雪菜	Setsuna	「あなたは… 何年たっても、わたしに嘘をつき続けるんだね」
869			全部、嘘だってばれてしまったから。
870	雪菜	Setsuna	「忘れられるはずのない思い出を、 忘れてしまったかのように嘘で塗り固めて、 ずっと、自分を殺して生きてくつもりだったんだね」
871			そうすることが二人のためだって信じてついた嘘が、 二人のうちのひとりを傷つけてしまったから。
872	雪菜	Setsuna	「ただ…わたしだけのために」
873			また、俺のせいで。
874			………	.........
875			……	......
876			…	...
877	春希	Haruki	「あ…」
878			そろそろ日付も変わろうとする、 クリスマスの夜。
879			さっきまで街中に降り積もっていた雪は、 今はただ、積もっているだけだった。
880			雲の切れ目から、ほんの少しだけ星が覗くけど、 ライトアップされたこの場所からは、 ほんの数個しか見えない。
881			すぐ近くに見える駅も未だに明るく、 まだ帰りの交通手段が残っていることを 教えてくれている。
882			この、恋人だらけの場所から、 哀れにも弾き出された俺を温かく迎えるように。
883			ゆっくりと、駅へと歩みを進めると、 だんだん凍結を始めようとしている雪の潰れる音がする。
884			けれど、それ以外の音はまるで聞こえず、 世界に俺しかいないようなありがたい錯覚を与えてくれる。
885			だって、降り積もった雪は、音を消し去ってくれるから。
886			なぁ、雪よ… だったらもう一つだけ、 我侭を言わせてもらっていいかな？
887	春希	Haruki	「………っ」
888			俺の心に響いてる慟哭も消し去ってくれよ。 さっきから、うるさくてしょうがないんだよ…
889	雪菜	Setsuna	「わたし、馬鹿だ…」
890	雪菜	Setsuna	『どうしてこうなるんだろう…』
891	雪菜	Setsuna	『好きな人が、 自分に嘘をついてまで、 わたしに振り向いてくれて』
892	雪菜	Setsuna	『自分の想いを殺してまで、 わたしに報いてくれて』
893	雪菜	Setsuna	『三年越しの想いが、やっと叶うって』
894	雪菜	Setsuna	『それで十分だと思ってたのに』
895	雪菜	Setsuna	『わたしの想いだけ遂げられれば よかったはずなのに』
896	雪菜	Setsuna	『なのに、どうして、こうなっちゃうんだろう…』
897	雪菜	Setsuna	「あ…あぁ…っ、 あああああああああああああああ～っ！」
898	駅アナウンス	Station Announcement	「３番線、次の電車は０時５５分到着予定です。 本日の最終電車となります。 お乗り遅れのないようお願いします」
899			雪で乱れたダイヤのおかげで、 終電に間に合った。
900			けれど、雪で乱れたダイヤのせいで、 接続が悪くなっていて、途中の駅で１５分待ち。
901	春希	Haruki	「…ふぅ」
902			なんとか確保した駅の椅子に腰掛けて、 しばらく俯き地面を見続けて、 けれど１分もしないうちに立ち上がる。
903			だって…
904			景色が動かないと、体を動かしてないと、 頭が、余計なことばかり考え始めてしまうから。
905			とにかく気を紛らわせようと、 用もない携帯を開き、適当にボタンを押す。
906			メールのボタンだけを一生懸命避けながら…
907			………	.........
908			雪菜だけじゃなく、 きっと武也も依緒も気づいてた。
909			俺の中で、いつまで経っても、 かずさが思い出に昇華されていないって。 忘れることのできない存在になってしまってるって。
910			それでも武也や依緒…やその他無関係な奴が、 俺を励ましたり、雪菜をけしかけたりしてたのは、 もう一つの真実には気づいていなかったから。
911			俺がずっとかずさのことを忘れてないことに、 雪菜が今でも傷つき続けてるって、こと。
912			俺と同じくらい、かずさのことを知ってるから。 …俺と同じくらい、かずさのことを好きだから。
913			だから、俺の中のかずさの存在を 見逃すことができないって、こと。
914			きっと、俺の心に入り込もうとするたびに、 中にいるかずさの記憶と目が合ってしまってたんだ。
915			俺が無理やり押さえ込んでも、笑ってみせても、 そんなの雪菜にとっては、ガラスに描いた絵のようなもの。
916			つまり、それってさ…
917	春希	Haruki	「っ…」
918			俺はもう二度と、一緒に歩いていくことができないって、 そういう、ことなのかな？
919			世界でただ一人、小木曽雪菜とだけは。
920			………	.........
921			相手が雪菜でないのなら、 俺はきっと、いつかかずさを忘れられる。
922			どうすればって…そんなの簡単だ。 かずさのことを胸に秘めたまま、忘れないまま、 新しい恋を始めてしまえばいい。
923			だってその時、俺の横にいるひとは、 俺が無理して笑ってるなんて気づいたりしないんだから。
924			俺が時々、過去を思い出しても、 そのせいで辛い気持ちになったとしても、 きっと何も知らず、笑顔で励ましてくれる。
925			だからそのうち、心が少しずつ彼女で埋められていき、 かずさを思い出す痛みが薄れていき、 いつか彼女が一番に置き換わる。
926			『知らないことが幸せなこともある』って、 あまり俺の好きじゃない言葉なんだけど…
927			でも、その言葉通りに時間が全てを解決してくれる。 …相手が雪菜じゃなかったら。
928	駅アナウンス	Station Announcement	「間もなく、３番線に電車が到着します。 黄色い線の内側までお下がりください」
929			だって雪菜とは、その過渡期が過ごせない。
930			俺が過去を思い出したら、 俺が辛い気持ちになったら、 何倍にも跳ね返って、傷ついて傷ついて…
931			今日みたいに、立ち止まってしまう。 先に進む勇気を失ってしまう。
932			きっとかずさは、もうとっくに俺のことなんか… もしかしたら雪菜のことだって 忘れてるかもしれないのに。
933			なのに俺たちは、勝手に過去の３人にこだわり、 そして馬鹿みたいに自滅しあう。
934			相手を好きなだけじゃ、 『どうしようもないこともある』。
935			それは、俺の大嫌いな言葉なんだけど。
936			それでも俺たちは、もう一緒にいない方が…
937	春希	Haruki	「ぅぁぁぁぁぁぁっ！」
938			近づいてくる電車の轟音に紛れるように、 叫びにも似た声を絞り出す。
939			考えたくない結論に辿り着くのが嫌で、 何も考えないようにしてたはずなのに。
940			雪菜の笑顔が、雪菜の吐息が、 そして雪菜の泣き顔が。
941			次から次へと頭の中に浮かんでは、 俺の感情を、どうしようもない方向に誘導する。
942			ぬくもりが欲しいって。 誰かに、会いたいって。
943			誰かと、触れあいたいって…
944			１．千晶に電話する		Choice
945			２．編集部に顔を出す		Choice
946			３．そんなこと、思っていいわけがない		Choice
947			………	.........
948			……	......
949			…	...
950			…なんて。
951			この、クリスマスイブの深夜に、 そんな簡単に捕まる相手がいるはずもなく。
952			しかも、そんな相手を求めることが、 今、同じ思いを抱えているはずの雪菜にとって、 許されざる行為に違いないから。
953			結局、御宿までで終電を逃した俺は、 そこからタクシーでマンションまで直行した。
954			灯りをつける間もなくベッドに倒れ込む。
955			雪に触れて冷え切っていた体が、 じわじわと温かさを取り戻していく。
956			けれど、そんなふうに体が温まっていっても、 ただ一つ、胸の奥だけは冷え切ったまま。
957			まだどこかが軋んでる。
958			それでも一人は嫌だって、 ずっと悲鳴を上げている。
959	雪菜	Setsuna	『心と身体の両方が痛くて、たまらなくて… 自分を抱きしめたまま、眠れない夜を過ごしたよ』
960	春希	Haruki	「そう、か…」
961			これが、その感覚か。 困ったな…ということは、眠れないんだ。
962			酷い風邪を引いたときのように、 全身の神経がひりひりと痛み、 温めてもさすっても、震えがおさまらない。
963			ガチガチと鳴り出しそうになる歯を必死で食いしばり、 震えの来る全身を両手で抱きしめて、 だけど目だけは閉じない。
964			本物の暗闇が訪れると、 そこに浮かび上がるから。
965			最後に見た雪菜の泣き顔が、 俺をいつまでも責め立てるから。
966			………	.........
967			これから二週間以上。
968			大学にも行けず、バイトの予定もなく、 今一番欲しくない『自由な時間』が、 容赦なく俺に襲い来る。
969			明日から、どう過ごせばいいんだろう。
970			孤独を埋めるのか、 敢えて孤独を受け入れるのか…
971			１．バイトに行く		Choice
972			２．ずっと一人でいる		Choice
973			孤独じゃ、ないって。
974			きっと雪菜だって、今ごろ眠れない夜を過ごしてる。
975			俺のせいで、雪菜のせいで。 俺たちは二人して、酷い孤独に全身を苛まれてる。
976			………気が合うな、俺たち。
977	春希	Haruki	「おやすみ…雪菜…っ」
978			声が震えてるのは、痛みのせい。 決して涙を我慢してる訳じゃない。
979			どっちだって格好悪いことには変わりないけど、 それでも男はそんな簡単に泣く訳にはいかない。
980			古い考え方だけど、 今さら笑われるかもしれないけど、 そんな北原春希を認めてくれるひとだっている。
981			改めて… おやすみ、雪菜。
982			お互い、眠れるといいな。 いい夢を、見られるといいな。
983			せめて夢の中なら… あのまま朝まで抱き合えてたらいいのにな。

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