White Album 2/Script/3019

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	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	春希		「………」	"........."
2			眠れない…
3			時計の秒針が何度も周回するのを、 さっきからぼうっと眺めている。
4			…実際には、長針でさえ何回か周回してたけど、 それでも今の俺に、眠気は降りてこない。
5	春希		「っ…」
6			かずさは、とっくに眠ってくれた。
7			ちょっとばかりテンション高かったけど、 今日からは、俺を風呂場から追い出し、 食事だって、自分の手で食べた。
8			ベッドに潜ってからも、しばらくは俺に対する恨み節や、 追加公演のことや日本を去った後のことを つらつら話してたけど…
9			すぐに外出の疲れと喋り疲れが重なって、 俺の目の前で無防備に、柔らかな寝息を立て始めた。
10			だから俺は、今日こそ安心して、 深い眠りに落ちてもいいはずなのに…
11	春希		「～～～っ！」
12			なのに、記憶が邪魔をする。
13			この期に及んで、更に大きな爆弾を落としてくれた、 冬馬曜子という人の残した言葉が…
14	春希		「………はい？」
15	曜子		「だから、白血病。 普通は薄幸のヒロインがかかる病気なんだけど、 神様も何を勘違いしたのかしらね」
16	春希		「………」	"........."
17			行方をくらました曜子さんを無理やり探し出し、 こうして直接会いに来たのは、 もちろん、かずさのことを話すためだった。
18			俺がもう、かずさを支えられなくなってしまったことを 正直に告げて、助けを仰ぐため…
19			そして、今までさんざん俺たちを振り回した責任を 取ってもらうためだった。
20	曜子		「半年前くらいかな… たった二時間のコンサートで、 体がふらつくようになってきたのよ」
21			責任、取ってもらうはずだったのに。 これで、かずさも救われるはずだったのに…
22	曜子		「三、四曲目あたりで動悸や息切れが激しくなってきて、 終わったあとも一時間くらい治まってくれなくてね」
23			曜子さんは、まったく予想もしていなかった場所に 俺を呼び出した。
24			峰城大学病院…
25	曜子		「ああ、とうとう来たか糖尿病って思ってたんだけど」
26	春希		「…普通は誰でもそう思います。 親子とももっと節制すべきです」
27	曜子		「あはは、ギター君は相変わらずだ。 わたしに対しても、いっつも偉そうなんだから」
28	春希		「………すいません。 まだ、状況飲み込めてなくて」
29	曜子		「…ま、そうよね。 当の本人でさえ、受け入れるのに結構時間かかったし」
30	春希		「………」	"........."
31			うちから歩いて１５分…
32			七年間通った峰城学園の敷地内にある、 総合病院の個室のベッドに、その体を横たえていた。
33	曜子		「向こうの病院で軽く診てもらった時には、 貧血だって言われたから、それから必死で食べて。 …ワインも白をやめて赤に替えたしね」
34	春希		「それ、色だけじゃ…」
35	曜子		「それでもやっぱり症状が改善しなくてね。 一年前ならオールナイトで弾いても平気だったのに」
36			逆にそっちの方がおかしいって話もあるけど。 …かずさが高い壁だと強く意識するほどに。
37	曜子		「それで、これはヤバいんじゃないのってことになって、 [R日本^こっち]で信用のおける高柳先生に診てもらうことにした」
38			高柳憲正教授なら知ってる。 俺が大学にいた頃から医学部長だった。
39	曜子		「その手の病気に関しては 世界的権威って言われてるし、 何よりまぁ昔から色々とあった間柄だし…」
40			そして、またしても意外なところから かずさの父親候補が…
41	曜子		「来日してから何度か検査入院して、 だいたい病気の正体も掴めてきて…」
42	春希		「入院…」
43			つまり、来日中に何度も行方をくらましてたのは、 古い友人に会うためとか、 朝まで飲み明かすためとかじゃなくて…
44	曜子		「さてどうしようかって時に、 結構ヤバい症状が来ちゃってね。 …それが、かずさのコンサートの夜」
45	春希		「あの日から…？」
46	曜子		「二日ほど記憶がないんだけどね」
47	春希		「っ…」
48			かずさが、誰も支えてくれる人がいなくて 悲嘆に暮れていたとき…
49			それ以上に、 娘の差し出す手を必要としてる人がいたなんて。
50	曜子		「ま、今は大丈夫。 週明けには退院できるから」
51	春希		「かずさにはそのこと…」
52	曜子		「言えると思う？ 今のあの子に」
53	春希		「………」	"........."
54			俺は今日、この人を責めるつもりだった。
55			自分のことを棚に上げ、説教の一つでもかますつもりで 気合いを入れていた。
56			それなのに… どんだけ何もわかってなかったんだよ、俺。
57	春希		「もしかして、かずさの来日公演も…？」
58	曜子		「いつかは連れてくるつもりだったけど、 急いだのはこのためね」
59			今回の来日公演は、 単に、売り時を見逃さない冷静なプロデューサーとしての 判断から、だけじゃなかった。
60	曜子		「冬馬かずさは、日本で受け入れられるのか。 ウチのバカ娘は、もう一度日本で暮らせるのか。 その両方を、確かめたかったの」
61			娘の将来を見届けられるかどうかわからない…
62			けれどそれを娘に伝えられない母親の、 悩んだ末の、ショック療法。
63	曜子		「…わたしが生きてるうちにね」
64	春希		「そんな…」
65			彼女のしたことは、今のところ見事に失敗してるけど、 事情を知ってしまった今、 もう、その親馬鹿を責めることは、俺には…
66	曜子		「言っておくけど、 すぐ死ぬつもりなんか全然ないわよ？」
67	春希		「…はい」
68	曜子		「最近はだいぶこの病気の致死率も下がってきてるし、 薬打ちまくって、金使いまくって、 少なくとも１００までは生き延びるわよ？」
69	春希		「お願い、します」
70			そうやって、まだ言葉の端々に、 冬馬曜子ならではの強さが見られることもあるけれど…
71	曜子		「ただね………もう、ウィーンには戻らない。 わたしはもう、日本を離れるつもりはないの」
72	春希		「っ…曜子さん」
73			それでも今の彼女に、 かつて意気揚々と日本を捨てたお気楽な開拓者の面影は、 もう、見られなかった。
74	曜子		「自分の生まれた国ですもの。 何だかんだ言って、世界で一番愛してる国ですもの」
75			その決断を責めることはできないし、 同じ日本人としてはシンパシーを感じられる思いだし、 事情を知れば知るほど、反対する理由が消えていく。
76			けれど…
77	春希		「かずさは…？」
78	曜子		「………どうしよっか？　ギター君」
79	春希		「そんな…っ」
80			ちょっと冗談混じりな口調だったけど、 彼女のその言葉は、 きっと嘘偽りのない嘆息だったんだと思う。
81	春希		「今のかずさは… 曜子さんを超えることだけが人生の目標で、 なのに曜子さんしか頼れる人がいなくて…」
82			そして多分かずさは、 日本に、なんの未練もなくなってしまっていて…
83	曜子		「そっか… かずさのこと、拒絶したのね、あなた」
84	春希		「っ…」
85	曜子		「ねぇ、あの子のどこが駄目だったの？ そりゃピアノ以外に取り柄ないし、暗いし、ワガママだし、 意地っ張りで諦めの悪さはちょっと退くレベルだけど…」
86	春希		「そういう問題じゃ…ないです。 あいつに不満なんかありません」
87	曜子		「そんなこと平気で言える人間、 世界であなたしかいないから期待してたんだけどなぁ」
88	春希		「………」	"........."
89			お互い、相手に期待しすぎてた。
90	曜子		「また負けたか、我が娘は… しかも五年前と同じ相手に」
91	春希		「やめて…ください」
92			この人なら、かずさを…
93			あの気難しい天才にして社会不適合者を、 なんとかしてくれるんじゃないかって、勝手に…
94	曜子		「こっちとしても賭けだったのよね…」
95	曜子		「わたしだって、一応親なんだし、 かずさが独り立ちできるまで 一緒にいてやりたいって思ってる」
96			けれど、そのことを責められるわけなんかない。
97	曜子		「けれどもう、 それをウィーンで実現させることはできない。 ワガママではあるけれど、自分の一生のことだから」
98			だってお互い、自分の一生を守るために、 相手に期待したってことでは一致してる。
99	曜子		「だから、かずさを無理やり日本に連れてきた。 …永住、するために」
100			それは、素直な気持ちで受け止めれば、 俺にとって、心の底から喜ばしいことのはずだった。
101	曜子		「ピアノの方に限って言えば、 今の日本なら、今のかずさなら、 もう、ヨーロッパじゃなくてもやっていける」
102			五年前、あんな悲しい別れ方をしたかずさが、 二度と会えないかもしれないって思っていたかずさが、 これからは、いつでも会える距離にいる。
103	曜子		「もともとフリューゲルの爺さんは今年で引退だし、 次の師匠も日本で見つけてある」
104	曜子		「…橋本健二っていう若手ナンバー１ピアニストを育てた、 フランス人のおばちゃんでね。 …まぁ昔は男取り合ってよく大喧嘩したけど」
105			お互いや、仲間たちの記念日に… それどころか、単に思い立っただけでも、 すぐに集まれるメンバーの中にかずさがいる。
106	曜子		「だから後は、かずさが再びここで暮らせるか、 それだけが、一番の心配事だった」
107			かずさと、俺と… そして雪菜の、“あの三人”を、 いつでも再現できる。
108	曜子		「…でも結局、駄目だったみたいね。 かずさを吹っ切れさせることも、 かずさの思いを遂げさせることも」
109	春希		「………」	"........."
110			また、三人でいられる。
111			けれどそれは、五年前に温泉宿で、 永遠の友情を誓い合った三人ではなくて。
112			誰もが誰かのことを、 もう、友達だなんて思えない三人で…
113	曜子		「あなたこそが、 かずさを日本に戻すための最後の希望で… そして最大のネックだった」
114	春希		「俺にそんなこと言われても… いきなりそんなこと言われても…」
115	曜子		「あの子の気持ち、聞いたんでしょ？ それで受け入れなかったのよね？ …なら、それが結果なんだからしょうがない」
116	春希		「っ…受け入れられると思いますか？ 五年間、音信不通だったんですよ？ どうやって信じろって言うんです！？」
117	曜子		「ずっと一緒にいたわたしが保証しましょうか？ あの子が五年間、どれだけ色ボケてたか。 …会えもしない、たった一人の男相手に」
118	春希		「っ…別に、そんな」
119	曜子		「あの子は毎日十時間、あなたと会話してたのよ。 だから、想いが色褪せることなんかあるはずなかった」
120	春希		「十時間…」
121			それは、かずさが毎日ピアノと語らう時間。
122			親に反抗していた時期を除いて、 そして…俺に悪態をついていた日を除いて。
123	曜子		「そうやって、ずっと冷めない恋をしてたから、 あの子のピアノは、どんどん色っぽくなってって、 いつの間にか、世界に認められるようになっちゃって…」
124	春希		「そんな、そんな…」
125	曜子		「かずさの告白、聞いたんでしょ？ なら今さら、信じられないなんて言うのはナシよ？」
126			幼稚な感性だからこそ。 視野が狭すぎるからこそ。
127			他になにも興味を持たなかったからこそ、 かずさのピアノは、あんなに輝いたって…
128			やっぱり芸術って………馬鹿みたいだ。
129	曜子		「でもねぇ…相手が悪かった。 かずさにとって、あまりに高嶺の花だった」
130	春希		「俺が…高嶺の花？ どうして？」
131	曜子		「だってギター君、普通の人だもの。 そんなハードルの高い相手、 やっぱりあの子には無理だったのよ」
132	春希		「意味が…わかりません」
133	曜子		「だってわたしたちは、 普通の人の人生を壊す力を持ってしまっている。 しかも、それを抑えることができないの」
134	春希		「あ…」
135	曜子		「だから、もしもあの子が、 あなたを手に入れようとしたら、 あなたの周囲の世界ごとぶち壊すことになる」
136			日本にとどまらない、世界規模での演奏活動。 その才能と生活を維持するための膨大なコスト。 ここ数日の、本人すら望んでいない周囲の喧騒。
137			生活の規模も、人生の目的も、 幸せの基準さえも、何もかもが違う、俺たち。
138			俺には、一生縁のない、 馴染めるはずのない、世界…
139	曜子		「それは、別のある人にとっては、 とても残酷で、無情で、本当に酷いこと」
140			そして、もしリスクを覚悟で飛び込んだとしても、 その時、普通の俺の側にいようとしてくれていた人は…
141			雪菜の、幸せは…
142	春希		「………」	"........."
143			やっぱり、考えるまでもない。
144			かずさが好きになったのは、本物の俺じゃない。 かずさが勝手に作り上げた理想像に過ぎない。
145			だって雪菜はこの５年間、 ずっと本物の俺に振り回されてきた。
146			理想と現実のギャップに苦しみ、対話を繰り返して、 やっと今の俺たちになったんだ。
147			だから、雪菜の想いこそが… 俺と雪菜の語らいの上に築かれた関係こそが真実で。
148	春希		「曜子さん、俺」
149			曜子さんが、どれだけかずさを庇っても、 かずさの想いがどれだけ純粋で本物でも。
150			いや、だからこそ、 答えは明確に、俺の目の前に転がっている。
151			雪菜を選ぶことこそが、 俺にとって何の間違いもない、満点の答えなんだって。
152	春希		「俺…」
153			だから、言わないと。
154			俺には、雪菜しかいないって。
155			はっきりと、かずさに別れを告げるしかないんだって。
156	曜子		「だからね、ギター君。 こうなってしまった以上、 あなたは、あの子を思い切り振ってあげて」
157	春希		「え…」
158	曜子		「せめて、少しでも傷の治りが早くなるように、 すぱっと切り捨ててあげて」
159			そこまでわかっていながら、 またしても俺は失敗した。
160	曜子		「絶対に、自分で傷を癒そうなんて考えないこと。 あなたが少しでも隙を見せたら、 あの子は絶対に諦めないわよ？」
161			心の中で決心したことを、 結局、いつまでも口に出すことができなかった。
162	春希		「そんな…」
163	曜子		「そんなことあるわけないって思う？ …それこそ、普通の人の感覚ね」
164	春希		「………」	"........."
165			おかげでいつの間にか、また立場は元に戻り、 俺は、かずさを庇う側に回ってしまう。
166	曜子		「かずさはね、本質的には、わたしと同じ色情狂なの。 一般人並の理性なんて持ち合わせてないの」
167	春希		「よ、曜子さん」
168			また、曜子さんに逆に追い込まれてしまう。
169	曜子		「でなければ、五年も会わずにいた男を ひたすら想い続ける訳がない。 …あなたの常識に、そういう女はいるかしら？」
170	春希		「っ…」
171	曜子		「だから、これからも忘れない。 下手をしたら…いえ、今のままじゃ確実に、 一生、新しい恋なんてできるわけがない」
172	春希		「そんな、そんな… 俺なんて、ほんの一年間クラスメートだっただけで、 あいつにそんな想われることしたわけじゃ…」
173	曜子		「それを決めるのは、あなたじゃなくてかずさよね？」
174	春希		「………」	"........."
175			どうして親子そろって同じ事言うんだ…
176			これじゃまるで、曜子さんの言ってることが 全部かずさの気持ちそのものみたいじゃないか。
177	曜子		「もう一度言うわよ…北原春希くん」
178			けど、けど…曜子さん。
179	曜子		「あなたがあの子を受け入れられないのなら、 今すぐあの子を捨てて。 …それが、あの子の為なんだから」
180			そんなことをしたら、かずさは… あいつは、どうなるんですか…？
181			俺だけじゃなく、曜子さんにすら もう、頼れなくなってしまったら…
182			目指すべき頂が、たった一つの道標が、 まるで蜃気楼のように消えてしまったら…
183			誰が、あいつを守ってやれるんですか…？
184			………	.........
185			……	......
186			…	...
187	孝宏		「………さん、北原さんってば」
188	春希		「っ！？ え？　あ、ああ、ごめん、何？」
189	孝宏		「…なんか疲れてるみたいだねって言ったんだけど、 もう答えは聞いたような気がするからいいや」
190	春希		「あ…」
191			ずっと考え事してたら、 いつの間にか夜になっていた。
192			曜子さんのこと、かずさのこと、そして今夜の約束のこと。
193			色んな考えが頭の中でごちゃごちゃに混ざり、 整理も決断もできないままかずさの部屋を訪れると、 玄関に一枚の紙が貼ってあるだけだった。
194			『美代子さんと打ち合わせ。夕食はいらない』
195			あれだけ激しい気持ちを露わにしておきながら、 肝心なところで気を使う、的外れな小心者…
196	雪菜の母		「あまり箸も進んでないみたいだし、 もしかしたら具合が悪いんじゃない？ 雪菜、ちょっとあれ持ってきてあれ」
197	雪菜		「あれじゃなくて体温計ってちゃんと言ってよ」
198	春希		「あ、いえ、気遣っていただかなくてもいいです。 別にそんな大したことじゃ…」
199	孝宏		「………もしかして、 昨夜、姉ちゃんが寝かせてくれなかった？」
200	春希		「ぶっ！？」
201	雪菜		「孝宏！」
202			さっきまで喉を通らなかった食事が、 今度はハッキリと詰まってしまった。
203	雪菜の母		「この子は…もうハタチになろうってのに、 まるで中学生みたいなことに興味持って…」
204	雪菜の父		「よさないか…食事中だぞ」
205	孝宏		「なんで食事中にふさわしくない話だってわかるのさ？ 夜中じゅう、ずっとゲームに付き合わされてたのって、 そういうこと聞こうとしてたかもしんないじゃん俺」
206	雪菜の母		「しかも言い逃れまで中学生みたい。 そんなんで、彼女に逃げられても知らないわよ」
207	孝宏		「ちょ、ちょっと待ってくれよ！ 家に十回くらい連れてきただけで彼女かよ！？」
208	雪菜の母		「紛れもなく彼女でしょ」
209	春希		「あ、あの、全然そういうことじゃないですから！ ただちょっと考え事してただけで」
210			何がそういうことなのかはともかく、 この一家は時々そういうことを包み隠さず話して、 俺を思いっきり口ごもらせる。
211			…まぁ、逆にこういう一家だからこそ、 雪菜を大っぴらに部屋に泊めることもできるんだけど。
212	孝宏		「考え事…ねぇ。 将来のこととか？」
213	春希		「将来？」
214	雪菜の父		「っ…お、おい」
215	雪菜の母		「ちょっと孝宏、それは…」
216	孝宏		「何言ってんだよ。 さっきからみんな聞きたくてウズウズしてるくせに」
217	春希		「え、何を？」
218	雪菜の父		「………」	"........."
219	雪菜の母		「…ええと」
220	春希		「…？」
221	雪菜		「………」	"........."
222			何のことかと雪菜に目配せしたけれど、 それは完全に空振りに終わってしまった。
223			何しろ、全員黙りこくってしまった小木曽家の中でも 雪菜が一番気まずそうに俯いてしまっていたから。
224	孝宏		「あのさ、北原さん。 もしかしてさ………姉ちゃんにプロポーズした？」
225	春希		「………あ」
226	雪菜		「………っ」
227			テーブルの上… 雪菜が右手で左手をそっと隠した。
228			…新しい指輪が燦然と輝くその薬指を。
229	孝宏		「姉ちゃんに聞いてもハッキリ言わないしさ。 父さんなんか今週すっごい暗かったんだぜ？」
230	雪菜の父		「っ…いい加減なことを言うな！」
231			そういえば… 指輪を渡して以来、初めての小木曽家だった。
232	雪菜の母		「た、孝宏… 何もそんな…食事中に。 ほら北原さん困ってるじゃないの」
233	孝宏		「ああっ、今になって急に自分だけいい顔して～！ どうやって口を割らせようかって、 最初に相談持ちかけたのはそっちだろ！」
234	雪菜の母		「…ええと。 だからそういう身も蓋もないことを 食事中にバラさなくても、ねぇ？」
235	春希		「………」	"........."
236			毎日顔を合わせてて薬指の変化に気づかないほど、 絆の浅い家族じゃないってわかってたのに。
237			指摘されるまで知らぬ顔を決め込むなんて、 皆にとっても、雪菜にとっても、 取っていい態度じゃなかったはずなのに。
238	雪菜		「ちょ、ちょっと、やめてよ。 別にこれは、そんな深い意味は…」
239	雪菜の母		「…ないの？ だってそれ、随分と高そうじゃない？ 前のオモチャみたいな安っぽいのと全然違うし」
240	春希		「…すいません、安っぽくて」
241	雪菜		「…前のも春希くんに貰ったものなんだけど」
242	雪菜の母		「あ、あら…そ、そう。それはあれね… ほら、あれよあれ、ねぇ孝宏」
243	孝宏		「つまりさぁ、 姉ちゃんが前もってきっちり説明しとけば、 こうして北原さんに恥をかかせることもなかったと…」
244	雪菜の母		「そ、それよそれ！ ほんとこの子ってば、 肝心なところで変に頑固なんだから」
245	雪菜		「だ、だからぁ、違うんだってば。 別にこれは…今すぐって意味じゃないんだから」
246	春希		「雪菜…その言い方だと」
247	雪菜		「だよねぇ春希くん？ わたしたち、そんな…ねぇ？」
248	春希		「………」	"........."
249	雪菜		「…春希くん？」
250	孝宏		「ええと… 『今すぐ』ではないってことは…？」
251	雪菜の母		「要するに… 『将来的には』って話があったってこと？」
252	雪菜の父		「っ…」
253	雪菜		「え………」
254	孝宏		「あ～あ、語るに落ちちゃった…」
255	雪菜		「え？　え…？」
256	雪菜の母		「ほ～ら孝宏！ やっぱりお母さんの言った通りだったでしょ！ 絶対何かあるってピンと来たんだから！」
257	孝宏		「なんだよ母さん。 自分で聞けもしなかったくせに急に調子付いちゃって」
258	雪菜の父		「やめないかお前たち！ 要するに何も決まってないってことだと言ってるだろ！」
259	孝宏		「いや言ってない。言ってないよ。 ほとんど決まったって言ってんだよ」
260	雪菜の母		「お父さん… いくら認めたくないからって、 あまりにも自分の都合のいいように聞き違えるのは…」
261	雪菜		「ちょ、ちょっとぉ！ だから、だからぁ… 本人の前でそういう話はやめてよぉ」
262	春希		「は………はは」
263			なのに俺は…
264			この、軽くて浮き足立った雰囲気の中でも。 一世一代の決め所かもしれなかった場面でも…
265			流れを掴むことも、流れを止めることもできず、 ただ、俯いて黙り込んでいるだけだった。
266			深く、沈み込んだ気持ちのまま。 ただ、必死で作った笑顔だけを表情に貼りつかせて。
267			………	.........
268	雪菜		「今日はごめんね… なんか変な話になっちゃって」
269	春希		「いや、そんなこと…」
270			こっちこそ、ごめん。
271	雪菜		「もう、みんな気が早すぎるんだから。 本人たちほったらかして勝手に盛り上がっちゃって…」
272	春希		「だから、気にしてないって」
273			気が早すぎても、問題ないはずだった。 それどころか、正式に申し込むべき話の流れだった。
274			だって、気が早い『だけ』で、 言ってることは間違ってない…はずなんだから。
275			だから、ごめん。 黙ってて、ごめん。 大事なこと、言えなくてごめん。
276	雪菜		「本当にごめんなさい。 でも、お母さんも孝宏も悪気はないの。 お父さんは………後でちゃんと話しておくから」
277	春希		「うん…」
278			なのに、そんな俺の致命的なミスを、 雪菜は自分の落ち度のように、何度も謝る。
279			俺に負担を掛けないように。 俺に責任を負わせないように。
280			自分が何を求めているのか、 俺にどうして欲しいのか…
281			ほんの少しだけ気持ちが漏れ出たけれど、 それを失言と片づけて、 あとは全て自分の中に押し込んで。
282	春希		「それじゃ…」
283	雪菜		「また来週…ね」
284	春希		「うん。 連絡する」
285	雪菜		「ばいばい…」
286			………	.........
287			小木曽家での[R夕餉^ゆうげ]は、いつも以上に盛り上がった。 …まぁ、うち一人は途中で席を立ってしまったけど。
288			お母さんは、もう親戚の予定を気にしだして、 『内輪で』を多用する若手組と真っ向から対立し。
289			孝宏君は、雪菜が出ていった後の部屋の使用権を主張し、 『そのままにしておく』という女性組と真っ向から対立し。
290			お父さんはそういう話には参加したがらなかったけれど、 去り際、俺の母親に一度会う必要があると呟いた。
291			そんな、小木曽家では当然の… 北原家には存在しない、しがらみだらけの会話。
292			すこし辟易しつつ、少し羨望を抱き、 そして徐々に、自分も染まっていくはずだったのに。
293			あの、温かくて大らかな輪の中に 望んで入っていくはずだったのに。
294	春希		「………」	"........."
295			大阪まで追いかけて、 雪菜を抱きしめたのは…
296			お互いの気持ちを確かめあったのは、 たった一週間前のことのはずなのに。
297			今はもう、 それからどのくらい時間が経ったのかもわからない。
298			決めたはずの心は、 もう迷わないと誓ったはずの愛は。
299			まるで何もかも忘れようとしているかのような、 激しい情欲のぶつけあいの果てに…
300			真に俺たちが結びたかった絆を。 繋げたかった心を。 もしかして、あやふやなものにしてしまったんだろうか。

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