White Album 2/Script/3102

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	Speaker		Text		Comment
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1	男性アナウンサー		「さて本日２月１４日。 バレンタインデーのニュースです」
2	男性アナウンサー		「まずはマイリースポーツさんの記事ですが… 『冬馬かずさ追加公演中止？』」
3	男性アナウンサー		「１月の来日初コンサートも好評で、 今月末、追加公演が既に決定している ピアニスト冬馬かずささんですが…」
4	男性アナウンサー		「実は現在、深刻な体調不良ということで 次回公演の開催が危ぶまれていることが、 関係者の話で明らかになりました」
5	男性アナウンサー		「前回のコンサート以来、かずささんは、 プロデューサーであり母親の冬馬曜子さんとともに、 報道陣の前に一切姿を現さなくなりましたが…」
6	男性アナウンサー		「実は、前回のコンサートの後に体調不良を訴え、 現在は都内の病院で療養していると言うんですね」
7	男性アナウンサー		「というのもですね、実は先週、 かずささんの滞在先と思われるホテルに 深夜救急車が出動する騒ぎがありまして…」
8	男性アナウンサー		「その時運び出された女性が 彼女ではないかという目撃者の証言もあり、 ここに来て追加公演の開催が危ぶまれています」
9	男性アナウンサー		「なお、この件に対して冬馬曜子オフィスは昨夜、 『こちらではそのような報告を受けておりません。 現在確認中です』とのコメントを発表しました」
10	男性アナウンサー		「冬馬かずささんの日本公演に関しては、 発売一時間でチケットが完売するほどの、 クラシックとしては異例の大人気となっていまして…」
11	曜子		「で、この噂、美代ちゃんが流したの？」
12	美代子		「一部マスコミの間で、 社長の病気のことが取り沙汰されていたので、 目先を変えておこうかと思いまして」
13	曜子		「…なるほど、かずさの件がガセとわかったら、 今度は冬馬曜子だと言っても誰も信用しない、か」
14	美代子		「『ピンチをチャンスに変える会話術』は 社長に鍛えていただきましたから」
15	曜子		「さすがは冬馬曜子オフィス随一の切れ者。 やってくれるわね～」
16	美代子		「そもそも日本オフィスには私一人しかいませんし」
17	曜子		「…で、あの子は？」
18	美代子		「相変わらずピアノに向かおうとしません。 時々外出はしてるみたいですけど、 周囲を散歩する程度みたいで…」
19	曜子		「やっぱり落ち込んでる？」
20	美代子		「そうですね… でも、塞ぎ込んでるというよりは、 何だか思い悩んでるみたいですけど」
21	曜子		「悩む…？」
22	美代子		「ええ、話しかけても生返事ばかりで、 心ここにあらずって感じで」
23	曜子		「………」	"........."
24	美代子		「社長、かずささん、本当に大丈夫でしょうか？ まさか変なふうに思い詰めたりとか…」
25	曜子		「あ～、今の様子を聞く限りじゃ、 美代ちゃんの心配してるようなことはなさそうね」
26	美代子		「ほ、本当にそうでしょうか？ けど芸術家って色々と…」
27	曜子		「あの子、周囲が思うよりもずっと普通の子なのよ。 …ちょっと乙女が過ぎるけどね」
28	美代子		「お、乙女…？」
29	曜子		「だから、何があっても人であることはやめないわよ。 ただ、芸術家ってのの方をやめる可能性は…」
30	美代子		「………」	"........."
31	曜子		「ごめんね美代ちゃん。 うちの娘が迷惑かけて」
32	美代子		「いいんです。 彼女の気持ち、痛いほどわかりますから」
33	曜子		[F16「…本当はわかるわけないんだけどね」]
34	美代子		「私だって泣きたいくらいショックなんですよ？ 社長が引退しちゃったら、 冬馬曜子オフィスはどうなるんですか…」
35	曜子		「まぁ、その件は退院してから相談するとして、 それで、コンサートの準備の方は？」
36	美代子		「そちらは準備万端です。 開催についても…撤退についても。 例の記事も半分はそれが狙いですから」
37	曜子		「…やっぱり冬馬曜子オフィス随一の切れ者ね」
38	美代子		「社長が決断した瞬間に、 すぐに各方面が動けるように手配しています。 損害も最小限に抑えられるように手を打ちました」
39	曜子		「ありがとう美代ちゃん」
40	美代子		「けれど、どうなるんでしょうか、かずささん… コンサートのこともそうだけど、 これからのことだって…」
41	曜子		「今は、見守るしかないわね」
42	美代子		「社長…」
43	曜子		「元の自分を取り戻すのか、 何もかも失ってしまうのか、 それとも………」
44	曜子		「何かを得るために、何かを捨てるのか」
45			………	.........
46	女性客		「あ、あの…すいません」
47	かずさ		「え…？」
48	女性客		「冬馬かずささん、ですよね？ ピアノの」
49	かずさ		「あ…っ」
50	女性客		「やっぱり！ そうじゃないかと思ってたんですよ～！ あ、私この前のコンサート行ったんです！」
51	かずさ		「い、いえ、あたし…」
52	女性客		「感動しました～、すっごく！ 私、普段はクラシックとか聴かないんですけど、 あなたのピアノだけは大ファンなんですよ～」
53	かずさ		「は、はぁ…？」
54	女性客		「だってほら、弾いてるところ綺麗だし、 すっごく絵になるし～、 もう見てるだけで満足って言うか」
55	かずさ		「………」	"........."
56	女性客		「握手してください、握手！ あ、あの、それと、よろしかったらサインも…」
57	かずさ		「………」	"........."
58	女性客		「…それにしても、今からどこに行くんです？ まだ日本にいらっしゃるんですよね？ 追加公演も残ってるし」
59	かずさ		「………違う」
60	女性客		「え…？」
61	かずさ		「あたし… そんな有名人なんかじゃない」
62	女性客		「で、でも… 冬馬さんに間違いないですよね？」
63	かずさ		「だからなんだよ…」
64	女性客		「え、え？」
65	かずさ		「冬馬かずさなんて… ただの、どこにでもいる日本人だ」
66	車内アナウンス		「まもなく、終点、成田空港に到着いたします。 お忘れ物の無いよう、お支度ください。本日は……」
67	浜田		「おい北原！ お前、最近一体何やってんだよ！」
68	春希		「すいません。 増刊の方にかかりっきりになってしまってて」
69	浜田		「にしたって、 こっちには全然顔出さない。進捗報告もしない。 たまに来ても上司に声すら掛けないってどういうことだ」
70	春希		「本当にごめんなさい。 今週は[Rアンサンブル^むこう]の編集部に入り浸りで」
71			…と、それでも顔を向けずに資料を書きながらという、 ますます浜田さんの怒りを買う受け答えをしてしまう。
72			だって、言っちゃ悪いけど、 こんなことをしている時間すら惜しい。
73	浜田		「それで、増刊の方はどうなってる？ 今頃になって間に合いませ～んなんて 泣きついてきても俺は知らんぞ！」
74	春希		「今日中に初校上がります。 週末にはこっちの作業は全部終わる予定です」
75	浜田		「…なに？」
76	鈴木		「それって逆に早すぎない？ 締め切りまでまだ半月あるよ…？」
77	春希		「あとは修正作業と、編プロの方の原稿待ちと監修と …それに編集後記だけです」
78	松岡		「最後のは俺に対する嫌味だと思うんですよ…」
79	鈴木		「考えすぎだよ松っちゃん…」
80	浜田		「そ、そこまで進んでるならちゃんと報告しろ！ 自分で抱え込んでるんじゃない！」
81	春希		「すいません、以後気をつけます。 …こっち、続けていいですか？」
82	浜田		「………後で詳しく進捗報告しろ。 メールでいいから」
83	春希		「わかりました」
84			本当は、メールを書く時間も惜しいけど、 それは移動中にでも対応するしかない。
85			何しろ今週に入ってからは、報告をするどころか、 報告しようと考えることすら惜しいくらい、 時間を秒刻みで消費してた。
86			そんな歪な仕事の仕方、 浜田さんの言う通り社会人失格だけど、 今はそんなこと考えてる暇もなかった。
87			だって…
88	春希		「………」	"........."
89			いや、今はその可能性まで考えるのはやめよう。 まだ何も決まってない。
90	松岡		「ねぇ鈴木さん… 北原、ちょっと変じゃないですか？」
91	鈴木		「まぁ、松っちゃんには理解できない人種であることは 確かだけどね。何しろ麻理さんの愛弟子だし」
92	松岡		「いや…その麻理さんが昔言ってた 『危ない北原』に近いような気がするんですよ、 今のあいつ」
93			週明けからの連続稼働のせいか、 ずっと集中し続けていたおかげなのか…
94			今の俺は、周囲のひそひそ話が 一字一句ハッキリ聞こえてしまうほど、 あまりに神経が研ぎ澄まされ過ぎている。
95	春希		「………」	"........."
96			それでも今は、その雑談に首を突っ込む余裕も、 また、その気もなかった。
97			一刻も早く、今の仕事を上げないとという焦燥感と…
98			そして、松岡さんの言葉を否定できない、 今の俺が自ら選んだ状況のせいで。
99			………	.........
100	かずさ		「………何の、冗談だよ」
101	春希		「………」	"........."
102	かずさ		「そんなたちの悪い冗談言って、 あたしをからかうのやめろよ…」
103			『俺は、お前の側にいる』
104			『…たとえ、全てを捨てることになっても』
105			ほんの数秒前、俺の口から零れたその言葉は、 かずさの言う通り、 あまりにも悪い冗談としか思えなかった。
106	かずさ		「嘘だとわかりきってるのに、 ちょっと信じかけて… 余計に悲しくなるじゃないか」
107	春希		「お前… 俺が側にいると悲しいのか？ ずっと一緒にいたら、そんなに嫌か？」
108	かずさ		「馬鹿野郎！　わざと読み違えるな！ あたしはお前のそう言うところが嫌いなんだ！」
109	春希		「…ごめん」
110			そんな照れ隠しの読み違えは、 もう、今のかずさにはなんの意味もなかった。
111	かずさ		「すぐに夢から覚めてしまうからだよ… そんなことできるわけないって、 思い知らされてしまうからだよ」
112	春希		「かずさ…」
113			かずさ自身がもう、 はぐらかすことも、 強がることもやめてしまったから。
114	かずさ		「叶わない夢を語るなよ。 残酷にも程があるだろ？」
115			ただ、ひたすらまっすぐに。 全力で、俺だけを見つめて。
116			…俺以外を、全て視界の外に追い出して。
117	春希		「ところがな… 残念ながら、お前の言ってることは見当違いなんだ」
118	かずさ		「え…」
119	春希		「嘘じゃないんだ。 からかってる訳でもないんだ」
120			だから俺も、そのかずさに応える。 かずさ以外の全てを、俺の視界の外へと弾き出す。
121	春希		「俺は、これからお前の隣にずっといる。 お前の行くところに、どこまででもついていく。 …それがたとえ、ウィーンでも」
122	かずさ		「………っ！？」
123	春希		「ピアニストの冬馬かずさでも、 ただの日本人の冬馬かずさでも、 俺にはもう、どっちだっていい」
124	かずさ		「春希…？」
125	春希		「ただ、これから俺は、そのたった一人を支えてく。 これからの俺は、そいつだけのために生きる」
126	かずさ		「お前、お前………っ」
127			けれど、かずさの想いに応えれば応えるほど…
128			かずさの願いを叶えると約束すればするほど…
129	かずさ		「正気、か？」
130			俺たちの周りの空気が、 寒さだけじゃない理由で、凍りついていく。
131			幸せでもなく喜びでもなく…
132			ただ、絶望と、暗雲と、重圧が、 俺たちを襲い、覆い、のしかかっていく。
133	かずさ		「それは、あたしがどれだけ願っても、 絶対に叶わない夢だったんじゃないのか…？」
134	春希		「日本じゃなくたって、俺なら大丈夫だ。 しばらくは生きていくにも苦労するだろうけど、 そのうちまっとうな仕事にありつける自信はある」
135	かずさ		「そういう意味じゃなくてさぁ…っ」
136	春希		「俺の家族のことも心配しなくていい。 もともと一人みたいなものだから…」
137	かずさ		「っ…そんなこと言ってるんじゃない！ やっぱりお前、わざと読み違えてるじゃないか！」
138	春希		「…まぁな」
139	かずさ		「雪菜………は？」
140	春希		「………」	"........."
141	かずさ		「っ！？ お、お前、お前…まさかっ！？」
142			かずさは、ほんの少しだけ思い違いをしてた。 そして、そのことに今、やっと気がついた。
143			叶わない夢を語るのが残酷なんじゃない。
144	春希		「…お前は何も心配しなくていい。 俺が…俺一人でなんとかするから」
145	かずさ		「あ、あ………あああああっ！？」
146			その夢が、あろうことか叶ってしまった瞬間が、 本当の、残酷な時間の始まりだということに。
147			………	.........
148	かずさ		「………」	"........."
149	空港アナウンス		「東日本航空２４８便ウィーン行きは ただ今からご搭乗手続きを開始いたします。 お客様は８２番ゲートにお越し願います」
150	かずさ		「あ…」
151	かずさ		「………」	"........."
152	かずさ		「無理だよ春希… そんなの…」
153			………	.........
154	かずさ		「…そんなの、不可能に決まってる」
155	春希		「だったらお前、これからどうすんだよ？ ちゃんと一人でやってけるか？ 俺を…安心させてくれるのかよ？」
156	かずさ		「あたしのことなんか話してない… お前が無理だって言ってるんだよ！」
157	春希		「………」	"........."
158	かずさ		「そんなことしたら… あたしが救われる代わりに、みんなボロボロになる。 雪菜も、お前も…みんながだよっ！」
159	春希		「俺は………大丈夫だよ」
160	かずさ		「そんな訳ないだろ！ お前が一番酷いことになるに決まってるじゃないか！」
161	春希		「だから、大丈夫、だって…」
162	かずさ		「雪菜のこと愛してるくせに、 一生連れ添うことだって、お互い望んでたくせに！」
163	春希		「かずさ…」
164	かずさ		「だから、そんなことしてしまったら… 五年間もずっと愛してきた相手を捨ててしまったら… お前、一生後悔して生きていくことになるんだぞ？」
165	春希		「かずさ」
166	かずさ		「お前、それでも…っ！」
167	春希		「かずさ」
168	かずさ		「っ…」
169	春希		「もう、遅いよ」
170	かずさ		「そんなことない、そんな… まだお前は、何も選んでない。 あたしなんか、選んで…」
171	春希		「どっちを選んでも、 俺、もう後悔せずにはいられないんだよ」
172	かずさ		「え…」
173	春希		「俺しか頼れないお前を見捨てたら、 やっぱり俺、一生引きずるんだよ」
174	かずさ		「そ、んな…」
175	春希		「もう、どっちに進んでも、駄目なんだ。 何もかも、遅すぎるんだよ。 だから俺は…」
176	かずさ		「ま、待て…待てよ」
177	春希		「一番、大切なひとだけを救おうって、 そう、決めたんだ」
178	かずさ		「ば、ば、馬鹿…っ！」
179	春希		「…今度ばかりは、 お前の言うことが正しいな」
180	かずさ		「～～～っ！？ う、あ、あ…あぁぁ…っ」
181	春希		「………」	"........."
182	かずさ		「そんな…そんな、駄目だよ… お前、そんな…春希ぃ…っ」
183	春希		「かずさ…」
184	かずさ		「あ、あたしを… あたしをこれ以上、 お前なしでいられなくするなよぅ…っ」
185	春希		「っ………お前がそんな言い方するから、 俺、ますます引っ込みがつかなくなるんだけどなぁ」
186	かずさ		「っ…ご、ごめ…っ、 うぁぁ…ふぁぁぁぁ…っ」
187	春希		「なぁ、かずさ…」
188	かずさ		「ふぇぇぇ…ぇぅっ…ぅ………な、に？」
189	春希		「もちろん、俺が勝手にそう決めても、 お前がそれで幸せになれないならどうしようもないんだ」
190	かずさ		「春希…？」
191	春希		「お前が俺の手を取るより、 取らない方が幸せになれるって言うなら…」
192	春希		「一人でなんとかできるって言うなら、 俺を拒絶してくれ」
193	かずさ		「ぇ…」
194	春希		「俺はもう、お前の幸せだけなんだ。 それだけで決めることに決めたんだ」
195	かずさ		「そんな、そんな、そんなぁ…っ、 あ、あたし、そんなの…」
196	春希		「…結局、お前を苦しめてしまうな。 ごめんな」
197	かずさ		「っ…ぁ」
198	春希		「それでも、これだけはお前が決めてくれ」
199	かずさ		「あたし、が…」
200	春希		「多分、この先… お前も俺と同じでさ、 どっちの道を選んでも後悔すると思うんだ」
201	春希		「だからせめて… 自分の選択で後悔するんだ。 好きな人を裏切るなら、そのことを覚えておくんだ」
202	かずさ		「裏切る…？」
203	春希		「俺はもう、裏切った。 あとは、お前だけだ」
204	かずさ		「………」	"........."
205	春希		「今のまま、辛いまま必死で生きていくか… 今よりもっと辛い思いをして、 そして、今よりもう少しだけ、幸せになるか…」
206	春希		「考えて、みてくれ」
207	かずさ		「春希…」
208	春希		「お前が答えを出したら、 俺は全力でその通りの未来を切り開く」
209	春希		「悪魔と、契約してでも、な」
210			………	.........
211	かずさ		「春希…」
212	空港アナウンス		「東日本航空２４８便ウィーン行きは ただ今ご搭乗の最終案内をいたしております。 お客様は８２番ゲートよりお急ぎご搭乗ください」
213	かずさ		「あたしは…あたし、は…」
214	？？？		「………！」
215	かずさ		「え…」
216	？？？		「冬馬ぁぁぁっ！」
217	かずさ		「っ！？」
218	男性客１		「お～い、小田～！ ゲートそっちじゃないぞ～！」
219	かずさ		「え…」
220	男性客２		「あれ？　でもフランクフルト便は７０番だって」
221	男性客１		「航空会社違うだろ。 ちゃんと確認しろよ」
222	男性客２		「あ、本当だ。 なんだよ、紛らわしいなぁ」
223	かずさ		「………あ」
224	男性客１		「出発便ってのは大体同じ時刻に出るもんなんだよ。 ほら、５４番ゲートは向こうだ」
225	男性客２		「悪いな、それじゃ行ってくる」
226	男性客１		「なんか頼りないなぁ… お前、本当に帰って来れるのかよ」
227			………	.........
228	かずさ		「は、はは…」
229	かずさ		「………」	"........."
230	かずさ		「…っ」
231			………	.........
232			……	......
233			…	...
234	武也		「なんだよそれ… お前、今日のノルマ終わったんだろ？ 会議も取材も入ってないんだろ？」
235	春希		「ああ…」
236	武也		「なのに、何さっきからグダグダ言ってんだよ？ 行けないかもとか、遅刻するかもとか…」
237	春希		「だから、さっきから言ってるだろ。 締め切り前だからいつ呼び出されるかわからないって。 そしたら３０分以内に戻らないといけないって」
238	武也		「そんなの携帯切っときゃいいじゃんか。 今日一日くらいなら取り返せるだろお前なら」
239	春希		「そうも行かないんだよ… メインで任されたの今回が初めてなんだし」
240	武也		「だからってお前、仕事と彼女、 どっちが大事なんだよ！ だいたい今日は…っ」
241	春希		「わかってるって… 今日が、どんな日かくらい」
242	武也		「………春希」
243	春希		「ん？」
244	武也		「さっきから、電話遠いぞ」
245	春希		「え…」
246	武也		「それとも、お前の声が消え入りそうなだけか？ 周りの音はよく聞こえるしな」
247	春希		「………気のせいだろ」
248	武也		「やっぱ、なんか元気ねぇなぁ… お前、本当にわかって…」
249	駅アナウンス		「二番線電車が発車します。 閉まる扉にご注意ください」
250	春希		「あ、悪い…電車出るから、切るな」
251	武也		「とにかく、必ず来いよ！ 俺と依緒は先に現地に…」
252			………	.........
253			まだ何かを言いたそうな武也を振り切るように、 締まる直前のドアに飛び込み、通話ボタンを切った。
254			今週初めての、日付が変わる前の帰宅。 …いや、予定通りならそのまま帰るわけにはいかない。
255			いつもの南末次から一駅乗り越して、 末次町で降りてそこから徒歩１５分。
256			２月１４日… 毎年恒例の、雪菜の誕生日パーティ。
257			ハタチを超えてまで誕生日にホームパーティなんてって、 このパーティの出席者以外には、 笑われたり呆れられたりすることもあるけれど…
258			それでも、このパーティの出席者にとっては、 当然で神聖で崇高な、毎年来るのが待ち遠しいイベント。
259			家族やその友人たちがたくさん集まって、 他愛のないお喋りに興じたり、 主賓の作ったご馳走に舌鼓を打ったり…
260			そんな、どっちかと言えば欧米っぽくて、 けれど中身は純日本式な和洋折衷のお祭り。
261			俺は、去年も一昨年もその輪の中心にいて、 出席者たちの一番の攻撃目標になっていた。
262			…今日のめでたきの日の主役を射止めた、 忌々しい狼藉者として。
263	春希		「………っ」
264			だからこそ、今年のお誘いには…
265	武也		『さっきから、電話遠いぞ』
266	武也		『それとも、お前の声が消え入りそうなだけか？』
267			消え入りそうになったって…仕方ないだろ？
268			だって俺は、 今の、俺は…
269			………	.........
270			あれから数日… かずさから、連絡は来ない。 こっちからも、連絡はしてない。
271			あの時かずさは、泣きながら俺を睨みつけ、 そして、俺の胸に飛び込まず、俺を拒絶もせず、 ただ背中を向けて、静かに立ち去った。
272			お互い、考える時間を持つために。 もう一度、本気で、全力で気持ちを確かめるために。
273			その結論がいつになるかは約束しなかった。
274			一日、二日という短期決戦の期待も不安も否定され、 長期戦の覚悟も必要だと思わされるようになった五日目。
275			追加公演まで、あと二週間。 そして今日は、結論の出ないまま雪菜と逢瀬を重ねる日。
276			周囲に家族や友人がいることが、 救いになるのか、それとも…
277			………	.........
278	かずさ		「………よう」
279	春希		「………」	"........."
280			本当に、こいつは…
281			こっちから会いたいときには ものすごい試練を要求するくせに、 予測もしてなかった瞬間に俺の目の前に現れる…
282	かずさ		「五日ぶりだな。 元気にしてたか？」
283	春希		「お前こそ…」
284	かずさ		「元気なわけないだろ。 あんな酷い選択を丸投げしていきやがって。 あたしまで病気で倒れるかと思った」
285	春希		「それは…」
286			その前に、俺がどれだけ酷い決断をしたかを 忘れたかのように…
287			俺がこの数日間、どんな気持ちで待たされていたか、 全然わかっていないように、 かずさは、からかいの視線を俺に向ける。
288	かずさ		「なんだよ、その顔… まるでこの前あたしに言ったこと、 後悔してるみたいだぞ？」
289	春希		「そんなこと…」
290	かずさ		「なんて、後悔するの当たり前だよな」
291	春希		「っ…」
292			わかってんなら確かめないでくれよ…
293			後悔なんて当たり前だろ？ 最初から、するって言ってただろ？
294			だって、だってさ…
295	かずさ		「お前の言ったことの重さを考えたら、 しないほうがおかしいもんな」
296			なんで俺、 雪菜と別れなくちゃいけないんだよ…？
297			愛してるのに… 嫌いになんか、なれるはずないのに。
298			この気持ちが変わることなんて、 もう、二度とないって誓ったのに。 …その誓いを信じてるのに。
299			なのに、なのに…
300			ただ、かずさを…かずさも愛してるってだけで、 どうしてこんな決断をしなくちゃならないんだよ…
301	春希		「答え、は…？」
302	かずさ		「………」	"........."
303			でも、今になってわかった。 かずさは、覚悟してたんだって。
304	春希		「そろそろ、返事くれるんだろ？ 俺を選ぶのか、それとも捨てるのか」
305			結論が出るまでの数日間で、 俺の気持ちがぶれてしまうことを。
306			あの日、熱に浮かされていた俺が、 生殺しの数日間のうちに気持ちを整理してしまい、 まっとうな現実に立ち返ってしまうことを。
307	かずさ		「空港に、行ったんだ…」
308	春希		「え…」
309	かずさ		「別に、ウィーンに逃げ帰ろうとか、 そんなことは考えてなかった。 チケットも取ってなかったしね」
310	春希		「じゃあ、何で？」
311	かずさ		「ただ、思い出したかったんだ…」
312	春希		「思い出すって…何を？」
313	かずさ		「五年前、お前と別れたときの悲しさを… あの、身を引き裂かれてしまったような辛さを」
314	春希		「………」	"........."
315	かずさ		「そして、比べてみたんだ。 あたしの馬鹿な決断で、 周りがみんな壊れてしまうときの辛さとさ」
316	春希		「それで…？」
317			かずさは、自分の気持ちよりも、 俺の、本当の決断を尊重しようとしてた。
318			そして、俺がもし、あの時の結論を翻してしまったら、 おとなしくそれを受け入れようって…
319	かずさ		「お前…さっき聞かなかったよな？ あたしがどうしてここでお前を待ってたのか…」
320	春希		「それは…」
321	かずさ		「あたしになら気づかれてもおかしくないって、 そう思ったんだろ？ …お前が今日、必ず行く場所のこと」
322	春希		「………」	"........."
323	かずさ		「春希… お前、今から雪菜のパーティに行くつもりだったんだろ？ だから、この駅で降りたんだろ？」
324	春希		「ああ…」
325	かずさ		「雪菜に会って、でもあたしのこと何も言えなくて、 ただプレゼント渡して、食事して、 別れ際にキスして別れるつもりだったんだろ？」
326	春希		「かずさ…」
327	かずさ		「そして、後悔するつもりだったんだろ？ あたしを選ぶのやめようかって。 やっぱり雪菜を一番愛してるって」
328	春希		「そんな、こと…」
329	かずさ		「わかってた。 お前が、まだ揺れてるってわかってたんだよ。 何度も死ぬほど後悔するって、気づいてたんだよ」
330	春希		「かずさ、俺は…」
331	かずさ		「………でも、もうおしまいだ」
332	春希		「え…」
333	かずさ		「空港から、大急ぎでここまで来た。 電車も、タクシーも、自分の脚も、 全部必死で使って、ギリギリ間に合った」
334	かずさ		「あたし、お前を止めに来た… 捕まえに、来たんだよ」
335	春希		「かずさ…？」
336	かずさ		「もう…雪菜と会わないで」
337	春希		「っ…」
338			かずさは、自分の気持ちよりも、 俺の、本当の決断を尊重しようとしてた。
339			そして、俺がもし、あの時の結論を翻してしまったら、 おとなしくそれを受け入れようって…
340	かずさ		「春希… 雪菜を、裏切ってくれ。 そして、あたしを選んでくれ」
341	春希		「あ、ぁ…」
342			けれど俺は、 かずさのその引っかけ問題に、勝ったんだと思う。
343			悪魔との騙しあいに。 地獄の裏取引に。
344	かずさ		「お願いだ… ずっと、ずっと、あたしの側に…っ」
345	春希		「いいん、だな？」
346	かずさ		「愛してる」
347	春希		「お前の手元にはもう、ピアノと俺しか残らない。 …それでも、いいんだな？」
348	かずさ		「別に、お前だけでもいいよ」
349			そして、その勝利の瞬間、 かずさは、すごく苦しげに、悲しげに…
350			幸せに満ち足りた表情を、した。
351	春希		「かずさ…っ」
352	かずさ		「あ、んっ…」
353			瞬間… 抱き合い、この場で唇を重ねてもおかしくないほどの 誓いを交わした俺たちは…
354			けれど今はまだ、それ以上近づくことはなく、 指と、唇とを触れ合わせるだけだった。
355			まだ、何も終わっていないから。 …終わらせることの過酷さを知っているから。
356	かずさ		「ん、んぅ…んむっ」
357	春希		「っ…」
358			けれどかずさの唇は、 控えめながらも、ほんの少しだけそれ以上を求める。
359			唇に当てられた俺の指をそのまま口に含み、 そして、強く歯を当てる。
360	かずさ		「ん…ちゅぷ…」
361	春希		「あ…」
362			指先が、かずさの舌先に舐め取られ、 染みたような痛みが広がっていく。
363	かずさ		「んく…ん、んぅ…はぁぁ…は、あ…春希ぃ」
364			噛む力が徐々に強くなり、 やがて、指先から染み出した血が、 かずさの喉にこくりと飲み込まれ…
365	かずさ		「これでお前は………あたしのものだ」
366			俺たちは、血の契約を交わした。

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