White Album 2/Script/3022

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1	曜子	Youko	「ええと、ビーフカレー、サラダセット付けて。 飲み物はミルクティーで」
2	ウェイター	Waiter	「は、はい…」
3	曜子	Youko	「…あ、あとフルーツパフェ食べてもいい？」
4	春希	Haruki	「………ミニでしたら」
5	曜子	Youko	「じゃあ、フルーツパフェのミニサイズも追加。 全部一緒に持ってきてくれていいから」
6	ウェイター	Waiter	「…かしこまりました。 少々お待ちください」
7			と、食器を片づけに来たはずの店員さんは、 本来の仕事も忘れ、顔を引きつらせたまま 下がっていった。
8	春希	Haruki	「…よくそんなに食えますね」
9			目の前の、綺麗に平らげたランチプレートを見ながら、 俺も少しだけ、彼と同じ表情をしてみせる。
10			俺が病院に迎えに行ったとき、 曜子さんはちょうど午前の診察を終え、 腕から点滴の管を引き抜いたところだった。
11			それからまだ３０分も経っていないのにこの食欲って…
12	曜子	Youko	「…なんてね、食べられそうにないわよ。 実は今にも吐きそうなの」
13	春希	Haruki	「え…？」
14	曜子	Youko	「それでも無理やり食べるの。 朝から晩まで食べまくるのよ。 バランスよく、大量に」
15	春希	Haruki	「どうして…」
16	曜子	Youko	「『痩せた？』なんて言われないようにね」
17	春希	Haruki	「あ…」
18			…なんてのは、 どうやら俺の浅はかな勘違いみたいだった。
19	曜子	Youko	「病気なんかにナメられてたまるかってのよ。 冗談じゃない。 戦うわよ、わたし」
20	春希	Haruki	「曜子さん…」
21			やっぱりこのひとは尊敬…というか、 畏敬に値する。
22			自分の腕二本だけで世界を渡り歩いてこれたのは、 このギラギラした精神的な強さがあったからだと思う。
23			けれどあいつは…
24			ただ努力と才能だけで、気持ちが追いつかないまま 世界に漕ぎ出してしまったあいつは…？
25	曜子	Youko	「それより、ギター君こそ悪かったわね。 こんなわたしの戦いに巻き込んじゃって」
26	春希	Haruki	「構いませんよ、その程度」
27	曜子	Youko	「けれど、かずさのことだけじゃなく、 わたしの世話まで任せちゃって… せめて移動のための車買いましょうか？」
28	春希	Haruki	「そういう数百万単位の話を ポンとするのはやめてください。 こっちは小市民なんですから」
29			しかもこの人の場合、 軽自動車という選択肢がないどころか、 国産車という選択肢でさえ平気で排除してそうだ。
30	春希	Haruki	「本当に気にしないで下さい。 …親孝行だと思ってやってますから」
31	曜子	Youko	「親孝行ならリアル親にしたら？」
32	春希	Haruki	「………」	"........."
33			『お義母さん』系のからかいは想定してた。
34			けど、こっち側のことを掴まれてるなんてのは…
35	曜子	Youko	「あなた、自分の親とは仲悪いんですって？ わたしたち親子にはここまで介入しといて、 それってどんなギャグなのよ」
36	春希	Haruki	「俺のことなんかどうでもいいじゃないですか。 それに仲が悪くなんかありません。 お互い興味がないだけです」
37	曜子	Youko	「…思ったより屈折してるのね」
38			………	.........
39	曜子	Youko	「本当に恨んでない？」
40	春希	Haruki	「何をですか」
41			ビーフカレーを平らげ、食後の紅茶を一気に流し込み、 パフェを女学生のような幸せな顔で頬張ると、 曜子さんはしばらく天井を見上げ動かなかった。
42			食後にもかかわらず、その表情は青白く、 額に滝のような汗をかいていたことが、 その食事が無理やりだったってことを証明してた。
43	曜子	Youko	「知りたくなかったんじゃない？ わたしの、病気のこと」
44	春希	Haruki	「思ってますよ」
45			当たり前だ。 こんな冬馬曜子、見たくなかった。
46	春希	Haruki	「どうして俺にこんな重いこと… かずさにも隠してる秘密を話したんですか」
47	曜子	Youko	「それは…」
48			そして、 こんな冬馬かずさの現状、知りたくなかった。
49	春希	Haruki	「俺はね、 もうすぐ、世界一幸せな男になるはずだったんですよ。 …かずさの住んでるのとは違う世界で」
50	曜子	Youko	「あぁ…そうだったんだ」
51	春希	Haruki	「かずさのこと忘れて、何の変哲もない日本人として、 小さいけど、かけがえのない場所を守っていこうって。 なのに…」
52	曜子	Youko	「そのこと、かずさには…？」
53	春希	Haruki	「あなたはずるいです。 俺の人生、なんだと思ってるんですか」
54	曜子	Youko	「………」	"........."
55	春希	Haruki	「…って、本当は怒鳴ってやりたいですよ」
56	曜子	Youko	「本当に怒鳴ればいいのに、 なんで面倒見てるのよ？」
57	春希	Haruki	「病人を気遣うのは当然です。 誰だってそうですよね？」
58	曜子	Youko	「本当、色んな意味で屈折してるわね。 …面白いコ」
59	春希	Haruki	「…なんていうのは半分建前で、 ほんの少しだけ感謝してるからです」
60	曜子	Youko	「感謝って？」
61	春希	Haruki	「全部、正直に話してくれたから。 かずさの抱えてる問題、包み隠さず教えてくれたから」
62	曜子	Youko	「自分ひとりじゃどうしたらいいかわからなくて、 巻き込む相手が欲しかっただけかもよ？」
63	春希	Haruki	「それでもいいんです。 かずさの幸せも、俺の一生の願いだから」
64			そうだ、俺は… こんな冬馬かずさの現状、知りたくなんかなかった。
65			もし知ってしまったら、 自分がどんな行動を取るのか、わかってたから。
66	曜子	Youko	「かずさのいない世界で生きていこうとしていたあなたが そういうこと言う？」
67	春希	Haruki	「側にいることだけが幸せじゃないって… そんなこと、考えたことありませんか？」
68	曜子	Youko	「わたしはともかく、 あの子がそう考えてるとは思えないけど？」
69	春希	Haruki	「それでも、違う答えを見つけてくれたら。 あいつにとっての幸せは一つじゃないって、 そんな当たり前のこと、わかってくれたら…」
70	曜子	Youko	「そんなもの、最初からなかったとしたら？」
71	春希	Haruki	「………もう、どうしたらいいかわかりません」
72	曜子	Youko	「………」	"........."
73			そして、自分の取る行動が、 自分の『取るべき行動』と違ってるってことも、 ちゃんと、わかってしまってたから。
74	春希	Haruki	「呆れましたか？ 口先ばっかり、建前ばっかりのいい加減な男だって 軽蔑しましたか？」
75			その行動の結果に責任があるのに、 その責任を取れるかどうか自信がない。
76			…曜子さんに言った通り、 本当にもう、どうしたらいいかわからない。
77	曜子	Youko	「ううん、違うわね。 …危うさを感じた」
78	春希	Haruki	「俺、危ういですか？」
79	曜子	Youko	「正直で、面白くて、そして危険なコね。 …ちょっと自分のしたことにビビったかも。 末期ガンの患者がとうとうモルヒネに手を出した感じ」
80	春希	Haruki	「そんなにふうに見えますか？ 今まで一度もそんなこと言われたことないけど」
81	曜子	Youko	「見た目は全然。 けれど本質はね…」
82	春希	Haruki	「俺なんて、安全志向のつまんない男ですよ。 女性にとってはきっと退屈極まりない」
83	曜子	Youko	「わたしには全然そうは思えない。 だって、あなたは勇気がありすぎる」
84	春希	Haruki	「単なる臆病者ですよ」
85	曜子	Youko	「だったらこんな綱渡りしない。 とっくの昔にかずさを切り捨ててる」
86	春希	Haruki	「違いますよ。 臆病者だからこそ、そういうことできないんです」
87	曜子	Youko	「だって、間違いなくそれが一番安全で、 そして“正しい”選択なのよ？」
88	春希	Haruki	「っ………あなたがそれを」
89	曜子	Youko	「ええ、言う資格はないわね。 こんな状況にあなたを引き込んだ張本人が」
90			そして、曜子さんの指摘は、 まさに俺の思い描く危惧を見事に言い当てて…
91			だからこそ、ムキになって否定するしかなかった。
92	曜子	Youko	「それでも、今のあなたを見てると、 ほんの少し、自分のしたことが怖くなる」
93	春希	Haruki	「怖い…ですか？」
94	曜子	Youko	「人にはね、ギリギリのところで手を引く弱さも 必要なのかもしれない」
95			そんなの、怖いに決まってる。
96	曜子	Youko	「どうにもならないことを どうにもならないって嘆く弱さも必要なのかもしれない」
97			何度も逡巡して呼び出した崖の上だからこそ。 葛藤に葛藤を重ねて押した背中だからこそ。
98	曜子	Youko	「手…引いてもいいのよ？ かずさのこと、見捨ててもいいのよ？」
99			崖下に落ちていく俺に手を差し伸べようとする葛藤は、 押したときの何倍も抱えているに違いない。
100	曜子	Youko	「あなたの言う小さな、けれどかけがえのない幸せを、 遠慮なく掴んでもらってもいいのよ？」
101	春希	Haruki	「曜子さん…」
102	曜子	Youko	「親としては、別に恨んだりしないから。 もともと９割以上はあの子の自業自得なんだから」
103	春希	Haruki	「そんなに簡単に引けるなら、 俺は、あなたに無理矢理会いになんか来ませんでした」
104	曜子	Youko	「…それもそうよねぇ。 やっぱり屈折してるわね、あなた」
105			でも結局、俺のその言葉も最初から予想してたんだろう。
106			彼女の瞳には、驚きも落胆もなく、 予想通りの言葉が予想通り発せられたことを、 ただ確認するだけの冷静さが宿っていた。
107			でもそれは、決して冷たいという意味じゃなく…
108	曜子	Youko	「それでも… ウチの馬鹿娘を、そこまで想ってくれてありがとう。 わたしの最高傑作を大切にしてくれてありがとう」
109	春希	Haruki	「あなたがそういうこといつも口にしてれば、 あいつはもっと素直で強い子になったんですよ。 …俺たちがいなくても平気な女の子に」
110	曜子	Youko	「ほんっと、色々ままならないわねぇ、人生って」
111	春希	Haruki	「まぁ…そうですね」
112			そんな、結局どうしようもない結論に辿り着き、 二人してテーブルの上に視線を落としたとき…
113	曜子	Youko	「………」	"........."
114	春希	Haruki	「………」	"........."
115			俺たちには、 一緒に悪事を働いた戦友にして戦犯同士のような、 奇妙な連帯感が生まれていた。
116	曜子	Youko	「………かぼちゃのプリン追加していい？」
117	春希	Haruki	「砂糖なしで作ってくれるか聞いてみます」
118			………	.........
119	かずさ	Kazusa	「…もういい。 ごちそうさま」
120	春希	Haruki	「って、半分以上残ってるぞ？」
121	かずさ	Kazusa	「食欲ないんだ。 ちょっと疲れてるのかも」
122	春希	Haruki	「じゃあ、なめらかプリンだけでも」
123	かずさ	Kazusa	「それもいらない」
124	春希	Haruki	「な………何ぃ！？」
125	かずさ	Kazusa	「…そこで驚くなよ。 甘いものは控えろって言ったのはお前だろ」
126			昼間に曜子さんの暴食ぶりを見たせいか、 今夜のかずさの食べっぷりは、あまりにも異質に映った。
127	春希	Haruki	「た、体温計どこだっけ。 一番近い救急センターの電話番号は… くそ、もしインフルエンザだったら…っ！」
128	かずさ	Kazusa	「だからお前はあたしのことを何だと…」
129			確かに、もともとそんなに食べる奴じゃなかったけど、 それでも甘い物だけは何があってもやめなかったのに…
130	かずさ	Kazusa	「大丈夫だって、本当に少し疲れただけだ。 一晩寝れば全然平気だ」
131	春希	Haruki	「我慢してたりしないか？ 実はすごく辛いのに隠してたりしないな？」
132	かずさ	Kazusa	「信用ないんだな、あたし」
133	春希	Haruki	「だって、そりゃ… コンサートまで、もうあと二週間だし」
134	かずさ	Kazusa	「二週間前にも一度弾いたんだ。 今さら特別に心配して何になる」
135	春希	Haruki	「それは…」
136			けどあの時、特別に心配しなかったせいでお前は…
137	かずさ	Kazusa	「とにかく、念のため今夜はもう寝る。 お前もさっさと部屋に戻れ」
138	春希	Haruki	「でも、片づけていかないと」
139	かずさ	Kazusa	「そんなのは明日でいい。 とにかく早く出てってくれ」
140	春希	Haruki	「かずさ…？」
141	かずさ	Kazusa	「今は一人になりたい気分なんだ…頼むよ」
142			一昨日は離してくれなかったのに、 今日はあまりにも素っ気なく突き放そうとする。
143			本当に気分屋で、 こっちの気持ちをことごとく無視した結論ばかりで…
144	春希	Haruki	「…わかったよ」
145			けどまぁ、この程度でめげてたら話にならない。
146	春希	Haruki	「調子悪いと思ったらすぐに呼ぶんだぞ？ 絶対に我慢したりするんじゃないぞ？」
147	かずさ	Kazusa	「くどい。 大したことないって言ってるだろ」
148			だって、かずさと一緒の時間を過ごすということは、 その気まぐれと向き合っていかなくちゃならないってこと。
149	春希	Haruki	「それじゃあな… 体、あったかくして寝ろよ？」
150	かずさ	Kazusa	「………大丈夫だ」
151			何もかも、受け止めるってことなんだから。
152	春希	Haruki	「じゃあ、おやすみ」
153	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
154	春希	Haruki	「かずさ…」
155	かずさ	Kazusa	「早く帰れ！」
156	春希	Haruki	「っ、悪い。 それじゃあな」
157			って、いい加減心配性にも程があるか。
158			そろそろ枕でも投げられそうな勢いだったので、 俺は後ろ髪を引かれながらも、ゆっくりとドアを閉める。
159	かずさ	Kazusa	「………雪菜に会って来いよ。 週末なんだからさ」
160			………	.........
161			……	......
162			…	...
163	春希	Haruki	「ってお前、何が大丈夫だよ！」
164	かずさ	Kazusa	「戻ってくるな！ 早く雪菜のところ行っちゃえよ！」
165	春希	Haruki	「なんで急にそんなこと言い出すんだよ… 俺、今月はずっと出かけないって言っただろ」
166	かずさ	Kazusa	「それが余計なお世話だって言うんだ。 こっちだって、嫌々側にいられても迷惑なだけだ。 さっさと雪菜のもとに帰れよ！」
167	春希	Haruki	「っ、かずさ…？ どうして急にそんなこと…」
168			ずっとかずさの中でくすぶってた 『枕でも投げられそうな勢い』は、 ほんの少しの時間差で爆発した。
169	かずさ	Kazusa	「急じゃないだろ！ ずっと最初からそう言ってるだろ！ お前が聞く耳持たないだけじゃないか！」
170	春希	Haruki	「っ…」
171			何が、なんでもないだ…
172	かずさ	Kazusa	「一週間に一度は必ず会う約束なんだろ？ 週末は大抵部屋に泊まるんだろ？」
173	春希	Haruki	「そんなことないって… 先週だって俺、ずっとここにいただろ？」
174			溜まっていたのは、疲れじゃなかった。 ストレス、だったんだ。
175	かずさ	Kazusa	「あ、そうか。 あたしが隣にいるから泊められないのか。 悪い、出てくよ今すぐ」
176	春希	Haruki	「かずさ…」
177			ギリギリまで俺に何も言わずに我慢してたのに、 最後の最後まで隠し通すことができないくらい、 それはかずさの中で大きく育ってたんだ。
178	かずさ	Kazusa	「もうやめてくれよ…同情で側にいるのは。 やっぱりキツいよ…惨めにも程があるよ」
179	春希	Haruki	「同情、なんかじゃ…」
180			でも、どうして今になって…？
181			雪菜のことには極力話さなかったのに。 かずさが触れたときにしか話題にしなかったのに。
182			そんな、腫れ物に触るような態度が、 腫れ物じゃなくて逆鱗に触れたってことなんだろうか…？
183	かずさ	Kazusa	「………メール」
184	春希	Haruki	「え…？」
185	かずさ	Kazusa	「いつもいつも、ここで打ってただろ？ 雪菜と、繋がってたんだろ？ …あたしの、目の前で」
186	春希	Haruki	「………っ！？」
187			そうじゃなかった。
188			俺は、女としてのかずさを、 どうやら甘く見すぎてたらしかった。
189	かずさ	Kazusa	「辛そうな、けど幸せそうな顔しちゃってさ… あたしに背中向けて、 あたしの部屋なのに雪菜しか見てなくて」
190	春希	Haruki	「起きてた………のか」
191			かずさが離してくれなかったから。 俺が、放っておけなかったから。
192			この部屋で、かずさが眠ってから目を覚ますまで、 ずっと側にいて。
193			かずさが眠っている間のうちのわずか３０分… それが、俺が雪菜と話をする時間だった。
194			向こうから返事は来ない約束だけど。
195			それでも、一日のうちのたった３０分、 雪菜のことだけを考えられる、至福の時間。
196	かずさ	Kazusa	「そうやって、隠れてこそこそやられる方が傷つくよ。 だったら側になんかいないでくれよ。 あたし、いつでも出ていくって言ってるじゃないか」
197			そうだよ、迂闊にも程がある。 残酷にも程があるじゃないか。 何やってんだよ、俺…
198	春希	Haruki	「駄目だ、駄目だそんなの… 今のお前は、怪我が治ったばかりで、準備不足で…」
199	かずさ	Kazusa	「大丈夫だよ、後は母さんに面倒見させる。 もともとあたしを日本に連れてきた張本人なんだ。 そのくらい当然だろ…？」
200	春希	Haruki	「曜子さん…に？」
201			そして、傷ついたかずさの思考回路は、 どんどん最悪の選択を導いていく。
202	かずさ	Kazusa	「だからお前はもう、 コンサートまでなんて我慢しなくていいんだ。 悪かったな。今までこんな痛い女に付き合わせて…」
203	春希	Haruki	「駄目だ、駄目だ… 考え直せよ、かずさ」
204	かずさ	Kazusa	「どうして駄目なんだよ… あの人は、世界で一人きりの、あたしの肉親なんだぞ？」
205			二人の距離を置かせるための俺の行動が、 かえってかずさに曜子さんを求めさせることになるなんて。
206	春希	Haruki	「曜子さん、ここ数日ものすごく忙しいんだよ！ だからさ、今だけは手を患わせたりするなよ」
207	かずさ	Kazusa	「詳しいな、春希…」
208	春希	Haruki	「それは、だって… 俺も自分の仕事関係で色々と関わりが…」
209	かずさ	Kazusa	「そりゃ、そうだよな。 お前、毎日会ってるもんな、母さんと。 …多分、あたしよりも」
210	春希	Haruki	「………何のことだよ」
211			失敗した。 今、全然表情を作れてなかった。
212			思い切り引きつった口元と、 大きく泳いだ目をハッキリ見られてしまった。
213	かずさ	Kazusa	「お前、毎日母さんの香水の匂いさせてたじゃないか。 あたしとは違う女の匂い、つけてたじゃないか」
214	春希	Haruki	「～～～っ」
215			本当に、本当に… 俺は、甘かった。
216	かずさ	Kazusa	「ついでに今日、スタジオの窓からお前を見たよ。 タクシーから母さんと一緒に降りてきたよな。 あたしに用もないのに、母さんと一緒にいたよな」
217			冬馬かずさって奴が、 いつの間にか、心の底から女になってたってことが…
218			その女の感覚が、俺に対して最大に発揮されるってことが、 どういうことなのか、まだわかってなかったんだ…
219	春希	Haruki	「い、いや、けど… 俺と曜子さんは、そんな…」
220	かずさ	Kazusa	「そういう関係じゃないことはさすがにわかる。 いくらなんでも、そこまで見境なく嫉妬したりしない」
221	春希	Haruki	「そ、そうか…」
222	かずさ	Kazusa	「でも、二人してあたしに秘密持ってるよな？ それは間違いないよな？」
223	春希	Haruki	「それは…」
224	かずさ	Kazusa	「二人でこそこそ、何やってるんだ？ …話せよ」
225	春希	Haruki	「………」	"........."
226	かずさ	Kazusa	「なんてな、それも聞かなくてもわかる。 …お前の同情をひこうとしたんだろ、母さんが」
227	春希	Haruki	「っ、違う」
228	かずさ	Kazusa	「母さんに頼まれたんだろ？ 追加公演が終わるまではあたしの側にいてくれって。 あたしに、甘い言葉を囁いてやってくれって」
229	春希	Haruki	「違うって言ってるだろ！ 黙れよ！」
230			その瞬間、俺の口から出たのは、 甘い言葉どころか、怒声もいいところだった。
231			だって、曜子さんとはそんな約束していないから。 だから、甘い言葉なんか囁く必要はないから。
232	かずさ	Kazusa	「つまりさ、つまり…お前が今あたしと一緒にいるのは、 母さんに頼まれて仕方なく、なんだ。 ただコンサートのためだけ、なんだ」
233	春希	Haruki	「やめろっ！」
234	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
235			いつの間にか俺の腕が、強くかずさを抱きしめていた。
236	春希	Haruki	「黙ってくれ…何も言わないでくれ… 勝手に傷つかないでくれよ、かずさ…っ」
237			でも、いつもなら慌てたり怯えたり、 熱い吐息とともに体を震わせたりするかずさが、 今は硬直したまま、その抱擁を受け入れも拒絶もしない。
238	かずさ	Kazusa	「ごめんな、嫌な役目させちゃってさ。 ウチの母さん、変なところで過保護だから…」
239	春希	Haruki	「そんなこと頼まれてない。 俺は自分の意志でお前の側に…」
240	かずさ	Kazusa	「だったらどうして 母さんと会ってたことを秘密にするんだよ？ 母さんと何を話したか教えてくれないんだよ？」
241			かずさが俺に疑惑を持ったのは… 俺の介入に、別の理由があると思い込んだのは…
242			かずさが手に入れた情報からだけなら、 ものすごく自然な流れだった。
243	春希	Haruki	「もう寝ろよ。 お前、疲れてんだよ… さっき自分でそう言ったじゃないか」
244	かずさ	Kazusa	「確かに疲れてるけどさ、 あたしの質問に春希が答えてくれてないってのはわかるよ。 お前が誤魔化してるってのはよくわかるよ…」
245			けれどその結論は、見当違いもいいところで、 俺の決断には、俺以外の意志は介在していない。
246			本当は、俺が曜子さんを抑え込んでる。 彼女の反対を押し切って、かずさの側にいる。
247	春希	Haruki	「かずさ、かずさ…頼むから落ち着いてくれ。 何も考えないでくれ。 今はネガティブな想像になるだけだ」
248	かずさ	Kazusa	「だってそれが正解なんだろ？ だからお前は何も言えないんだろ？」
249	春希	Haruki	「やめろよぉ…っ」
250	かずさ	Kazusa	「春希…っ」
251			かずさの睫毛からこぼれる涙が、俺の頬までも濡らす。
252			それでも俺は、かずさの悲しい勘違いを正せない。 事実を教えることは、絶対にできない。
253			八方塞がりだ…
254	春希	Haruki	「お願いだから、今は休んでくれ。 また明日話そう？」
255	かずさ	Kazusa	「春希ぃ…」
256	春希	Haruki	「今日もずっとかずさの側にいる。 眠ってても起きてても、ずっとお前だけを見てる。 …誰のことも考えたりしないから」
257	かずさ	Kazusa	「ごめっ…ご、ごめん… あ、あたし…春希…っ」
258	春希	Haruki	「お前、コンサートのことで不安になってるんだよ。 大丈夫、俺、ついてるから」
259	かずさ	Kazusa	「ふ、ふぁっ…ふぇぇ…っ、ぇぅっ… は、はぁぁぁぁ、ぁぁぁ…っ」
260			かずさを抱きしめる腕に、さらに力を込める。 震えることも、怯えることもできなかった身体を、 俺の体温でゆっくりとほぐしていく。
261	春希	Haruki	「今度こそおやすみ…かずさ」
262			今日だけは、いや、あと二週間だけは、 かずさだけの俺でいようって思った。
263			メールも、電話も…それどころか、 雪菜を頭の片隅に思い描くことすらもやめて、 ただ、かずさのことを慈しもうって。
264			でも…その先はどうするつもりなんだ？
265			コンサートさえ無事に終わればそれでいいのか？ その時、かずさの問題は何も解決していないってのに…？
266	かずさ	Kazusa	「なぁ、もう一個だけ。 これで最後にするからさ」
267	春希	Haruki	「お前それで三個目じゃないか！ 飯は残したくせにどうしてなめらかプリンだけは そんなに食えるんだよ？」
268	かずさ	Kazusa	「だって食欲ないんだよ。 ちょっと疲れてるのかも」
269	春希	Haruki	「いや、それはプリンを食える理由じゃない…」
270			本当にこの甘党親子は…
271	かずさ	Kazusa	「脳が甘いものを求めてるんだよ。 あたし今日、それくらい頑張ったんだよ。 だからごほうびってことでさぁ…」
272	春希	Haruki	「プリンよりも米をだな…」
273	かずさ	Kazusa	「胃が疲れてて流動食しか受け付けないんだ。 これは仕方のない措置なんだよ」
274	春希	Haruki	「ああ言えばこう言う…」
275	かずさ	Kazusa	「詭弁に関しては優秀な師匠がいるからな。 あたしも随分鍛えられたよ」
276	春希	Haruki	「今度その師匠に会ったら伝えといてくれ。 『このインチキ野郎』って」
277	かずさ	Kazusa	「じゃあ、いただきます。 このインチキ野郎様」
278	春希	Haruki	「もう食ってやがるし…」
279	かずさ	Kazusa	「…んまい」
280			日に日に自分勝手さを取り戻していくかずさに、 俺の説教の量も増えていく。
281			それが諦めから来るのか割り切りから来るのか、 それともただ必死で歯を食いしばっているのか 俺にはわからないけど。
282			それでも、時たま見られるかずさの笑顔が、 俺をどうしようもなく歓喜に浸らせてしまう。
283			この笑顔をいつまでも見ていたいって、 そのためならどんなことでもしてやりたいって、 心の底から湧き上がる思いを止められなくなる。
284	春希	Haruki	「………」	"........."
285			…それが、かずさのいない方の世界に対して、 どれだけの破壊行為であるのかを知りながら。
286	かずさ	Kazusa	「春希…」
287	春希	Haruki	「…何だよ」
288	かずさ	Kazusa	「そんなに睨むなよ。 わかったよ、お前にも一つ分けてやるよ」
289	春希	Haruki	「いらないから。 て言うか食うときいちいち断らないから」
290			そうやって、その歓喜に浸ってしまう自分に恐れをなし、 いつの間にか、正反対の表情を作ってしまっていた。
291			だって今日は週末の夜。 また、雪菜に『会えない』という電話を入れた。
292			雑誌を一冊任されて忙しいって言い訳したら、 雪菜は自分のことのように喜び、 何度も『おめでとう』『がんばってね』を繰り返した。
293			そのたびに、錐を揉み込まれる激痛が心臓を襲い、 御宿の路上でしゃがみ込んだまましばらく動けなかった。
294			雪菜は、俺を認めてくれた、誇ってくれた。 会えないことを責めたり、ぐずったりしなかった。
295			ただ、何も知らない無垢な天使のように、 温かい微笑みと優しい声で俺を包もうとしてくれた。
296			生温い憂いと猫なで声で欺き続ける悪魔の俺に、 また騙され、裏切られているというのに…
297			あと二週間。追加公演が終わるまで…
298			俺は、この呵責に耐えきれるんだろうか？
299			そして、耐えきったとして… そのまま、何事もなかったかのように、 雪菜の隣に、平気な顔で並び立つことができるんだろうか。
300	かずさ	Kazusa	「春希…」
301	春希	Haruki	「わかったよ、一ついただく」
302	かずさ	Kazusa	「そういう話じゃなくてさ、 お前、本当は今日…」
303	春希	Haruki	「忙しかったんだぜ～こっちも。 朝の７時からみっちり編集会議でさ。 あ、今日先行ってて悪かったな」
304	かずさ	Kazusa	「だから、仕事の話じゃなくて…」
305	春希	Haruki	「残念ながら、今俺が話せるのは仕事の話だけだね。 他のことな～んもやる暇ない。 …お前のメシ作ること以外はな」
306	かずさ	Kazusa	「春希…」
307			危ない危ない…
308			俺が湿っぽい顔してると、 いつも俺のことを見つめてるこいつにすぐ伝染してしまう。
309			だからほら… さっきまで笑ってたくせに、 もう泣きそうな顔で俺のことを上目遣いに見上げてる。
310	春希	Haruki	「あ、でも俺、プリンなんて１個もいらないんだよな。 お前、半分食ってくれるか？」
311	かずさ	Kazusa	「…３個半も食べていいのか？」
312	春希	Haruki	「その代わり、明日は２個半な」
313	かずさ	Kazusa	「ちょっと待て！ 明日は明日の風が吹くだろ！？」
314	春希	Haruki	「…悪い、武也からだ」
315			湿っぽい雰囲気が電話で払拭された安堵感と、 もうすぐ自力で戻せそうだったのにという悔いの 両方を感じながら、着信ボタンを押すと…
316	武也	Takeya	「よ～春希～！ 久しぶり～！」
317	春希	Haruki	「っ…一昨日話したばっかだろ」
318			そこからは、耳をつんざくような武也の大声が響き、 思わず目の前のかずさまでもが顔をしかめる。
319			けれど、武也が大声を張り上げる理由は明白だった。 何しろ周囲の喧騒がハンパじゃない。
320	武也	Takeya	「今、みんなで飲んでるところ～。 金曜の夜だからものすげ～混んでるわ」
321	春希	Haruki	「そんなこと聞かなくてもわかるわ」
322			拍手の音、歓声、打ち鳴らされるジョッキ、店員の大声。 明らかに、安っぽい居酒屋の店内だった。
323	武也	Takeya	「お前なに？　まだ仕事中？ 何時くらいから合流できる？」
324	春希	Haruki	「まだどころかまだまだまだまだ仕事中だよ。 それどころか編集長も交えての会議中」
325	武也	Takeya	「編集長側にいたらそんなこと言わねえだろ。 で、なに？　今日も忙しいのか～？」
326	春希	Haruki	「この間言ったろ。 俺、今月はずっと…」
327	かずさ	Kazusa	「行ってきたらどうだ？ あたしなら気にしないぞ」
328	春希	Haruki	「俺が気にするんだよ」
329			何しろ今日は、 それよりも遙かに優先度の高い約束を断ってまで、 ここで飯を作ってるって言うのに…
330	武也	Takeya	「ん～、なんだって～？ よく聞こえないんだけどさ～」
331	春希	Haruki	「ああ、悪い、こっちの話。 だからほら、大きな仕事の締め切りが…」
332	武也	Takeya	「ああ、そんな話してたなぁ… じゃあ何だよ、最近はいつも遅いのか？」
333	春希	Haruki	「そうだな…まぁ、 色々と特命業務で外回りばかり… あ、全部食うなよ？　半分だけだからな？」
334	かずさ	Kazusa	「わかってるって」
335	武也	Takeya	「はぁ？」
336	春希	Haruki	「そんな訳で、悪い。 今日もちょっと合流できそうに…」
337	武也	Takeya	「あ～わかったわかった。 そっちは諦めるからさ、 もう一つだけ話聞いてくんないかな？」
338	春希	Haruki	「ん、なんだよ？」
339	武也	Takeya	「ほら、この間俺言ったじゃん。 急ぎで相談したいことがあるって」
340	春希	Haruki	「ああ、確かにそんなこと言ってたなぁ。 ほんと悪いな、今直接会える時間が取れなくて…」
341	武也	Takeya	「それでさ、もうこの際だから、 電話で聞いてもらえないかなって思って…」
342	春希	Haruki	「ああ、それならいいけど。 飲み会終わったらまた電話してくれれば…」
343	武也	Takeya	「いや、ここでいいよ。 すぐ済む話だし」
344	春希	Haruki	「なんだよ？ その程度の相談だったのか？」
345			この時、俺は油断してた。
346	武也	Takeya	「まぁ、すぐ済むから。 それじゃ、よく聞けよ？」
347	春希	Haruki	「？　あ、ああ…」
348			武也がいいと言っても、 俺の方だけでも、自分の部屋に戻るべきだった。
349	武也	Takeya	「それじゃ、いっせ～の…はいっ！」
350	全員	Member	「婚約おめでとぉぉぉ～！！！」
351	春希	Haruki	「っ！？」
352	依緒	Io	「春希、春希…っ、 良かった、良かったなぁお前！ まさかこんな日が本当に来るなんてなぁ…っ」
353	春希	Haruki	「い、依緒…」
354			依緒の声は、ちょっと湿っぽかった。
355	朋	Tomo	「ねぇねぇ、なんて言って申し込んだの？ 今再現してみてよ」
356	春希	Haruki	「なん、で…」
357	武也	Takeya	「なんでって言われてもなぁ… お前が雪菜ちゃんにプロポーズしたからに 決まってんじゃん」
358	春希	Haruki	「そ、それは…」
359	武也	Takeya	「なんてな～。 お前、孝宏に口止めしてなかったろ？ …って、止めたところで無駄なんだけどな」
360	春希	Haruki	「あ…」
361			発端は、先週の小木曽家の出来事。
362			例の指輪の件が、孝宏君から武也に伝わり、 そこからは光速よりも速く周囲に伝播し。
363	武也	Takeya	「それで一昨日から罠仕掛けといたのに、 お前の方が全然引っかかってこないからさ」
364			そして事実は真実に、 約束は契約へと、 予想を越えて成長していった。
365	朋	Tomo	「とゆ～わけで、人質預かってま～す。 返して欲しくば皆の飲み代持って 今すぐここまで来てください～」
366	春希	Haruki	「ひ、人質って…」
367	依緒	Io	「大丈夫。命までは取ってないから。 それじゃ、今から声聞かせるね？」
368			まさか…
369	雪菜	Setsuna	「は、春希くん… ごめんね、その…」
370	春希	Haruki	「雪菜…」
371			その声は、予想通りで、しかも懐かしく、嬉しく…
372	雪菜	Setsuna	「さっき突然、依緒に呼び出されたの。 『急ぎで相談したいことがある』って言うから、 てっきり二人きりだと思ったのに…」
373	春希	Haruki	「ああ…」
374			けれど今の俺には、 あまりにも重く、痛く…
375	雪菜	Setsuna	「孝宏が、武也くんに変なこと話したみたいで。 それでこんなことになっちゃって…」
376	春希	Haruki	「あ…」
377			玄関のドアの閉じる音で、 はっと部屋の中に意識を戻したとき…
378	雪菜	Setsuna	「本当にごめんね。 今、大変なときなのに、こんなこと…」
379	春希	Haruki	「………」	"........."
380			もう、そこには誰もいなかった。
381	雪菜	Setsuna	「春希、くん…？」
382	春希	Haruki	「雪菜の…せいじゃないよ。 誰も悪いことなんかしてないだろ」
383	雪菜	Setsuna	「う、うん…」
384	春希	Haruki	「みんな、俺たちを祝おうとしてくれたんだ。 誰が謝る必要があるんだよ」
385			そうだ、雪菜のせいじゃない。
386			それどころか、正しいことだ。
387			嬉しくて、少しだけこそばゆくて、 そして、素晴らしいことなんだ。
388	春希	Haruki	「かずさ！」
389			その…はずなんだ。
390			………	.........
391	春希	Haruki	「かずさ！ おい、ちょっと待てって！」
392			全速力で階段を駆け下りて、 息を切らしたままその名を大声で叫ぶと…
393	かずさ	Kazusa	「………っ」
394			必死で掛け出そうとしていたその背中が、 少しだけ決心が揺るいだように、びくっと震えた。
395	春希	Haruki	「待て、待ってくれかずさ。 お前、どこ行くつもりなんだよ…」
396	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
397			コートも着ていないその身体が、 多分寒さだけじゃなく、そのまま震え続けてる。
398			多分もう、さっきまでの 『泣きそうな顔』どころじゃなくなってる…
399	春希	Haruki	「そのままじゃ風邪ひくぞ？ さ、戻ろ…」
400	かずさ	Kazusa	「おめでとう！ 婚約おめでとう…っ！」
401	春希	Haruki	「～～～っ」
402			肩を抱き、無理やり振り向かせた瞬間…
403			かずさは、さっきの武也もかくやというくらいの大声で、 俺と雪菜を、祝福した…
404			その表情は、ついさっき俺が想像した通りで、 だから、また俺の胸に何本もの釘が突き刺さる。
405	かずさ	Kazusa	「やっとだな！ お前の願い、叶ったんだな！ ほんと、ほんとおめでとう！」
406	春希	Haruki	「やめろ…近所迷惑だ」
407			その声は、本当に大きくて、 けれどあまりにも空虚で。
408	かずさ	Kazusa	「あたし、あたしさ…っ、 めっちゃくちゃ、嬉しいよ、本当だよっ」
409	春希	Haruki	「やめろって、かずさ…」
410			こいつのこんな声、誰にも聞かれたくない。 …でも、こんな酷い声を出させたのは、他ならぬ俺で。
411	かずさ	Kazusa	「世界で二人だけの親友が、一緒になってさぁ… 最初から、ずっと決まってたことが とうとう本当に決まっちゃってさぁ…っ」
412	春希	Haruki	「やめるんだ… 一緒に、戻ってくれよ」
413	かずさ	Kazusa	「ちょっと遅すぎた気もするけどな！ あはは、はは…」
414	春希	Haruki	「かずさぁ…」
415			もう、言葉では止められない。 直接、かずさの口を塞ぐしかない。
416	かずさ	Kazusa	「あは、あは…あはははははっ…っ！？ ん、む～、んむぅぅぅぅぅ～っ！」
417	春希	Haruki	「っ！」
418			けど俺は、かずさの唇を塞ぐ手段を散々迷った挙げ句、 自分の右手を、かずさの口にあてがうという 最低の選択を取り…
419	かずさ	Kazusa	「やめろ、やめろ…っ、 お前は、お前は…馬鹿野郎ぉぉっ！ う、うあ、うあぁぁぁぁぁぁ…っ」
420	春希	Haruki	「ごめん…ごめん、かずさ」
421			指を、思い切り噛まれ、 けれどどうすることもできず、 そのまま、ただそのまま立ちすくむ。
422	かずさ	Kazusa	「嫌だ、嫌だ…出ていく… もうこんなところは嫌だ…っ」
423	春希	Haruki	「駄目だ、駄目だそんなの… 今のお前は、怪我が治ったばかりで、準備不足で…」
424			自分から抱きしめることはできないけれど、 かずさがすがりつくのを止めることもできずに…
425	かずさ	Kazusa	「でも、でもっ！ あたし、ここにいたら壊れる… もう耐えられないよ…っ」
426	春希	Haruki	「っ…」
427			なんて、薄っぺらい前提はすぐに覆され、 左手でかずさを強く抱きしめる。
428			決して、俺から逃げていかないように…
429	かずさ	Kazusa	「出ていく、出ていく… もう、日本なんかにいられない…」
430	春希	Haruki	「かずさ、お願いだ… 今は休んでくれ。 また明日話そう？」
431	かずさ	Kazusa	「ぅ、ぃゃ…嫌、だぁぁ…っ」
432	春希	Haruki	「大丈夫、今日はずっとお前の側にいる。 眠ってても起きてても、ずっとお前だけを見てる。 …誰のことも考えたりしないから」
433	かずさ	Kazusa	「黙れぇぇぇぇぇ～っ！」
434			かずさの慟哭が、 きりきりと胸に染み込んでいくけれど…
435			それでも今は、この手を離せない。 かずさのためにも、曜子さんのためにも。
436			…そんなことよりも、とにかく俺のためにも。
437			………	.........
438			……	......
439			…	...
440	かずさ	Kazusa	「ん…」
441			それから一時間後… かずさは、ようやく心を落ち着け、 安らかな寝息を立て始めた。
442			そして俺は、かずさのその腫れた瞼を見つめながら、 明日以降の厳しい戦いに思いを馳せる。
443	春希	Haruki	「………」	"........."
444			とうとう、堤防にひびが入ってしまった。 このままじゃ、遅かれ早かれ決壊する。
445			なんとかしないと…なんとか…
446			かずさが次に目覚めるまでに、 解決策を考えておかないと。
447			だから今日は、眠るわけにはいかない。 夜が明けるまで、ずっと考え続けないといけない。 …かずさが、幸せになれる方法を。
448	春希	Haruki	「………っ」
449			眠ってしまったらいけない。
450			眠ってしまった瞬間、 おまじないが解けてしまうって物語は、 古今東西、どこにでもある教訓なんだから。
451			だから、だから…
452			………	.........
453			……	......
454			…	...
455			そして…
456			そんな危惧を嘲笑うかのように、 俺たちは、物語の神様に弄ばれてしまう。
457	春希	Haruki	「…え？」
458			次に気がついたとき、 俺は、すでに致命的なミスを犯した後だった。
459			ほんの三十分ほど眠ってしまったその隙に… かずさは、姿を消していた。

Script Chart

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