| Speaker | Text | Comment |
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1 | | 「せっちゃ~ん! ちょっとタマネギとバナナの補充お願い~」\k\n「あ、は~い!」\k\n レジの方から大声であだ名を呼ばれた少女は、近くに積んであった段ボールの山のうち、すばやく二つを選び出し、抱えたまま倉庫から店内へと出る。\k\n その、せっちゃんという呼称についてはいつまで経っても苦笑してしまうが、それでも自分からそう呼んで欲しいと願い出ている以上、その微妙な表情を人に見せるわけにはいかない。
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2 | | 「あと、並べるときに一緒にタイムセールのシール貼っといてね」\k\n「どっちも五○円引きでいいですよね?」\k\n「あ、それとせっちゃん、そっちが終わったらお惣菜コーナーの方もお願い。こっちは半額シールで!」\k\n「はいはい、わかってま~す」\k\n その小さな食料品スーパーでは、少女だけでなく、パートのおばさんたちから店長まで、誰一人欠けることなく店内を全力で駆けずり回っていた。
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3 | | 少女が店の外に出ると、そろそろ夕暮れの空の下、この一帯は、一日の中でも一番の賑わいを見せている。\k\n 末次町駅前商店街――隣駅の南末次に比べれば微々たるものではあるけれど、それでもこの狭い場所にしてみれば十分な人たちが行き交っている。\k\n 夕食の材料を調達に訪れた主婦、ちょっと早めの仕事帰りの男性、いつの時間帯も関係なく目的もなさそうに徘徊する老人。\k\n そして……
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4 | | 「今年のミス付属、エントリー締め切り、もうすぐだな」\k\n「ってもなぁ、どうせ小木曽の二連覇確定じゃね?」\k\n「いや今年はわからないぞ? なんでも一年の柳原ってコがかなり追い上げてるらしい」\k\n「あ~、あのコな。なんかやたらと前評判高いって噂だけは聞こえてくるけどさぁ……」\k\n「二年続いて一年生から優勝者が出たら史上初だって騒ぎになってるって」\k\n「……そりゃ、去年の小木曽が史上初の一年生グランプリなんだから当然だろが」\k\n「とにかく、一年の中じゃ圧倒的な支持率なんだってさ」
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5 | | 「そりゃ、レベルは高いと思うけど、ミス峰城ってイメージかぁ? 小木曽の方が正統派っぽいし、前年女王の優位は揺るがないと思うけどなぁ」\k\n「ま、確かに……今のままじゃ、上級生の票を集められない限りは厳しいだろうねぇ」\k\n「あるいは、小木曽が二、三年の支持を失うようなことでもない限りはな」\k\n
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6 | | こんな感じで、一月後に迫った学園祭の噂に花を咲かせる峰城大付属学園の学生たち。\k\n 峰城大学も、その付属も南末次駅の方が近いため、ここを通りかかる学生の数は決して多くない。
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7 | | 「……っ」\k\n それでも少女は、そんな少人数の学生たちが通りがかるたびに、背を向け、硬直しつつ同じ年頃の彼らが行き過ぎるのを待つ。\k\n そして彼らが視界の隅……駅の改札に消えていくのを確認するたびに、ほうっと一息だけつくと、すぐに仕事を再開する。
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8 | | 「正統派とか言われても……ねぇ」\k\n そんな、ちょっと不審で働き者の彼女の名は、小木曽雪菜。\k\n 峰城大学付属学園二年F組所属。\k\n 昨年、一年生にしてミス峰城付属を制覇し、二連覇の噂も囁かれる、いわゆる正統派の美少女。\k\n ……もっとも今は、きつく結ばれた三つ編みに太い黒縁の眼鏡、着古したトレーナーの上にスーパーのロゴ入りエプロンという、学校での彼女からは想像もつかない姿での、完璧な隠密任務中だったけれど。
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9 | | 「おはよ、雪菜!」\k\n「おはよう菜都美、今日はバスケ部朝練ないの?」\k\n 翌朝、峰城付属の校門前には、変身の魔法を解いた……というか変装を解いたいつもの雪菜がいた。\k\n クラスメイトの挨拶に、にこやかに振り返るその姿は、通学中の男子生徒の視線をいくつか捕らえて放さないほどには可憐だった。\k\n「ま、今日はね。その代わり週末に練習試合が五つ……」
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10 | | 「た、大変だね」\k\n「もう新キャプテン鬼だよ鬼。ウチなんかどう頑張っても地区大会突破できるわけないのにさぁ」\k\n「水沢さんだっけ? D組の。練習見ててもあの人だけレベル違うように見えるよね」\k\n「悪うござんしたね、皆して足引っ張ってて」\k\n「あ、そういう意味じゃ……ごめんなさい」\k\n「あ~、いいっていいって。別に頑張ってあの域に達しようとか全然思ってないし」
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11 | | 「そ、そうなんだ」\k\n とはいえ、級友との話の内容を耳をそばだててよく聞いてみれば、それは周囲のギャラリーが想像するほど華やかでも色っぽくもない。\k\n それでも今まで築き上げてきた小木曽雪菜という名のブランドは、彼女の表情や仕草、歩き方に至るまで様々なフィルターをかけ、なんとなく清純派お嬢様的なイメージを与えてしまう。\k\n 一年の頃から全校一の美少女に祭り上げられ、その一挙手一投足を常に注目されている雪菜に関しては、見る側も見られる側も最初から『そういうもの』として受け止めている感さえある。\k\n それは今日も、そしてこれからも続くはずだった。\k\n
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12 | | そう、この日雪菜が自分の教室の扉をくぐるまでは……
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13 | | 「ちょっとちょっと雪菜!」\k\n
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14 | | 「おはよう可南子……どうしたのそんなに慌てて」\k\n「これが慌てずにいられますか!」\k\n 本人の言う通り、ものすごく焦燥感に駆られた表情で雪菜に駆け寄ってきたのは、いつも仲良くしている友達グループの安住可南子。\k\n グループの中でもリーダー格というか、一番口数が多いというか、でもちょっと大げさで空気読めないところがあるというか、まぁそんなよくいる女の子。
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15 | | 「とにかく大変なんだから! 見てよコレ!」\k\n そんな可南子が雪菜にこれ見よがしに差し出したのは、自分の携帯電話だった。\k\n ただ、もちろん彼女が見せたかったのは携帯そのものではなく、その画面に映っているメール画面の方で。\k\n
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16 | | 「え……」\k\n 可南子が慌てるのも無理はないほどに、そのメールは雪菜にとって不穏なものだった。
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s[W10]u[W10]b[W10] [W10]F[W10]w[W10]:[W10]【[W10]拡[W10]散[W10]希[W10]望[W10]】[W10]2[W10]―[W10]F[W10]の[W10]小[W10]木[W10]曽[W10]雪[W10]菜[W60]っ[W10]て[W10]さ[W10]…[W10]…
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18 | | 続く本文の一行目には『友達からこんなの送られてきたんだけど、これヤバくない?』などという、この手のメールによくある煽り文。\k\n そして続く引用部に、これまたこの手のメールにお決まりの怪文書。\k\n その中身は『小木曽雪菜には援助交際の疑惑がある』という、雪菜自身にとっては言いがかりも甚だしいものだった。
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19 | | 証拠画像も、交際相手についての具体的な情報もなしの、ただの憶測。\k\n そんな、ないない尽くしの誹謗中傷が唯一すがっているのは、毎日の雪菜の不穏な行動パターンについてだった。\k\n 曰く、小木曽雪菜は毎週水曜日と金曜日、誰の誘いにも乗らず、誰にも行き先を告げずにこそこそと帰宅する。\k\n しかしそれらの日に彼女が家に帰り着くのは、実際は夜も遅くなってから。\k\n その間の足取りを知る者は誰もいない。
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20 | | つまり、水曜と金曜こそが彼女のいわゆる『バイトのシフトの日』に違いない、というもの。
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21 | | 「…………」\k\n「なにこれ、ひっどい」\k\n「言いがかりもいいとこじゃん」\k\n 可南子の差し出したメールを見たクラスメイトたちが次々と憤慨の声を上げる。\k\n「一体誰よ! こんなデタラメなメール広めてるの?」\k\n もちろん、最初に始めた人物が特定されるようなことは多分ない。\k\n 引用部の差出人の名前はとっくに消されている。\k\n いや、多分、最初の時点から転送という体裁で送られているのだろう。\k\n「あたし部活の後輩から回してもらったんだよ。一年の間で出回ってるんだって」
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22 | | 「一年……」\k\n 雪菜には、この文面を見てすぐに、書いた人物の心当たりが浮かんでいた。\k\n いや、正確な人物像や名前は知らないけれど、多分、先月頃から時々彼女の後をつけてきた女子たちだと。\k\n 最初に気づいたのは先々週の水曜日。\k\n 校門を出てスーパーに向かう途中、何か妙な視線を感じた。\k\n そのときは、公園あたりで少し急ぎ足にしてみたら、大通りに出た頃には後ろに誰も見当たらず、自分の自意識過剰さに少し苦笑いしたものだった。
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23 | | けれど二度目は先週の金曜日。\k\n いつもと道を変え、他の生徒と同じ流れで南末次駅までやって来ても、二人組の女の子が自分とつかず離れず、ずっとついてきた。\k\n そのときは、駅前の行きつけのカラオケボックスに入り、すぐに裏口から出て電車に飛び乗った。\k\n そして三度目は今週の水曜日……つまり昨日だ。\k\n 同じ二人組につけられていることを悟り、先週と同じ道筋で南末次駅まで来て、今度はそこからショッピングセンターのトイレで着替えて、変装姿で彼女たちの目の前を通過して逃げてみせた。\k\n すれ違いざま制服のリボンの色を見たら、確かに一年生だった……
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24 | | 「じゃあ、やっぱりこれって……」\k\n「一年の柳原朋の取り巻き、じゃないかなぁ」\k\n「まさかぁ、たかがあんな非公式のコンテストでそんな真似……」\k\n「本人たちじゃないにしても、そんな真似してるんだよこれ。だからこんな変なメールが飛び交ってるんだよ?」
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25 | | 「う、う~ん」\k\n 周囲の友人たちの会話が、頭の中を上滑りしていく。\k\n 雪菜はどちらかと言えば、相手に対する憤りよりも、自分の隙を悔やんでいた。\k\n 他の人間からしたら傲慢に受け取られてしまうかも知れないけれど、雪菜にとって、人の視線や噂話の的にされることは当然のことなのだから。\k\n 今になって、こんな痛くもない腹を探られるなら、あの時、一度きちんと家に帰ってからバイトに行けば良かったと後悔せざるを得なかった。\k\n 相手が同性だったからさほど重大に受け止めていなくて、怖さや気味悪さよりも、むしろ相手を出し抜く楽しさを感じてさえいた自分が迂闊だった。
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26 | | 「で、どうする雪菜?」\k\n「え、どうするって?」\k\n 唐突に、というか、友人たちにとっては多分、満を持してという感じで一斉に雪菜に注目が集まる。\k\n その、心配や義憤や、そして興味までもが満ちた視線に晒されて、雪菜は戸惑うしかなかった。\k\n みんなは自分に一体何を期待しているのだろうか、と。\k\n「こうなったら雪菜がきちんと疑いを晴らすしかないよ!」
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27 | | 「ちょっと待ってよ……どうしてそうなるのかなぁ?」\k\n 痺れを切らした可南子の提案という名の煽りに、言いようのない距離感を覚えてしまう。\k\n 自分が潔白なのを信じてくれるのは嬉しいけれど、なぜそれをわざわざ全校に向けてアピールする必要があるのかと。\k\n そもそも可南子は、最初から雪菜にとって最適な手を打ってくれていなかった。\k\n 憤慨してもいい、鼻で笑ってもいい、自分にだけはメールの事実を教えてくれてもいい。\k\n けれどこのメールをクラスメイトの目に晒すのだけはやめてほしかった。\k\n そのことによって、送信者の、この噂を広めたいという意図をしっかりと受け継いでしまっていることに彼女は気づいているのだろうか。
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28 | | 「だってさぁ、ミス付属二連覇がこんなくだらないことで潰されていいの? 雪菜悔しくないの!?」\k\n「悔しくないのって……」\k\n 本当のことを言ってしまえば、雪菜は悔しくない。\k\n そもそも今年も、可南子に無理やりエントリーさせられなければ、自分からは出たくないとさえ思っていたのだから。\k\n ただ、もし断ったとき『ならどうして去年は出たの?』という問い詰めに似合う言い訳の言葉が見つからなかっただけ。\k\n こんなことなら、昨年のエントリーの時に断っておけば……\k\n しかし結局、今の雪菜にとって、友人の推薦を拒絶する選択肢はあり得なかった。\k\n せっかくの友達の『邪気のない好意』を切り捨てることなどできはしなかった。\k\n 中学での“あの事件”から、雪菜は『相手に強い気持をぶつけること』をやめようと決心していたのだから。
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29 | | 「……だいたい雪菜さ、水曜と金曜、何してるの?」\k\n「っ……」\k\n そして、話の流れは雪菜がもっとも恐れていた方向へと落ちていく。\k\n たった今まで全面的に味方であったはずの人たちが、疑惑追及の急先鋒として立ちはだかってくると言う、かつても見たような構図が。\k\n「確かに、週末はどこ誘っても絶対来ないよね」\k\n「まぁ確かに普段からあまり誘いに乗らないけどさ」\k\n 告発者の言い分は、ある意味正しかった。\k\n 水曜と金曜は、雪菜の『バイトのシフトの日』だったから。\k\n ただ、援助がどうとかそういうものではなく、学校近くのスーパーの……
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30 | | 「それは……普通に帰って勉強してるだけだよ」\k\n「あ、じゃあ塾行ってるんだ、どこ?」\k\n「う、ううん……家で」\k\n「う~ん、それじゃ潔白の証明にならないよ」\k\n けれど、その、ちょっとカッコ悪いだけの大したことない事実は、絶対に口に出せない。\k\n『なぁんだ』と笑い話になり、クラス中どころか学園中に庶民的な自分のイメージが広まり、友人たちとの絆がさらに深まり、周囲からの注目度は俄然下がる……そんな、自分にとって都合のいい未来を想像できたことがないから。\k\n だって、ここ最近、そんな居心地のいい過去を通過したことがなかったから……
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31 | | 「もういいじゃん別に、言っちゃいなよ!」\k\n「そうだよ、別にやましいことがないんなら隠す必要ないじゃない」\k\n「私たち、親友よね?」\k\n「…………」\k\n 学園祭を、そしてミス峰城大付属コンテストを一月後に控えた秋のある日。\k\n 雪菜は、たくさんの友人たちに囲まれ、心配され……深い孤独を味わっていた。
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32 | | 「ふぅ……」\k\n エコーがかかった自分のため息を浴室に響かせつつ、雪菜は今洗ったばかりのその身体をバスタブの中に沈め、ついさっきまでの退屈な時間に思いを馳せる。\k\n せっかくの週末の夜、せっかくのパーティ、せっかくのカラオケボックス。\k\n その中で、ただの一度もリクエストを入れることなく、盛り上げ役を買って出ることもできず、ただ笑顔でタンバリンを叩いていただけの、本当に無駄な時間を過ごしてしまった後悔が、お湯の温かさとともにじわりと雪菜の心に染み入る。
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33 | | あの怪文書騒動から一週間。\k\n それは雪菜にとって針の……というより、ブラシのムシロに立たされているような痛痒い日々だった。\k\n 例の怪文書の犯人は、もちろんまだ見つかっていない。\k\n そして今週に限っては、水曜と金曜に後をつけてくるようなこともなくなった。\k\n というより、そんなことをする必要がなくなった。\k\n なにしろ、犯人のその役目は、見事に雪菜の“親友たち”によって引き継がれたから。
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34 | | 可南子を始めとする、雪菜の友達グループのメンバーは、あの怪文書の後から、あからさまに水曜と金曜に集中して、雪菜に遊びの誘いをかけるようになった。\k\n そして、その誘いを雪菜が断ろうとすると、しつこく理由を詮索した。\k\n『どうして?』『たまにはいいじゃん』『用事なんかないんだよね?』『もっと堂々としてなよ』『そんなふうにしてると、あいつらにますます付け込まれるよ?』。\k\n その、もっともらしい、けれど押しつけがましい好意を断り切れず、仕方なく雪菜は、二度ほどアルバイトを休み、彼女たちにつきあっていた。
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35 | | そう、今日で二回連続、アルバイトを休んでしまった。\k\n しかし、そこまでしたところで例の怪文書の疑惑が払拭されたということはなく、相変わらず例のメールは拡散を続けているようだった。\k\n ……それも、誰かに届くたびにわざわざ友人たちが知らせてくれた。\k\n きっと、学園祭が、ミスコンが終わってもこの彼女たちの好意は続くだろう。\k\n もしこのままの状態がいつまでも続くならば、雪菜がアルバイトをやめなければならなくなる日も近いだろう。
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36 | | 本当なら、雪菜にとって、それが一番真っ当な結論なのかもしれない。\k\n 自由に使えるお金が減り、学園のアイドルの地位を盤石にするための努力を放棄せざるを得なくなり、少しずつメッキが剥がれ、憧れる男子は減り、今いる友達はいくらかは離れ、あるいは雪菜を特別扱いしなくなり……\k\n けれどそのうち、誰にも気を使うことはなくなり、いずれ、中学での“あの事件”以前の自分に戻っていく……
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37 | | 「お店、ちゃんと回ってるかなぁ……」\k\n けれど今の雪菜にとっては、その回り道が自分にとって心地良いものとはとても思えずにいた。\k\n お金がなくなることや、自分の表面的な評価が落ちることはそれほどでもなかった。\k\n ただ、自分の世界が、あの窮屈な教室内だけに限定されるのが嫌だった。\k\n「柏田さんとこ、子供がインフルかもって言ってたなぁ……大丈夫かな」\k\n たった二日休んだだけの、スーパーのパート仲間の年配の人たちの顔が雪菜の頭に浮かんでは消える。
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38 | | そう、今の雪菜にとって一番辛かったのは、バイト先のあの交流が、あの達成感がなくなることだった。\k\n パートの年配女性たちに、せっちゃんと呼ばれ可愛がられつつもからかわれるのは、実は雪菜にとって、かなり心地良い日常になっていた。\k\n あの人たちも、確かに級友たちみたいに空気の読めないところもあるけれど、それでも大人の余裕や経験は、雪菜に心苦しい思いや辛い気持ちをさせることはなかった。\k\n 何より自分をアイドルとしてではなく、まるで娘のように扱うその空気は、家族を第一に考えるのが当たり前の雪菜にとって、とても心地の良いものだったから。
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39 | | 「来週は出ないと……ううん、出たいな……」\k\n 週が明けたら、そろそろ学園祭の準備が本格的に動き出す。\k\n ミス付属のエントリーも、確か今週で締め切りだ。\k\n だから週明けの月曜は、雪菜にとって、決断の日だった。\k\n 学園の中の世界を取るか、学園の外の世界を取るか。\k\n ミス峰城を取るか、何者にも干渉されない自由な自分を取るか。\k\n 教室の友達を取るか、バイト先の仲間を取るか。\k\n 雪菜にとって、その二つはもう『どちらかを切り捨てなければならない、二者択一のうちの一つ』でしかなかった。\k\n その二つのどちらも生かし続ける方法は、彼女には考えつかなかった。\k\n ……そう、基本的に善人でしかない彼女には。
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40 | | 「え……?」\k\n そして週明け。\k\n 放課後、学園祭実行委員の臨時詰め所となっている生徒会室。\k\n そこで雪菜は、初対面である学園祭実行委員長の言葉に言葉を失った。\k\n「あ、いや、もちろん小木曽さんが嫌だというならこの話はなかったことにするけど……ぜひ前向きに検討して欲しいんだよね?」\k\n 銀縁眼鏡にオールバックの小柄な委員長は、上級生であるにも関わらず随分と丁寧な物言いで、目の前の雪菜に深く頭を下げた。
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41 | | 「わたしが、学園祭のポスターに?」\k\n「いや、それだけじゃなくて、学園祭のキャンペーンガールとして、実行委員会に全面協力という形で関わって欲しいって思ってるんだ」\k\n「ぜ、全面って……?」\k\n「そうだな、例えばこれから当日までの、昼休みの宣伝放送とか、各部や各クラスの広報動画の取材とか……当日は各種表彰式のプレゼンターとか、あ、もちろんミス付属の表彰式だけは除外だけどね」\k\n「…………」
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42 | | 雪菜がここにやってきたのは、本当はまったく別の目的からだった。\k\n 何しろ今朝、雪菜はミス付属のエントリーを下りようという決心をすることによって、やっと憂鬱な気分を振り切ってベッドから抜け出し、学校に来たのだから。\k\n クラスに、特に親友と言ってくれている友達に禍根を残すけれど、これ以上自分が望まない方向で目立つのはもう嫌だった。\k\n だからそのことを自分で告げに、こうして実行委員のもとに足を運んだはずだった。
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43 | | 「これからしばらく、週に二日くらいでいいから協力してくれないかな? こちらとしては月曜と木曜が希望なんだけど……その他の曜日は好きにしてくれていいから」\k\n「ちょ、ちょっと待ってください、それってどういう……?」\k\n「どういうも何も、言ってる通りだけど?」\k\n しかし『そろそろ来ると思っていたよ』という言葉とともに彼女を迎え入れた三年生の実行委員長は、あまりにも一筋縄ではいかなさすぎた。\k\n「小木曽さん、学内だけでなく大学や地域でも有名だしさ、今年の学園祭を成功させるために是非とも君の助けが欲しいんだよ」
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44 | | 「け、けれど今のわたしは……」\k\n「なに?」\k\n「……学内で妙な噂が立っちゃってますけど、いいんですか?」\k\n『ミス付属すら断ろうとしているのに』という方の言い訳は呑み込んだ。\k\n もう、話の流れが自分の想定した方向とは完全に別の方向に飛ばされてしまっている。\k\n ……ある意味、実行委員会に完全に手玉に取られていたから。
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45 | | 「ああ、例のチェーンメールね」\k\n「やっぱり、実行委員会も知ってるんですね」\k\n「で、あれって事実なの?」\k\n「そ、そんなわけ……」\k\n「ないんでしょ? ならこちらとしては問題ないです」\k\n「は……?」\k\n「聞きたいことはそれだけかな? じゃ、異存なしってことで」\k\n 本当に、目の前の委員長は何もかもお見通しのようだった。
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46 | | 「け、けど、そんなことしたら学園祭そのものにまで変な噂が立っちゃったり……」\k\n「しないと思うよ?」\k\n「どうしてそんなことが言えるんです……?」\k\n 雪菜の反応をほぼ予想していて、常に先回りして彼女の逃げ道を整備して回っている。\k\n まるでそんな感じだった。
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47 | | 「君が実行委員会に全面協力してくれると約束してくれたら、実行委員会も君を全面バックアップする。そして、それを明日にでも公式に表明する」\k\n「は、はい?」\k\n「まず、君が学園祭のキャンペーンガールに就任したことをHPで大々的に告知する」\k\n「えっと、それが一体?」\k\n「ブログで、この企画が一月以上も前からずっと動いていたことを“暴露”する」\k\n「……ちょっと待ってください」\k\n「小木曽さんと“週に二回”は夜まで綿密な打ち合わせをして、学園祭を盛り上げるために秘密裏に協力していてくれたことを、“今さらだけど”全て公開する」
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48 | | 「それって……」\k\n そこまで聞いて、雪菜は、完全に実行委員会のやろうとしていることを理解した。\k\n つまり、あのメールを潰しにかかっていると。\k\n 確証のない事実を、確証のある虚偽で潰そうとしているのだと。
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49 | | 「……あのさ小木曽さん、これは僕たちにとっても重大な問題なんだ」\k\n 委員長が苦笑ぎみにほんの少し相好を崩す。\k\n ただ、こんな爆弾を落とされてからそんな優しい表情をされても、雪菜にはますます目の前の人間の表情が読み切れなくなってしまいそうだった。\k\n「君がミス付属のエントリーを取り消すと、真面目な話、それをイベントの柱として準備していた今年の学園祭にとってダメージは計り知れない。つまり君と僕たちとは、利害が完全に一致してるんだ」
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50 | | 「だからって、公然と嘘をつくのは……」\k\n「君が例のメールに指摘されるようなことをしているのなら僕たちだって絶対に協力しない。嘘をついていないと確信してるから僕たちは君を推すんだ」\k\n「嘘をつこうとしてるのはわたしの方じゃなくて……いえ、いいです」\k\n どうやらこれ以上食い下がってもメリットがないどころか意味もなく疲れてしまいそうで、雪菜はそっちの詭弁についての矛先は収めることにした。\k\n どうやらこの先輩には議論で勝てる気がしないから。
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51 | | 「だいたい、どうしてそこまでわたしのことを信じてくれるんですか?」\k\n「それは、まぁ……信頼というか、恐怖というか……」\k\n「は?」\k\n その質問をすると、さっきまで苦笑を浮かべていた委員長の表情が、一瞬だけ本当に苦々しいものに変わる。\k\n「上が信じてると言うのなら、下は信じるしかないというか……」\k\n「だから、上に立つその委員長さんがどうしてわたしをそんなに信じてるのかと」\k\n「……委員長が一番上だなんて、誰が言ったのかな?」\k\n「はい?」\k\n「あ、いや……なんでもない」\k\n そして、次に出てきた台詞も、今までの優雅で理詰めなものとは一線を画した、なんだか愚痴っぽいものになっていた。
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52 | | 「ま、まぁ、それはいいからさ……どうだろう、考えてみてくれないかな?」\k\n「実行委員長さん……」\k\n 考えるまでもなかった。\k\n だってその条件には、雪菜が渋る理由が全て排除されていたのだから。\k\n わざわざ水曜と金曜を外した日程。\k\n それでいて全ての日に実行委員会と帯同しているように見える協力内容。\k\n それどころか、疑惑が発生する前に遡ってまでのフォロー。\k\n あの怪文書を公式で全否定し、完全に雪菜の支援で一本化される峰城大学付属学園祭。\k\n 完璧だった。\k\n ただ、あまりに完璧すぎたため、タチの悪い二重詐欺に引っかかっているのではないかという疑念を最後まで払拭することはできなかったけれど……
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53 | | 次の日から、小木曽雪菜は、今年の峰城大学付属学園祭の顔となった。\k\n 校内のありとあらゆる場所に、雪菜の笑顔が振りまかれた。\k\n 毎日の昼休みに雪菜の鈴が鳴るような声が校内を席巻した。\k\n 学園祭HPのトップを、雪菜の動画レポートが毎週飾った。\k\n もう、あのメールの内容も、差出人も、詮索する空気など全て吹き飛ばされ……\k\n 学園祭が始まると、ミス付属は過去最高の投票数を得て大成功を収めた。\k\n ……ただ、その結果については、投票が始まる前から誰も気にしていなかった。
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54 | | 「せっちゃ~ん! それ終わったらレジ入って~!」\k\n「は~い!」\k\n 店先でいつものように値引きシールを貼っていた雪菜は、どうやら夕方の一番忙しい時間帯に入ったことを、レジの待ち行列で理解した。\k\n そろそろ鍋が恋しくなる季節、店先やお客の買い物カゴには、白菜や大根など、体の芯から温まりそうな野菜がたくさん覗いている。
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55 | | 学園祭が終わって一月……\k\n 結局、雪菜はあれからもずっとスーパーのバイトを続けていた。\k\n もう、彼女の後をつける不審な下級生の姿もなく、この眼鏡と三つ編みの完璧な変装はまたしばらく見破られることもなさそうだった。
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56 | | 「よしっと」\k\n シールを貼り終わると、雪菜は寒空を清々しく見上げる。\k\n 夕暮れは早くなり、もうとっくに真っ暗になった夜空には、今日は景気よく満月が上り始めている。\k\n そんな寒い中、今日もこの駅前にはたくさんの人が行き交っている。\k\n 夕食の材料を調達に訪れた主婦、ちょっと早めの仕事帰りの男性、いつの時間帯も関係なく目的もなさそうに徘徊する老人。\k\n そして、数は少ないけれど、峰城大付属学園の学生たち。
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57 | | 「レジ入りま~す!」\k\n
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58 | | 店の外で、店の方をじっと見ていた男子生徒の視線からさり気なく逃げつつ、雪菜は、もう一仕事とばかりに元気いっぱいに店内に入っていく。\k\n おでんにしようか鍋にしようか……\k\n そんなふうに、今日の夕食の献立を頭の中に思い描きながら。
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59 | | 「……よかった、ちゃんとバイト続けてた」\k\n 「何やってんだ? そんなところに突っ立って」\k\n「何やってんだも何も、お前がいつまで経っても楽器屋から戻ってこないからだ」\k\n「や~なんか中古のいいのが入荷しててさ~、ちょっと迷ってたらこんな時間に」
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60 | | 「武也、お前もうギターなら三本持ってたよな? まだ新しいの買うつもりか?」\k\n「何言ってんだよ、お前のだよ春希。初心者向けでかなり使いやすいモデルなんだけどさ、そろそろ考えてみねぇ?」\k\n「俺にそんなもん弾けるわけないだろ」\k\n「モテるぞ? すっげー勢いで女の子寄ってきちゃうぞ? 学園祭のヒーローだぞ?」\k\n「出るわけないだろ学園祭なんか」\k\n「ま、お前の場合、あの時期は忙しすぎるからなぁ……何しろ裏実行委員長って呼ばれてるくらいだし」\k\n「来年こそは絶対にやんねぇからな、実行委員なんて」
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