White Album 2/Script/3103

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	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	美代子	Miyoko	「そうなんですよ～！ かずささん、とうとう練習を再開してくれまして…」
2	曜子	Youko	「いつから？」
3	美代子	Miyoko	「昨日からみたいです。 ずっとホテルに戻ってないみたいだったから、 必死で探してたら…灯台下暗しでしたよぉ」
4	曜子	Youko	「…どういう風の吹き回しかしらね？」
5	美代子	Miyoko	「立ち直ってくれたんですよ！ 社長の想いがかずささんに届いたんですよ！」
6	曜子	Youko	「本人がそう言ったの？」
7	美代子	Miyoko	「いえ、ずっとスタジオから出てこないので… でも、私にはわかるんです！」
8	曜子	Youko	「わかるって、何が？」
9	美代子	Miyoko	「かずささんの気持ちがですよ… 泣きたい気持ちを必死でこらえながらも、 社長のために必死で頑張るその優しさが…」
10	曜子	Youko	「話してもいないのに、 どうしてそんなことが言えるの？」
11	美代子	Miyoko	「ピアノを聴けばわかるんです… わたしだって冬馬曜子オフィスの一員ですから」
12	曜子	Youko	「ピアノ…ねぇ」
13	美代子	Miyoko	「ほら、社長も聴いてみてください。 かずささん、こんなに頑張って…」
14			………	.........
15	曜子	Youko	「これが…？」
16	曜子	Youko	「泣きたい気持ちをこらえながら、 必死で頑張ってる優しい女の子の音？」
17	曜子	Youko	「………冗談でしょ」
18			………	.........
19	駅アナウンス	Station Announcement	「１番線、間もなく発車します。 閉まる扉にご注意ください」
20	春希	Haruki	「っ…」
21			発車ベルとともに扉とゲートが閉じ、 運転士のいない車両が静かに線路を滑り出す。
22			…これでホームに着いてから３本逃した。
23			せっかく待ち合わせ場所に着く時間を逆算して、 ３０分以上余裕を持って家を出たのに、 この乗り継ぎ駅でほとんど潰してしまった。
24	春希	Haruki	「やべ… もう、こんな時間かよ」
25			最初に異変を感じたのは昨日の夜。 けれどその時はまだ、気のせいだと思ってた。
26			けれど今日、南末次で電車に乗ったと同時に、 その自己診断がただの願望であったことを思い知らされた。
27			頭痛と吐き気と寒気… 心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、 吊革を掴もうとした手は面白いくらいに震え出した。
28			最初は、効きすぎてる暖房のせいだと思い込んだ。 その温かさに慣れればすぐに治まると信じた。
29			けれど、俺の体から発せられる熱量は、 どうやらそんな生易しいものじゃないらしく、 みるみるうちに周囲にも伝わるくらいに青ざめていった。
30			そしてその変調は、目的地に近づくにつれ、 ますます酷くなっていく。
31			乗り換え駅で降りた時には、 全身が痺れたような嫌な感覚に襲われ、 歩くのも辛くなっていて。
32			やっとのことで乗り換え先のホームに辿り着き、 ほんの少しほっとしてベンチに腰掛けて。
33			そして、根が生えてしまったように、 そこから立ち上がれなくなってしまったのが今の状況。
34			どうなってんだ、俺。 こんなことがあっていいのかよ…
35	春希	Haruki	「はぁ、はぁ…っ、ぁ」
36			『土曜の件』
37			『メールありがとう。 でも、そんなに謝らないで』
38			『来れなかったのは仕方ないよ。 もともと平日ってのに無理があったんだし、 わたし、全然気にしてないから』
39			『それに、武也君から聞いたよ？ 今度の雑誌、メインで任されてるんだって？』
40			『すごいよ春希くん！ 一年目でそんな責任ある仕事もらえるなんて。 わたしと依緒、その話でずっと盛り上がってたんだよ』
41			『おめでとう。 また頑張ったこと、報われたね。 本当に、おめでとう』
42			『さてと、話はほんのちょっとだけ変わりまして、 春希くんからお誘いいただいた土曜日のことです』
43			『別に埋め合わせとかそういうつもりはないけど、 春希くんの時間が取れるのなら会いたいです。 なんて、実は久しぶりだからとっても嬉しい！』
44			『…気にしてないなんて言っておいて、 この言い方はちょっと嫌味っぽいかもね（笑） ごめんなさい』
45			『というわけで、待ち合わせ場所も時間も わたしに任せてくれるってことだったので、 ワガママを言ってみます』
46			『１３時。有海駅前。 ちょっと遠いけどいいかな？』
47			『毎年、クリスマスを一緒に過ごしてるのに、 今シーズンはまだ一度も来てなかったから、 それが心残りだったんだ』
48			『いつもみたいにインテグラルホテルで 豪華ディナー…ではなく豪華ランチってことで』
49			『それでいいかな？ 返事待ってます』
50	春希	Haruki	「………っ」
51			…本当は、原因もわかってる。
52			だって、最初にわずかな変調を感じたのは、 昨夜、このメールを受け取ってから。
53			雪菜の、曇りのない言葉と、 心からの約束を受け取ってしまってから、だったから。
54			『Ｒｅ：土曜の件』
55			あの時以来、雪菜のことを考えると…
56			雪菜を想うと。雪菜を気遣うと。 雪菜に罪悪感を抱くと。 雪菜への秘密を思い出すと…
57			体と心が暴れ出す。 肉体と精神の均衡が保てなくなる。
58			何もかも…機能しなくなる。
59			きっとこれは、 人の道を外れた俺に対する罰だ。
60			…俺の体が、俺に与えた罰だ。
61			『ごめん。 今、起きたところ』
62			『なんだか体が熱くて熱を測ってみたら、 ３９度超えてた』
63			『とてもじゃないけど、そっちへ向かえそうにない。 だから、今日の約束は延期させて欲しい』
64			『もう、雪菜はとっくに現地に向かってるよな？ 連絡遅れてしまって本当にごめん。 待ちぼうけさせてしまって、ごめんなさい』
65			『それと、見舞いはいい。 もしかしたらインフルエンザかもしれないから』
66			『今からまた寝る。 ちゃんと薬は飲むから心配しないで。 少しでも回復してたら電話する』
67			震える指を必死で動かして、メールを打つ。
68			電話をかける方が早いのに。 電話をかける選択が正しいのに。
69			それでも俺は、かすむ目を必死に凝らして、 携帯のキーを打ち続ける。
70			………雪菜の声を聞くのが辛いから。
71	春希	Haruki	「仕方、ないよな…」
72			この体調で外出なんて最初から無理だったんだ。
73			震えも冷や汗も止まらないのに。 吐き気も喉の渇きも止んでくれないのに。
74			それなのに、あの海風の強い有海の臨海公園なんて、 自殺行為もいいとこだ。
75			仕方ないんだ。 これだけ苦しいんだから。辛いんだから。
76	春希	Haruki	「帰る、か」
77			雪菜に、このメールを送ろう。 そして、今日の約束は延期してもらおう。
78			今日明日は、温かくして寝よう。 なんとか週末で、この体調不良を治そう。
79			そして、できれば月曜からちゃんと出勤して、 初校のチェックを進めて…
80			次に雪菜に会える機会は来週末だろうか。 プレゼント渡すの、だいぶ遅れるな。 機嫌、損ねなきゃいいけど。
81	春希	Haruki	「………っ」
82			そして俺たちは何も決断を下さないまま、 この冬の間は恋人同士を続けられるんだろうか…
83			決着をつけなくても済むことに安堵するのか？ 痛みを先送りできることに歓喜するのか？
84	春希	Haruki	「………駄目、だ」
85			『ごめん、乗り継ぎに失敗した。 １０分遅刻する。 もう少しだけ待ってて』
86			馬鹿、言うな。
87			こんなことでどうする… こんな甘い罠に負けてどうする…
88			そうやって辛いことから逃げてたら、 立ち向かおうとするたびに拒絶反応なんか起こしてたら…
89			誰が、あいつを護るんだよ…？
90	春希	Haruki	「行かなきゃ…」
91			雪菜のところに。 裁きの法廷に。
92			天罰を、受けないと…
93	春希	Haruki	「かずさ…」
94			だって俺には、護るべきものがある。 あろうことか、雪菜じゃない、護るべきひとが…
95			………	.........
96			『かずさ…』
97	かずさ	Kazusa	「ん…っ」
98	曜子	Youko	「気がついた？」
99	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
100	曜子	Youko	「…訳ではなさそうね」
101	かずさ	Kazusa	「今、あたしを呼んだ？」
102	曜子	Youko	「ううん、ただ顔を見てただけ」
103	かずさ	Kazusa	「あ、そ…」
104	曜子	Youko	「なぁに？ 夢の中で[R愛しい男^ギターくん]に愛でも囁かれてた？」
105	かずさ	Kazusa	「寝ちゃってたのか、あたし」
106	曜子	Youko	「いいえ」
107	かずさ	Kazusa	「え、でも…」
108	曜子	Youko	「気を失ってたのよ」
109	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
110	曜子	Youko	「わたしが入ってきたのにも全然気づかずに弾き続けて、 で、突然ばったりと倒れ込んじゃって」
111	かずさ	Kazusa	「そう、か」
112	曜子	Youko	「何時間も… ひょっとしたらまる一日以上、 飲まず食わず休まずで弾いてたでしょ」
113	かずさ	Kazusa	「…さあね」
114	曜子	Youko	「水も糖分も摂らずにぶっ通しじゃ 倒れるに決まってるでしょ。 …ほら、角砂糖」
115	かずさ	Kazusa	「ん…」
116	曜子	Youko	「しばらくサボってたかと思えば、 今度はいきなり無茶するのね」
117	かずさ	Kazusa	「無茶なんかしてない。 ただ、遅れを取り戻そうとしてるだけだ」
118	曜子	Youko	「いいえ、無茶苦茶よ。 いつもの音と全然違うし」
119	かずさ	Kazusa	「そうかな…ただ練習不足なだけじゃない？」
120	曜子	Youko	「ううん、もうほとんど完成してた。 …弾いてたのは別の冬馬かずさだったけど」
121	かずさ	Kazusa	「[R天才^かあさん]の言うことは難しくてよくわかんないな」
122	曜子	Youko	「まるで重い罰を望んでいるような、 そんな悲壮感漂うピアノだった」
123	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
124	曜子	Youko	「全然わたしの趣味じゃないけど、 人によってはものすごく惹かれるでしょうね。 …精神ごと引きずられかねないくらい」
125	かずさ	Kazusa	「誉め言葉、かな、それ」
126	曜子	Youko	「ねぇ、かずさ…」
127	かずさ	Kazusa	「ん～？」
128	曜子	Youko	「あなた今、何を償おうとしてるの？」
129	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
130	曜子	Youko	「…だいぶ核心突いちゃった？」
131	かずさ	Kazusa	「今まであんたにずいぶん苦労をかけてしまったこと… って言っても信じないかな？」
132	曜子	Youko	「半分くらいは信じるわ。 でもそれが全てだと言ったら信じない」
133	かずさ	Kazusa	「さすがあたしの母さんだ。 なんでもお見通しなんだな」
134	曜子	Youko	「母親なんて、誰でもそんなものよ」
135	かずさ	Kazusa	「母親らしいことなんか、 今まで何一つしてこなかったくせにな」
136	曜子	Youko	「まぁね… こういう台詞を一度言ってみたかっただけ」
137	かずさ	Kazusa	「馬鹿…」
138	曜子	Youko	「一応、紙一重の方だと自負してるけどね」
139			………	.........
140	かずさ	Kazusa	「…なぁ、母さん」
141	曜子	Youko	「なに？」
142	かずさ	Kazusa	「あたし、もしかしたらさ… あんたの望む冬馬かずさになれないかもしれない」
143	曜子	Youko	「それって… 冬馬曜子の望む後継者のこと？ それとも、母親の望む娘のこと？」
144	かずさ	Kazusa	「………先に謝っとく。 ごめんな」
145	曜子	Youko	「かずさ…」
146	かずさ	Kazusa	「不肖の弟子で、ごめんな。 親不孝な娘で、ごめんな」
147	曜子	Youko	「………」	"........."
148	かずさ	Kazusa	「弱い人間で…ごめんなさい」
149			………	.........
150	雪菜	Setsuna	「それじゃ、今週もお仕事お疲れさま」
151	春希	Haruki	「遅ればせながら、 誕生日おめでとう、雪菜」
152	雪菜	Setsuna	「春希くんこそ入稿おめでとう。 初めての大仕事、たくさん売れるといいね」
153	春希	Haruki	「…あ、 バレンタインのチョコ、ありがとう」
154	雪菜	Setsuna	「誕生日プレゼントありがとう」
155	春希	Haruki	「今日、遅刻してごめん」
156	雪菜	Setsuna	「こっちこそ、 贅沢させちゃってごめんね」
157	春希	Haruki	「構わないよ。 毎年一度はここに来てるんだし」
158	雪菜	Setsuna	「うん…久しぶりの有海に」
159	春希	Haruki	「ああ…一年二か月ぶり」
160	雪菜	Setsuna	「ふふっ… せっかくご馳走が目の前にあるのに、 いつまで経っても乾杯が終わらないね」
161	春希	Haruki	「…だな。 そろそろ食べようか」
162	雪菜	Setsuna	「うん！　実はさっきからお腹ぺこぺこ。 いただきます」
163	春希	Haruki	「…いただきます」
164			その礼儀正しさが 取ってつけたものでないことを示すように、 雪菜がごく自然に手を合わせる。
165			そんな、雪菜の作る心地良い空間に巻き込まれるように、 俺は何度も乾杯を重ね、自然な笑みと軽口をこぼす。
166	雪菜	Setsuna	「わ、おいしい！ さすがランチであのお値段取るだけはあるよね～」
167	春希	Haruki	「…だから何度もお金の話するなって。 これくらい全然平気だから」
168	雪菜	Setsuna	「あ、ごめんなさい… わたし、どうしてもこういうところのお値段って 気になっちゃうんだよね」
169	春希	Haruki	「今日は食材の原価を推理するのはやめてくれよ。 その差額が誰の懐に行くのか考えたくない」
170	雪菜	Setsuna	「あははっ、気をつけます」
171			ふっとため息混じりの笑みをこぼしつつ、 俺も目の前の前菜を口に運ぶ。
172	春希	Haruki	「…けど確かに美味いなこれ。 価格相応って言ってもいいかも」
173	雪菜	Setsuna	「あ、あはは…」
174			…そして、料理の味を確かめられるくらいには、 自分の体が回復していることを実感する。
175			３０分で、自分の体の変調を無理やり押さえつけた。
176			俺の心の中に、進むべき道を作って。 …そして、退路を塞いで。
177			待ち合わせ場所にたどり着き、雪菜に謝ったとき、 彼女は俺の額の汗を拭いてくれたけど、 それはもう、必死で走ってきたための汗になっていた。
178			今は、頭痛も吐き気も寒気もない。 心に置き場所を作ったから。
179			かずさの微かな笑顔を、露わな怒り顔を、 駄々っ子のような泣き顔を…
180			そして、契約の瞬間の、あの達したような表情を、 ずっと住まわせておく場所を、作ったから。
181			…いつでも脳裏まで引き出せるように。
182			………	.........
183	雪菜	Setsuna	「寒いね～、外は」
184	春希	Haruki	「そりゃ、目の前が海だもんな」
185	雪菜	Setsuna	「海からの風が強いね… 春希くん平気？」
186	春希	Haruki	「雪菜こそ」
187	雪菜	Setsuna	「わたしは大丈夫。 だって、この冬のうちに一度は来たかったんだもん」
188	春希	Haruki	「…それ、理由になってないような」
189	雪菜	Setsuna	「ね、ショッピングモールの方行ってみない？ そろそろ春物出てる頃だし」
190	春希	Haruki	「これだけ寒いってのに… どうして流行ってのはこうもせっかちなんだか」
191	雪菜	Setsuna	「時代の後ろをゆっくりついてくる流行なんて 聞いたことないけど…」
192	春希	Haruki	「む…」
193	雪菜	Setsuna	「ほら、早く早く。 …なんて、別にゆっくりでもいっか。 流行は逃げるけど、お店は逃げないもんね」
194	春希	Haruki	「…そうだな」
195			駆け出すでもなく、 けれどほんの少しの早足で、 雪菜が、俺を次の目的地へと誘う。
196			触れるほど近くなく、 声が届かないほど遠くなく、 心が…少しだけ触れ合うような距離感。
197			手を握ってこない。 腕を絡めてこない。 キスをねだらない。
198			そして、俺がそうしないことも自然に受け入れる。
199			今が昼間だからなのか、 久しぶりの逢瀬で距離を測りかねてるのか。
200			それとも…
201			そんなふうに確かめ合わなくても大丈夫なくらい、 俺たちの関係は成熟してるって、信じているのか。
202	雪菜	Setsuna	「ね、春希くん」
203	春希	Haruki	「ん？」
204	雪菜	Setsuna	「このネクタイ、派手じゃないかな？」
205	春希	Haruki	「いや、別にそうは思わないけど… どっちかと言うとシックじゃないか？」
206	雪菜	Setsuna	「悪くないよね？」
207	春希	Haruki	「うん、そりゃまぁ…」
208	雪菜	Setsuna	「そっか…春希くんがいいって言うならこれにしよ。 お会計済ませてくるね」
209	春希	Haruki	「え？　お、おい待てよ。 ここってバーバレスじゃないか」
210	雪菜	Setsuna	「そうだよ？ イギリスのメーカーだったよね」
211	春希	Haruki	「ちょっと今の見せて… って、なんだよこの値段！ こんな高いものいいよ」
212	雪菜	Setsuna	「高いって言っても、 こういうところの品物って長持ちするから、 結局安物買うよりお得なんだよ？」
213	春希	Haruki	「だからって…限度があるだろ限度が。 赤城かユニプルで十分だって」
214	雪菜	Setsuna	「さっきお金の話するなって言ったのは 春希くんじゃなかったかなぁ…」
215	春希	Haruki	「いやだって…これ万超えるじゃないか！ そんなの俺、理由もなく受け取れないよ…」
216	雪菜	Setsuna	「誰も春希くんに渡すなんて言ってないよ？」
217	春希	Haruki	「………え？」
218	雪菜	Setsuna	「これはお父さんへ。 来月、誕生日なんだ」
219	春希	Haruki	「え、え？」
220	雪菜	Setsuna	「あはは…っ、 やっぱり勘違いするよね～。 わざわざ春希くんに感想まで聞いちゃってさぁ」
221	春希	Haruki	「あ、あ………ああっ！？」
222	雪菜	Setsuna	「あなたへのプレゼントだったら、 渡す前にネタバレなんか絶対しません～」
223	春希	Haruki	「せ、雪菜っ！」
224	雪菜	Setsuna	「ふふふっ、 や～い、引っかかった引っかかった～」
225	春希	Haruki	「ったく。はぁ…」
226	雪菜	Setsuna	「あははは、あははははははっ」
227			そして俺は、そんな雪菜の優しさに、明るさに、 ゆっくりと翻弄されていく。
228			いつも溺れてたその母性と、 いつもとは少し違う気安さの両方に癒されていく。
229			だから、いつまでも本題を切り出せずに心を痛めて、 そして、その傷を雪菜に修復してもらって…
230			そんな、あまりにも矛盾した袋小路から抜け出せない。
231			………	.........
232	雪菜	Setsuna	「うわぁ… さっきよりまた冷え込んできたね～」
233	春希	Haruki	「目の前が…海だもんなぁ」
234			買い物を済ませて、お茶を飲んで、 ショッピングモールを出た頃には、 日はすっかり落ちていた。
235			昼間はかろうじて雲間からの陽の光で、 ほんの少しの温かさを確保してた海沿いの公園は、 今はもう、無慈悲な闇と風に閉ざされている。
236			…それだけ長い時間をここで過ごしたにも関わらず、 俺は、いまだに本題に入れないまま、 誰が見ても恋人同士の時間を、雪菜と過ごしていた。
237			あろうことか、 何度も嬉しさを感じてしまう穏やかな時間を…
238	雪菜	Setsuna	「ほんっと、ここにくる時は、いつも寒いよね」
239	春希	Haruki	「毎年、クリスマスだったから」
240	雪菜	Setsuna	「二年前なんか雪だったもんね～」
241	春希	Haruki	「………」	"........."
242			二年前から、ここは俺たちの特別な… ある意味、因縁の場所だった。
243			二年前のクリスマスに決裂して、 一年前のクリスマスにリベンジして。
244			そして今シーズン。
245			クリスマスをここではなく、 フランスで過ごした俺たちは…
246			運命の歯車が軋み出すのを、 もう、止められなくなってしまった。
247	雪菜	Setsuna	「そこでそっちが落ち込まないで欲しいなぁ。 あの時のことはわたしが全面的に悪かったのに」
248	春希	Haruki	「違うよ。 だって、あの時の俺は…」
249	雪菜	Setsuna	「ううん、わたしが悪かったの。 でも謝らない。 …あれもわたしたちの歴史だから」
250	春希	Haruki	「歴史…」
251	雪菜	Setsuna	「いいことも悪いことも… 喧嘩も、すれ違いも、仲直りも… 色々あったからこそ、わたしたちここまで来れたんだよ」
252	春希	Haruki	「………っ」
253			そうやって微笑みながら髪をかき上げる雪菜の指には、 今までとは違う輝きが灯っている。
254			御宿のアクセサリショップの安っぽい反射じゃない、 パリの宝石店が磨き上げた、七色に煌めく光。
255	雪菜	Setsuna	「本当に、色々あったよね。 でも、一緒に乗り越えてきたよね」
256	春希	Haruki	「雪菜…」
257			五年間、ずっと好きだった。
258			二度も指輪を渡した。 ほんの二週間前に、プロポーズした。
259			そして…
260	雪菜	Setsuna	「乗り越えて…きたんだよね」
261			今でも掛け値なしに、 心の底から愛してる。
262			いつも明るくて、健やかで。 少なくとも、俺の前ではそうであるよう 努力してくれるくらい健気で。
263			贔屓目でもなんでもなく、 俺が今まで出逢った中で、掛け値なしに最高の女性。
264	雪菜	Setsuna	「これからも、ゆっくり歩いていこう。 慌てなくてもいい。あなたのペースでいい。 それでもわたし、ずっとついていくから…」
265	春希	Haruki	「～～～っ！」
266			…あいつとは、何もかもが違う。
267			だってあいつは、いつも怒ってて、偏食で、 礼儀知らずで、他人に興味がなくて、 自分を取り繕うことすらしようとしなくて。
268			ピアノ以外の、人としての努力を放棄した、 わがままで歪な、天才なだけの不完全な奴…
269			今さらながら、 どうして俺はこんな選択をしてるんだろうって そんなことを思ってしまう。
270			自分にとって最高の女性を見捨てて、 自分にとって重荷でしかない女を拾うなんて…
271			あまりにも、ありえなさ過ぎるだろ。 冗談にしても、笑えなさ過ぎるだろ…
272	春希	Haruki	「………雪菜」
273	雪菜	Setsuna	「っ…」
274			本当に、 あり得ない、笑えない選択だってわかってる。
275			それでも俺は、決めたんだ…
276	春希	Haruki	「話があるんだ。 どうしても言わなくちゃならない、大事な…」
277	雪菜	Setsuna	「あ、あ～！ やっば～、もうこんな時間だったんだ」
278	春希	Haruki	「え…」
279	雪菜	Setsuna	「ごめん春希くん… わたし、今日はもう家に帰らなくちゃいけないの」
280	春希	Haruki	「雪菜…？」
281	雪菜	Setsuna	「さっき孝宏からメールが届いてね。 青森の親戚一家がウチに来てるんだって。 ほら、毎年リンゴ送ってきてくれるところ」
282	春希	Haruki	「そう、なんだ？」
283	雪菜	Setsuna	「旅行の途中で寄ったんだって。 それで、今日中に帰っちゃうんだって。 …だからわたし、急いで戻らなくちゃ」
284	春希	Haruki	「………」	"........."
285	雪菜	Setsuna	「急にこんなことになっちゃって本当にごめんなさい。 今度また埋め合わせするから」
286	春希	Haruki	「…話だけでも聞いてくれないか？ 電車の中でもいいから」
287	雪菜	Setsuna	「ギリギリなの！ 走っていかないと間に合わないの！」
288	春希	Haruki	「なら急ごう。 駅まで一緒に走れば…」
289	雪菜	Setsuna	「駄目っ！ とにかく駄目なの！ 今日はもう何も聞きたくない！」
290	春希	Haruki	「あ…」
291	雪菜	Setsuna	「っ！？ ぁ、ぁぁ…」
292			ああ、そうか。 そうなんだ…
293			その可能性に、まるで思い至らない訳じゃなかった。 ただ、ずっと確証が持てなかった。 ………ほんの数秒前までは。
294	春希	Haruki	「………雪菜」
295	雪菜	Setsuna	「…帰る」
296			あの、プロポーズの夜から二週間。
297			俺たちの間には不自然なくらい時間が空いていたのに、 雪菜は、二人の隙間を情熱的に埋めようとせず、 ずっと穏やかでいてくれた。
298	春希	Haruki	「待ってくれ、雪菜」
299	雪菜	Setsuna	「来ないで！」
300			俺は、その適度な距離感に救われて、 辛い決心を抱えたまま過ごす雪菜との時間を、 ゆっくりと、静かに過ごすことができた。
301			決断を先延ばしにしてしまおうかという そんなあるまじき誘惑に負けそうなくらい、 それは俺にとって優しい時間だった。
302			今日一日、雪菜がずっと我慢に我慢を重ね、 必死で作り上げていたんだ。 …そんな、何事もなかったかのような静かな空気を。
303	春希	Haruki	「先延ばしにしても、何も変わらない。 俺、もう決めたんだ」
304	雪菜	Setsuna	「聞こえない！ 何も、聞こえないんだよっ！」
305			雪菜は、最初から気づいてたんだ。 俺が、今日話そうとしている内容を。
306			そうだ… だって俺たちは、今までずっと繋がってたんだ。 掛け値なしに、心を通じ合わせていたんだ。
307	春希	Haruki	「雪菜っ！」
308	雪菜	Setsuna	「っ…」
309			だから、雪菜にはわかってしまっていたんだ。
310			俺の周囲に吹き荒れていた嵐も。 俺が隠し持っていた残酷な刃も。
311	春希	Haruki	「ごめん…」
312	雪菜	Setsuna	「やめて、やめてよ…」
313			俺が、かずさを嵐から護るために、 二人にとって一番大事なものを、 刃で断ち切ってしまおうとしていることが。
314	春希	Haruki	「俺… もう雪菜とは、一緒に歩いていけない」
315	雪菜	Setsuna	「やめてぇぇぇぃぃぃゃゃぁぁぁぁあああ～～～っっ！」
316			………	.........
317			……	......
318			…	...
319	春希	Haruki	『俺は絶対に小木曽から離れていったりしない！』
320			全てが、嘘に染まっていく…
321	春希	Haruki	『それから、それからさ… これが一番謝らなくちゃならないことだと思うんだけど』
322			たった一言…
323	春希	Haruki	『それなのに俺… やっぱり雪菜が大好きだから』
324			本当に、ただ一つのその言葉が、 出逢いの瞬間からの俺の言葉を、 何もかも否定していく。
325	春希	Haruki	『だって… 俺が世界で一番好きな人は、 俺の前で、楽しそうに歌う雪菜だから』
326			五年もの長い時をかけて 雪菜に語りかけた幾千の想いを。 囁いた幾万の愛を。
327	春希	Haruki	『大丈夫だよ、雪菜… 俺たちはもう、大丈夫なんだよ』
328			そんな、 堅い礎の上に積み重ねてきたはずの気持ちが。
329	春希	Haruki	『これからは、何があっても受け止めるから。 雪菜のこと、離さないから』
330			絶対に揺るがない、 何ものにも替えがたいものだと信じてきた絆が。
331	春希	Haruki	『結婚しよう。 結婚しよう、雪菜…』
332			本当は海岸の砂浜に作られた城だったかのように、 波に、たった一度さらわれただけで、 跡形もなく、掻き消えていく。
333			俺と雪菜の絆の記録を、 俺たちの新たな歴史から、全て削り取っていく…
334	雪菜	Setsuna	「わかっちゃうって、残酷だよねぇ…」
335			あれから、何時間経ったんだろうか。
336	雪菜	Setsuna	「春希くんの、ほんの少しの仕草から。 目の動きから、表情から」
337			俺の容赦ない言葉に、 駅へと急ぐ雪菜の足が止まってしまってから。
338	雪菜	Setsuna	「あなたが迷ってるって。 他のひとのことを考えてるって。 …かずさを、想ってるって」
339			その場にうずくまり、 自分の力で立ち上がれなくなってしまってから。
340	雪菜	Setsuna	「あなたの心がわたしから離れていってるって、 気づいてしまうのは、辛すぎた」
341			肩を震わせ、か細い声をそれでも必死に抑え、 けれど湧き出る感情を抑えきれずに、 小さく、けれど激しく泣き出してしまってから。
342	雪菜	Setsuna	「………年が明けてから、ずっとだったよね。 かずさと再会してから、ずっと、だったよねぇっ」
343	春希	Haruki	「………っ」
344			数秒だったか、数時間だったかすら、 もう、今の俺たちにはわからないし、 意味のないことだった。
345			やっとのことで立ち上がった雪菜は、 目を真っ赤に泣き腫らし、声も上ずったままで、 けれど必死に意味のある言葉を紡ぎ出そうとする。
346			そんな今の雪菜は、俺が知っている五年間の中でも、 一番、雪菜らしくない雪菜だった…
347	雪菜	Setsuna	「朋がね… かずさに二度、会ったんだって。 春希くんの部屋の前と、ライブハウスの客席で」
348	春希	Haruki	「………そう、か」
349			今まで、数え切れないくらい、雪菜を傷つけた。
350	雪菜	Setsuna	「その時は、信じなかったけど… ううん、信じないように必死で頑張ったんだけど…」
351			もう、取り返しがつかないと思ったことだって、 一度や二度じゃなかった。
352	雪菜	Setsuna	「でも、あなたが大阪まで追いかけてきてくれたとき… わたしを、強く求めてくれた時」
353	雪菜	Setsuna	「逆に、確信しちゃった… 春希くんは、わたしに逃げようとしてるって。 …それくらい、かずさに傾いちゃってるんだって」
354	春希	Haruki	「………」	"........."
355			それでも雪菜は、どんなことがあっても、 強い雪菜でいてくれた。
356	雪菜	Setsuna	「なのにわたし、あなたと話し合わなかった。 それどころか、あなたに求められるままに、 身体で繋ぎとめようとした」
357			涙をこらえ、背筋を伸ばし、俺に優しい自分を演じ。
358	雪菜	Setsuna	「…かずさのコンサートの日だってわかってたから、 あなたを、絶対に東京へ帰したくなかったの」
359			どうしても感情を弾けさせなくてはならない時は、 俺と二人きりになるまで必死で我慢して。
360	雪菜	Setsuna	「それが………いけなかったのかな。 あの時、本当のこと、聞くべきだったのかな…？」
361			雪菜は、強かった。 俺は、そんな雪菜に甘えてた。
362			甘えて、頼って、その強さを信じて…
363			だから、かずさを選んだ。
364	雪菜	Setsuna	「やっぱり、会うんじゃなかった」
365			なのに、今の雪菜は…
366	雪菜	Setsuna	「しばらく、距離を置けばよかった。 あなたから、逃げ続ければよかった」
367			周囲の奇異の視線も無視して泣き続け、 過去を悔やみ、自分を責め、 ただ、負の感情を剥き出しにして…
368	雪菜	Setsuna	「こうなるんじゃないかって… こうなっちゃうんじゃないかって、気づいてたのに」
369	雪菜	Setsuna	「なのに、なのに… あなたに会えるって誘惑に勝てなかった！」
370	春希	Haruki	「っ…」
371			まるで、かずさのような、 『みっともない』女の子だった…
372	雪菜	Setsuna	「あなたに抱きしめてもらえるかもって、 淡い期待を捨てられなかった…っ」
373			俺が、雪菜をこんな女性にしてしまったんだろうか。 …かずさを、あんな女にしてしまったように。
374			俺と出会いさえしなければ、 俺が、好きにさえならなければ。
375			俺さえ、いなければ…
376			そうすれば、みんな幸せになれたんだろうか？
377			………	.........
378	雪菜	Setsuna	「ねぇ、春希くん… わたしは、どうすればよかったのかなぁ…っ？」
379	春希	Haruki	「雪菜…」
380			雪菜の泣き声が、 海風の音と共鳴する。
381	雪菜	Setsuna	「何が…いけなかったの、かなぁ… わたし、どこで間違っちゃったのかなぁ…」
382			冷たさと悲しみが混ざりあい、 俺を包み込み、激しく揺さぶる。
383	雪菜	Setsuna	「どうすれば… あなたはさっきの言葉を撤回してくれるのかなぁ わたしのところに、帰ってきてくれるのかなぁ」
384			強く、激しく、なりふり構わず。
385			北風のように強い想いを、 こんな最低な俺に、まだぶつけてくれる。
386			けれど…
387	春希	Haruki	「どうも…しなくていい。 雪菜は、間違ってない。 悪いところなんかひとつもない」
388			もう俺は、決めたから。
389	雪菜	Setsuna	「っ… それじゃ…直せないよ。 教えてくれないと、直せないよ…っ」
390	春希	Haruki	「ごめん…」
391			非道を、貫くって。 かずさを残して、全てを切り捨てるって。
392	雪菜	Setsuna	「あなたのために、変われないよ… あなたがまた、振り向いてくれる女の子になれないよ」
393	春希	Haruki	「もう一度言う。 何も、ない…」
394	雪菜	Setsuna	「～～～っ！」
395			だからもう、涙混じりの北風は、 何も吹き飛ばすことはできない。
396			旅人のコートも。 そして、俺の決断も。
397	春希	Haruki	「俺が一方的に悪いんだ… だから、どんな償いだってする」
398	雪菜	Setsuna	「そんなの無理だよ…」
399	春希	Haruki	「できることならなんでも…」
400	雪菜	Setsuna	「だってあなたは今、 わたしがして欲しいことを全部拒否したんだよ！？」
401	春希	Haruki	「………っ」
402			それでも北風は諦めない。 ただ、俺が差し出せない唯一の物だけを求めて吹き続ける。
403			いつか息を切らしてしまう、その時まで…
404	雪菜	Setsuna	「なんで…どうしてなの？ わたしがいたら駄目なの？ 三人で一緒に…いられないの…っ？」
405	春希	Haruki	「それは…」
406			かずさが追い詰められてしまった本当の理由を… 曜子さんのことを、雪菜に告白する。
407			そうしたら雪菜は、力になってくれるかもしれない。 三人で一緒に背負っていくこともできるかもしれない。
408			そんな未来も、何度だって考えた。
409	春希	Haruki	「…ごめん」
410			でもそれは、俺が背負い込んだ未来だ。 …雪菜には、負わせられない重荷だ。
411			だから、やっぱり話すわけにはいかない。
412	雪菜	Setsuna	「駄目なの？ かずさはまだ、わたしのこと許してくれないの…？」
413			…なんて、そんな自分の思い込みだって、 ただ、俺を正当化しようとする欺瞞なのかもしれない。
414	春希	Haruki	「………ごめんっ」
415	雪菜	Setsuna	「あ、あぁぁ…っ、 い、嫌…嫌ぁぁ…」
416			だって、俺がかずさを選ぶのに理由なんかない。
417			あいつを、誰よりも愛してる以外には。
418			………	.........
419			……	......
420			…	...
421			タクシーから降りたところで時計を見ると、 そろそろ一時半に差し掛かろうとしてた。
422			有海を出たときにはもう日付は変わってた。 御宿から先は、もう終電は終わってた。
423			…雪菜が去った後も、しばらく動けなかったから。
424			雪菜は、ちゃんと帰れただろうか…
425			彼女が去った時は、まだ電車の動いてる時間だったけど、 ちゃんと乗っただろうか？ もう家に帰っているだろうか？
426			無事、だろうか。
427			雪菜の携帯、実家、 それとも孝宏君…
428	春希	Haruki	「っ…」
429			…確かめる術も、その欲求もありながら、 俺にはもう、その資格がない。
430			とうとう… 本当に、してしまった。
431			幸せになる人よりも、 不幸になる人の方が圧倒的に多い、 普通じゃ考えられない、選択を。
432			世界にも社会にも反した、誤った判断を。 …雪菜にとって、あまりにも残酷な決断を。
433	雪菜	Setsuna	『終わってない…』
434	雪菜	Setsuna	『わたしたち、まだ全然終わってないんだよ！』
435			雪菜は、最後の最後まで受け入れなかった。
436			去り際、その言葉を俺に告げたときも、 ずっとずっと泣いたまま、 諦めないって自分に言い聞かせてた。
437			俺を、責めなかった。 俺を罵らなかった。
438			相変わらず、 度し難いほどに俺に優しいままの雪菜だった…
439	春希	Haruki	「っ…は、はぁ…」
440			だから、余計に辛さが押し寄せてくる。
441			また、今朝の悪寒が全身を襲う。 心臓が早鐘を打ち、吐き気が喉元までせり上がってくる。
442			寒空の下に何時間も佇んでいたのも効いてるかもしれない。
443			だとしたら、雪菜も… 彼女は、大丈夫なんだろうか…？
444	春希	Haruki	「～～～っ」
445			雪菜のことが心配で、確かめたくて、 けれど確かめられずにストレスを溜めて。
446			そして、雪菜のことを考えれば考えるほど、 俺の心も体も、ますます制御を失っていって…
447	春希	Haruki	「かずさ…」
448			だから俺は、その辛い記憶を消すために、 たった一つの解毒の呪文を唱える。
449			本当なら、この世界で唱えるべきではない禁呪を…
450	かずさ	Kazusa	「あ…」
451	春希	Haruki	「………」	"........."
452			唱える必要は、なかった。
453	かずさ	Kazusa	「母さんにスタジオ追い出されてさ。 明日の昼まで来るなって」
454			いや…そうじゃない。 呪文を間違えたんだ。
455	かずさ	Kazusa	「行くところがなくなったから、 お前のところに来た。 明日まで寝床になってくれ」
456			解毒の呪文のつもりが、 召還の呪文を唱えてしまっていたんだ。
457	かずさ	Kazusa	「…いいん、だよな？ あたし、ここに来ちゃっても、いいんだよな…？」
458	春希	Haruki	「何時間、待ってた？」
459	かずさ	Kazusa	「言ってもなんの意味もないことだ。 どうせお前が来るまで待ち続けるんだから」
460	春希	Haruki	「どこの忠犬だよ…」
461	かずさ	Kazusa	「っ…」
462			かずさの正面にかがみ込み、 頭をぽふぽふと叩き撫でると、 かずさは本当に犬みたいに幸せそうに目を細めた。
463	春希	Haruki	「こんなに冷たくなって…馬鹿じゃないのか」
464			その、少し赤くなった頬を撫でると、 俺のかじかんだ手にすらはっきり伝わるくらい、 そこは冷え切っていた。
465	かずさ	Kazusa	「お前の方が、冷たいよ… 寒そうだよ。 …悲しそうだよ？」
466			けれど、頬に触れた俺の手を握り返すかずさの手は、 息を吹きかけたり、こすり合わせたりして温められていた。
467	かずさ	Kazusa	「だから… あたしが、あっためてやるよ」
468			ああ、そっか…
469			召還獣は、召還士に絶対服従だったっけ。
470			………	.........
471	かずさ	Kazusa	「言っちゃった、のか…」
472	春希	Haruki	「ああ…」
473	かずさ	Kazusa	「そっか…」
474			かずさは俺に『寝床になってくれ』って言った。 …『寝床を貸してくれ』じゃなく。
475			そして、今はその望み通り、 俺の胸を枕にして、その冷たい頬を温める。
476			俺の体を撫で、さすり、包み込んで温め返しながら。
477	かずさ	Kazusa	「納得、するわけないよな」
478	春希	Haruki	「………」	"........."
479			そんなふうに、かずさの体温を肌で感じながら、 俺は、今日あったことを、静かに話して聞かせる。
480			かずさには、何も隠さない。 だって、まぎれもない当事者なんだから。
481			一緒に傷つき、一緒に乗り越える。 そう、誓い合ったんだから。
482	かずさ	Kazusa	「…責めたりも、するわけないよな。 だって、雪菜だもんな」
483	春希	Haruki	「…責めて欲しかったんだよ。 罰が、欲しかったんだ」
484	かずさ	Kazusa	「うん…」
485			だからこそ、こうして、二人で静かに傷つく。
486			雪菜が、俺たちを糾弾しなかったことに。 原因を自分に見つけようとしたことに。
487			…ほんのわずかも、罪を償えなかったことに。
488	かずさ	Kazusa	「あたしって、最悪だよな」
489	春希	Haruki	「そんなこと…」
490	かずさ	Kazusa	「だって、ドラマや映画だったらさ… あたしみたいな邪魔者の脇役は、 最後には身を引いて姿を消す役回りだろ？」
491	春希	Haruki	「………」	"........."
492	かずさ	Kazusa	「なのに今でもこうして物語の中に居座り、 ヒロインを不幸にしてまで、 主人公を自分だけのものにしようとしてる」
493			そんなのは違う。 お前、実は映画とかに全然詳しくないだろ。
494	かずさ	Kazusa	「自分で動かないところだけは脇役のままでさ… 主人公が何もかも解決してくれるのを期待して… なんて、いやらしい女なんだろうな」
495			それは、ハッピーエンド至上主義の世界だけのお約束だ。
496			昔のハリウッドくらいでしか通用しない、 手垢にまみれた展開だよ。
497	春希	Haruki	「お前が脇役かどうかなんてことは… 主人公…じゃないな。 監督が決めることだ」
498			…そうやっていくらでも論破できるけど、 俺はただ、わざとらしく結論をぼかすだけ。
499	かずさ	Kazusa	「お前が、いけないんだぞ？」
500	春希	Haruki	「そっか… 俺のせいか」
501	かずさ	Kazusa	「お前がもっと早く… あたしに深入りする前に、簡単に同情してくれたら。 あたしが求める通りに、体で慰めてくれたら…」
502	かずさ	Kazusa	「そしたらあたし、それだけで満足して、 お前から卒業すること、できたのかもしれないのに」
503	春希	Haruki	「っ…」
504	かずさ	Kazusa	「お前を思い出にして、 一人で生きていくこと、できたかもしれないのに…」
505	春希	Haruki	「嫌だ…そんなの嫌だ。 お前が笑って生きていけないなんて、俺は…」
506	かずさ	Kazusa	「春希…」
507			だって、そんな反論をしたら認めてしまうことになる。
508			俺たち二人が一緒になることが、 ハッピーエンドとは違うんだって。
509	春希	Haruki	「俺、は…」
510			観客を誰一人幸せにしない、 制作者の独りよがりの主人公とヒロインなんだって。
511	かずさ	Kazusa	「震えてる、じゃないか…」
512	春希	Haruki	「っ…」
513			かずさの手が、俺の頬を撫でる。
514			さっき俺が、かずさにしたことを、 たどたどしくも再現しようとする。
515	かずさ	Kazusa	「寒いのか？　辛いのか？ どうしてずっと我慢してるんだよ…馬鹿じゃないのか」
516			つまりそれって… 自分は、その行為で落ち着いたんだって。
517			俺に頬を撫でられて、満たされたって、 そう、言ってしまっているのと同じ訳で。
518	春希	Haruki	「大丈夫、大丈夫だ。 さっきより、だいぶ落ち着いてきた。 …お前が、温めてくれるおかげで」
519	かずさ	Kazusa	「我慢するなよ？ 辛いんなら、あたしに言うんだぞ？」
520	春希	Haruki	「大丈夫。 俺は決して壊れたりしないから。 だって、お前を護らないと…」
521			お前の母親に代わって。 お前の師匠に代わって。
522			そうでないと、全てを捨てる意味がない。
523	かずさ	Kazusa	「もしお前が壊れたら、今度はあたしが護るからな」
524	春希	Haruki	「だから、壊れないんだって」
525	かずさ	Kazusa	「それがあたしの、次の生きる目的になる。 だからお前は、壊れても壊れなくても、 ずっと、あたしの側にいてくれ」
526	春希	Haruki	「思い込みの激しい奴だな…」
527	かずさ	Kazusa	「だって…アーティストだしね」
528	春希	Haruki	「………馬鹿」
529			………	.........
530			それからしばらくして、 俺の体は、今度こそ安らぎを取り戻した。
531			原因のわかりすぎていた体調不良は、 これからはもう、襲ってこないと思う。
532			これからは、かずさの激しい思い込みが、 俺を護ってくれるに決まってるから。

Script Chart

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