White Album 2/Script/3105

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	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	浜田	Hamada	「北原ぁ！」
2	春希	Haruki	「…はい」
3			月曜日…
4			日が暮れてからが勝負とばかり、 編集部に更なる活気が出てきた頃…
5	浜田	Hamada	「北原… お前、お前………なんでだよっ！？」
6			浜田さんの怒声がその喧噪に割り込んだ。
7	浜田	Hamada	「これからだろ… お前、まだ何も返しちゃいないだろ…」
8	春希	Haruki	「…すいません」
9	浜田	Hamada	「っ…こ、こ、こ… とにかく会議室まで来い！」
10	春希	Haruki	「………はい」
11			意外と…早かったな、伝わるの。 もう少しくらいは気軽に過ごしたかったけど…
12	木崎	Kizaki	「………」	"........."
13	松岡	Matsuoka	「…？」
14	鈴木	Suzuki	「っ！」
15	浜田	Hamada	「どういうことだよ…」
16	春希	Haruki	「………」	"........."
17			会議室に呼び出した後も、 しばらく浜田さんは呼吸を落ち着かせるだけで、 なかなか本題に切り出さなかった。
18			奥さんに言われてやめていたはずのタバコを一本取り出し、 けど会議室がもう禁煙になっていることを思い出し、 余計イライラを募らせて…
19	浜田	Hamada	「編集長に辞表出したって…どういうことだよ」
20			仕方なしみたいに、やっと本題に入った。 まるで、本当はこんな話したくないみたいな態度だった。
21	春希	Haruki	「一身上の都合で… 辞めさせていただきます」
22	浜田	Hamada	「っ…」
23			…俺と同じように視線を泳がせていた。
24	鈴木	Suzuki	「…聞いた？ 今の、聞こえた？」
25	木崎	Kizaki	「ああ… 鈴木の顔見て聞き違いじゃないってわかったよ」
26	松岡	Matsuoka	「………」	"........."
27	鈴木	Suzuki	「どういうこと…？ ヘッドハンティング？」
28	木崎	Kizaki	「ないない。 今のところあいつをそこまで評価してるのって 風岡さんぐらいだし」
29	鈴木	Suzuki	「新人だもんねぇ… 身内しか知らないよね、彼の仕事ぶりなんて…」
30	松岡	Matsuoka	「ていうか………冗談でしょ？ だって、北原だよ？」
31	木崎	Kizaki	「松岡…」
32	松岡	Matsuoka	「あの責任感の塊だよ？ 規則の鬼だよ？」
33	鈴木	Suzuki	「………」	"........."
34	松岡	Matsuoka	「なんだよ、それ…」
35	浜田	Hamada	「…理由は？」
36	春希	Haruki	「急に辞めてしまうことになって申し訳ありません。 ただ、今抱えている仕事は全部終わらせてから…」
37	浜田	Hamada	「そんなこと聞いてない。 理由だ」
38	春希	Haruki	「………ですから、一身上の都合です」
39			やっぱり… こちらが一番言いたくないことは、 向こうが一番聞きたいことで。
40	浜田	Hamada	「家庭の事情とか？ でもお前、独身だよな？ もしかして、親御さんが何か？」
41	春希	Haruki	「親は関係ありません。 本当に、個人的な事情です」
42			少なくとも、自分の親は…
43	浜田	Hamada	「そんな勝手が許されるとでも思ってるのか？ それとも、いつもみたいに社則とか労基法とか 盾にでも取るつもりか？」
44	春希	Haruki	「………すいません」
45			一月以上前に告知すれば、 この会社は、社員の自主退職を却下することはできない。
46	浜田	Hamada	「お前、まだ一年目だろ？ これからにも程があるだろ？」
47	春希	Haruki	「………」	"........."
48			けれどもちろん、 そんな文章化された契約が全てじゃないって、 俺にだってわかってる。
49	浜田	Hamada	「お前らが会社を儲けさせるのに 何年かかるか知ってるか？ それまでは会社の金使い込んでるってわかってるか？」
50			仕事を通じて積み上げてきた、沢山の価値あるもの。
51			先輩から後輩に脈々と受け継がれてゆくスキル、人脈、 そして、絆。
52	浜田	Hamada	「いくらお前でも、まだ会社的には全然赤字なんだぞ？ なんの恩返しもできてないんだぞ？」
53	春希	Haruki	「わかって…ます」
54			それは、俺がこの場所に根を下ろすから… 自分の、会社の、そして社会のためになるからこそ、 先輩が、会社が無償で俺に与えてくれたもの。
55	浜田	Hamada	「だったら、何で… お前、バイトから這い上がってきたじゃないか。 ずっと上向いて頑張ってきたじゃないか…」
56	春希	Haruki	「浜田、さん…」
57	浜田	Hamada	「最初から、他の新人とは違っててさ… なんつ～か、いい意味で古くさい奴だって」
58			最初は、三年近く前。
59			コピーと使い走りと原稿取りの、 単純作業と肉体労働と寝ずの仕事から始まって。
60			けれど、俺が逆指名した鬼のような女性上司は、 すぐにその肉体労働よりもよほど体力を使う頭脳労働を 大量に押しつけてくれた。
61	浜田	Hamada	「真面目だけど、人とも合わせられるし、 理屈っぽいけど、自分がサボったり得するための 屁理屈は決して言わなかった」
62			一年後… 彼女は栄転で颯爽とアメリカに旅立つ際、 人数の減った編集部に、新卒の俺を押し込んだ。
63	浜田	Hamada	「たまに一人で突っ走ることもあるけど、 決して個人主義ってんじゃなくて、 何より、仕事と真剣に向き合ってた」
64			そして、それから今まで…
65			厳しくて適当な人たちに囲まれて、 苦しくて、楽しくて、いつも忙しい毎日を過ごして。
66	浜田	Hamada	「だから、風岡だってお前を特別に可愛がってた… それに俺だって、皆だって… いや、デスクや編集長だって…」
67	春希	Haruki	「ありがとう…ございます」
68			古くさい言い方だけど、 『男子一生の仕事』と思えるくらい、 面白さとやりがいを感じるようになれてきて。
69	浜田	Hamada	「なのに… 直属の上司にすら事前に一言もなく辞めるって、 一体どういうことなんだよ！？」
70	春希	Haruki	「………」	"........."
71			そして………これでおしまい。
72	浜田	Hamada	「ふざけんなよ！ どうして俺に相談しない？ 俺はそんなに信頼できない上司だったか…？」
73	春希	Haruki	「すいません…」
74	浜田	Hamada	「すいませんじゃ済まないよ… なんでだよ、北原…」
75			今まで積み重ねてきたスキル、人脈、絆… そんな、沢山の人生の価値が。
76	春希	Haruki	「でも、無理なんです。 相談したからってどうにかなる事情じゃないんです」
77			表紙に“辞表”と書かれた手紙一通で、 全て水泡に帰す。
78	浜田	Hamada	「それでも、上司に相談するもんだろう？ 仕方なくても、腹を割って話すもんだろう？ お前は、そういうことができる奴じゃなかったのか…？」
79	春希	Haruki	「申し訳ありません。 本当に…本当に、ごめんなさい…」
80	浜田	Hamada	「どうなってんだよ！ もう勝手にしやがれ！」
81			浜田さんは、完全にキれていた。 そして、もう諦めかけていた。
82			だって、この一年… いや、三年の付き合いで、もうわかってるから。
83	春希	Haruki	「………仕事に戻ります」
84	浜田	Hamada	「っ…」
85			俺が… 一度決めたことを上司に言われたくらいで覆すような、 そんな素直な部下じゃないってことが。
86	春希	Haruki	「あ…」
87	木崎	Kizaki	「北原…」
88	鈴木	Suzuki	「………」	"........."
89			ある意味、予想はしてたことだけど。
90			これでもう、 ここでの俺の居場所はなくなってしまったって、 そう実感させられる、皆の表情だった。
91	松岡	Matsuoka	「冗談…だよな？」
92			俺の冗談が壊滅的なことを知っていながら、 松岡さんは、それでも問いかけてきた。
93			その、今の俺を否定する言葉は、 今までの俺を肯定してくれているってことで、 本当はありがたい態度のはずだった。
94			それでも…
95	春希	Haruki	「お世話に…なりました。 来月いっぱいで、俺…」
96	松岡	Matsuoka	「な………んだよそれ。 なんでお前が先にいなくなるんだよ？ どう考えても俺が飛ばされんのが先だろ！」
97	鈴木	Suzuki	「松っちゃん…」
98	木崎	Kizaki	「………」	"........."
99			もう、峰城グラフのチームに、 元通りの空気が戻ることはない。
100			…少なくとも、俺がここにいる間は。
101			………	.........
102	曜子	Youko	「………」	"........."
103	春希	Haruki	「………」	"........."
104			夜も更けて、俺たち以外に人のいなくなった ホテルのカフェは、いつも以上に静寂に包まれていた。
105	曜子	Youko	「ギター君… いいえ、北原君」
106	春希	Haruki	「はい」
107			曜子さんがしばらく上を向いたまま 黙り込んでしまっていたせいで。
108	曜子	Youko	「あなた…本当にそれでいいの？ あの子のために何もかも捨ててしまって」
109	春希	Haruki	「今は俺の話じゃなくて、 曜子さんのことです」
110	曜子	Youko	「………」	"........."
111	春希	Haruki	「帰ってくれませんか？ 俺たちと…かずさと一緒に、ウィーンに」
112			俺が、ここ数日のうちにしたことを、 包み隠さず話してから。
113	曜子	Youko	「とうとう…やっちゃったのね。 あの子を…受け入れてしまったんだ。 自分のブレーキ、壊してまで」
114	春希	Haruki	「すいません… なんの相談もせずに」
115	曜子	Youko	「すいませんはこっちの台詞… あなたが実は危険なコだって気づいた時に、 無理にでも止めておくべきだった」
116	春希	Haruki	「反対…なんですか？ 曜子さんは、その、俺とかずさが…」
117	曜子	Youko	「反対なんてできない…できるわけない。 娘が、生まれてから今までで一番の幸せに浸ってるのに」
118	春希	Haruki	「い、いや、それほどのことじゃ…」
119	曜子	Youko	「けれど…最悪ね。 あの子の望んだ結果だけど、 わたしの望んだ結末とは違う」
120	春希	Haruki	「………」	"........."
121			曜子さんは、すごく微妙な表情で、 すごく極端な言葉で、 俺のしでかした行為を批判する。
122			…俺が裏切った他の人たちと同じように。
123	曜子	Youko	「あなたに大切な人がいなければ、 こうなってくれればいいと思ってた」
124			けれど、俺には心の底から大切な人がいて。
125	曜子	Youko	「かずさが、あなたを卒業できれば、 こんなことにはならなかった」
126			けれど、かずさの気持ちはあまりに純粋で、強くて。
127	曜子	Youko	「何より、わたしが病に倒れなければ、 あなたを巻き込まずにすんだ」
128			けれど、曜子さんは…
129	曜子	Youko	「…結論。 全部わたしの病気のせい」
130			やっぱり曜子さんらしく、 今のこの状況を総括した。
131	曜子	Youko	「一つずつ、歯車が狂った。 どんどん皆が望む方向からずれていって、 何もかもが壊れていくのを止められなかった」
132			自分も含め、悪い人間なんか誰もいない。
133			状況が、巡り合わせが、最終的には社会が悪いって、 そんなモラトリアム的な青臭い社会批判。
134			…俺の考えとはまるで正反対の、 どっちが年下なんだかわからない認識の齟齬。
135	曜子	Youko	「…結果的に、あなたの人生を。 わたしの娘が、壊してしまった」
136			だって俺は… どう考えても、俺が悪いって信じてるから。
137	曜子	Youko	「わたしが直接壊したなら、天罰も地獄行きも覚悟してる。 …けれど、我が娘が地獄に落ちるのは見るに忍びない」
138			何もかも、俺の決断で、俺の責任で。
139			その上で、今の俺にとって最善の決断をしたって。
140	曜子	Youko	「だから、ごめんなさい…」
141			だから、謝られる筋合いなんかないって。
142	曜子	Youko	「結局、あなたもかずさも、 日本にいられなくなってしまった…」
143	春希	Haruki	「別に、逃げる訳じゃありません。 二人で相談して、決めたことです」
144	曜子	Youko	「二人で相談したから逃げてないってのは、 全然説明になってないし…ついでに嘘よね？」
145			そんなふうに全然認識が違うくせに、 ところどころ本質を言い当ててくるところが 以前から少し苦手だった。
146	春希	Haruki	「曜子さん… かずさには、やっぱりあなたが必要なんです」
147			だから、無理やり話を切り替える。
148	春希	Haruki	「あなたのケアについては、俺が絶対に何とかします。 日本じゃなくても…ううん、日本以上に、 あなたに不自由はさせません」
149			いや、最初に話を逸らしたのは曜子さんの方だ。 俺は、会話を正しい方向に軌道修正しただけだ。
150			俺が今日彼女に会いに来たのは、 ただ、この申し出に首を振ってもらうためだけだった。
151	春希	Haruki	「だから…一緒に来てもらえませんか？ かずさのこと…一緒に護ってもらえませんか？」
152	曜子	Youko	「北原君…」
153			もちろん、縦に。
154	春希	Haruki	「あいつが辛い思いをしないように、 これからも、あいつを導いて…」
155	曜子	Youko	「どこまでお人好しなのよ。 …いいえ、どこまで人が悪いのよ、あなたは」
156	春希	Haruki	「え…」
157	曜子	Youko	「これから本当の意味で辛い目に遭うのは、 かずさじゃなくて、あなたなのよ？」
158			でも、そうやって性急に結論を求める俺を、 曜子さんは、そうやって何度も押し留める。
159			今の俺… そんなに危うく見えるんだろうか？
160	曜子	Youko	「かずさは、周囲にどう思われるかはさておき、 本人の中では、最高に幸せに生きていける。 だって、最愛の男に護ってもらえるんだもの」
161	春希	Haruki	「………」	"........."
162	曜子	Youko	「けれどあなたは…誰も護ってなんかくれない。 だって、かずさにそんな普通の力なんてないもの」
163	春希	Haruki	「曜子さん…」
164	曜子	Youko	「あの子はこれからも、 あなたが一生懸命頑張ってる横で寄り添ってるか、 気ままにピアノを弾いてるくらいしかできない」
165	春希	Haruki	「そんなこと…最初からわかってます」
166	曜子	Youko	「あなたには、 これから地獄が待ってるかもしれない」
167	春希	Haruki	「………」	"........."
168			曜子さんは… 今になって、今さらなことを言い出した。
169			…とびっきりの正論を。
170	曜子	Youko	「かずさを護るって使命を抱えたまま、 言葉も通じない、何もかもが初めての場所で、 一人で生きていくよりも過酷な人生を歩いていく…」
171			アリが冬に備えてせっせと働いているとき、 キリギリスは優雅に歌い、遊び。
172			だから冬を越せたのはアリだけ。 それが寓話の教えだった。
173	曜子	Youko	「しかも、絶対に立ち止まるわけにはいかない。 何しろ、あなたが倒れるってことは、 共倒れと同じ意味だから…」
174			そして寓話じゃない現実世界でも、 キリギリスが楽しそうにピアノを弾いているとき、 アリは必死で働いて冬の蓄えをしないといけない。
175			これからは、キリギリスの分まで。
176			これからは、自分たちの巣を離れて。 …他のアリたちと決別してまで。
177	曜子	Youko	「何もかも違う環境で、 そんな大きなプレッシャーを抱えて… いくらあなたでも、しっかり生きていけるかは…」
178	春希	Haruki	「俺は…」
179	曜子	Youko	「え…」
180	春希	Haruki	「俺は… かずささえいれば、大丈夫ですよ？」
181	曜子	Youko	「あなた…」
182	春希	Haruki	「あいつに護ってもらおうなんて思ってません。 これからも、自分の人生は自分で切り開きます」
183			それは、曜子さんに対しての 単なる意地なのかもしれなかった。
184	春希	Haruki	「ちゃんと現地で仕事を探して、言葉も勉強して、 二人…いや、三人だって抱えてみせます」
185			今まで散々煽っておきながら、 最後の最後に梯子を外されてしまったことに対して、 意趣返しをしたかっただけかもしれなかった。
186	春希	Haruki	「あいつが側にいれば、それができるんです。 それこそあいつは、 隣で気ままにピアノを弾いていればいい」
187			けれど… その時の俺は、その気持ちが嘘だなんて、 これっぽっちも思えはしなかった。
188	春希	Haruki	「そして俺は、かずさを護るためなら、 あなたの力にだってなってみせます」
189			それは、俺の数十倍も数百倍も稼ぐ、 俺より何十年も長く生きてきた人生の先輩に対して、 あまりにも不遜な申し出に違いなかった。
190			それでも俺は、本気で彼女の人生も背負うつもりだった。 それが、かずさをもっと幸せにできる手段だったから。
191	春希	Haruki	「だから、一緒に来てください。 あいつを世界一幸せなキリギリスにしてやってください」
192			アリと一緒に笑って冬を越せる。 そんな、幸せなキリギリスに…
193	曜子	Youko	「………」	"........."
194			曜子さんは、もう一度俺の顔をじっと見つめた。
195			説得するのを諦めたのか、ただ呆れただけなのか、 その顔には、脱力したような微笑が広がっていた。
196	曜子	Youko	「…北原君」
197	春希	Haruki	「は、はい…」
198			そして彼女は、 そんな柔らかな表情のまま…
199	曜子	Youko	「………ごめんなさい。 もう、決めたことなの」
200	春希	Haruki	「っ…」
201			今まで、避けに避けてきた結論を、とうとう口にした。
202			………	.........
203	かずさ	Kazusa	「そっか…やっぱりか」
204	春希	Haruki	「ごめん」
205	かずさ	Kazusa	「なんで春希が謝るんだよ？ 全部お前に任せたあたしが悪いに決まってるだろ？」
206	春希	Haruki	「けど…」
207	かずさ	Kazusa	「あたしが犯した罪のことも、 無茶なお願いのことも… 本当は、娘が母親に直接話さないといけないことだろ？」
208	春希	Haruki	「かずさ…」
209	かずさ	Kazusa	「最初からわかってた。 病気のことを聞いたときから覚悟はできてた。 だから、そんな心配そうな顔すんなよ」
210			かずさは、俺の絶望的な報告を聞いても、 まるで俺を鼓舞するかのように、強く振舞った。
211			…けれど。
212	かずさ	Kazusa	「でも、そっか… 母さん、もう日本を離れないのか…」
213	春希	Haruki	「………」	"........."
214			その強がりは、結局ほんの数秒しか保たなかった。
215			………	.........
216			曜子さんは、自分の決意を頑なに守り通した。
217			“死ぬときは自分の生まれた国で”という彼女の決意は、 何事にも優先されるべき崇高なものだって、 同じ日本人の俺は、認めざるを得なかった。
218			それでも…
219	春希	Haruki	「まだ行かないって決まったわけじゃない。 また来週にでも、もう一度説得してみるから」
220	かずさ	Kazusa	「春希…」
221			かずさは当然として、 俺も、ショックを隠しきれていなかった。
222	春希	Haruki	「曜子さん、今はちょっと気弱になってるだけだって。 もっと元気になれば考え方も変わってくるって」
223			曜子さんだけは、何があっても俺たちの味方だって…
224			なんだかんだ言って子煩悩なあのひとなら、 かずさの側にいてくれると思ったのに。
225	かずさ	Kazusa	「多分、もう無理なんじゃないかな…」
226	春希	Haruki	「そんなことないって。 諦めたら駄目だって」
227			ここで、負の連鎖は一息ついてくれるに違いないって、 結構、甘い期待をしてたのに。
228	かずさ	Kazusa	「弱気になってる時こそ本音って出るものじゃないか…」
229	春希	Haruki	「そんなこと誰が言ったんだよ」
230	かずさ	Kazusa	「あたしに決まってるだろ… つい最近、お前相手に見せたばかりじゃないか」
231	春希	Haruki	「っ…」
232	かずさ	Kazusa	「だから、わかるよ… 母さんは、本当に日本に残りたいんだよ。 それが何よりも大きな願いなんだ」
233	春希	Haruki	「けどお前… 曜子さんだけ一人、日本に残ったら…」
234			もしかしたらかずさは、 彼女の最期に立ち会えないことも…
235	かずさ	Kazusa	「心配すんなよ。 ヨーロッパの冬馬曜子オフィスが開店休業になっても、 あたし一人の稼ぎ口くらい、なんとかなるって」
236			けれどかずさは、その最悪の想像を 敢えて思いつかないかのように振舞う。
237	春希	Haruki	「なんとかなるって…どうやって？ お前が事務所回せるのか？」
238	かずさ	Kazusa	「もっと手っ取り早い仕事やるよ。 そうだな、近所の子供にピアノを教えたりとか。 それなら、自分の腕だけで稼げるだろ？」
239	春希	Haruki	「お前が先生？ …そりゃ、とんでもなく面白い冗談だな」
240			だから俺も、そんなかずさの会話に合わせる。
241	かずさ	Kazusa	「その突っ込みはとんでもなくつまらないけどな。 …子供相手ならなんとかなる。馬鹿にするな」
242			だって、その可能性を思い悩んでいたら、 俺たちは、一歩も進めなくなってしまうから。
243			彼女が日本を… 峰城大病院を戦場として選んでしまった以上、 俺たちは、彼女の側にいることはできない。
244	春希	Haruki	「それこそ子供を馬鹿にするなよ。 大人以上にコミュニケーション能力が必要になるんだぞ」
245			俺たちに、日本に残るという選択肢はない。
246			これ以上罪を犯せない…
247			雪菜のいる場所に、 俺たち二人が根を下ろすことはできない。
248	かずさ	Kazusa	「…なぁ」
249	春希	Haruki	「ん？」
250	かずさ	Kazusa	「今日も、そっちで寝ていいか？」
251	春希	Haruki	「かずさ…」
252	かずさ	Kazusa	「寝るだけだよ。 ちゃんと、お前との約束は守る」
253	春希	Haruki	「別に、お前の方を心配してる訳じゃ… むしろ自分の理性が保つかってのが」
254	かずさ	Kazusa	「それこそ心配したって仕方ないだろ。 お前の意志がそんなに弱いわけがないし、 そもそも勝手に誓いを立ててるのはお前だ」
255	春希	Haruki	「………」	"........."
256	かずさ	Kazusa	「…あたしの気持ちなんか、 これっぽっちも考えてくれずにさ」
257	春希	Haruki	「…ごめん」
258	かずさ	Kazusa	「いいよ、わかってる。 お前がそういう奴だってことは、 ずっと前からわかってるんだ…」
259			そうだ…
260			雪菜のいる場所に、 俺たち二人が根を下ろすことはできない。
261			愛を育むことなんか、できるわけが…
262	春希	Haruki	「あ…」
263	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
264	春希	Haruki	「悪い。マナーモードにするの忘れてた」
265	かずさ	Kazusa	「別に、出てもよかったんだぞ」
266	春希	Haruki	「いや、後で掛け直すから」
267	かずさ	Kazusa	「もしかして…雪菜？」
268	春希	Haruki	「違う。仕事関係。 それも、多分急ぎの用じゃないから」
269	かずさ	Kazusa	「そう…」
270			かずさは、俺の答えを ほんの少しだけ信じていないみたいだった。
271			けれど俺の言ったことは本当だ。 それは、雪菜からの電話じゃなかった。
272			…けれど、俺の言ったことは嘘だ。 それは、仕事関係の電話じゃなかった。
273	春希	Haruki	「………帰ろう。 腹減ったろ」
274	かずさ	Kazusa	「うん…」
275			本当なら、もう少し時間が欲しかった。 あいつらになんて話すか、考えたかった…
276			着信画面に表示された『飯塚武也』の文字を、 俺は、電源とともに消した。

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