White Album 2/Script/3016

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	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	浜田	Hamada	「…それでさ」	"...Alright."
2	春希	Haruki	「はい？」	"Yes?"
3	浜田	Hamada	「昨日のコンサートのレポートは？」	"Your report on yesterday's concert?"
4	春希	Haruki	「それは…」	"Here it is..."
5	浜田	Hamada	「…って、昨夜の今朝でってのはさすがに言い過ぎか。 ま、いいや、次回で」	"...From last night to this morning might be an exaggeration. Well, who cares, let's see next time."
6	春希	Haruki	「………」	"........."
7			思い返すまでもなく…
8			昨日、俺が取った行動は、 今の仕事的には致命的なエラーだった。 それこそ、雪菜のケースとは比較にならないくらい。
9	浜田	Hamada	「うん、今までのところはいい感じじゃないか。 ぶっちゃけ、かなり人間的魅力が出てると思う。 相当踏み込んだなお前」
10	春希	Haruki	「ありがとう、ございます」
11			本来なら、今すぐ昨夜の失態を上司に報告し、 指示を仰ぐのが当たり前なんだけど…
12			『次回報告の時にどう言い訳しよう』とか、 そんなことを考えて気を重くしてる俺は、 新人とは言え社会人失格も甚だしい。
13	浜田	Hamada	「でさ、話は戻すけど、 どうだったコンサート？ 俺、仕事の関係で行けなくてさ」
14	春希	Haruki	「あ、いや、その…」
15			けれど、悪は栄えずというか、 いつまでも隠し通せる訳もなく。
16	浜田	Hamada	「なんだよ？ 随分と微妙な反応だな。 もしかして、大したことなかったか？」
17	春希	Haruki	「いえ、そういう訳じゃなくて… あの、申し訳ありません、実は俺…」
18	浜田	Hamada	「てことは本当だったんだなぁ…この記事」
19	春希	Haruki	「…記事？」
20	浜田	Hamada	「今朝の東経新聞の文化欄… 昨日のコンサートのことが小さく載ってるんだけどさ、 これが…」
21			浜田さんは、俺のカミングアウトの気配に気づかず、 テーブルの上に、手に持っていた新聞を投げ出した。
22	春希	Haruki	「もしかして…評判悪いんですか？」
23	浜田	Hamada	「いや、全体的にはいいよ？ スポーツ紙でも、ネットでの評判も」
24	春希	Haruki	「それって…」
25	浜田	Hamada	「ほとんどの記事が、当日の盛況ぶりとか、 冬馬かずさを初めて見た感想とかばかりで、 実際に演奏をきっちりレビューしてるのは…」
26	春希	Haruki	「この記事だけ…？」
27	浜田	Hamada	「それだって別に酷評してる訳じゃない。 技術は世界レベルだってちゃんと評価してるし」
28	春希	Haruki	「………」	"........."
29			その『技術は世界レベル』って言葉を聞いた瞬間、 なんとなく浜田さんの言いたいことが…
30			この記事に潜んでる皮肉が見えてしまった。
31	浜田	Hamada	「それにその評論家、辛口で有名でな。 来月の音楽誌を見てみないと、 本当の評価は出てこないけど」
32			軽く流してみただけでも、 気になる文章が次から次へと目に留まる。
33			『明らかに準備不足』
34			『高い技術で表面上は取り繕っているが、 表現力が追いついてきていない』
35			『後半に行くにつれ勢いがなくなっていく流れを せき止めるほどの体力と経験に恵まれていない』
36			『長丁場のソロコンサートを一人で弾き切るには、 色々と不足していると言わざるを得ない』
37	浜田	Hamada	「ただ、昔からアンサンブルでも記事書いてる人でな、 編集長も結構信頼してるそうだ」
38	春希	Haruki	「そう、なんですか…」
39			『去年のコンクールでの演奏は確かに素晴らしかった』
40			『しかし昨日の演奏は、まるであの２０分の輝きを そのまま２時間に伸ばしただけのような 希薄さを感じた』
41			気を使ってるのか挑発してるのか、 色々な表現を駆使してるけど、 多分、言いたいことはただ一言でしかない。
42			“失速”
43			『今回のことは、日本での旬を逃すまいとするあまり、 時期尚早な決断をした主催者… つまり母親である冬馬曜子にも責任がある』
44			『自分の娘の“売り時”に惑わされず、 じっくり腰を据えて育てる度量が 必要だったのではないか』
45			『このまま世間での評判に流されて、 “流行歌手”ならぬ“流行ピアニスト”のままで 終わらないことを切に願う』
46	春希	Haruki	「………」	"........."
47			技術はあるけれど、体力が追いついていない…？ 毎日十時間、平気で弾いてる奴が？
48			それともコンサートってのは、練習に比べて 何倍も体力と精神力を奪うって意味だろうか？
49	浜田	Hamada	「今のところ編集長から何も言ってきてないが、 今回の特集にとっては、 少し逆風が吹いたかもしれないな」
50			技術ばかりで表現力が足りない…？
51			『テクニックなんか全然大したことなくて、 ただ、感情任せの力任せなんだけど、 そこがわたしの趣味なのよね』
52			それは、俺が知ってる唯一のかずさ評… 五年前の曜子さんの言葉とまるで正反対だった。
53			この五年でかずさは、 粗さが取れて、テクニックに磨きがかかり、 …けれど、そのせいで勢いを失ったってこと？
54			それとも…
55	春希	Haruki	「冬馬かずさと…連絡取れますか？」
56	浜田	Hamada	「それはこっちが聞きたいよ。 …今朝から事務所のほうにかけても、 母娘ともども音信不通って言われてる」
57	春希	Haruki	「曜子さんも…？」
58	浜田	Hamada	「やっぱり失敗だったってことなのかな、 昨日のコンサート。 それで、報道陣をシャットアウトしてるのかも」
59	春希	Haruki	「………」	"........."
60			あり得ない。
61			そんな、感情任せで力任せな…
62			たった、その程度のことで、 自分のピアノすらろくに制御できない、 ワガママで気まぐれなプロなんているわけが…
63	春希	Haruki	「かずさ、かずさ」
64	春希	Haruki	「………っ」
65			わかってはいたことだけど、 部屋には、戻っていなかった。
66			他の階の人に聞いてみても、 ここから荷物を運び出した様子もなかったし、 多分、中はあいつが住んでいたままのはず。
67			…だからって、 あいつが衝動的に行方をくらましたなんて 結論付けるには早計過ぎる。
68			明日には業者が来るかもしれない。 ずっとホテルに滞在しっぱなしなのかもしれない。
69			コンサートの結果なんて、 まるで気にしていないかもしれない。
70			俺の…考え過ぎかもしれない。
71			探すべきなのか、俺は？ 本気で、かずさのこと見つけるべきなのか？
72	春希	Haruki	「………」	"........."
73			いや…
74			見つけるべきに、決まってるじゃないか。
75			だって… 雪菜と、約束したんだ。
76	春希	Haruki	「わたくし開桜社編集部の北原と申します。 いつもお世話になっております。 はい、そうです。冬馬かずささんの担当の…」
77			もう、逃げないって。 かずさと向き合うって。
78	春希	Haruki	「今朝、弊社の浜田の方からも 連絡させていただいたと思うのですが…」
79			『行けなくてごめん』って、謝るって。
80	春希	Haruki	「そうですか、まだ… では、曜子さん…冬馬社長も？」
81			かずさを、安心させるって。
82	春希	Haruki	「では、連絡が取れましたら、 至急北原に連絡を下さいとお伝え願います。 連絡先申し上げます…」
83			みんなが、幸せになれるように努力するって。
84			だって、心配だから。 ………“友達”、なんだから。
85	春希	Haruki	「わたくし開桜社編集部の北原と申します。 いつもお世話になっております。 はい、そうです。冬馬かずささんの担当の…」
86			そして… もう心配ないんだから。
87	春希	Haruki	「今朝、弊社の浜田の方からも 連絡させていただいたと思うのですが…」
88			だって俺は、雪菜と気持ちを確かめ合ったんだから。 しかも、将来の約束まで…
89	春希	Haruki	「そうですか、まだ… では、曜子さん…冬馬社長も？」
90			だから、友達の消息を心配する程度のことを、 雪菜が気にしたりするはずがない。
91	春希	Haruki	「では、連絡が取れましたら、 至急北原に連絡を下さいとお伝え願います。 連絡先申し上げます…」
92			俺は…人として当たり前のことをしてるだけだ。
93			………	.........
94	春希	Haruki	「…そうですか。 ええ、結構です。ありがとうございました。 では失礼します」
95	春希	Haruki	「おっと…」
96			電話をかけている間に、 いつの間にか煮立っていた鍋の火を弱める。
97			蓋を開けると、いい感じにスパイスの香りが漂う。
98	春希	Haruki	「次は………うえっ」
99			あれから[R同業者^こころあたり]に片っ端から電話を入れたけれど、 結局、全てが空振りだった。
100			とはいえ、それはほぼ予想通りで…
101			たった数日で『極端なマスコミ嫌い』の称号を授かった 件の若手ピアニストは、その大嫌いなマスコミに、 自分の痕跡を残すようなミスを犯さなかった。
102			…何しろ、コンサート前日までは 俺が完全にガードしてたんだから。
103	春希	Haruki	「わたくし開桜社編集部の北原と申します。 いつもお世話になっております。 恐れ入りますがシャンディ編集部の板倉さんは…」
104			結局、今となってはそれが仇となり、 かずさの行方をマスコミ関係から割り出すのは、 どうやら相当に難航しそうだった。
105			やっぱり、明日にでも曜子さんを捕まえるしかないか。
106			多分、それが唯一にして、一番確実で、 そして安全な方法に違いないから。
107	春希	Haruki	「出張ですか…わかりました、では結構です。 また明日連絡させていただきますので、 電話があったことだけお伝えください、では…」
108	春希	Haruki	「はぁっ…」
109			とにかく今日はもう、 むやみに外へ探しに行くのはやめよう。
110			あいつがいつ帰ってきてもいいように、 今夜はずっと、このまま部屋にいよう。
111			だって、別にそんなに心配する必要なんかない。
112			もしあいつが本当に行方をくらましてるとしても、 それは多分、ちょっと拗ねてるだけだ。
113			話せば、謝れば…すぐ誤解は解ける。 “友達”として、仲直りできる。 “仕事相手”として、和解できる。
114			だから俺は、“友達”をほんのちょっとだけ心配して、 “仕事相手”をほんの少しフォローすればいい。
115	春希	Haruki	「よし、そろそろ…」
116			別に、今日の夕食をすぐに食べられるカレーにしたのも。 一人だと一週間かかっても食べきれない量を作ったのも。
117			大した意味はない…よな？
118	春希	Haruki	「っ！」
119			その瞬間…
120			噂をすれば…を地で行くように、 隣室のドアが開く音がこっちまで響いてきた。
121	春希	Haruki	「かずさ、おい、かずさ！ お前、今まで一体どこに！」
122			ほら、やっぱり大した意味なんかなかった。 待ってれば帰ってくるってわかってた。
123			けれど、一言言ってやらなければ気が済まない。
124			何しろ、丸一日行方をくらまして、 散々関係者に迷惑かけやがったんだから。
125	春希	Haruki	「開けろ！　帰ってきてんだろ！ お前、話があるって言ってんだろ！」
126			隣人で友人で仕事相手としては、 そのくらいの義憤に駆られるのは当然だろ…？
127			………	.........
128			……	......
129			…	...
130	春希	Haruki	「…どうもお騒がせしました。 本っ当～にすいません！」
131			…二軒隣の住人だった。 我ながらあまりにベタ過ぎて目眩がした。
132			………	.........
133	春希	Haruki	「はい、はい…では、何かありましたら携帯の方に。 お手数かけます。では失礼します」
134	春希	Haruki	「ふぅ…」
135	鈴木	Suzuki	「ただいま戻り…あれぇ？ 久しぶりじゃん北原君！」
136	春希	Haruki	「…メールじゃ毎日会話してるじゃないですか。 昨夜の指示もちゃんと対応しときましたんで、 後で確認してくださいよ」
137			最近の鈴木さんの仕事の振り具合は、 以前の遠慮が取れ、 そりゃもういい感じに堂に入ったものだった。
138			それでもまぁ、俺の中の理不尽ランキングは、 浜田さんともう一人に次いで三位程度だけど。
139	鈴木	Suzuki	「それで、なんで出社してんの？ 今って冬馬かずさに 張り付きだったんじゃなかったっけ？」
140	松岡	Matsuoka	「逃げられたんだってさ…痴情のもつれで」
141	鈴木	Suzuki	「えええええ～！ それってつまり元カレの立場を利用して あんなことやこんなことしまくったツケが！？」
142	春希	Haruki	「勝手に話作らないでください。 同じクラスにいたら付き合ってたことになるんだったら、 今ごろ俺は飯塚武也と呼ばれてます」
143	鈴木	Suzuki	「…誰、それ？」
144			今の俺、ちゃんと普通の顔できてたかな…？ 声、上滑りしてなかったかな…？
145	春希	Haruki	「ただ、ちょっと連絡が取れなくなっただけです。 …ほんの一昨日から」
146			結局、昨夜のうちにかずさの足取りは掴めなかった。
147			心当たりの連絡先はことごとく空振り。 ちょっとした物音は全て風のいたずらで。 終電間際の南末次駅にも人の気配はなかった。
148			俺は、色と音の消えた部屋で夜明けまでかずさを待ち、 部屋に光が差し込むと同時に行動を開始した。
149			一晩中、一睡もしなかったけれど、 頭の中は嫌になるくらい覚めていた。
150	鈴木	Suzuki	「一昨日からって…それっておおごとじゃない！ コンサート終わってから足取りがつかめないってこと？」
151	松岡	Matsuoka	「所属事務所の方にも連絡行ってないんだろ？ やっぱ警察に捜索願出した方が…」
152	春希	Haruki	「警察になんか通報して、 マスコミに嗅ぎ付けられたらどうするんですか？ 最悪ですよそれ」
153	鈴木	Suzuki	「いや、まぁ、それはそうだけど、 何となくその言い方は釈然としないというか…」
154	春希	Haruki	「どうせ単なる気まぐれに決まってます。 コンサート終わったからぶらりと一人旅とか。 …昔から人の迷惑考えないんだから、あいつは」
155	松岡	Matsuoka	「あいつ…？」
156	春希	Haruki	「あの御方は！」
157			その言い方は、心にもない演技だったけど…
158			そうやって自分に言い聞かせることで 俺はギリギリ精神の均衡を保ってた。
159			だって、自分の責任を認めたくなかった。
160			俺のしたことが致命的に間違ってたなんて。 かずさのピアノに、強い影響を与えてしまったなんて…
161			そんなはずはない。 あいつはそんな心の弱い奴じゃない。
162			天才で、マイペースで、唯我独尊で…
163			俺みたいな何の変哲もない一般人に振り回されるような、 そんな普通の女の子じゃないはずだ。
164			………って、信じていたかったのに。
165			…本当に、なにやってんだよ馬鹿野郎。 昔から人の迷惑考えないんだから。
166	春希	Haruki	「お世話になっております。 冬馬曜子オフィスの北原です」
167	鈴木	Suzuki	「…どこの北原だって？」
168	松岡	Matsuoka	「マスコミ相手だと個人情報がどうとかうるさいからって。 で、身内と名乗れば相手も口が軽くなるだろうって…」
169	鈴木	Suzuki	「自分の仕事によっぽど誇りがあるんだね。 いつの間にか立派なハイエナになって…」
170	春希	Haruki	「はい、はい………そうですか！ その時間にホールの裏口に？」
171			理不尽ランキング二位三位の先輩たちの いらぬ気遣いをよそに、 俺は、携帯を持つ手に力をこめた。
172			それは、朝一で電話をかけまくった、 都内のとあるタクシー会社からの コールバックだった。
173	春希	Haruki	「その運転手さん…ええ、村岡さん… １３時に一度そちらに戻るんですね？ わかりました、すぐに伺います！」
174			一昨日の深夜… 御宿芸術文化ホールの裏口で、 長い黒髪の若い女性を乗せたタクシーがいた。
175	春希	Haruki	「ありがとうございました！ では後ほど。はい、失礼します」
176	春希	Haruki	「出かけてきます！ 今日は直帰します！」
177	松岡	Matsuoka	「あ、ああ…お疲れ」
178	鈴木	Suzuki	「頑張ってね…元カレ君」
179			今日もまた、長い戦いが始まる。
180			けれど、昨日みたいな先の見えない徒労感は、 もう感じずに済むはずだった。
181			目の前の問題が解決したその先に、 今度は一体何が待ち受けてるのかは… 今は、考えないことにした。
182	春希	Haruki	「だから元彼違いますから」
183			………	.........
184			……	......
185			…	...
186	春希	Haruki	「………はぁ」
187			…と、徒労感を感じずに済んだのは、 ほんの数時間だけだった。
188			結局、やっと掴んだと思った蜘蛛の糸は、 手元からあっさりと断ち切られてしまったから。
189			一昨日の夜、冬馬かずさらしき女性を乗せたタクシーは、 確かにその夜の彼女の滞在先であったはずの、 御宿インペリアルホテルの前でその客を降ろしていた。
190			けれど、ホテルにあいつが戻ったという事実はなく、 その付近であいつらしき女性を見たという人も、 他には見つかることはなかった。
191			…ただ、運転手の漏らした 『車内でのその女性の様子』が、 俺の心に更に重くのしかかっただけだった。
192			声を押し殺して、泣いてたって…
193	春希	Haruki	「あ、浜田さんですか？　北原です」
194			結局、またしても捜索は振り出しに戻り、 その間、何の進展もなく。
195	春希	Haruki	「その後、冬馬曜子オフィスから連絡は…そうですか。 それじゃ、曜子さんの所在も、まだ…？」
196			かずさも、曜子さんも、 一体どこに行ってしまったんだろうと、 徒労感に苛まれる時間がやってきた。
197			もうすぐ、日が暮れる。 冬の寒い夜が、訪れる。
198			せめて、暖かい場所にいてくれよ、かずさ…
199			………	.........
200			……	......
201			…	...
202	春希	Haruki	「………っ」
203			元から多くなかった手がかりを全て失った俺は、 夕方から、記憶と思い出を辿った。
204			今と昔… かずさが『そこにいた』ことを覚えている場所。
205			真っ先に、閉門前の峰城大付属に駆け込み、 教室、体育館、第二音楽室… そんな数日前と数年前の共通項は、見事に空振った。
206			そこから、末次町、岩津町、柴田さん宅。 …老夫婦には異変に気づかれないよう、 言葉の選び方に特に気を使い。
207			念のため、今日こそ帰宅していないかと 南末次から俺の部屋とその隣。 引っ越し業者もまだ訪れてなかったのは幸か不幸か。
208			そしてそして…最後の、本当に最後の砦… 岩津町６－２－１２。
209	春希	Haruki	「馬鹿か…俺は」
210			あまりのことに、目眩がした。
211	かずさ	Kazusa	『もう、二度とここには来ない』
212			そんなあいつの負け惜しみを信じて、 ここを最後まで探さなかった俺の愚かさに。
213	春希	Haruki	「馬鹿か…あいつは」
214			数年間手入れされず、蔦が絡まった塀。
215			その一部が、明らかについ最近削り取られてる。
216			…ちょうど、靴で擦り切ったみたいに、二、三箇所。
217	春希	Haruki	「よっ…と」
218			塀の上に手をかけ、 その削り取られた部分に足を掛ける。
219			そこはやっぱり、足場としてぴったりな高さだった。
220			そのまま、塀の上に体を乗せて、 おっかなびっくり向こう側へと飛び降りる。
221			…これで、言い訳のしようのない住居侵入罪。 会社にバレたら間違いなく懲戒処分の対象。
222			けれど今は、そんな社会的制裁を 気にしてる余裕なんかなかった。
223			………	.........
224	春希	Haruki	「………っ」
225			そして、その俺の余裕のなさは、 望まない形で正しく報われてしまう。
226			雑草の生い茂る庭を横切り、 リビングに面した窓にたどり着いた時…
227			月明かりの中でもわかってしまうほどの、 明らかな変異が目に飛び込んできた。
228			破られたガラス。 ロックの外された窓。 周囲に散らばる破片。
229			それだけでも相当に無思慮で衝動的な、 とんでもなく愚かしい行為なのに、 それらをさらに上回る馬鹿げた痕跡が残ってる。
230	春希	Haruki	「かずさ！ かすさ、どこだ！？」
231			割れたガラスに点々とこびり付く、 赤い、染み…
232			力いっぱい押したはずの窓は、 長い年月放置されていたことを示すように、 簡単には、開かなかった。
233			………	.........
234	春希	Haruki	「っ…」
235			部屋の中に踏み込んでまず肌に感じたのは、 外以上かもしれない、体の芯に突き刺さるような寒さ。
236			かつては広い窓いっぱいに陽光を取り込み 快適だった冬馬家は、今は生い茂る草木に遮られ、 冬いっぱいかけて、じわじわとその室内気温を下げていく。
237			今のここは『暖かい場所』どころか、 『いつ凍え死んでもおかしくない場所』にすら思える。
238	春希	Haruki	「かずさ！　返事しろ！ お前、いるよな？ いるんだよな！？」
239			かずさ以外の人間が潜んでる可能性は考えなかった。 考える必要もなかった。
240			こんな空虚な家に、こんな何もない場所に、 自分を傷つけてまで入ろうとする人間なんて、 他にいるはずがなかった。
241			窓についていた血の跡は、今度は床に点々と続き、 リビングから廊下へと続いてるみたいだった。
242			そこから先はもう、月明かりも届かないから、 俺は携帯のライトを頼りに、 赤い染みを辿っていくしかなかった。
243			はやる心とは裏腹に、歩みは遅々として進まない。
244			心許ない携帯の灯りはすぐに赤い痕跡を見失い、 床を這いつくばるように慎重に進むしかなかった。
245			床は、不動産屋が定期的に清掃しているのか、 それほど埃っぽさを感じさせなかった。
246			そして、迷路ならぬ一本道の廊下は、 ゆっくりとではあったけど、確実に俺を目的地へと誘う。
247			………ある意味予想通りだった、 地下のスタジオへと続く階段に。
248			視界は完全に暗闇に遮られ、 もう、自分がどこを向いてるのか、 本当に進んでいるのかすらわからない。
249			ただ、五年前の数日間、 何度か行き来した記憶を頼りに、 手探りで階段を下り、スタジオへと続くドアを求める。
250			そして… やっと、辿り着いた。
251			あいつが… 冬馬かずさという名前の馬鹿が待っている場所へと。
252	春希	Haruki	「かずさ…？」
253			とっくに電気の来ていない地下室…
254			温かさを運ぶ要素が何一つないせいで、 そこはまるで冷蔵庫の中に閉じ込められたみたいな 寒さと怖さと寂しさを感じさせた。
255	春希	Haruki	「かずさ…かずさ！」
256			携帯の、ほのか過ぎる灯りでは、 この広い部屋全てを照らせないから、 俺はあいつの返事を期待して大きな声を出す。
257	春希	Haruki	「聞こえてんだろ！？ いい加減にしろよ！ いつまでも拗ねてないで…っ！？」
258			何も見えない部屋の中は、 どうやら他の部屋のように空っぽではないらしく、 コードやら楽器やらの残骸が俺の足をすくう。
259			そんな、人を探すには八方塞がりの状況で、 けれど限られたスペースであることを励みに、 何度もつまづきながら、またしても床を這いつくばり。
260			そして…
261	春希	Haruki	「かずさ…？」
262	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
263			ようやく、本当の本当に辿り着いた。
264			壁にもたれ、膝を抱えて眠っている、 この世で一番の、馬鹿…
265	春希	Haruki	「かずさ…おい」
266	かずさ	Kazusa	「………っ」
267			床に手をついた俺と同じ高さから、 かすかに聞こえてくる息遣い。
268			俺の呼びかけにも応えず、 けれどすぐ近くに潜んでいたかずさは…
269	春希	Haruki	「かずさ、かずさ！ おい、しっかりしろって、おい～！」
270	かずさ	Kazusa	「………っ、は、ぁ…」
271			近づいただけではっきりとわかるくらい、 熱い身体と、熱い息をしてた。
272			………	.........
273			……	......
274			…	...
275	春希	Haruki	「っ…はぁ、はぁ…っ」
276			室内の突き刺さるような寒さが、 今だけは心地良かった。
277			目覚めないかずさを背負い、 足場の悪いスタジオを出て、急勾配の階段を上がり、 いちいち軋む廊下を歩いて戻ってきたリビング。
278			そこでゆっくりとかずさを床に降ろし、 地下室の時のように、壁にもたれさせる。
279	春希	Haruki	「………かずさ？」
280	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
281			まだ、その目は開かない。 意識は戻らない。
282			更に、背中におぶったときに感じた予想以上の熱さが、 ますます俺の余裕を奪っていく。
283			これで、何度目だろう…
284			五年前、学園祭の成功のために、 何日も徹夜を繰り返したとき。
285			数日前、自分の帰る場所を見つけられず、 冷たい雨の降る街で震えてたとき。
286			いつもいつも、強がるくせに最後の最後に倒れ、 俺をいたたまれなくさせやがる、ずるい奴…
287	春希	Haruki	「かずさぁ…」
288	かずさ	Kazusa	「………ぁ、はぁ、ぁ」
289			正面に膝をつき、額に手を当てると、 熱さと共に、噴き出た汗がへばりつく。
290			ほんの少し開いた口からは、 相変わらず風前の灯火のように小さな吐息。
291			そして、そして…
292	春希	Haruki	「っ…」
293			何よりも俺が心を掻きむしられたのは、 右手の甲を彩る、赤黒い呪詛のしるし。
294			そこは、ガラスでざっくりと傷つけられ、 周囲が黒く乾いているにもかかわらず、 未だに赤い液体を染み出させている。
295			多分、手に持った石でガラスを突き破り、 商売道具の右手まで思い切り傷つけて…
296			こいつのしたことは、 その職業からは、普通とても考えられない、 あまりにも愚かな蛮行としか言いようがなかった。
297	春希	Haruki	「馬鹿、野郎…っ、 なに考えてんだ…」
298			汗に似た水滴が、その赤い手に落ちる。
299			あまりにも愚かな蛮行を嘲笑おうとして失敗した、 あまりにも愚かなひとしずく。
300	かずさ	Kazusa	「っ…」
301			俺の両手の中で力なく広げられた白くて細い指が、 その微かな刺激を受けて、ほんの少しだけ動く。
302			女性の指を、『まるで白魚のよう』と 形容することがあるけれど…
303			かずさのは、そういう指と同じくらい白くて細いくせに、 同時にあまりの力強さと硬さとしなやかさが伝わってくる。
304	春希	Haruki	「なに、考えてんだよ…お前は」
305			そんな、繊細で強靱な芸術品が、 今は[R惨^むご]たらしく引き裂かれ、赤く染まっている。
306			あまりにも理不尽で、 あまりにも悲しくて、 あまりにも悔しくて。
307			そして、あまりにも狂おしくて…
308	春希	Haruki	「ん…」
309	かずさ	Kazusa	「………っ」
310			いつの間にか、俺の口の中に鉄錆の味が広がる。
311	春希	Haruki	「ん、んん…」
312			最初は、自分がこぼしたしずくを 拭き取るだけのつもりだった。
313			傷の消毒だけのつもりだった。 破片が残ってないか確かめるだけのつもりだった。
314	春希	Haruki	「ちゅ…ふ、ん…んく」
315			自責の念を拭うには身勝手すぎる。 安堵の感情を伝えるには激しすぎる。
316			それ以外の、もっと強い想いを伝えるには、 覚悟がなさすぎる、そんな行為。
317	春希	Haruki	「んぅ…ん、ちゅ、ん、ぷ…」
318	かずさ	Kazusa	「っ…ぅ」
319			けれど、明らかに自分の引いた線を逸脱した行為。
320			また俺、ぶれてしまってる。
321			かずさを気遣うだけじゃない、 別の気持ちがこの行為に込められてる。
322			叱らなくちゃ、説教しなくちゃ… そして、謝らなくちゃならないのに。
323			けれど今してるのは、 そのうちの、どの態度にも当てはまらない、 傷口への…そしてかずさへの、口づけ。
324	春希	Haruki	「んん…んく…あむ…」
325	かずさ	Kazusa	「………ぁ？」
326	春希	Haruki	「あ…」
327			温かさか、くすぐったさか、痛さか…
328			俺に舐められてるかずさの右手が、 今度はしっかりと動いた。
329	かずさ	Kazusa	「………え？」
330			腕に、まだ弱々しかったけれど力が戻り、 そして俯いていた顔が徐々に持ち上がり。
331			閉じていた目がゆっくりと開かれ、 瞳に、月の光が反射する。
332	春希	Haruki	「かずさ…？」
333	かずさ	Kazusa	「………春希？」
334	春希	Haruki	「かずさ…かずさっ！」
335	かずさ	Kazusa	「ぁ…ぁぁ…」
336			暗がりの中、二度、三度と目をしばたたかせ、 ゆっくりと、焦点を目の前の見飽きた顔に合わせ…
337			俺に、合わせ…
338	春希	Haruki	「良かった、かず…っ！？」
339			瞬間…
340			俺の手の中にあった右手を強引に引き抜くと、 そのまま、大きく振り回した。
341			左頬に、想像以上の衝撃が伝わり、 俺は大きくバランスを崩し、右手をつく。
342	春希	Haruki	「な…っ？」
343	かずさ	Kazusa	「うわああああっ！ あ～っ、ああああああ～っ！」
344			それは、意識が朦朧としてるからでも、 俺を見知らぬ暴漢と間違えた訳でもなかった。
345	かずさ	Kazusa	「春希、春希っ！ お前は、お前はぁ…っ！ ああっ、あ…うあああああああっ！」
346			その目が、俺を強すぎる光で見つめてた。 その口が、紛れもない俺の名を叫んでた。
347	春希	Haruki	「やめろ、やめ…っ、 お前、手…っ」
348			その右手が、俺の頬を思い切り強く捕らえてた。 …深い傷を負ったはずの右手が。
349	かずさ	Kazusa	「なんで、なんで… どうして、くそ、春希、春希… うあぁぁ…なんでだぁぁぁぁっ！」
350	春希	Haruki	「っ…だから、やめ…っ、 殴るな、そんなこと、しようとすんなっ！」
351			倒された俺の上にのしかかり、 今度は左手までも拳を振るう。
352	かずさ	Kazusa	「なんで来なかった！？ あたしの…あたしのっ！」
353			多分、かなり強く殴られてる。 女性の拳によるものとは思えないくらいの力で。
354			けど今の俺に、 その痛みを感じる余裕なんかあるわけがなく…
355	春希	Haruki	「やめろって言ってんだろ！ お前、自分の指がいくらするか知ってんのかよ！？」
356	かずさ	Kazusa	「知るかぁぁぁっ！」
357	春希	Haruki	「っ…知るかで済むか！ いい加減にしろっ！」
358	かずさ	Kazusa	「離せ…離せぇっ！」
359	春希	Haruki	「離すかよっ！」
360			右腕に続いて左腕も手首から捕まえ、 かずさの両手の自由を奪う。
361			…そして俺は、かずさの両腕の自由を奪う代わりに、 体の自由を差し出した。
362	かずさ	Kazusa	「離せよっ！ お前を、殴らせろっ！」
363	春希	Haruki	「お前のその手は、 人を殴るためについてんじゃないだろ！」
364	かずさ	Kazusa	「お前が、お前が… そんなこと言うのかお前が… あたしのピアノ、聴きに来なかったお前が…っ」
365	春希	Haruki	「っ…」
366			かずさが、仰向けに倒れた俺の体に、 自らの身体を重ねてくる。
367			お互い両手が塞がってるせいで、 重なり合った体はもう離れない。
368			…かずさが、そうしようとしない限り。
369	かずさ	Kazusa	「来てくれって…聴いてくれって… 何度も、何度も言ったじゃないか。 約束したじゃないか！」
370	春希	Haruki	「かずさ…」
371			スカートからはみ出た長くしなやかな脚が、 俺の脚に絡みつく。
372			服を押し上げる豊満な胸が、 俺の胸に合わさり、柔らかく潰れながら圧迫する。
373			細工物のように繊細な黒髪がさらさらとこぼれ、 俺の顔を柔らかく撫でる。
374	かずさ	Kazusa	「嘘つき！ 春希の…春希の…っ、 う、うあ、うああぁぁ…っ」
375	春希	Haruki	「っ…」
376			そして俺の顔には…
377			かずさの瞳からこぼれるしずくが、 何粒も何粒も、とめどなく振り落ちる。
378	かずさ	Kazusa	「うええぇぇぇ…ふぅぁぁぁ…っ、 う、う…うわああぁぁぁぁぁ～っ！ あ～っ、あああぁぁぁぁぁ～っ！」
379	春希	Haruki	「かず、さ…」
380			本当に、とめどなく…
381			全身全霊の… 心からの慟哭とともに。
382	かずさ	Kazusa	「うええぇぇぇぇ…うああぁぁ…あ…あぁぁっ、 ひ…っく、う、うぅ…いっ、あぁぁぁぁ～っ！」
383			きっと、高熱のせいだ。
384			異常な体調のせいで、 自分の感情が制御できなくなってしまったせいだ。
385			一度落ち着いてしまえば、 どうしてあんなことで怒ってたんだろうって、 後で馬鹿馬鹿しく思い返すことになるはずだ。
386	かずさ	Kazusa	「う、うあぁぁぁっ、ああああああっ、 ふ、うええぇぇぇぇぇっ、ひくっ、う、う～っ！ ううううううううう～っ、ひ、いぅぅぅぅぅ…っ」
387			本当は、そんなに激昂することのはずがない。 こんなに、心引き裂かれることなんかない。
388			ここまでかずさを壊すことのできる男じゃないんだ。 …俺、なんか。
389			………	.........
390	かずさ	Kazusa	「うっ…く、くぅっ…ぅぇぇ… ひ…っ、酷い、よ… 酷いじゃ、ないか…ぅ、ぅ…ぅぇぇぇぇ…っ」
391	春希	Haruki	「っ…」
392			あれから十分以上経ってるのに… かずさの慟哭は、まだ治まらない。
393			俺の頬が、額が、顔全部が、 もう、かずさの涙でびしょ濡れになっていた。
394	かずさ	Kazusa	「そんなに、あたしのこと、嫌いだったのかよ… あたし、苦しめて、そんなに楽しいのかよ…っ」
395	春希	Haruki	「そんな…こと。 そんなこと、あるわけが…っ」
396			…俺のものと、区別がつかなくなっていた。
397	かずさ	Kazusa	「そんなの…あたし、耐えられないよ… お前に…お前に嫌われたらあたしは…っ、 嫌だよそんな…そんなのやだよぅ…ぅ、ぅぅぅ…っ」
398	春希	Haruki	「………」	"........."
399			そんなにも哀しいことになってるのに…
400			俺は、両手が塞がれているせいで、 泣き叫ぶかずさの頭を撫でることもできなかった。
401			…もちろん、今撫でたら、色々な意味で 取り返しのつかないことになるってわかってた。
402			それでも俺の手は、何度もかずさの手首を離しかけ、 その度に歯を食いしばって我慢して、 歯噛みして悔しさを押さえ込んだ。
403	春希	Haruki	「もう、やめてくれ… こんなことしても、お前が傷つくだけだろ？」
404	かずさ	Kazusa	「わかってるよ、わかってるよそんなこと！ だから最後だって決めたんじゃないか！ もう二度と会わないって誓ったんじゃないか！」
405			なんだよ、これは…
406	かずさ	Kazusa	「なのに、なのに… せっかくあたしが必死で諦めようとしたのに！ それをぶち壊したのはお前じゃないか！」
407			まるで、自分の存在を世界に全否定されたような。
408	かずさ	Kazusa	「あたしを昔の… こんなワガママな子供に戻してしまったのは お前じゃないか！」
409			全てが壊れてしまったかのような、 もう、自分に残ったものが何もないかのような。
410	かずさ	Kazusa	「お前が、あたしを苛めるからじゃないかぁ…っ」
411			世界に、俺しかいないような…
412	かずさ	Kazusa	「うっ…う、うぅぅ…う～っ、 や、やめてよ…あたしを、あたしを無視しないでぇ」
413	春希	Haruki	「無視なんかしてない… そんなこと、俺にできるわけがない」
414	かずさ	Kazusa	「あたしは、雪菜みたいに強くないんだ… お前に否定されてしまったら、 もうどうしたらいいかわからないんだよ…っ」
415	春希	Haruki	「五年も…五年もずっと平気だったじゃないか。 俺のことなんか忘れて、頑張ってたじゃないか」
416			五年経って、世界は変わったはずだった。 いや、かずさの方が変わったはずだった。
417	かずさ	Kazusa	「平気なもんか！ ずっとずっと、忘れられないままだった…」
418			そして、五年経って、かずさは大きく飛翔した。
419	春希	Haruki	「だけど成功した。 世界に通用するピアニストになったじゃないか」
420			それこそ日本に収まらないほどに。 世界の方が逆にかずさを求めるほどに…
421	かずさ	Kazusa	「それも一昨日で終わりだ。 必死で誤魔化してきたメッキが全部剥がれた。 お前の…春希のせいで！」
422	春希	Haruki	「………」	"........."
423			なのにかずさは五年前のまま、 未だ、世界に交わろうとしない…
424			あの日の学園祭のステージから、 ずっと、降りてきていなかった。
425	かずさ	Kazusa	「どうして、またあたしの前に現れたんだ。 あたしを、かき乱したりしたんだ」
426			ストラスブールで再会したとき、 泣きそうな顔を隠してたのは、俺だけじゃなかった。
427	春希	Haruki	「仕事、だ。 大学卒業して、出版社に入ったんだ。 お前がいなくなってからも、頑張ってたんだよ、俺…」
428	かずさ	Kazusa	「…春希の頑張りなんか知るか。 お前が余計なことするから、何もかも台無しじゃないか」
429	春希	Haruki	「かずさ…」
430	かずさ	Kazusa	「必死で押さえてた気持ちが… 高く積み上げた壁が、壊れちゃったじゃないか」
431			足の治療のときも、インタビューの時も…
432	かずさ	Kazusa	「いくら口で正しいこと言っても、 身体が、心が、 ちっともついてきてくれなくなったじゃないか…っ」
433			とても、かずさに見せられない顔をしてたせいで、 かずさがどんな顔をしてたのかがわからなかった。
434	かずさ	Kazusa	「どうしてあたしの側にいることを認めてしまったんだ」
435			かずさが隣に越してきたとき、 戸惑いの裏に、隠しきれない嬉しさを滲ませていたのは、 俺だけじゃなかった。
436	かずさ	Kazusa	「どうして思わせぶりなことばかり言ったんだ。 どうしてあたしのこと… 嫌ってないみたいな態度取ったんだ」
437	春希	Haruki	「嫌ってないからだよ、決まってるだろ！」
438	かずさ	Kazusa	「嫌ってないくらいであたしの心を乱すな！ あんな、期待させるような、 手を伸ばせば届くって錯覚させるような…」
439			俺の前で無防備に眠ってしまったときも。 柴田さんの家からの帰り道も。
440			あの、夕暮れの第二音楽室で、 一瞬だけ停まった時間も…
441	かずさ	Kazusa	「なのに、いつも最後の最後でするりと逃げて… あんな痛くて苦しい拷問、耐えられるわけないだろ…」
442			自分が揺れてるのを隠すのに必死で、 かずさの隠してる気持ちを見つけられなかった。
443	かずさ	Kazusa	「どうして、 あたしのピアノを聴いてくれなかったんだ…」
444	春希	Haruki	「………」	"........."
445			コンサートの幕が開いたとき…
446			逃げたのは、俺だけ、だった。
447	かずさ	Kazusa	「お前に聴かせるためだけに帰ってきたのに… 最後に、最高の演奏を聴かせて、 今度こそ、諦めるはずだったのに」
448			かずさが必死で弾いているとき。 客席に、俺の姿を探し求めてるとき…
449	かずさ	Kazusa	「なのにお前は来なくて、 あたしは最低の演奏をして、 今度こそ、何もかも失った」
450			かずさの純粋過ぎる想いを感じられなかった “ことにしたくて” 俺は、かずさの視界から、かずさの側から消えた。
451			…雪菜の、側にいた。
452	かずさ	Kazusa	「離せ… 何もかも、壊してやるから。 お前も、あたしも…この両手も」
453	春希	Haruki	「嫌、だ」
454			号泣して、嗚咽して、叫んで、呟いて…
455			ひとしきり感情を爆発させると、 かずさはまた、身体に力を込めた。
456			瞳には憎しみの光を。 両手には復讐の刃を。
457			そして…
458	かずさ	Kazusa	「離せよ… 離さないと………キス、するぞ？」
459			吐息には… 灼けるような想いを、未だに乗せて。
460			………	.........
461	春希	Haruki	「どうしてそうなるんだよ…お前はっ」
462			かずさの論理は、完全に破綻してた。
463	かずさ	Kazusa	「お前がこのまま動かないなら… あたし、本気でお前のこと、奪うぞ…？」
464			俺に対する憎しみを、恨みを撒き散らし…
465			なのにまだ、俺に対する思慕を口にし続けて、 いつまでも俺の答えを待ち続ける。
466	春希	Haruki	「後悔…するぞ？」
467	かずさ	Kazusa	「五年間、ずっとしてきた」
468			考えることを放棄したような、その甘えの表情は、 狂おしいほどに、俺の情欲を掻き立てる。
469	春希	Haruki	「俺…お前を見捨てたんだぞ？ 五年前も、一昨日も。 お前を、泣かせてばっかなんだぞ？」
470			でも、でも… これは、間違った想いだ。 かずさだって自覚してる、とんでもない過ちだ。
471	かずさ	Kazusa	「いつかは、嫌いになるって思ってた…」
472	かずさ	Kazusa	「どうしてあんな奴を好きになったんだろうって。 今思えば馬鹿みたいだなって…」
473	かずさ	Kazusa	「融通が利かなくて、ウザくて、センスがなくて、 気を使ってるつもりで人の神経逆撫でするし、 …モテないくせして高め過ぎの恋人がいるし」
474	かずさ	Kazusa	「想い続けることに意味も価値も望みもなくて、 だから、いい加減疲れて馬鹿馬鹿しくなって、 そう思えたらあとはもう懐かしい笑い話だって…」
475	かずさ	Kazusa	「そう、夢見てたんだけどなぁ…」
476	春希	Haruki	「っ…」
477			ほら… やっぱり、間違ってる。
478			俺を嫌いになることが、俺を忘れることが、 ずっと夢見てきた理想の未来だったなんて…
479			現実は、それとは違うだなんて。
480	かずさ	Kazusa	「春希…」
481	春希	Haruki	「かずさ、お前…」
482	かずさ	Kazusa	「好きだ」
483	春希	Haruki	「っ… もう、やめてくれ」
484	かずさ	Kazusa	「好きだよ」
485	春希	Haruki	「そんなの、思い込みだ」
486	かずさ	Kazusa	「好きなんだよ」
487	春希	Haruki	「ただの刷り込みだ。 あの時お前、一人だったから、だから…」
488	かずさ	Kazusa	「大好き」
489	春希	Haruki	「熱に浮かされてるだけだ。 早く部屋に帰って、休もう？」
490	かずさ	Kazusa	「愛してる」
491	春希	Haruki	「俺、裏切り者じゃないか。 お前を傷つけてばかりだったじゃないか」
492	かずさ	Kazusa	「離れたくない…」
493	春希	Haruki	「五年も離れてた！ 今さらなに言ってんだよ！」
494			かずさの瞳には、 もう、俺しか映ってない。
495			鼻先が触れてしまいそうなほどの距離。 …あの、第二音楽室での距離に戻ってきてしまった。
496	かずさ	Kazusa	「春希…」
497	春希	Haruki	「っ…ぅ、ぅ…」
498			立場は、逆転してた。
499	春希	Haruki	「ごめん、ごめんな、かずさ…」
500			かずさの涙は乾き、 けれど俺の頬は濡れたまま。
501	かずさ	Kazusa	「そうだよ、お前が悪いんだ… お前のせいなんだよ、春希…」
502			かずさはもう、自分の過ちを省みない。
503	かずさ	Kazusa	「だから、償えよ。 もう、逃げるなよ」
504			まっすぐに、ただひたすら純粋に、 俺の瞳の中に、情熱を映し込む。
505	春希	Haruki	「どうすれば…どうすればいいんだよ？」
506	かずさ	Kazusa	「簡単な、ことだよ…」
507			濡れた唇が、ゆっくり開き、 熱過ぎる吐息を俺に吹きかける。
508	かずさ	Kazusa	「今だけでいいんだ… 今だけ、あたしを愛してくれればいい」
509	春希	Haruki	「っ…」
510			けれど、それは見込み違いだった。
511			かずさの吐息は熱くない訳じゃなかったけれど、 それよりもっと熱いものを、俺に届けてきたから。
512			かずさの、燃えさかる気持ち。
513	春希	Haruki	「そんなの… 簡単な訳、ないだろ…っ」
514			受け止めたら火傷する。 もしかしたら、身を焦がしてしまうかもしれない。
515	かずさ	Kazusa	「嫌いでも、興味がなくても、もういいよ… ただ、今だけあたしを抱いてくれたら」
516	春希	Haruki	「嫌だ…駄目だ、かずさ」
517			ここでかずさを受け入れてしまったら、 俺は、何のために逃げたのかわからなくなる。
518			何のために、雪菜を求めたのか…
519	かずさ	Kazusa	「そんなに嫌なら… どこまでもあたしから逃げたかったのなら…」
520	かずさ	Kazusa	「だったら、どうしてあたしを見つけたんだよ…？」
521	春希	Haruki	「………っ」
522			けれど、矛盾はとっくに生まれてた。
523	かずさ	Kazusa	「嫌いなら、興味がないのなら、 放っておけばよかったのに」
524			仕事だからとか、人として心配だからとか、 友達だからとか、筋道立てて説明しようにも、 俺の感情が正しくなくて、言葉にならない。
525	かずさ	Kazusa	「そしたらお前は、 あたしにこうされることもなかったのに」
526	春希	Haruki	「そんなこと…できると思ってるのか？」
527	かずさ	Kazusa	「できないの…？」
528	春希	Haruki	「当たり前、だろ」
529	かずさ	Kazusa	「なんで？」
530	春希	Haruki	「………」	"........."
531	かずさ	Kazusa	「ねぇ、なんで？ どうして、春希？」
532	春希	Haruki	「だって、だってさ…」
533			だって、かずさを見つけた瞬間…
534	春希	Haruki	「俺、お前のこと嫌いになったことなんか… 興味を失ったことなんか、 ただの一度もないんだぞ？」
535	かずさ	Kazusa	「………っ」
536			自分の中に、安堵以外の強い感情が、 溢れ出してしまったのは間違いなかったから。
537			頬を撫で、手を取り、傷口に唇と舌で触れた事実と そのときの感情は、もう動かしようがなかったから。
538	かずさ	Kazusa	「は、春希…」
539			かずさの声は、明らかに上ずっていた。
540	かずさ	Kazusa	「それってさ…やばいよ？」
541			期待に満ちた、興奮した息遣いが、 ますます俺の頬と気持ちを熱くする。
542	かずさ	Kazusa	「だってお前、あたしのことずっと好きだったって… 今でも好きだって、意訳できてしまうんだぞ？」
543	春希	Haruki	「………」	"........."
544	かずさ	Kazusa	「そんなこと言っちゃって、いいのかよ…？」
545	春希	Haruki	「よくないに決まってんだろ！」
546			だから、俺の興奮した息遣いも、 きっと、かずさの頬と気持ちを…
547	春希	Haruki	「…でも、これだけは嘘つけないんだから、 仕方ないだろ」
548	かずさ	Kazusa	「春希、春希…ぃ…っ」
549	春希	Haruki	「泣くな」
550	かずさ	Kazusa	「嬉しい、よ、春希…」
551	春希	Haruki	「喜ぶな…よ」
552			そうしてお互い、 ますます気持ちを熱くしてしまうという悪循環に、 俺たちは、足を踏み入れそうになっている。
553			これ以上はもう駄目だ。 引き返せなくなってしまう。
554			もう、取り返しがつかなくなってしまう。
555	かずさ	Kazusa	「今だけでいい。 五年前と、同じ愛し方でいいよ…」
556			そんな俺の退路を塞ぐかのように…
557	かずさ	Kazusa	「本物の愛は諦める。 それは、雪菜のものだから。 …けれど、嘘の愛だけは、あたしにくれよ」
558			かずさは何の躊躇もなく、 取り返しのつかないことを口にしてしまった。
559	かずさ	Kazusa	「日本を発つまでの間だけ… 冬が終わるまで、だけでいい」
560			求めたのは、偽物だった。
561			『五年前と同じ』とかずさは言ってるけれど、 似ても似つかない、肉体だけの結びつき。
562	かずさ	Kazusa	「あたしを抱きしめて。 求めて。 甘い言葉をささやいて…」
563			それは、まやかしの愛。 おためごかしの愛。 誤魔化しの愛…
564	かずさ	Kazusa	「あたしを、蕩けさせてくれよ。 …最後まで、騙し通してくれよ？」
565			誰も傷つけたくなくて、 誰もが平等に傷つく、 最低で、現実的で、魅力的な…
566			１．手を離す		Choice
567			２．顔を背ける		Choice
568	かずさ	Kazusa	「…なんでだよ」
569	春希	Haruki	「………」	"........."
570			かずさの吐息が、俺の右頬だけをなぶる。
571	かずさ	Kazusa	「どうして、駄目なんだよ…」
572			俺が、真横を向いてしまったから。 かずさから、目を逸らしてしまったから。
573			かずさを受け入れないって、 意思表示、してしまったから。
574	かずさ	Kazusa	「あたしのこと、嫌いじゃないって言っただろ？」
575	春希	Haruki	「いいや…好きだって、言った」
576	かずさ	Kazusa	「自分のせいだって、認めたよな？」
577	春希	Haruki	「五年前も、去年も、一昨日も… 全部、俺が悪い」
578	かずさ	Kazusa	「なら………こっち、向けよ」
579	春希	Haruki	「………嫌、だ」
580	かずさ	Kazusa	「っ！ いい加減にしろ！ なんで、どうして…っ」
581			俺を押し倒し、 キスをねだり、身体だけの関係を求め…
582			そんな過激なことを言ったり、仕掛けたりする、 見た目や立場や態度がエキセントリックな奴だけど…
583	かずさ	Kazusa	「どうして…あたしを受け入れてくれないんだよ…っ」
584			でも、俺は知ってる。
585			こいつは結局、最後の最後で躊躇してしまうビビリだって。 微笑ましいくらいの小心者だって。
586			泣きたくなるくらい、知ってるんだ。
587	かずさ	Kazusa	「何がいけないんだ… 雪菜を選んでいいって言ってるじゃないか…っ、 他に何が望みなんだよっ！」
588	春希	Haruki	「っ…」
589			かずさの乾いた瞳を、また潤ませてしまった。
590			俺の右頬に新たなしずくがぽたりと落ちる。 そして、それとは別のしずくが俺の目尻を伝う。
591			１．雪菜を愛してる		Choice
592			２．かずさに嘘をつけない		Choice
593	春希	Haruki	「雪菜を、愛してる」
594	かずさ	Kazusa	「知ってる」
595			瞼の裏に、雪菜の笑顔が浮かぶ。
596	春希	Haruki	「雪菜を、愛してるんだ」
597	かずさ	Kazusa	「そんな当たり前のこと言っても意味がない」
598			五年前の、無邪気な悪戯っぽい笑顔が。 二年前の、待ち疲れたような哀しい笑顔が。
599	春希	Haruki	「雪菜を、世界で一番愛してる…」
600	かずさ	Kazusa	「だから、雪菜を愛してていいんだ。 一番でいいんだ…」
601			今の、俺を信頼しきった心からの微笑みが。
602	春希	Haruki	「雪菜を愛してるんだ。 もう、裏切りたくないんだ」
603	かずさ	Kazusa	「裏切りじゃない。 こんなの裏切りになんかならないよ… 誰も、不幸になんかさせないよ…」
604			世界で一番大切なものが、目に見える。 ずっと求めていたものが、目の前にある。
605	春希	Haruki	「雪菜を………愛してる」
606	かずさ	Kazusa	「知ってるって言ってるだろ！ その言葉を言うな！　その名前を出すな！」
607			何もかも… 他の全てを切り捨てても手に入れる価値のあるものが…
608	春希	Haruki	「雪菜を…雪菜を…」
609	かずさ	Kazusa	「黙れぇぇぇっ！」
610	春希	Haruki	「俺には、雪菜だけなんだ… もう、雪菜しかいないんだ…っ」
611			かつて、世界で一番大切“だったもの”の向こう側に…
612	かずさ	Kazusa	「うるさいっ、うるさいっ、うるさぁぁいっ！ や、やめ、やめろ………やめてぇぇ…っ、 う、うあ、うあぁぁ…ぁぁ…ぁ…っ」
613			俺の全身が、小刻みに震えてる。
614	春希	Haruki	「っ…ぅ、ぅぅ…っ、く…ふ、ぁぅ…ぅ…」
615			俺が震えてるのか、かずさの震えが伝わってるのか。 それとも、その両方が重なってるのか。
616			そんなことは、もはや知る必要のないことだった。 …決断してしまった、今の俺にとっては。
617	春希	Haruki	「俺…もうお前を、騙せない」
618	かずさ	Kazusa	「それが…あたしの望みなのに？」
619	春希	Haruki	「嘘で好きだなんて言えない。 …心と、切り離せない」
620			もう、逃げることすら、 誤魔化すことすらできない。
621	かずさ	Kazusa	「この冬、だけでいいんだ。 ほんの少しだけ、愛してるって言ってくれたら…」
622	春希	Haruki	「愛してるって言ったら、 お前が世界で一番になっちまう！ 抱きしめたら、二度と離せなくなる！」
623	かずさ	Kazusa	「っ…」
624			二人を同じ位置に置いてしまったとき、 繋いでしまったとき。
625			その時俺の気持ちがどこを向いているのか、 想像するのが怖い。
626	春希	Haruki	「嘘で、終われない。 この冬だけで、終われなくなる」
627	かずさ	Kazusa	「春希…」
628	春希	Haruki	「だから、五年前と同じにはできない。 別れること前提で、抱きしめることなんかできない」
629	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
630			かずさが、さっきより強い瞳で俺を見つめてるのがわかる。
631	春希	Haruki	「誰もが傷つかない恋なんて、もうできない。 誰を傷つけなくちゃならないのか、 決めなくちゃならない」
632			息遣いでも、しずくの感触でもなく、 全身に宿り始めた、病以外の熱量から。
633	春希	Haruki	「だから俺は… お前を、今、受け入れることはできないんだ。 …ごめんな」
634	かずさ	Kazusa	「それって…それってさ…」
635	春希	Haruki	「もう喋るな」
636	かずさ	Kazusa	「もしかして、もしかしてさ… たとえそれが、ほんのわずかの希望だとしても…」
637	春希	Haruki	「言うな！ そんなことあってたまるか！」
638	かずさ	Kazusa	「っ………ご、ごめん」
639			思わず声を荒げてしまったのは、 痛すぎる可能性を見つけられてしまったから。
640			あり得ない選択の可能性を。
641			常識からは考えられない、 俺まで熱に浮かされたとしか思えない可能性を。
642	かずさ	Kazusa	「嘘…あたし今、何言おうとしたんだ。 そんな、人として、考えたらいけないこと…」
643			見つけてしまったかずさでさえ萎縮する、 人には選べるはずのない、悪魔の選択を…
644	春希	Haruki	「もういい、やめてくれ。 今日はもう、これ以上何も考えたくない」
645	かずさ	Kazusa	「春希…」
646	春希	Haruki	「お前は、熱に浮かされてた。 俺は、気が動転してた。 それで…いいことにしてくれ…っ」
647	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
648	春希	Haruki	「………っ、う、く…ぅぁ…っ」
649	かずさ	Kazusa	「っ…」
650	春希	Haruki	「っ…ぅ、ぅぅ…っ、く…ふ、ぁぅ…ぅ…」
651			俺の全身が、小刻みに震えてる。
652	かずさ	Kazusa	「春希…春希…ぃ」
653			俺が震えてるのか、かずさの震えが伝わってるのか。 それとも、その両方が重なってるのか。
654			そんなことすらもう考えたくはなかった。 何も、誰のことも、思い浮かべたくなかった。
655			今はまだ、決断なんかしたくなかったから。
656			………	.........
657	春希	Haruki	「はい、はい… それじゃ、お願いします」
658	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
659	春希	Haruki	「タクシー… １０分で、こっち来るって」
660	かずさ	Kazusa	「うん…」
661			俺が手を離し、 かずさが身体をどけて。
662			俺たちは、二人で壁にもたれて、 そして、改めて身体を寄せあった。
663	春希	Haruki	「………」	"........."
664	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
665			肩も抱かない。 手も握らない。
666			かずさの頭が、俺の肩に乗り、 相変わらずの熱っぽい息を小刻みに吐き出す。
667			それでも俺は、どこも抱きしめない。 かずさを、温めようとしない。
668	かずさ	Kazusa	「ねぇ、春希」
669	春希	Haruki	「ん？」
670			二人の叫びも慟哭も消え、 元の静けさを取り戻した、月明かりの闇の中…
671	かずさ	Kazusa	「もしさ…もし、 あたしの来日が、日本公演なんかじゃなくて、 ただ、逃げてきただけだったらさ…」
672	春希	Haruki	「え…？」
673	かずさ	Kazusa	「もしあたしが、ピアノでも失敗してさ、 落ちぶれて、失意のまま帰国してたとしたらさ…」
674	春希	Haruki	「かずさ…」
675	かずさ	Kazusa	「そんなあたしを憐れんで、 お前は、抱きしめてくれたかな？」
676	春希	Haruki	「っ…」
677	かずさ	Kazusa	「同情で、キスしてくれたかな…？」
678			かずさの、ぽつぽつと呟く声が、 この広すぎる部屋の中に吸い込まれていき。
679	春希	Haruki	「ならなかったんだよ…」
680	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
681	春希	Haruki	「そういうこと、ならなかったんだよ… だから、考えるだけ、無駄だよ」
682	かずさ	Kazusa	「…ごめんなぁ、春希ぃ」
683	春希	Haruki	「…ごめん、かずさ」
684			………	.........
685			そして、今度こそ…
686			俺たちの間に、本物の静寂が訪れた。

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