White Album 2/Script/3013
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Text
Speaker | Text | Comment | |||
---|---|---|---|---|---|
Line # | JP | EN | JP | EN | |
1 | ……… | .........
| |||
2 | 日曜日。 | ||||
3 | 朝、いつも通りに目が覚めて、 いつも通りに着替えて顔を洗い、 いつも通りに隣の部屋の前に行き。 | ||||
4 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
5 | …そして、チャイムに伸びた俺の指が、 いつもとは違い、直前で止まってしまった。 | ||||
6 | かずさ | Kazusa | 『雪菜と仲直りする前にさ… たった一度だけ、許してくれ』 | ||
7 | 春希 | Haruki | 「…っ」 | ||
8 | まだ、残ってる。 | ||||
9 | かずさの、諦めたような笑顔。 | ||||
10 | かずさの、棘の抜かれた口調。 | ||||
11 | かずさの涙声。 かずさの額が、俺の胸に当たった感触。 | ||||
12 | そして俺の目の前にあった、 かずさの髪から漂うほのかな… | ||||
13 | 春希 | Haruki | 「………?」 | ||
14 | ほのかな…焦げ臭い香り? | ||||
15 | かずさ | Kazusa | 「何故だ…」 | ||
16 | かずさ | Kazusa | 「春希と同じ通りにやってるのに…」 | ||
17 | 春希 | Haruki | 「かずさ! かずさ! おいどうしたんだ! 一体なにやってんだよ!?」 | ||
18 | かずさ | Kazusa | 「料理だよ!」 | ||
19 | ……… | .........
| |||
20 | 春希 | Haruki | 「…う~ん」 | ||
21 | かずさ | Kazusa | 「…寒い」 | ||
22 | 春希 | Haruki | 「空気が入れ替わるまで待ってろ」 | ||
23 | 俺が部屋に飛び込んだとき真っ先に目に入ったのは、 見えるものと言うよりは染みるものだったりした。 | ||||
24 | 真っ白な煙に涙を流しながら窓を開け、 火災報知器のベルを切って様々な惨劇を回避し、 そして部屋の中を見回し、天を仰いだ。 | ||||
25 | 具体的には、料理ごと黒で統一された フライパンの中を見回して。 | ||||
26 | 春希 | Haruki | 「目玉焼きってこんな臭いがするもんなんだ…」 | ||
27 | かずさ | Kazusa | 「何を言ってるんだ。 トーストの臭いと混ざり合ったに決まってるだろ」 | ||
28 | 春希 | Haruki | 「ああ…」 | ||
29 | オーブントースターに目を転じると、 そこからはまだ黒い煙が燻っていた。 | ||||
30 | 炭水化物とタンパク質のハイブリッド燃焼… そりゃ、息も苦しくなろうというものだ。 | ||||
31 | 春希 | Haruki | 「………で?」 | ||
32 | かずさ | Kazusa | 「春希も食べるか? 朝食」 | ||
33 | 春希 | Haruki | 「お前も食べるな! 俺が作り直すから」 | ||
34 | その言葉は消し炭を作った責任感からか、 それとも味音痴のなせる技か、 あるいは倹約精神の表われか。 | ||||
35 | …まぁ、最後のは絶対にないけど。 | ||||
36 | 春希 | Haruki | 「なんで急にこんなこと始めるんだよ。 もうすぐコンサートも近いってのに」 | ||
37 | そう、冬馬かずさの来日公演初日は、 いよいよ一週間後に迫っていた。 | ||||
38 | 多分これからは、練習時間はさらに増え、 今まで以上に、身の回りのことに割ける暇が 減っていくはずなのに。 | ||||
39 | なのに、かずさの行いはそれとはまるで真逆で、 何か変な夢でも見てしまった副作用なのかと… | ||||
40 | かずさ | Kazusa | 「なるべく独り立ちしようって思ってな」 | ||
41 | 春希 | Haruki | 「だから、なんで急に…」 | ||
42 | かずさ | Kazusa | 「雪菜に申し訳が立たない」 | ||
43 | 春希 | Haruki | 「………そんなの関係ないって」 | ||
44 | …けどそれは、 夢でも、俺だけの思い込みでもなかった。 | ||||
45 | 雪菜と仲直りしろって。 二度と離すなって。 自分とは距離を置けって… | ||||
46 | かずさ | Kazusa | 「そりゃ、取材の方は今まで通りやるし、 トラブルが起こった時には頼らせてもらう。 けど、今後それ以外で会うのはなしだ」 | ||
47 | 昨夜、かずさの宣言したことは、 今こうして確定的な事実と決めつけられ、 俺たちの間に横たわってた。 | ||||
48 | 春希 | Haruki | 「だからって、食事がこんな惨状じゃ…」 | ||
49 | かずさ | Kazusa | 「うん、さすがに自分で全部やろうってのは甘かった。 これからは素直に外食にする」 | ||
50 | 春希 | Haruki | 「けど、それじゃ栄養が…」 | ||
51 | かずさ | Kazusa | 「三食きちんと食べる。野菜も食べる。甘い物は控える。 …ちゃんとお前の考えてくれた献立を参考にするから」 | ||
52 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
53 | かずさ | Kazusa | 「髪も自分で結ぶようにする。 この後、やり方教えてくれよ」 | ||
54 | 全部、先手を打たれた。 | ||||
55 | 俺の『そんなこと気にするな』のための攻め所を、 ことごとく封じ込められた。 | ||||
56 | かずさはここ数日、本当に理屈っぽくなった。 | ||||
57 | それが誰による影響なのかがわかるのなら、 俺はそいつに文句の一つも言ってやりたい。 | ||||
58 | 恨むぞ、俺… | ||||
59 | かずさ | Kazusa | 「雪菜から電話あったか?」 | ||
60 | 春希 | Haruki | 「いや…」 | ||
61 | かずさ | Kazusa | 「そっか…結構意地っ張りなんだな、あいつ」 | ||
62 | 春希 | Haruki | 「俺を許す理由ができた訳じゃないからな」 | ||
63 | かずさ | Kazusa | 「けどそれは、雪菜から連絡するって約束したせいだろ? 雪菜が乗り越えなきゃいけないことだろ?」 | ||
64 | 春希 | Haruki | 「それは…」 | ||
65 | かずさ | Kazusa | 「昨夜のライブで吹っ切れたと思ったんだけどな。 雪菜、あんなにも…」 | ||
66 | 春希 | Haruki | 「別にいいよ。連絡があるまで待つから。 …何しろ、俺は三年待たせたんだし」 | ||
67 | かずさ | Kazusa | 「………うん、頑張れ春希」 | ||
68 | なんて、かずさに励まされるなんてのも、 色んな意味で本末転倒というか、変な話だったけど。 | ||||
69 | かずさ | Kazusa | 「あたしも頑張るから、あと一週間。 さっさと仕事を片づけて、さっさとここを出て行く」 | ||
70 | 春希 | Haruki | 「………本気なのかよ」 | ||
71 | ただ、そうやって俺を救うつもりでかずさが放った宣言は、 一晩たった今になってもまだ肯定しきれなかった。 | ||||
72 | 春希 | Haruki | 「来週のコンサートが終わっても、 まだ日本公演は終わらないだろ? 来月の追加公演まで…」 | ||
73 | かずさは、まだしばらく日本にいるのに… | ||||
74 | かずさ | Kazusa | 「一度弾けばもう大丈夫だ。 あたしの緊張も解けるし、母さんだって安心する」 | ||
75 | 春希 | Haruki | 「それはあくまでもコンサートの成功が前提だろ?」 | ||
76 | かずさ | Kazusa | 「なんだよ春希? お前、あたしに失敗して欲しいのか?」 | ||
77 | 春希 | Haruki | 「っ…あ、いや…ごめん」 | ||
78 | なんだよ春希… 俺、今の質問をハッキリ否定できるのか? | ||||
79 | かずさ | Kazusa | 「なんてな。大丈夫、成功させるよ。 聴きに来てくれた人たちを満足させてみせるし、 貶しに来たマスコミをがっかりさせてみせる」 | ||
80 | 春希 | Haruki | 「う、ん…」 | ||
81 | かずさ | Kazusa | 「そして来週から、一人でも普通に暮らせるようになる。 …お前を頼らなくても済むようになる」 | ||
82 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
83 | かずさはいつの間にか…というか昨日から、 『今まで俺に頼ってた』ことを認めるようになった。 | ||||
84 | そして、その上で自立を宣言する前向きな言葉を並べ、 すがすがしい表情を見せるようになった。 | ||||
85 | それが本心なのかわからないけど。 それが本心であって欲しいのかわからないけど… | ||||
86 | かずさ | Kazusa | 「とにかく、あと一週間だ。 それまでに取材済ませてくれ。 聞きたいこと、書きたいこと、今なら何でも喋る」 | ||
87 | 春希 | Haruki | 「でも、コンサート直前は練習時間が増えるだろ? 今以上に無理を強いるのは…」 | ||
88 | かずさ | Kazusa | 「あたしが大丈夫だと言ったら大丈夫だ。 …さっさと済ませろ」 | ||
89 | 春希 | Haruki | 「かずさ…」 | ||
90 | かずさ | Kazusa | 「さっきも言った通り、これからは外で食べてくるから、 食事のためにウチに来る必要はない。 取材の時だけ…事前に連絡してから来てくれ」 | ||
91 | 春希 | Haruki | 「………できたぞ、目玉焼き」 | ||
92 | あと、一週間。 | ||||
93 | 日本での最初のコンサートが終われば、 俺たちはまた、一週間前の俺たちに… 『一週間後の二週間前』の俺たちに逆戻りする。 | ||||
94 | でも… | ||||
95 | 『かずさと再会していなかった一月前』の俺たちには、 もう戻れない。 | ||||
96 | ……… | .........
| |||
97 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
98 | 曜子 | Youko | 「…何があったの?」 | ||
99 | かずさ | Kazusa | 「今日は点数は言わないんだな」 | ||
100 | 曜子 | Youko | 「だってつまんないんだもん。 もうできちゃってるし。 しかも、結構わたし好みに」 | ||
101 | かずさ | Kazusa | 「ちゃんと作り込んでくって言っただろ? ただ予定通りにことを運んでるだけだ。 それに…」 | ||
102 | 曜子 | Youko | 「それに?」 | ||
103 | かずさ | Kazusa | 「あたしには、責任がある」 | ||
104 | 曜子 | Youko | 「日本のファンにいい演奏を聴かせるための?」 | ||
105 | かずさ | Kazusa | 「そんな一般的なことじゃない。 ただ、自分がしっかりしてないと悲しむ人がいるから。 …そこまで裏切るわけにはいかないんだ」 | ||
106 | 曜子 | Youko | 「なるほど…ね」 | ||
107 | かずさ | Kazusa | 「ちなみにあんたのことじゃない。 ついでにあんたの想像してる奴でもない」 | ||
108 | 曜子 | Youko | [F16「いや、想像通りだと思うけどねぇ」] | ||
109 | かずさ | Kazusa | 「今日中に、二曲目までは完成させる。 三日前までには完璧にしておくよ」 | ||
110 | 曜子 | Youko | 「それはそうと、本気なの?」 | ||
111 | かずさ | Kazusa | 「何が?」 | ||
112 | 曜子 | Youko | 「来週のコンサートが終わったら、 あの部屋を出て行くって…」 | ||
113 | かずさ | Kazusa | 「そんなことで嘘ついてもしょうがないだろ」 | ||
114 | 曜子 | Youko | 「どうして? 入居して一月も経ってないのに」 | ||
115 | かずさ | Kazusa | 「さっきも言っただろ? 自立するんだよ、あたしは」 | ||
116 | 曜子 | Youko | 「できるの?」 | ||
117 | かずさ | Kazusa | 「できるさ。もう大人なんだ。 次の海外公演からは母さんのお供もいらない」 | ||
118 | 曜子 | Youko | 「諦められるの?」 | ||
119 | かずさ | Kazusa | 「諦めるも何も、最初から未練なんかない。 ………じゃなくて言葉の意味がわからない」 | ||
120 | 曜子 | Youko | 「そう」 | ||
121 | かずさ | Kazusa | 「そうだよ。それじゃ休憩終わり。 そろそろ出ていってくれないか?」 | ||
122 | 曜子 | Youko | 「はいはい。 せいぜい頑張ってね」 | ||
123 | 曜子 | Youko | 「最初から未練なんかない、ねぇ…」 | ||
124 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
125 | 曜子 | Youko | 「こんな色ボケた音に戻ってるのに?」 | ||
126 | ……… | .........
| |||
127 | かずさ | Kazusa | 「昔も話したかもしれないけど、 父親のことは、本当に何もかも知らないんだ。 名前も、今生きてるかどうかも」 | ||
128 | 春希 | Haruki | 「そ、っか…」 | ||
129 | かずさ | Kazusa | 「母さんに聞いても笑うばっかで今でも答えてくれない。 …もしかしたら自分でもわからないのかもな」 | ||
130 | 春希 | Haruki | 「いやお前、それは…」 | ||
131 | そして夜… | ||||
132 | かずさは、ファミレスで一人食事を済ませたと言って、 いつもより一時間遅く帰ってきた。 | ||||
133 | 電話も掛けてこなかったし、 こっちの部屋のインターフォンも押さなかったから、 帰ってきてることにしばらく気づかなかった。 | ||||
134 | かずさ | Kazusa | 「物心ついたとき、あのだだっ広い家にいたのは、 母さんとお手伝いさんだけだった。 その頃は柴田さんじゃなくて別の人だったけど」 | ||
135 | しばらくして隣の物音に気づいた俺が電話したとき、 すごく事務的な声で『取材か?』と一言だけ返してきた。 | ||||
136 | かずさ | Kazusa | 「小さい頃のあたしは手のかからない子だったと思う。 何しろ朝から晩まで、ずっとピアノで遊んでた」 | ||
137 | そんなもやもやした反応に、 少しフラストレーションが溜まっていたのかもしれない。 | ||||
138 | かずさ | Kazusa | 「…子供用のおもちゃじゃないぞ? それどころか母親のお下がりのグランドピアノだ」 | ||
139 | 春希 | Haruki | 「曜子さんが使ってたって… それ、高級品なんじゃ?」 | ||
140 | かずさ | Kazusa | 「買ったときは一千万超えてたんじゃないかと思う。 一応、世界三大ピアノメーカーの製品だったし」 | ||
141 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
142 | 俺は、挑発の意味も込めて、 かずさのタブーに踏み込んだ。 | ||||
143 | …その、生い立ちに。 | ||||
144 | かずさ | Kazusa | 「春希は知ってるよな? 世間が想像する通り、ウチは、正直金持ちだった」 | ||
145 | ただ、怒らせるつもりだった。 | ||||
146 | その澄ました顔が、 なんとなく気に入らなかっただけだった。 | ||||
147 | かずさ | Kazusa | 「母さんは、もともと実家からして金持ちなんだけど。 ま、そうでもないとピアニストなんて無理だよな。 子供の頃から英才教育が必要だし」 | ||
148 | けれどかずさは、怯まなかった。 | ||||
149 | 俺の悪意の篭もった質問に対して、 正攻法できっちりと応対してきて、 逆に俺を鼻白ませた。 | ||||
150 | かずさ | Kazusa | 「でも、今のあの人の財産はさ、 ほとんどが自分の力で稼いだものだよ」 | ||
151 | いつもからは考えられないくらい饒舌に、 少しだけいつもの匂いを感じさせる皮肉を込めながら。 | ||||
152 | かずさ | Kazusa | 「冬馬曜子は優秀なピアニストであると同時に、 有能なプロモーターでもあったからね。 自分の売り方をよく知ってた」 | ||
153 | 冬馬かずさの、冬馬曜子に対する 剥き出しの尊敬と軽蔑と愛情と憎悪。 | ||||
154 | かずさ | Kazusa | 「実力以上に人気を獲得する手段をよく知ってた。 一応、それでいて実力も一流だったから、 誰も文句は言えなかった」 | ||
155 | 芸能記者が聞いたら大喜びするに違いないネタを、 多分、一番喜べない人間に対して包み隠さず漏らす。 | ||||
156 | かずさ | Kazusa | 「…いいや、文句を言ったり、 妬んだりする人間はたくさんいたけど、 全部実力と裏工作で叩き潰してきた」 | ||
157 | 春希 | Haruki | 「裏工作、って…」 | ||
158 | かずさ | Kazusa | 「“女”だって余裕で武器に使った。 あたしたちがたまに外食するときは、 毎回違う男があの人の側に寄り添ってた」 | ||
159 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
160 | これはきっと、嫌がらせだ… | ||||
161 | その証拠に、 途中から、俺の口の中はきっと苦虫で一杯だった。 | ||||
162 | かずさ | Kazusa | 「もちろん、日本人ばかりじゃなかった。 どこかの大企業のオーナーみたいな年寄りか、 逆に、かなり年下の男のどっちかだった」 | ||
163 | 書きたくないけど書かざるを得ない価値のあるネタを、 次から次へと無造作に放り投げられて。 | ||||
164 | 反論とか弁護とかしたいのに、 かずさが嘘をついていないことがわかってしまって。 | ||||
165 | かずさ | Kazusa | 「今から考えれば、あの人にとって男ってのは、 パトロンかヒモかの二択だったんだろうな」 | ||
166 | そして、そのことがわかるのは俺だけだって、 明らかにこいつは気づいてて喋ってる。 | ||||
167 | かずさ | Kazusa | 「あたしにはできない… あの域に達するのは不可能だ」 | ||
168 | 春希 | Haruki | 「達されても困る…」 | ||
169 | 絶対に、嫌がらせだ。 | ||||
170 | 春希 | Haruki | 「お前…これ書いていいのかよ?」 | ||
171 | かずさ | Kazusa | 「あたしは構わない。 …もちろん、母さんがOK出したらだけど」 | ||
172 | 春希 | Haruki | 「いや、曜子さんなら多分スルーだけどさ」 | ||
173 | かずさ | Kazusa | 「…あたしもそう思う」 | ||
174 | 春希 | Haruki | 「過保護だからな、あの人は」 | ||
175 | かずさ | Kazusa | 「こうして、あたしに好き勝手言わせることが?」 | ||
176 | 春希 | Haruki | 「いいや… そうやって自分で全部泥被って、 かずさには、純粋にピアノだけをさせてることが」 | ||
177 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
178 | 今度の引越しの事だって、 たった一人の自分の娘のためだけに、 自分を含め、周囲を混乱の渦に巻き込んだ。 | ||||
179 | これが親馬鹿でなくて何だと言うんだろう。 | ||||
180 | 春希 | Haruki | 「ま、いいか。 あの人、人生そのものがネタだし。 こうして誤解されることも楽しんでるみたいだしな」 | ||
181 | かずさ | Kazusa | 「ネタって…」 | ||
182 | 春希 | Haruki | 「けど、お前だけは理解してやれよ? でなければ曜子さんも浮かばれない」 | ||
183 | かずさ | Kazusa | 「あれだけ色々引っかき回されてるのに、 よくもまぁあの人を庇えるもんだなお前は」 | ||
184 | 春希 | Haruki | 「少なくとも軸はぶれてないからな。 それに俺だって本人には言いたいこと言ってる」 | ||
185 | それにこれは、曜子さんを庇ってるだけでなく、 かずさの嫌がらせに対するささやかな反撃でもある。 | ||||
186 | かずさ | Kazusa | 「…なるほどな。 そういうこと平気で家族や本人に言っちゃうから、 母さんに気に入られる訳だ」 | ||
187 | 春希 | Haruki | 「俺が?」 | ||
188 | かずさ | Kazusa | 「お前が」 | ||
189 | 春希 | Haruki | 「曜子さんに気に入られてるって…?」 | ||
190 | かずさ | Kazusa | 「そんなの誰が見てもわかるだろ、ギター君。 …けど、あたしはお前のこと 父さんって呼ぶのは嫌だからな?」 | ||
191 | 春希 | Haruki | 「っ!? ぶほっ、ごほぉっ! な、な、な…」 | ||
192 | けど、今日は全然駄目だ。 | ||||
193 | 何かを吹っ切ったようなかずさは、 とても俺の手に負えるような相手じゃなかった。 | ||||
194 | かずさ | Kazusa | 「…なんてな。 お前には雪菜がいるのに下品な冗談だった。 忘れてくれ」 | ||
195 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
196 | 俺を気まずい気持ちにさせるのに特化した、 嫌な態度ばかり取り続けてくる。 | ||||
197 | そんな、いつもとは違うかずさに。 つまり、いつもより少しだけ明るいかずさに。 | ||||
198 | 意味もなく、悲しさが湧き上がる。 | ||||
199 | かずさ | Kazusa | 「ま、それはともかく… あたしは冬馬曜子の男遍歴に関しては、 別に嫌悪感なんかなかった」 | ||
200 | 春希 | Haruki | 「当たり前だ。 そうやって女手一つでこんなワガママ娘を育てたんだ。 どこに嫌われる理由があるんだよ」 | ||
201 | かずさ | Kazusa | 「あたしがあの人を憎んだのは… って、お前は理由知ってるんだよな。 …お前と、母さんだけは」 | ||
202 | 春希 | Haruki | 「何の正当性もない逆恨みだったよな。 お前は、一生かかっても返せない恩を受けておきながら、 一生かかって仇で返そうとしたんだ」 | ||
203 | かずさ | Kazusa | 「本当に、そういうこと平気で本人に ずけずけ言うんだもんな、お前は…」 | ||
204 | 春希 | Haruki | 「こういう態度の方が、 冬馬家には受けがいいらしいからな」 | ||
205 | かずさ | Kazusa | 「母さん、だけだ。 あたしは違う」 | ||
206 | 春希 | Haruki | 「そうかよ、悪かったな…」 | ||
207 | かずさ | Kazusa | 「全然違うよ… 酷いこと言うな、馬鹿」 | ||
208 | 春希 | Haruki | 「…知るか」 | ||
209 | かずさ | Kazusa | 「知ってるくせに… お前は、あたしのこと何でも知ってるくせに」 | ||
210 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
211 | なのに、いつの間にか… | ||||
212 | 一方的に優位に立っていたはずのかずさの方も、 気がつくと今の俺と同じ表情をしてた。 | ||||
213 | ……… | .........
| |||
214 | 雪菜 | Setsuna | 「………」 | "........."
| |
215 | 『昨日、一年ぶりに歌ったよ』 | ||||
216 | 『スタジオトロイの定期ライブ。 春希くんも一度見に来たことあるよね? 朋の紹介で、ヘルプに入らせてもらったの』 | ||||
217 | 『最初はすごく緊張したけど、 いつの間にかちゃんと声も出てたみたい。 こういうの、なんとなく体で覚えてるもんだね』 | ||||
218 | 『お客さんの中にもわたしを覚えててくれる人も たくさんいて、すっごく温かく迎えてくれたから、 それにノせられちゃったってのもあるのかな?』 | ||||
219 | 『だから、最初から最後まで夢中で駆け抜けた』 | ||||
220 | 『で、歌い終わったとき、泣きそうだった。 なんか色んなことが頭の中でぐるぐる回ってた』 | ||||
221 | 『ステージのことはすごく楽しかった』 | ||||
222 | 『けれど思い浮かべることは、 全部が全部楽しいことばかりじゃなくて、 ちょっとだけ自己嫌悪にもなっちゃった』 | ||||
223 | 『でも、みんなの拍手に包まれてたら、 そういうの、もうやめようかなって思った』 | ||||
224 | 『春希くんを許そうって』 | ||||
225 | 『そして、そんな身勝手なことを言うわたしを、 春希くんに許してもらいたいなって。 できれば、やさしくがいいなって』 | ||||
226 | 『春希くんに会いたいって。 会って、自分の気持ちを思いっきりぶつけたいって。 それこそ、春希くんが傷つくような嫌な言葉も全部』 | ||||
227 | 『それで、もっと喧嘩になっちゃったら… ううん、そんなこと想像もしたくないけれど、 また頑張って話そうって。仲直りしようって』 | ||||
228 | 『…その時は、本当にそう思ってたんだよ』 | ||||
229 | 『今から話すことは、単なる妄想です。 だから、気にしないでください。 返信も、しなくていいです』 | ||||
230 | 『だって多分、あの子の見間違いだと思うから。 ううん、絶対にそうに違いないから。 だって、あり得ないもの』 | ||||
231 | 『だから、ねぇ、春希くん。 もう一度、正直に答えてください』 | ||||
232 | 『もう、隠し事なんてないよね? わたしたちの間に秘密なんて、ないよね?』 | ||||
233 | 『あなたのこと、信じていいんだよね?』 | ||||
234 | 雪菜 | Setsuna | 「何、これ」 | ||
235 | 雪菜 | Setsuna | 「本当に…わたしが書いたの?」 | ||
236 | 雪菜 | Setsuna | 「………」 | "........."
| |
237 | 浜田 | Hamada | 「今朝、届いた分だけどな」 | ||
238 | 春希 | Haruki | 「はい」 | ||
239 | 浜田 | Hamada | 「あれ、本当に載せてもいいのか?」 | ||
240 | 月曜日。 定例の進捗報告。 | ||||
241 | やはりというか、当たり前というか、 浜田さんは、俺が今朝メールで提出した 最新のインタビュー記事に微妙な反応を示した。 | ||||
242 | 春希 | Haruki | 「…一応、冬馬曜子オフィスにチェックしてもらいます。 けど、俺の見込みから言えばOKです」 | ||
243 | テキスト起こししたファイルを送信するとき、 自分の感情的には三度ほど躊躇したけれど… | ||||
244 | それでも、これが俺の会社員としての仕事だから。 | ||||
245 | 浜田 | Hamada | 「………書籍化した方がいいかもしれないな。 今出せば『今週のベストセラー』くらいなら 余裕で狙える」 | ||
246 | 確かに芸能誌の方に持って行けば、 あっという間にそんな話が決まってしまうだろうな。 | ||||
247 | 今『冬馬かずさ』って名前は、 多分、本人の想像の数段上を行く旬の素材だから。 | ||||
248 | …これが『冬馬曜子』という名前のように、 十年以上も安定的に語られる素材になるかは、 十年は経ってみないとわからないけれど。 | ||||
249 | 浜田 | Hamada | 「なぁ、あの親子って仲いいんだよな?」 | ||
250 | 春希 | Haruki | 「表面上はともかく、 心の奥底では深い絆で結ばれてますよ」 | ||
251 | 浜田 | Hamada | 「…普通の場合は逆なんだけどなぁ」 | ||
252 | けど、冬馬曜子と冬馬かずさだから。 | ||||
253 | あそこまで才能に満ち溢れてて、拗くれてて、 いい人なんだけどいい性格をしてる二人だから。 | ||||
254 | 俺たちみたいな一般人が体験する親子関係とは、 そもそものつくりからして違ってる訳で。 | ||||
255 | 浜田 | Hamada | 「でもこれ、書き方に気をつけないと、 ただのセンセーショナルな暴露記事にしかならないぞ」 | ||
256 | 春希 | Haruki | 「…ですね」 | ||
257 | 浜田 | Hamada | 「ウチとアンサンブルの狙ってた方向性とは 微妙にずれてきてるような気がするんだが…」 | ||
258 | かずさの言葉をそのままテキストに書き写すと、 そこに滲み出るあまりの悪意に驚愕する。 | ||||
259 | あいつの表情や、口調や… 押し隠された複雑な感情のフィルタを通さないと、 ここまでニュアンスが違って見えてくるものなんだって… | ||||
260 | そりゃ、あいつを知らない人間には 激しく誤解を受けるはずだ。 | ||||
261 | 特に、あいつが拗くれてた時代に使ってた [R言語^にほんご]で表現された文章で読む[R人^にほんじん]たちには。 | ||||
262 | 春希 | Haruki | 「俺だって、この記事を 単なるゴシップのままで終わらせるつもりはないです」 | ||
263 | 翻訳、しないと。 | ||||
264 | それこそ、俺にしかできない仕事だから。 | ||||
265 | 俺にしかできないと信じていたから、 曜子さんは俺を指名してきたんだから。 | ||||
266 | …自分の娘のために。 自分の娘以外を犠牲にして。 | ||||
267 | 春希 | Haruki | 「表面上の言葉だけでなく、 冬馬かずさの心の奥底まで語らせてみせます」 | ||
268 | だからこそ、全てを表に出さないと。 | ||||
269 | 冬馬かずさの、『偽悪』の奥底にある、 本当は純粋で、傷つきやすい、泣き虫の心を。 | ||||
270 | 浜田 | Hamada | 「そうか… ま、そこまで言うならもうしばらく様子見るか。 とりあえずこれ、先方に事前チェック依頼しとくから」 | ||
271 | 春希 | Haruki | 「すいません、お願いします」 | ||
272 | あいつが『あと一週間』というのなら、 その期間で暴き出してみせる。 | ||||
273 | そこでさよならだと言うのなら、 全部、覗いてやる。 | ||||
274 | あいつの全てを、俺の心に焼きつける。 | ||||
275 | 二度と、忘れないように。 側にいなくても、思い出せるように。 | ||||
276 | 俺をなめるなよ、かずさ… | ||||
277 | ……… | .........
| |||
278 | 雪菜 | Setsuna | 「これ、あげる」 | ||
279 | 依緒 | Io | 「っ!? こ、これ…」 | ||
280 | 雪菜 | Setsuna | 「二枚あるから、よかったら武也くんと… ううん、是非武也くんを誘ってあげて」 | ||
281 | 依緒 | Io | 「冬馬さんの…コンサート」 | ||
282 | 雪菜 | Setsuna | 「ウチの会社、こういうイベントは結構融通利くんだ。 一般販売はすぐに完売しちゃったみたいだけど」 | ||
283 | 依緒 | Io | 「だからって、なんでこんなもの? 雪菜、まさかこれ、自分の…」 | ||
284 | 雪菜 | Setsuna | 「うん、自分で見に行くつもりだった。 …春希くんと一緒に」 | ||
285 | 依緒 | Io | 「………春希、誘ったの?」 | ||
286 | 雪菜 | Setsuna | 「ううん、その前にわたしが行けなくなっちゃったから。 …今週末、関西の方に出張が決まったの。 初めて一人で任せてもらえることになって」 | ||
287 | 依緒 | Io | 「そ、そっかぁ! そうなんだ」 | ||
288 | 雪菜 | Setsuna | 「断ることもできたんだけどね… でも、ずっと希望してたし、なのに断っちゃうと、 二度とこういう仕事回ってこないかもって」 | ||
289 | 依緒 | Io | 「うん、うん、雪菜行きたがってたもんなぁ。 春希の海外出張とか、すごく羨ましそうだったし」 | ||
290 | 雪菜 | Setsuna | 「行くだけで満足してちゃいけないんだけどね。 春希くんみたいに、ちゃんと成果出さなきゃ」 | ||
291 | 依緒 | Io | 「いいじゃん、頑張れよ。 自分のしたい仕事が回ってくるなんて羨ましいよ。 その点、あたしなんかさぁ…」 | ||
292 | 雪菜 | Setsuna | 「と、とりあえず仕事の話は後にして、 だからこれ、受け取ってくれるよね?」 | ||
293 | 依緒 | Io | 「…行ってもいいけどさ、 できれば武也に渡してくんない?」 | ||
294 | 雪菜 | Setsuna | 「どうして? 一緒に行くならどっちが持ってても同じでしょ?」 | ||
295 | 依緒 | Io | 「同じわけないじゃないか。 あたしに武也誘えって言うの? …それハードル高すぎるよ雪菜」 | ||
296 | 雪菜 | Setsuna | 「…そっちも相変わらず複雑なんだね」 | ||
297 | ……… | .........
| |||
298 | 雪菜 | Setsuna | 「うん、うん…じゃあ、OKってことで。 え? ああ、そっか。 …ね、依緒。待ち合わせどこにしようかって」 | ||
299 | 依緒 | Io | 「そんなのそっちで勝手に…」 | ||
300 | 雪菜 | Setsuna | 「…勝手に決めていいなら、 朝の10時に部屋に迎えに行くから、 時間まで買い物して食事して休憩しようって…」 | ||
301 | 依緒 | Io | 「5時半にホール前! 余計なオプション追加しようとするな!」 | ||
302 | 雪菜 | Setsuna | 「あ、お待たせ~。 うん、うん、武也くんの予想通り開演30分前に現地。 すごいね、超能力みたい」 | ||
303 | 依緒 | Io | 「っ…」 | ||
304 | 雪菜 | Setsuna | 「うん、チケットは依緒に渡しておくから。 それじゃ当日はごゆっくり… ううん、ごめんね色々、じゃ」 | ||
305 | 雪菜 | Setsuna | 「…と、いうことで、はいチケット」 | ||
306 | 依緒 | Io | 「………じゃあ、仕方なく」 | ||
307 | 雪菜 | Setsuna | 「よかったね。 武也くんOKしてくれて」 | ||
308 | 依緒 | Io | 「あの馬鹿、雪菜になんてこと… 結局、ちっとも変わってやしないんだ」 | ||
309 | 雪菜 | Setsuna | 「なんてことって…なんだっけ?」 | ||
310 | 依緒 | Io | 「だから、ほら、その………休憩とか」 | ||
311 | 雪菜 | Setsuna | 「ああ、あれ? 喫茶店で休もうってくらいの言い方だったよ? 依緒の方が考え過ぎなんじゃない?」 | ||
312 | 依緒 | Io | 「あの武也だよ? 考え過ぎなんてあり得ないよ!」 | ||
313 | 雪菜 | Setsuna | 「でもさ… そろそろ考え過ぎてもいい頃じゃない? あなたたち」 | ||
314 | 依緒 | Io | 「………春希に何か吹き込まれた?」 | ||
315 | 雪菜 | Setsuna | 「ううん、別に。 ………最近あまり会ってないし」 | ||
316 | 依緒 | Io | 「…どうしたのあんたたち? 春希に聞いても、今回は妙に口を濁すし」 | ||
317 | 雪菜 | Setsuna | 「だから、別にって…」 | ||
318 | 依緒 | Io | 「その…立ち入ったこと聞くようだけど、 もしかして、冬馬さんのこと…」 | ||
319 | 雪菜 | Setsuna | 「違うよ」 | ||
320 | 依緒 | Io | 「それならいいんだけど… でも、最近はずっとべったりだったのに」 | ||
321 | 雪菜 | Setsuna | [F16「ごめんね、嘘ついて…」] | ||
322 | 依緒 | Io | 「どっちにしてもさぁ、 今さら彼女のコンサートに行こうなんて何考えてるの。 それも、春希と一緒に」 | ||
323 | 雪菜 | Setsuna | 「結局、行けなくなっちゃったけどね」 | ||
324 | 依緒 | Io | 「知ってたら絶対止めてた。 なんで今さらそんな古傷をえぐるようなことするの? 二人にとって、なんのメリットもないよ?」 | ||
325 | 雪菜 | Setsuna | 「…親友だもん」 | ||
326 | 依緒 | Io | 「雪菜…」 | ||
327 | 雪菜 | Setsuna | 「だから、遠くからでもいい。 かずさを見たかった。 本物のかずさに、もう一度会いたかった」 | ||
328 | 依緒 | Io | 「………」 | "........."
| |
329 | 雪菜 | Setsuna | 「わたしのこと、許してくれないかもしれないけど。 今でも彼のこと、諦めてないのかもしれないけど。 だからもう、親友じゃないのかもしれないけど…」 | ||
330 | 雪菜 | Setsuna | 「でも…行けなくなっちゃった」 | ||
331 | 依緒 | Io | 「行かなくて正解だよ。 それに仕事なんだから仕方ない」 | ||
332 | 雪菜 | Setsuna | 「正解、なのかな」 | ||
333 | 依緒 | Io | 「春希だって断るに決まってる。 だって、楽しめるわけないじゃないか」 | ||
334 | 雪菜 | Setsuna | 「わたし、空回りしてたのかもしれない。 全然空気を読んでなかったのかもしれない。 …自信過剰、だったのかも」 | ||
335 | 依緒 | Io | 「もう、彼女のことは忘れろって。 楽しかった思い出も、辛い記憶も、全部」 | ||
336 | 雪菜 | Setsuna | 「結局、コンサートに行っても行かなくても、 わたしたちの気持ちは変わらないんじゃないかな…」 | ||
337 | 依緒 | Io | 「そうだよ。 もうお前たち二人を遮るものなんか何もない。 今度こそ、雪菜は幸せになるんだよ。春希と一緒に」 | ||
338 | 雪菜 | Setsuna | 「わたしたちって………二人じゃないよ」 | ||
339 | 依緒 | Io | 「雪菜…?」 | ||
340 | 雪菜 | Setsuna | 「変わらないんじゃないかな… ずっと、変わってないんじゃないかな…」 | ||
341 | ……… | .........
| |||
342 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
343 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
344 | かずさ | Kazusa | 「………んぅ?」 | ||
345 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
346 | かずさ | Kazusa | 「…なに見てんだよ」 | ||
347 | 春希 | Haruki | 「別に…」 | ||
348 | 素直さが滲み出たような寝顔は、 ほんの二、三分くらいしか続かなかった。 | ||||
349 | かずさ | Kazusa | 「人が寝てるとこを遠慮なく覗きやがって… これだからお前らマスコミは…」 | ||
350 | 春希 | Haruki | 「ちゃんとした取材中だ。 別に問題はないと思うけど?」 | ||
351 | かずさ | Kazusa | 「しかも口だけは立ちやがって… 本気で手に負えない」 | ||
352 | 後は、眠ってしまったのを恥じたのか、 それとも何もかもが気に入らないのか、 いつものように眉を吊り上げて怒りの言葉を吐く。 | ||||
353 | …そのギャップもまた 自分の魅力を底上げしてるって気づいてないところが、 かずさのかずさたる所以でもあるわけだけど。 | ||||
354 | かずさ | Kazusa | 「ふぁぁぁ…どこまで話したかな?」 | ||
355 | 春希 | Haruki | 「眠いなら今日のところは帰るけど?」 | ||
356 | かずさ | Kazusa | 「でも、そしたらお前は明日も来るんだろう?」 | ||
357 | 春希 | Haruki | 「ま、取材が全部終わるまではな」 | ||
358 | かずさ | Kazusa | 「なら続けろ。 さっさと終わらせて、さっさとここを出てく」 | ||
359 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
360 | 『それがお互いのため』って… そんな、何度も繰り返したフレーズは、 今夜は、その後に続いてこなかった。 | ||||
361 | いつも俺が嫌そうな顔をするから遠慮したのか、 それとも自分もその言葉が嫌になったのか… | ||||
362 | かずさ | Kazusa | 「どこまで話したかな… そうだ、ウィーンでの五年間のことだっけ。 …何度も口説かれたとか、そういう男関連の話」 | ||
363 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
364 | 別に、思い出さなくてもよかったのに。 | ||||
365 | かずさ | Kazusa | 「なんだよ、疑うのか? あたしなんかがモテる訳ないって?」 | ||
366 | 春希 | Haruki | 「そんなことは…ないけどさ」 | ||
367 | そんなことはないからこそ、 こっちの突っ込みが希薄になってしまい、 かずさの眠気を誘発したという面もあったけど… | ||||
368 | かずさ | Kazusa | 「地元にいる時より、 母さんと演奏旅行行く時の方がよく声かけられたけどな。 …特にフランス」 | ||
369 | 春希 | Haruki | 「そっか…」 | ||
370 | かずさ | Kazusa | 「パリはさ、元々母さんの拠点だったから、 『冬馬曜子の娘』ってだけで色々注目されるんだ。 …まぁ、日本ほどじゃないけど」 | ||
371 | 春希 | Haruki | 「うん…」 | ||
372 | かずさ | Kazusa | 「で、一人傑作なのがいてさ。 フランス人の、30半ばの指揮者で… そいつ、若い頃母さんの愛人やってたらしいんだ」 | ||
373 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
374 | かずさは、まるで酒が入ったように笑いながら、 俺の顔を覗き込むように話している。 | ||||
375 | かずさ | Kazusa | 「母さんのおかげで金と地位を手に入れたかと思ったら、 今度は娘のあたしを口説こうとしやがった。 親子二代かよって」 | ||
376 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
377 | かずさ | Kazusa | 「パーティで踊ってる時に、 耳元でいやらしく囁きかけてくるんだ。 二人きりになりたいとか、若い頃の曜子そっくりだとか」 | ||
378 | 俺が、どんどん顔を逸らすのが 楽しくてしょうがないみたいに。 | ||||
379 | かずさ | Kazusa | 「曜子に世話になった恩をあたしに返したいとか何とか。 ウチのオケでピアノ協奏曲をやらせてやるってさ。 …部屋の鍵を受け取る代わりにね」 | ||
380 | 俺が、歯を食いしばるのが、 面白くてたまらないみたいに。 | ||||
381 | かずさ | Kazusa | 「さすがに頭来たから、 曲が終わった瞬間に股間蹴り上げてやったけどな」 | ||
382 | 春希 | Haruki | 「っ………はぁぁぁぁ」 | ||
383 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
384 | 俺が、ほっとした表情を浮かべるのも、 やっぱり痛快でどうしようもないみたいに。 | ||||
385 | かずさ | Kazusa | 「あたしはしばらく怒りが収まらなかったけど、 母さんは一晩中大笑いしてたな。 そういうの男の夢なんだから大目に見てやれって」 | ||
386 | 春希 | Haruki | 「そ…そっか」 | ||
387 | かずさ | Kazusa | 「そいつ、今でもパリのオケの常任だよ。 なんなら名前も教えようか? もしかしたらあたしの父親かも」 | ||
388 | 春希 | Haruki | 「い、いや………どうせ書けないから」 | ||
389 | かずさ | Kazusa | 「ふぅん…」 | ||
390 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
391 | かずさ | Kazusa | 「で、感想は?」 | ||
392 | 春希 | Haruki | 「…別に」 | ||
393 | かずさ | Kazusa | 「…なんでそんなに素っ気ないんだよ。 せっかくとっておきの話をしてやったのに。 こういうのって日本人に受けるんじゃないか?」 | ||
394 | 春希 | Haruki | 「…かもな」 | ||
395 | 俺以外には、な。 | ||||
396 | かずさ | Kazusa | 「…もしかして、 ショック受けてるのか?」 | ||
397 | 春希 | Haruki | 「だから、別に」 | ||
398 | わかってんなら、 できればこういう話をしないで欲しい。 | ||||
399 | …まぁ、わかってるからこそ、 こういう話をしてるんだろうけどな。 | ||||
400 | かずさ | Kazusa | 「ふぅ~ん」 | ||
401 | かずさが、膝立ちになって、 俺の逸らした顔を覗き込もうと、 自分の顔を寄せてくる。 | ||||
402 | さっきまで、俺が自分の側に居座るのを あれほど嫌がってたはずなのに。 | ||||
403 | かずさ | Kazusa | 「あれだよな、春希… お前って、マスコミ失格だよな」 | ||
404 | 春希 | Haruki | 「たった今、それを痛感してるところだよ…」 | ||
405 | かずさ | Kazusa | 「ははっ、はははっ… ほんっと、五年経っても変わらない奴。 検事にでもなってればよかったのに」 | ||
406 | 俺がダメージを受けてるのは、 今の話が不謹慎だからじゃないのに… | ||||
407 | 俺をやり込めたことが嬉しくてしょうがないのか、 かずさは、俺の態度の本質を突かなかった。 | ||||
408 | ……… | .........
| |||
409 | かずさ | Kazusa | 「でも結局、 誰もあたしを落とすことなんかできなかった…」 | ||
410 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
411 | かずさ | Kazusa | 「だってあたしは、母さんとは全然違ったから。 男に媚びないどころか、いつも敵視してたから」 | ||
412 | かずさの目に、また素直な光が戻ってた。 | ||||
413 | かずさ | Kazusa | 「一度、思いっきり罵ってやると、 すぐにプライド傷つけられて、 二度と近寄っては来ないんだよ、あの手の連中は」 | ||
414 | けれどそれは、態度が柔らかくなったというより、 ただ単に、また眠気がもたげてきただけみたいで。 その光もたびたび瞼に隠されてしまっていた。 | ||||
415 | かずさ | Kazusa | 「あたしより金持ちだからあたしに興味のない奴、 金がなくてもプライドだけは高くて、 あたしの態度が許せなくなった奴…」 | ||
416 | だから、気づいているのかいないのか… | ||||
417 | いつの間にか、俺を安心させる子守唄のような、 そんな、俺に優しい過去を奏でてる。 | ||||
418 | かずさ | Kazusa | 「ああ、そうだ… 金の代わりに才能って置き換えても、 当てはまる奴らばっかりだった」 | ||
419 | 春希 | Haruki | 「お前も、どれも沢山あるからな。 金も才能も…プライドも」 | ||
420 | かずさ | Kazusa | 「そうだよ、あたしもそいつらと同じだ。 プライドが高いだけの屑みたいな人間で、 近づく価値も、口説く値打ちもない」 | ||
421 | 春希 | Haruki | 「そんなこと…」 | ||
422 | かずさ | Kazusa | 「…何度突き放しても近づいてくる男なんか、 世界で一人しかいないんじゃないかって、思った」 | ||
423 | 春希 | Haruki | 「ぇ…」 | ||
424 | かずさ | Kazusa | 「っ、あ、ご、ごめん。 今の、忘れてくれ」 | ||
425 | 春希 | Haruki | 「いや、別に…」 | ||
426 | かずさ | Kazusa | 「………忘れてくれ。 本当に、ごめん」 | ||
427 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
428 | なんで謝るんだよ。 | ||||
429 | そのまま流してれば、 誰のことかなんて特定されなかったのに。 | ||||
430 | ……… | .........
| |||
431 | かずさ | Kazusa | 「ん、んぅ…」 | ||
432 | 春希 | Haruki | 「ほら、腕も布団の中に入れろ」 | ||
433 | かずさ | Kazusa | 「ん…」 | ||
434 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
435 | かずさ | Kazusa | 「すぅぅ…ん、すぅ…」 | ||
436 | その後かずさは、 いつしかテーブルの上で頬杖をつき始め。 | ||||
437 | 頭が、かくん、かくんと二度ほど傾くと、 後はもう、完全に意識を失った。 | ||||
438 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
439 | だから、仕方ないから。 本当に、ただ仕方なかったから。 | ||||
440 | かずさを抱き上げ、ベッドに寝かし、 布団を被せ、その寝顔に目をやる。 | ||||
441 | 仕方、なかったから。 | ||||
442 | かずさ | Kazusa | 「んぅ…ん」 | ||
443 | さっきうたた寝してたときと同じ、 素直さが滲み出たような、純粋な寝顔。 | ||||
444 | さっきは数分しか続かなかったけど、 もうこれで、きっと朝まで同じ表情を見られる。 | ||||
445 | 春希 | Haruki | 「…っ」 | ||
446 | って、違う。 | ||||
447 | 朝まで見てて、どうするんだよ。 | ||||
448 | もう今日の取材は終わっただろ。 かずさのことも、ちゃんと風邪を引かないように、 ベッドにまで運んだだろ。 | ||||
449 | もう、この部屋にいる理由なんかない。 | ||||
450 | これ以上俺が残ったら、 かずさが俺を遠ざけようとした意味がなくなる。 | ||||
451 | 雪菜だけでなく、 かずさの信頼まで奪おうってのか、俺は… | ||||
452 | 1.帰る | Choice | |||
453 | 2.寝顔を見つめる | Choice | |||
454 | 春希 | Haruki | 「…っ」 | ||
455 | 外は、寒かった。 | ||||
456 | 真夜中の空は静かに凍てついて、 薄着の俺の肌を容赦なく突き刺してくる。 | ||||
457 | 春希 | Haruki | 「はぁぁぁぁ~」 | ||
458 | それでも俺は、目の前にある俺の部屋へとすぐには戻らず、 白い息を吐きながら、その冷たくて痛い空気に身を委ねる。 | ||||
459 | …せめて、心の火照りが冷めるまで。 | ||||
460 | 熱くなっていてはいけないところが、 元通りの静けさを取り戻すまで。 | ||||
461 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
462 | かずさ | Kazusa | 「ん…」 | ||
463 | 雪菜の気持ちを踏みにじることになっても。 かずさの優しさを裏切ることになっても。 | ||||
464 | 俺は、俺の欲求には逆らえなかった。 最低だ、な。 | ||||
465 | 春希 | Haruki | 「かずさ…」 | ||
466 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
467 | 俺が適当に寝かせてしまったから、 その長くまっすぐな髪の房が、 いくつか曲がってしまっている。 | ||||
468 | このまま朝を迎えたら変な寝癖が残り、 かずさに余計に罵倒されてしまうかもしれない。 | ||||
469 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
470 | …なんて、そんなほのぼのとした展開は、 もう俺たちの間に訪れていい類のものじゃない。 | ||||
471 | 寝癖がついていても、かずさは人のせいにしない。 そして俺は、そんな髪型を指差して笑ったりしない。 | ||||
472 | かずさ | Kazusa | 「っ…ん」 | ||
473 | だったら、何で… | ||||
474 | 何で俺は、かずさの髪を梳くんだろう。 指を通して、真っ直ぐに揃えていくんだろう。 | ||||
475 | かずさの髪に、顔に、肌に触れるなんて、 そんなとんでもないタブーを犯してまで。 | ||||
476 | かずさ | Kazusa | 「は、ぁ、ぁ…」 | ||
477 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
478 | 軽く頭を持ち上げたとき、 かずさが息苦しそうにほんの少しむずがる。 | ||||
479 | けれど俺は、心の中で慌てるだけに留め、 その黒髪を撫でる作業をやめたりしない。 | ||||
480 | この程度なら、見つかっても開き直れる。 適当に嘘の説教を織り交ぜて誤魔化しきれる。 | ||||
481 | かずさ | Kazusa | 「………すぅ」 | ||
482 | そんな、卑怯で陰険で、そして必死すぎる戦術は、 どうやら日の目を見ずに済みそうだった。 | ||||
483 | かずさの髪が、全て真っ直ぐに揃い、 俺が手を離しても、かずさは何事もなかったかのように 安らかな寝息を立ててたから。 | ||||
484 | 春希 | Haruki | 「………はぁ」 | ||
485 | 俺は、ほっと胸をなで下ろして、 そのまま深くため息をつく。 | ||||
486 | だって、結局何の解決にもなっていない。 | ||||
487 | ただスキンシップを重ねただけ。 俺の欲求を一方的に満たしただけ。 | ||||
488 | そして…それだけで満足できない、 欲望に際限のない最低な俺が残されただけ。 | ||||
489 | かずさ | Kazusa | 「ん…」 | ||
490 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
491 | 素直で無防備で… いつもの綺麗さに可愛さまで加わって、 どうしようもないくらい湧き上がってくる表情。 | ||||
492 | もう、見てるだけじゃ、俺は… | ||||
493 | 1.ずっと、残しておきたい | Choice | |||
494 | 2.抱きしめたい | Choice | |||
495 | 春希 | Haruki | 「寝るなよ、馬鹿…」 | ||
496 | 最初は、単なる悪戯のつもりだったのかもしれない。 | ||||
497 | 一枚だけお宝画像として撮っておいて、 後でかずさをからかう時に使おうと思っていたのかも… | ||||
498 | 春希 | Haruki | 「なんで寝ちまうんだよ… こんな、好きでも何でもない男の目の前で…」 | ||
499 | なんて、本当にそうだったのか、もう俺にはわからない。 | ||||
500 | かずさ | Kazusa | 「ん…んぅ」 | ||
501 | 春希 | Haruki | 「もう、あれから五年だぞ… 本当は、男いるんだろ? 恋の一つや二つ、してんだろ?」 | ||
502 | ただ目の前に、あまりにも魅力的な被写体がいて、 そいつがずっとカメラを意識せずに、 自然な表情のままでいてくれるから… | ||||
503 | 春希 | Haruki | 「そいつに申し訳ないとか…思わないのかよ」 | ||
504 | 自他共に認める最低な行為なのに… | ||||
505 | なのに俺は、距離を変え、アングルを変え… | ||||
506 | 春希 | Haruki | 「なんで、なんで…」 | ||
507 | 反応しないモデルに何度も話しかけ、 そしてシャッターを切り続ける。 | ||||
508 | 春希 | Haruki | 「なんでこんなに、無防備なんだよ…っ」 | ||
509 | 春希 | Haruki | ……… | .........
| |
510 | 春希 | Haruki | …… | ......
| |
511 | 春希 | Haruki | … | ...
| |
512 | 春希 | Haruki | 「ん、んぅ…」 | ||
513 | かずさ | Kazusa | 「春希…?」 | ||
514 | 春希 | Haruki | 「すぅ…」 | ||
515 | かずさ | Kazusa | 「どうしてあたしが無防備かって…?」 | ||
516 | かずさ | Kazusa | 「それはだな、お前に恋人がいるって知ってるからだ。 あたしなんかを求めたりしないって、知ってるからだよ」 | ||
517 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
518 | かずさ | Kazusa | 「逆に聞きたいよ、春希… お前はどうして いつも、あたしの目の前で無防備に眠るんだ…」 | ||
519 | かずさ | Kazusa | 「こういう状況で、 あたしが何度惑わされたか知ってるのか? …一度なんか、間違ってしまったんだぞ?」 | ||
520 | 春希 | Haruki | 「すぅぅ…ん」 | ||
521 | かずさ | Kazusa | 「雪菜… どうして春希に連絡しないんだよ? …してくれないんだよ」 | ||
522 | かずさ | Kazusa | 「春希、待ってるのに。 お前のこと、あんなに愛してるのに」 | ||
523 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
524 | かずさ | Kazusa | 「いいのかよ、このままにしておいて。 春希が悩んでるの、放っておいていいのかよ?」 | ||
525 | かずさ | Kazusa | 「そんなの…酷いじゃないかよ」 | ||
526 | 春希 | Haruki | 「………すぅ。 ん…すぅぅぅ」 | ||
527 | かずさ | Kazusa | 「なぁ、春希」 | ||
528 | かずさ | Kazusa | 「どうしてあたしが無防備かって…? 恋の一つや二つ、してんだろって…?」 | ||
529 | かずさ | Kazusa | 「当たり前じゃないか。 もう、あれから五年だぞ…?」 | ||
530 | かずさ | Kazusa | 「恋なんか、 とっくにしてるに決まってるじゃないか」 | ||
531 | かずさ | Kazusa | 「最初から… あの学園祭でステージに上がったときから… ずっと、してる」 | ||
532 | そして次に気づいたときには、 空はとっくに白みかけていて。 | ||||
533 | ベッドを見たら、かずさはいなくて、 浴室からシャワーの流れる音だけがしてて。 | ||||
534 | その五分後… バスタオル姿のかずさに罵倒されながら、 慌てて自分の部屋に戻った。 | ||||
535 | けど、その時のかずさの目は、 嫌になるくらい、優しかった… | ||||
536 | 春希 | Haruki | 「…っ! は~、は~、はぁぁぁぁ~っ」 | ||
537 | 外は、寒かった。 | ||||
538 | 真夜中の空は静かに凍てついて、 薄着の俺の肌を容赦なく突き刺してくる。 | ||||
539 | 春希 | Haruki | 「あ、あ、あ…ぁぁぁぁぁ…っ」 | ||
540 | それでも俺は、目の前にある俺の部屋へとすぐには戻らず、 白い息を吐きながら、その冷たくて痛い空気に身を委ねる。 | ||||
541 | …頭を、冷まさないと。 | ||||
542 | ありえない、許されない想いを抱いてしまった頭を。 | ||||
543 | 俺の大切なもの全てを裏切って、 一時の欲情に身を任せようとしてしまった頭を。 | ||||
544 | ……… | .........
| |||
545 | かずさ | Kazusa | 「…馬鹿野郎」 | ||
546 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
547 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
548 | かずさ | Kazusa | 「…なんだよ?」 | ||
549 | 曜子 | Youko | 「今のは良かった。 最高にわたし好み」 | ||
550 | かずさ | Kazusa | 「そりゃ、どうも…」 | ||
551 | 曜子 | Youko | 「いい顔してる。 とってもいやらしい…」 | ||
552 | かずさ | Kazusa | 「…自分の娘誉めるのにそういう言い方は」 | ||
553 | 曜子 | Youko | 「ほら、よだれ拭きなさい」 | ||
554 | かずさ | Kazusa | 「っ…」 | ||
555 | 曜子 | Youko | 「これなら何とかなりそうね。 急に仕上がってきちゃって」 | ||
556 | かずさ | Kazusa | 「だから何度も言ってるだろ。 心配しすぎなんだよ、この親馬鹿」 | ||
557 | 曜子 | Youko | 「…自分の親貶すのにそういう言い方は」 | ||
558 | かずさ | Kazusa | 「…おかしいかな?」 | ||
559 | 曜子 | Youko | 「別におかしいとまでは言わないけど…」 | ||
560 | かずさ | Kazusa | 「だって母さん、 あたしにピアノ以外の雑音を聞かせないだろ? そういうのって、結構過保護じゃないのか?」 | ||
561 | 曜子 | Youko | 「なんかどっかで聞いたような… と言うかそれって北原記者の口説き文句…」 | ||
562 | かずさ | Kazusa | 「っ…」 | ||
563 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
564 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
565 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
566 | かずさ | Kazusa | 「な、何だよ?」 | ||
567 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
568 | かずさ | Kazusa | 「い、言いたいことがあるなら…」 | ||
569 | 曜子 | Youko | 「明後日、コンサート会場でリハーサルね。 午前中に二時間だけ借りてあるから。 さ、忙しくなってきたわよ」 | ||
570 | かずさ | Kazusa | 「…溜める必要あったのか? それ」 | ||
571 | ……… | .........
| |||
572 | かずさ | Kazusa | 「~♪」 | ||
573 | かずさ | Kazusa | 「ああ、春希? あのさ、今夜は中華………あ!」 | ||
574 | かずさ | Kazusa | 「………っ」 | ||
575 | かずさ | Kazusa | 「馬鹿かあたしは… なに浮かれてんだ…」 | ||
576 | 春希 | Haruki | 「………どうしろと?」 | ||
577 | かずさ | Kazusa | 「あ~なんでもないなんでもない。 ただの間違い電話だよ。 別にコールバックなんかいらないって」 | ||
578 | かずさ | Kazusa | 「しつこいなぁ! 誰が出てやるもんか」 | ||
579 | ……… | .........
| |||
580 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
581 | かずさ | Kazusa | 「あ…」 | ||
582 | かずさ | Kazusa | 「…遅い!」 | ||
583 | かずさ | Kazusa | 「今から来られたらまた寝不足だ。 人の迷惑考えろよ…」 | ||
584 | 春希 | Haruki | 「夜分遅く大変失礼いたします。 私、開桜社アンサンブル編集部の北原と申しますが… いつもお世話になっております」 | ||
585 | 今週から徐々に職場復帰しているものの、 なんとなく仕事を家に持って帰る癖がついてしまったのは、 今回の仕事での最大の副作用と言わざるを得ない。 | ||||
586 | 春希 | Haruki | 「先日お願いした件ですが、 許可して頂き誠にありがとうございました。 ええ、それで日時と当日の進め方について…」 | ||
587 | 玄関開けたら2分でノート起動。 その直後に1分でメールチェック。 30分で全件返信。緊急用件には電話対応。 | ||||
588 | 春希 | Haruki | 「ええ、ええ、それではそのように… そうですね、できればスタッフ以外の見学は… 大変申し訳ありません、本人の事務所の方から…」 | ||
589 | セキュリティ上問題があるのは重々承知してるけど、 一度この取り回しを覚えてしまうと、 二度とやめられない麻薬のような業務形態。 | ||||
590 | 春希 | Haruki | 「はい、では当日は私ともう一名で伺わせて頂きます。 よろしくお願いいたします。 では…失礼いたします」 | ||
591 | …負荷的には、順調にヤバい方向へと 突き進む道のような気もしないでもないけれど、 今は若いからそれほど深刻に捉えていない。 | ||||
592 | …30過ぎていきなりキたら嫌だなぁ。 | ||||
593 | 春希 | Haruki | 「もしもし、夜分遅く大変失礼いたします。 私、北原と申しまして、先日お手紙を…え、覚えてます? そうですかぁ! どうも大変ご無沙汰してます!」 | ||
594 | ……… | .........
| |||
595 | かずさ | Kazusa | 「ふぁぁ…」 | ||
596 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
597 | かずさ | Kazusa | 「…何やってんだよ」 | ||
598 | かずさ | Kazusa | 「来ないなら連絡くらいしろよ…っ」 | ||
599 | かずさ | Kazusa | 『なんだよ、疑うのか? あたしなんかがモテる訳ないって?』 | ||
600 | 各種業務連絡が終わったら、 今度は溜まった仕事の処理に奔走。 | ||||
601 | かずさ | Kazusa | 『地元にいる時より、 母さんと演奏旅行行く時の方がよく声かけられたけどな。 …特にフランス』 | ||
602 | まずは、昨夜色々あって片づけられなかった、 インタビュー記事のテキスト起こし。 | ||||
603 | かずさ | Kazusa | 『パリはさ、元々母さんの拠点だったから、 『冬馬曜子の娘』ってだけで色々注目されるんだ。 …まぁ、日本ほどじゃないけど』 | ||
604 | かずさへの取材が始まってからは、 大抵、インタビューをしたその日のうちに 全部処理してた。 | ||||
605 | かずさ | Kazusa | 『で、一人傑作なのがいてさ。 フランス人の、30半ばの指揮者で… そいつ、若い頃母さんの愛人やってたらしいんだ』 | ||
606 | スピーカーから流れてくるかずさの声は、 一日前に聞いたものとまるっきり同じだったけど、 それでも俺は、何度か手を止めて聴き入ってしまう。 | ||||
607 | かずさ | Kazusa | 『母さんのおかげで金と地位を手に入れたかと思ったら、 今度は娘のあたしを口説こうとしやがった。 親子二代かよって』 | ||
608 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
609 | 特に昨日のは、色んな意味で聴き辛くて、 何度も手を止めて考え込んでしまうという、 最悪の作業効率を誇る内容だった。 | ||||
610 | そんなこんなで、いつもはインタビュー含めても、 朝の4時には完了する作業なのに、 今日はまだ終わりの目処すら見えない。 | ||||
611 | かずさ | Kazusa | 『パーティで踊ってる時に、 耳元でいやらしく囁きかけてくるんだ。 二人きりになりたいとか、若い頃の曜子そっくりだとか』 | ||
612 | 本当は、今日もかずさに会いたか… いや、かずさの部屋に行きた… じゃなくて、取材を進めておきたかったけど。 | ||||
613 | 時計を見ると、午前0時をとっくに過ぎてる。 とてもじゃないけど、今日は取材はできない。 | ||||
614 | かずさ | Kazusa | 『曜子に世話になった恩をあたしに返したいとか何とか。 ウチのオケでピアノ協奏曲をやらせてやるってさ。 …部屋の鍵を受け取る代わりにね』 | ||
615 | ま、いいか… ここんとこ毎日だったし。 | ||||
616 | それに、かずさは最近、 俺にしつこく付きまとわれるのを嫌がってるし。 | ||||
617 | 今日だって、自分から掛けてきておきながら、 何度コールバックしても出ないし、 色々と理不尽なストレスが溜まってるのかもしれない。 | ||||
618 | だったら一日くらい間を空けた方が、 あいつにとっても… | ||||
619 | かずさ | Kazusa | 『さすがに頭来たから、 曲が終わった瞬間に股間蹴り上げてやったけどな』 | ||
620 | 春希 | Haruki | 「うわぁっ!?」 | ||
621 | ……… | .........
| |||
622 | かずさ | Kazusa | 「だからさ、 あたしはただ、常識の話をしてるだけだ。 その辺、妙な勘違いして欲しくない」 | ||
623 | 春希 | Haruki | 「だから何度も謝っただろ…」 | ||
624 | 水曜日。 | ||||
625 | ロケ先へと向かう道すがら、 かずさの口は、ずっと俺への非難に集中してた。 | ||||
626 | 俺が連絡もせずに取材をすっぽかすという、 不誠実を働いた『ことになってる』昨夜についての… | ||||
627 | かずさ | Kazusa | 「お前の謝り方が気に食わないんだよ。 まるで自分が悪くないみたいな態度で… これじゃ、あたしが言いがかりをつけてるみたいだ」 | ||
628 | 春希 | Haruki | 「そんなつもりじゃないって…」 | ||
629 | かずさ | Kazusa | 「来なかったことなんかどうでもいい。 ただ、そういうときは事前に連絡しろって言ったよな?」 | ||
630 | 春希 | Haruki | 「あ~、そうだったかな」 | ||
631 | かずさ | Kazusa | 「コンサートまで一週間切ったから色々キツいんだ。 そんな時に、無駄に睡眠時間削られたらどう思うか、 普通に考えてみればわかるよな?」 | ||
632 | 春希 | Haruki | 「済まん」 | ||
633 | 取材に行かない時じゃなくて、 行く時に連絡する約束だっただろ? | ||||
634 | いつも行く時は帰ったらすぐ連絡入れてたろ? 遅くまで連絡がないってことは、 常識的に考えれば今日は行かないってことだろ? | ||||
635 | 俺は何度も『コンサートが終わってからにしよう』 って提案してたはずだよな? それをお前がさっさと終わらせたいからって… | ||||
636 | ………などという正論は、 ここまで苛ついたかずさにとっては逆効果だと、 経験上わかっているので、ここはとにかく謝り倒す。 | ||||
637 | もちろん、誠意なんかは込められないけど。 | ||||
638 | かずさ | Kazusa | 「まさか春希に説教するなんて思いもしなかった。 仕事なんだからちゃんとしてくれそういうとこ」 | ||
639 | 春希 | Haruki | 「………はいは…わかった」 | ||
640 | 未だ『はいはい』をやると『はいは一度!』 が帰ってきそうな勢いだったので自重した。 | ||||
641 | けれど、それを敢えてやってしまいそうなくらい、 今の俺はやさぐれてるし、 それを看過できないくらい、今のかずさは怒ってる。 | ||||
642 | かずさ | Kazusa | 「何してたんだよ昨日…」 | ||
643 | 春希 | Haruki | 「仕事だよ… 一昨日のインタビュー記事のまとめとか、 あと、取材先に連絡したりとか」 | ||
644 | かずさ | Kazusa | 「どうしてもすぐやらなくちゃならないことだったのか? 本当に優先順とか間違ってなかったのか?」 | ||
645 | 春希 | Haruki | 「…記事の提出期限は金曜朝までだから、 まぁ、1、2日は余裕あったけど」 | ||
646 | かずさ | Kazusa | 「ほら見ろ、時間の使い方間違ってるじゃないか。 本当は、昨日だって来ることできたじゃないか」 | ||
647 | 春希 | Haruki | 「かずさ…」 | ||
648 | けど、それは本当に、理に適った怒りなんだろうか? | ||||
649 | 俺にしつこく付きまとわれるのを 嫌がってたんじゃなかったんだっけ? | ||||
650 | 今のかずさの態度は、自分ではめたはずの枷を、 必死で引きちぎろうとしてるみたいな矛盾がある。 | ||||
651 | かずさ | Kazusa | 「お前、あたしのこと避けようとしてるのか? あたしだけじゃなく、お前まで避けようって言うのか? そんなの、酷いじゃないか…」 | ||
652 | なんだよ、それ… | ||||
653 | 自分が避けるのは良くて、 俺の方から避けるのは駄目だって言うのか? | ||||
654 | なんだよその理屈…訳わかんないよ。 俺だけが一方的に振り回されること前提かよ? | ||||
655 | ふざけるなよ。酷いのはどっちだよ。 お前、どこまで俺を苦しめれば気が済むんだよ… | ||||
656 | 春希 | Haruki | 「でも、取材先との調整の方は、 昨夜のうちにどうしてもやっておく必要があったの」 | ||
657 | …なんてな。 | ||||
658 | 今日は、いつもみたいに そんな泣き言混じりの愚痴は我慢しよう。 | ||||
659 | だって… | ||||
660 | かずさ | Kazusa | 「なんでだよ?」 | ||
661 | 春希 | Haruki | 「お前、今どこに向かってるかわかるか?」 | ||
662 | 今はちょっとだけ、 復讐心を満たすことができるから。 | ||||
663 | かずさ | Kazusa | 「わかるわけないだろ。 何度聞いても教えてくれないんだから」 | ||
664 | 岩津町で降りた時、 最初かずさは伊達眼鏡越しに俺を睨みつけた。 | ||||
665 | けど俺が、旧冬馬家と逆の方向へと歩き出すと、 ある意味拍子抜けした感じでとことこついてきた。 | ||||
666 | …『旧冬馬家から近い場所』という事実からは、 あまり感じるところはなかったみたいだった。 | ||||
667 | 春希 | Haruki | 「今は子供たちも全員結婚して家を出ちゃっててさ、 定年退職したご主人と二人暮らしなんだって」 | ||
668 | かずさ | Kazusa | 「は?」 | ||
669 | 春希 | Haruki | 「しかも去年、腰痛めちゃってから、 もう、あまりきつい仕事はできなくなっちゃってて」 | ||
670 | かずさ | Kazusa | 「なんのことだ?」 | ||
671 | 春希 | Haruki | 「曜子さんの事務所に問い合わせて、 連絡先を教えてもらったんだ。 …まだ毎年年賀状が来るんだってさ」 | ||
672 | かずさ | Kazusa | 「誰…の」 | ||
673 | 春希 | Haruki | 「ほら、着いたぞ。 お前がインターフォンを押せ。 …ついでに変装は解いておいた方がいいと思う」 | ||
674 | かずさ | Kazusa | 「………あ」 | ||
675 | まさに計画通り。 | ||||
676 | 俺がその、閑静な住宅街の中にある一軒家を指差すと、 かずさは両手で顔を覆い、眼鏡越しの瞳を見開いた。 | ||||
677 | 春希 | Haruki | 「まだ料理くらいは作れるってさ。 …昨日からものすごい勢いで張り切ってたぞ」 | ||
678 | その『柴田』と書かれた表札を… | ||||
679 | ……… | .........
| |||
680 | …… | ......
| |||
681 | … | ...
| |||
682 | かずさ | Kazusa | 「…やりやがったな」 | ||
683 | 春希 | Haruki | 「何が?」 | ||
684 | かずさ | Kazusa | 「してやったりとか思ってるんだろ。 あたしを驚かすことができて、 心の中でニヤニヤ笑ってるんだろ」 | ||
685 | 春希 | Haruki | 「なんでそう思う?」 | ||
686 | なんでそう当てる? | ||||
687 | かずさ | Kazusa | 「…もう、二度と会うこともないって思ってた」 | ||
688 | 春希 | Haruki | 「それは不義理ってもんだろ。 せっかく日本に帰ってきたのに。 …お前、何年世話になったと思ってるんだ、あの人に」 | ||
689 | かずさ | Kazusa | 「わかってるよ。 わかってるけどさぁ…」 | ||
690 | かずさがチャイムを押すと、 中から出てきたのは、 満面に笑みを浮かべた初老のご婦人だった。 | ||||
691 | 一回だけ会ったことのある俺から見ても 『年取ったなぁ』とちょっと感慨深くなってしまうくらい、 五年前から比べて髪も白く、そして痩せていたと思う。 | ||||
692 | 冬馬家に最後まで残ってた、ハウスキーパーの柴田さん。 | ||||
693 | あの家にかずさが一人残されてからも、 週に二度は掃除と洗濯をしてくれて、 ついでにかずさの栄養を心配してくれていた人。 | ||||
694 | かずさ | Kazusa | 「でもあたし、 日本の思い出は全部捨てたつもりだったから…」 | ||
695 | 春希 | Haruki | 「あっちは全然そんなつもりなさそうだったけどな。 昔の写真とか、全部残ってたし」 | ||
696 | かずさ | Kazusa | 「あれさ…本当は、あたしが付属に入学した年に、 自分の手で全部焼き捨てたはずだったんだけどな」 | ||
697 | 春希 | Haruki | 「こっそり抜き取っておいたんだろうな。 …犯人が絶対に後悔するってわかってたから」 | ||
698 | かずさ | Kazusa | 「………るさい」 | ||
699 | 俺たちをもてなしてくれたのは、 あの家に今は二人きりで住む、柴田さんご夫妻。 | ||||
700 | かずさが子供の頃から冬馬家で働いていた柴田夫人は、 俺が五年前、一度だけ会ったことのある、 よく喋り、とても人懐っこいおばさんのままだった。 | ||||
701 | けれど後でご主人に聞いたところでは、 最近でこの人がここまではしゃいだのは 本当に久しぶりだったらしい。 | ||||
702 | けどそれは、俺の抱いた感想とまるで同じで… | ||||
703 | だって、最近でかずさがここまで笑ったのは、 再会してからは初めてのことだったから。 | ||||
704 | その感慨深いニヤニヤ笑いをかずさに睨まれて。 けど、かずさ以外の三人はそれを見て笑って。 かずさが照れたように頬を赤らめて。 | ||||
705 | そんな、ホームドラマというか フィクションみたいな二時間は、 あっという間に過ぎ去った。 | ||||
706 | かずさ | Kazusa | 「なにが取材だよ… ただ人んちに挨拶に行って、 晩ご飯ご馳走になっただけじゃないか」 | ||
707 | 春希 | Haruki | 「いい取材だったよ。 ほんと、収穫だった」 | ||
708 | かずさ | Kazusa | 「あのアルバムのことか? あたしの昔の…」 | ||
709 | 春希 | Haruki | 「それもあるけどさ…」 | ||
710 | 本当、それも確実に3割はある。 何しろ、まさかのショートカットのかずさ… | ||||
711 | 春希 | Haruki | 「本当は、録音もしたかったし、 写真も撮りたかったんだけどな」 | ||
712 | かずさ | Kazusa | 「なんて悪趣味な奴だ… しかも一般人を巻き込もうとするなんて最低だな」 | ||
713 | 春希 | Haruki | 「だから、やんなかっただろ? …お前が泣いてるところを写すの」 | ||
714 | かずさ | Kazusa | 「思っただけで罪だ!」 | ||
715 | それは、食事も談笑も済み、 そろそろ皆が時間を気にし始めた頃のことだった。 | ||||
716 | さっきまでずっとはしゃいでいた柴田夫人が、 突然、泣き出したのは。 泣きながら、かずさに謝りだしたのは… | ||||
717 | かずさが独りぼっちになってしまったとき、 何もしてやれなかったこと。 | ||||
718 | かずさが世間からドロップアウトして、 ピアノも捨てて、周囲からどんどん距離を置き、 とうとう自分からも距離を置いてしまったとき… | ||||
719 | 叱ることも、諭すこともできなかったこと。 掃除と洗濯しかできなかったこと。 食事も作ってやれなかったこと。 | ||||
720 | 曜子さんの気持ちも、かずさの気持ちも知っていて、 なのに二人の間の緩衝材になれなかったこと。 | ||||
721 | 駅アナウンス | Station Announcement | 「二番線、電車が参ります。 黄色い線の内側までお下がりください」 | ||
722 | 八年前から五年前までの三年間… その時間は、かずさに傷を残していただけじゃなかった。 | ||||
723 | ひねくれていた不良娘を 更正させることができなかった人も、 やっぱり同じように心に傷を負っていた。 | ||||
724 | それは、単なる年寄りの繰り言だったのかもしれない。 | ||||
725 | 旦那さんも、最近涙もろくなってきたと言っていた。 あれから五年経って、楽しかった思い出や、 辛かった記憶が余計にデフォルメされただけかもしれない。 | ||||
726 | けれど今、柴田夫人が悲しんでいたのはまったくの事実で。 | ||||
727 | あの時だってそうだったんだろうって思えるくらい、 心のこもった、温かい涙で。 | ||||
728 | だって、そうでなきゃ… | ||||
729 | かずさが、こんなウェットなホームドラマみたいな話で、 あんなに貰い泣きなんかするわけないんだから。 | ||||
730 | 昔のかずさなら、あの人のことも 『お金で雇われただけの、血の繋がらない他人』 なんて表現していたはずだった。 | ||||
731 | そんな、雇用関係にある人を抱きしめて、 笑顔と涙を一緒に見せるなんてあり得なかった。 | ||||
732 | 俺だって、そんな前向きな涙は見たことがなかった。 | ||||
733 | だから、心が温かくなると同時に、 胸を掻きむしられるくらいの嫉妬心すら抱いた。 | ||||
734 | だって俺は、かずさを泣かせたことはあるけれど、 でもその時、同時に笑ってくれることなんかなかったから。 | ||||
735 | そして多分、 これからもないと思うから。 | ||||
736 | ……… | .........
| |||
737 | かずさ | Kazusa | 「これは…嫌がらせか?」 | ||
738 | 春希 | Haruki | 「なんでそうなるんだよ」 | ||
739 | 駅前でいつもの変装姿に戻ってから電車に乗るまで、 かずさはしばらく押し黙っていた。 | ||||
740 | そしてしばらくぶりに口を開いたかと思ったら、 それは行きの時と同じ、俺に対する非難だった。 | ||||
741 | かずさ | Kazusa | 「反則だろ、あんな…あんな…」 | ||
742 | 春希 | Haruki | 「辛い過去だと思ってたのに、 実は全部自分のせいだったってバラしてしまう 証人を喚問したことが、か?」 | ||
743 | かずさ | Kazusa | 「………っ」 | ||
744 | けど、今度の非難は正面から受け取った。 | ||||
745 | 春希 | Haruki | 「もうすぐコンサートだからな。 元気になって欲しかった。 …ってことにしといてくれ」 | ||
746 | 俺は非難されるにふさわしい騙し討ちをしたし、 そしてそのことを間違ってるなんて思っていないから。 | ||||
747 | かずさ | Kazusa | 「本当に、最低だ。 責め方が計算尽くで陰湿で卑怯で… こんなに酷い奴は生まれてこの方会ったことがない」 | ||
748 | 春希 | Haruki | 「そうか…」 | ||
749 | かずさ | Kazusa | 「あたしにとってお前は、 何もかも初めてな男だよ…」 | ||
750 | 春希 | Haruki | 「そんな誤解を招くような言い方は…」 | ||
751 | かずさ | Kazusa | 「何が誤解だ。 どこが違ってるんだよ」 | ||
752 | 春希 | Haruki | 「いや…」 | ||
753 | かずさが、帽子を深く被って顔を隠す。 | ||||
754 | それは、いつもの乗客に見られない配慮とは、 なんだか違ってるっぽかった。 | ||||
755 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
756 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
757 | お灸、効きすぎたかな… | ||||
758 | かずさに元気になって欲しかったってのは本当だし、 かずさのためだって信じてしたことだってのも本当だ。 | ||||
759 | けど、全部が全部かずさのためって訳じゃなかった。 そして、仕事のためって訳でもなかった。 | ||||
760 | …ただ、動かしてやりたかった。 | ||||
761 | 変な風に凝り固まってしまった、 俺に対するかずさの意地を、 吹き飛ばしてしまいたかった。 | ||||
762 | 素直なかずさが、もう一度見たかった。 | ||||
763 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
764 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
765 | その結果、どういうことになるのか、 ある程度わかっていて。 | ||||
766 | そしてそれは、良くない方向だってわかっていて。 | ||||
767 | かずさ | Kazusa | 「………っ」 | ||
768 | 春希 | Haruki | 「…ご、ごめん」 | ||
769 | と、考えに耽っていたら、 つい、かずさと指先が触れてしまった。 | ||||
770 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
771 | 春希 | Haruki | 「? かずさ?」 | ||
772 | かずさ | Kazusa | 「…何?」 | ||
773 | 春希 | Haruki | 「いや…」 | ||
774 | 間違いなく、かずさは気づいてた。 | ||||
775 | だって、小指同士が触れあった瞬間、 かずさの指は、ぴくんと硬直した。 | ||||
776 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
777 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
778 | けれどかずさは、俺が謝ったとき、 何故かほうっと深くため息をついた。 | ||||
779 | あれは一体、どういう… | ||||
780 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
781 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
782 | けれどその疑問は、 もう一度電車が揺れた今、氷解してしまった。 | ||||
783 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
784 | 二人の指が触れたのは、 俺が何気なく近づいてしまったからじゃない。 | ||||
785 | 春希 | Haruki | 「か…かず、さ」 | ||
786 | かずさ | Kazusa | [F16「うるさいっ」] | ||
787 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
788 | かずさが、近づけてきたんだって。 しかも、故意に。 | ||||
789 | かずさ | Kazusa | 「ちょっとだけだ… ほんのちょっとだけ…」 | ||
790 | 今ならわかってしまう。 | ||||
791 | かずさ | Kazusa | 「次の、駅までだ」 | ||
792 | だって、さっきまで指が触れていただけだったのに、 今は、手のひらを合わせてる。 | ||||
793 | 『電車を降りるまで…』 | ||||
794 | その言葉と共に、全ての指を絡めあった。 | ||||
795 | 『部屋に、戻るまで…』 | ||||
796 | その言葉と共に、力いっぱい握り合った。 …別れ際、離すのに苦労するほどに。 | ||||
797 | ……… | .........
| |||
798 | なに、やってんだ、俺たち。 俺たち、なにやってんだろう。 | ||||
799 | 雪菜を悲しませないって、 かずさは俺に言った。 | ||||
800 | その誓いを守るため、余計に辛さを重ねて、 結局、誓いすら守れずに深みにはまってる。 | ||||
801 | なぁ、かずさ… 本当に、これが正しい選択なのかよ? 俺たち、本当に間違ってないのかよ? | ||||
802 | …そんな問いかけは、 かずさの手のひらの、あまりの熱さと汗に、 かき消されてしまった。 | ||||
803 | 曜子 | Youko | 「ここも久しぶりね」 | ||
804 | かずさ | Kazusa | 「来たことあったっけ?」 | ||
805 | 曜子 | Youko | 「ほんの二年前じゃない。 わたしのニューイヤーコンサート」 | ||
806 | かずさ | Kazusa | 「ああ…そっか」 | ||
807 | 曜子 | Youko | 「あの時は、あなたは客席だったけど、 今度はこの舞台の上に立って、 一人で大観衆を相手にすることになるのよ?」 | ||
808 | かずさ | Kazusa | 「そんなこと、最初からわかってる」 | ||
809 | 曜子 | Youko | 「意気込みは?」 | ||
810 | かずさ | Kazusa | 「あんたにできることがあたしにできない訳がない」 | ||
811 | 曜子 | Youko | 「…ムカつくわね」 | ||
812 | かずさ | Kazusa | 「なんてね。特に強い思い入れはないよ。 向こうならこれくらいのホールでも何度かやったし、 最初から凱旋とかそういうこと意識してないし」 | ||
813 | 曜子 | Youko | 「少しはそういう思い入れを込めた方がいいんだけどね」 | ||
814 | かずさ | Kazusa | 「そうは言ってもあたし、日本には嫌な思いしかないし。 …主に肉親の影響で」 | ||
815 | 曜子 | Youko | 「ま、いっか。日本人のためじゃなくても。 たった一人のために心のこもった演奏ができるならね」 | ||
816 | かずさ | Kazusa | 「…なに言ってんだかわかんないけど、 弾かせてくれるならさっさと始めさせてよ。 あたし、三時までにここ出なきゃいけないし」 | ||
817 | 曜子 | Youko | 「デート?」 | ||
818 | かずさ | Kazusa | 「違うよ、取材」 | ||
819 | 曜子 | Youko | [F16「…やっぱりデートじゃない」] | ||
820 | かずさ | Kazusa | 「ね、母さん」 | ||
821 | 曜子 | Youko | 「ん?」 | ||
822 | かずさ | Kazusa | 「日本に来てから…いや、それ以前から いろいろあったけどさ…」 | ||
823 | 曜子 | Youko | 「本当にねぇ」 | ||
824 | かずさ | Kazusa | 「でも今回は、そういうこと全部消化した上で、 今までで最高のパフォーマンスが出せそうな気がする」 | ||
825 | 曜子 | Youko | 「…毎回そう言ってくれると プロデューサーとしては楽でいいんだけどね」 | ||
826 | かずさ | Kazusa | 「どうかな? その辺はまぁ、次回のお楽しみということで」 | ||
827 | 曜子 | Youko | 「………」 | "........."
| |
828 | 曜子 | Youko | 「ここまでは計画通りだけど…」 | ||
829 | 曜子 | Youko | 「コンサートが終わったら、どう畳めばいいかしら。 もうあまり時間がないんだけど」 | ||
830 | 曜子 | Youko | 「…というか、本当に畳めるのかしらね」 | ||
831 | ……… | .........
| |||
832 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「いや~、そうか! 北原は出版社勤めか! まさかお前に取材される日が来るなんてなぁ」 | ||
833 | 春希 | Haruki | 「はぁ、まぁ… ご無沙汰してます、諏訪先生」 | ||
834 | 二年ぶりに会った、あの小うるさかった指導部長は… | ||||
835 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「ああ、そうだったか。しかし懐かしいな。 お前、トップ合格で入学式のとき挨拶しただろ。 ちゃんと覚えてるぞ?」 | ||
836 | 春希 | Haruki | 「…ありがとうございます」 | ||
837 | 二年前のことを全く覚えていないようで、 一字一句、あの時と同じ言葉を繰り返してくれた。 | ||||
838 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「いや~、それにしても、 本当に凄いことになったなぁ、冬馬さん」 | ||
839 | 春希 | Haruki | 「ええ、本当に」 | ||
840 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「在校生たちも意欲を掻き立てられてるようでな。 何しろ、我が校の音楽科が世界に通用することが これで証明された訳だからな」 | ||
841 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
842 | 音楽科にいたのは二年までだったんだけど。 素行不良で普通科に飛ばされたんだけど。 | ||||
843 | …まぁ、二年前の時から、 そんなネガティブな記憶は とっくに消え去ってたけどな、この人。 | ||||
844 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「確かに、冬馬曜子の血筋と 英才教育のおかげでもあるだろう」 | ||
845 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「しかし、世界に羽ばたく前の冬馬さんを支えたのは、 この峰城大付属音楽科の実績と伝統に…」 | ||
846 | 春希 | Haruki | 「すいません。 それより、お願いしていた件ですが…」 | ||
847 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「お、おお、そうだった。 早くしないと日が暮れてしまうな」 | ||
848 | そろそろ、この歴史的事実と異なる長口上に 色々と我慢の限界に来ていたから、 そそくさと話を急ぐことにした。 | ||||
849 | ちなみに限界に来てたのは、 もちろん俺の方じゃなくて… | ||||
850 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「ほら、これが鍵だ。 今日は生徒の使用は禁止にしてあるから、 心置きなく使ってくれ。但し18時までだが」 | ||
851 | 春希 | Haruki | 「ありがとうございます。 それじゃ、遠慮なく」 | ||
852 | 諏訪先生 | Suwa-sensei | 「ところで、そちらのお嬢さんは…」 | ||
853 | 春希 | Haruki | 「ああ、紹介がまだでしたね。 こちら、今日の撮影を担当する 専属の新人カメラマンで…」 | ||
854 | かずさ | Kazusa | 「………東野和美です。 よろしくお願いします」 | ||
855 | だから、青筋を立てたまま挨拶するなって… | ||||
856 | かずさ | Kazusa | 「なんだよ諏訪…まだいたのか」 | ||
857 | 春希 | Haruki | 「来年あたり教頭に昇格しそうなんだってさ。 聞いてもいないのにメールに書いてきた」 | ||
858 | かずさ | Kazusa | 「大体あいつ、 あたしをあんなに目の敵にしてたのに、 なにが“冬馬さん”だよ! 鳥肌立ったぞ!」 | ||
859 | 春希 | Haruki | 「…二年前の俺なら大きく肯いただろうけどな」 | ||
860 | 久々に恩師(?)に遭遇したかずさは、 懐かしさが込み上げたのか、随分と興奮していた。 | ||||
861 | 恩師の方もなぁ… 五年会ってないとは言え、 この程度の変装が見破れないってのはなぁ。 | ||||
862 | 発売後、『我が校』の写真に 冬馬かずさ本人が写り込んでるのを見たら… ま、クレームがないことを祈ろう。 | ||||
863 | 春希 | Haruki | 「で、どうだ? 久しぶりの母校の感想は」 | ||
864 | かずさ | Kazusa | 「別に」 | ||
865 | 春希 | Haruki | 「お前が蹴飛ばした机とか、 殴った壁とか、割った窓とか、 色々懐かしさが込み上げてこないか?」 | ||
866 | かずさ | Kazusa | 「…お前は昔のあたしのことを 一体どんなふうに記憶してるんだ」 | ||
867 | なんて、興味ないようにうそぶきながら、 眼鏡越しの目は大きく見開かれたまま、 きょろきょろと色んな方向を徘徊していた。 | ||||
868 | かずさ | Kazusa | 「懐かしさなんか覚えない。 どこもかしこも、嫌な記憶ばかりだ」 | ||
869 | 春希 | Haruki | 「…そういうのを懐かしいって言うんだろ」 | ||
870 | 峰城大学付属学園。 これが、本日の取材先。 | ||||
871 | かずさの全てを覗くため、 俺の心に刻むため、 数日前から調整を重ねてたロケ地。 | ||||
872 | 俺たちにとって絶対に必要で… そして、最高に危険なロケ地。 | ||||
873 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
874 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
875 | 五年ぶりだったけど、 かずさはしっかり場所を覚えてた。 | ||||
876 | 俺と会話しながら、悪態をつきながら、 それでもその足は一度も迷うことなく、 その場所へと俺たちを導いた。 | ||||
877 | かずさ | Kazusa | 「…春希」 | ||
878 | 春希 | Haruki | 「え?」 | ||
879 | かずさ | Kazusa | 「鍵」 | ||
880 | 春希 | Haruki | 「あ、ああ…」 | ||
881 | かずさに促されるまま… というか、俺が決めた段取り通りに、 借りてきた鍵を、その教室の鍵穴に埋め込む。 | ||||
882 | 鍵は、すぐに開いた。 | ||||
883 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
884 | けれど、扉はなかなか開かなかった。 いや、開けることができなかった。 | ||||
885 | かずさ | Kazusa | 「開けろよ」 | ||
886 | 春希 | Haruki | 「う、ん…」 | ||
887 | いいんだろうか… | ||||
888 | 本当に、ここに入ってしまって。 ここで二人きりになってしまって。 俺たちは、いいんだろうか…? | ||||
889 | かずさ | Kazusa | 「………っ」 | ||
890 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
891 | 本当に、いいんだろうか…? | ||||
892 | ……… | .........
| |||
893 | 『お久しぶりです。 元気にしてますか?』 | ||||
894 | 『…なんて、しばらく連絡とってないから、 どうしても他人行儀な書き方になっちゃうね』 | ||||
895 | 『でも、元気にしてますか? これだけ会わないの、本当に久しぶりだから、 どうしても心配になってしまいます』 | ||||
896 | 『…なんて、会わないって決めたのも、 ずっと会わないままでいるのも、 わたしがしてることなんだけどね』 | ||||
897 | 『それでも、今日こうしてメールしたのは、 ちょっとした報告があったからなの』 | ||||
898 | 『実はね、今日から関西方面に出張してきます。 週末に販売店とか色々回って、 月曜に帰ってくる予定』 | ||||
899 | 『ずっと、国内外を飛び回って頑張ってる 春希くんのことを羨望のまなざしで見てたけど、 これで少しだけ追いつくことができるかな?』 | ||||
900 | 『出張から帰ったらお土産渡したいです。 だから、月曜日に電話しようと思ってます』 | ||||
901 | 『その時に、いろいろお話させてください。 できれば、仲直りもしたいな』 | ||||
902 | 『じゃあ、出張頑張ってきます。 春希くんに負けないくらいにね』 | ||||
903 | 雪菜 | Setsuna | 「………」 | "........."
| |
904 | 『追伸』 | ||||
905 | 『そういうわけで、 今週の日曜日、東京にいられなくて、 かずさのコンサート、行けなくなっちゃった』 | ||||
906 | 『春希くんは行かないって言ってたけど、 本当はわたし、チケット手に入れてたんだ。 かずさのピアノ、聴きに行くつもりだったんだ』 | ||||
907 | 『できれば、春希くんと一緒に 行きたいって思ってたんだ』 | ||||
908 | 『どうして勝手にそんなこと決めるんだって、 春希くんは思うのかもしれないよね。 もしかしたら、怒るかもしれない』 | ||||
909 | 『ごめんなさい。 でも、行くならどうしても一緒が良かったの。 だって…』 | ||||
910 | 『かずさのコンサート… 春希くん一人で行って欲しくなかったから』 | ||||
911 | 『あなたが一人でかずさのピアノを聴いてしまったら、 どういう気持ちになるかわかってるつもりだから』 | ||||
912 | 『あなたの心がわたしから離れて、 ピアノの中に吸い込まれてしまうって、 わかってるつもりだから』 | ||||
913 | 雪菜 | Setsuna | 「………っ」 | ||
914 | 雪菜 | Setsuna | 「駄目だよ…」 | ||
915 | 雪菜 | Setsuna | 「こんなの送ってしまったら、 きっと、春希くんは…」 | ||
916 | 雪菜 | Setsuna | 「………」 | "........."
| |
917 | 雪菜 | Setsuna | 「でも…」 | ||
918 | 雪菜 | Setsuna | 「………」 | "........."
| |
919 | ……… | .........
| |||
920 | 春希 | Haruki | 「弾いてるところも撮りたいんだけど…」 | ||
921 | かずさ | Kazusa | 「この前も言っただろ? コンサートまで、お預けだ」 | ||
922 | 春希 | Haruki | 「だから、ふりだけでもさ」 | ||
923 | かずさ | Kazusa | 「くどいぞ春希。 あと二日くらい我慢しろ」 | ||
924 | 春希 | Haruki | 「…わかったよ」 | ||
925 | 別に、ピアノの音色が聴きたい訳じゃなくて、 そういう構図が欲しいだけなのに… | ||||
926 | かずさはそれを知ってか知らずか、 俺を『かずさのピアノ』から遠ざけようとする。 | ||||
927 | 春希 | Haruki | 「じゃ、今度は窓際に行って。 そこから外を見る感じで」 | ||
928 | かずさ | Kazusa | 「窓の外に馬鹿がぶら下がってたりしないよな?」 | ||
929 | 春希 | Haruki | 「…さぁな」 | ||
930 | 第二音楽室。 | ||||
931 | 五年前、たった一人の普通科の不良生徒に 占拠されていた、付属七不思議の開かずの間。 | ||||
932 | かずさ | Kazusa | 「っ…」 | ||
933 | 開け放たれた窓から、 冬の冷たい風が吹き込み、 かずさの長い髪を揺らす。 | ||||
934 | 俺は、そのシャッターチャンスを逃さず、 髪を押さえるかずさの横顔にピントを合わせた。 | ||||
935 | かずさ | Kazusa | 「寒い…」 | ||
936 | 春希 | Haruki | 「今夜も氷点下まで冷えるぞ。 温かくして寝ろよ」 | ||
937 | 暖房なんかとっくに切られた第二音楽室に、 あっという間に冷気が満ちていく。 | ||||
938 | 窓の外には、練習を終わろうとしている運動部。 そろそろ赤から藍へと色を染めていく空。 | ||||
939 | 二年前と同じ… 五年前と変わらない光景がそこに広がる。 | ||||
940 | 二年前にはそこにいなくて、 五年前には違う姿でそこにいた、 彼女の存在を除いては。 | ||||
941 | 春希 | Haruki | 「…OK。 もう閉めていいぞ」 | ||
942 | かずさ | Kazusa | 「いいよ、別に」 | ||
943 | 春希 | Haruki | 「寒いのは嫌いじゃなかったっけ?」 | ||
944 | かずさ | Kazusa | 「いいんだよ…」 | ||
945 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
946 | かずさは寒さに震えながら… けれど、少し崩れかけた表情は、 多分、そのせいじゃなく。 | ||||
947 | かずさ | Kazusa | 「あのさ、春希」 | ||
948 | 春希 | Haruki | 「ん?」 | ||
949 | かずさ | Kazusa | 「取材… 今日が、最後だよな?」 | ||
950 | 春希 | Haruki | 「明日は一日中リハーサルで、 明後日はコンサート本番だからな。 さすがにこれ以上連れ出すことは無理だ」 | ||
951 | かずさ | Kazusa | 「だよな…」 | ||
952 | かずさの決めた 『今週いっぱい限り』という縛りの中では、 今日で何もかも終わらせなければならない。 | ||||
953 | かずさ | Kazusa | 「最後なんだよ、な」 | ||
954 | 春希 | Haruki | 「うん…」 | ||
955 | かずさ | Kazusa | 「ほんと、悪趣味だなお前。 最後の最後に、あたしが一番思い出したくない場所に 連れてくるなんて」 | ||
956 | 春希 | Haruki | 「ほら認めた。 お前にとっての一番だって」 | ||
957 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
958 | かずさがどう思おうと、 必ずここには連れてこようって前から決めていた。 | ||||
959 | 今日が俺たちの最後だと言い張るなら、 最後にふさわしい場所を選んだつもりだし、 その選択に間違いはなかったと確信してる。 | ||||
960 | 春希 | Haruki | 「付属の三年間、お前が一番長い時間過ごしてた場所だ。 …多分、教室よりもな」 | ||
961 | かずさ | Kazusa | 「ここにいる間じゅう、あたしはずっと苛ついてた。 何もかもうまく行かなくて、地団駄を踏んでたよ」 | ||
962 | …あまりにも間違いなさすぎるのが、 唯一の間違いだったみたいだけど。 | ||||
963 | 春希 | Haruki | 「お前はそう言うけどさ、 そんなイライラしながら弾いてたって言うお前の演奏は、 俺にはすごく楽しそうに聞こえたんだ…」 | ||
964 | かずさ | Kazusa | 「いつまで経ってもあたしに合わせられない 下手くそなギターがいてさ… それもイライラに拍車をかけたっけなぁ」 | ||
965 | そう言ってかずさは、懐かしそうに舌打ちをした。 | ||||
966 | 春希 | Haruki | 「…悪かったな」 | ||
967 | …何か妙な表現だとは思うけど、 実際そういう仕草なんだから仕方ない。 | ||||
968 | かずさ | Kazusa | 「少しは上手くなったか? 人に合わせられるレベルくらいには上達したか?」 | ||
969 | 春希 | Haruki | 「そんなの、五年前だって…」 | ||
970 | かずさ | Kazusa | 「そうだ、春希こそ弾いてみせろよ。 ほら、そこにギターあるだろ?」 | ||
971 | 春希 | Haruki | 「遠慮しとくよ…」 | ||
972 | かずさ | Kazusa | 「別にいいだろ。 笑うだけで、いちいち教えたりしないから」 | ||
973 | 春希 | Haruki | 「逆だろ普通」 | ||
974 | かずさ | Kazusa | 「一曲でいいよ。 別に『禁じられた遊び』でも何でも」 | ||
975 | 春希 | Haruki | 「無理だって。 就職してから一度も弾いてないんだから」 | ||
976 | かずさ | Kazusa | 「どうして聴かせられないんだ? お前のギターは雪菜専用か?」 | ||
977 | 春希 | Haruki | 「………そんなこと言ってないだろ」 | ||
978 | たとえそれが事実だとしても。 | ||||
979 | かずさ | Kazusa | 「………っ」 | ||
980 | かずさは…何を悟ったのか知らないけど、 今度は、哀しそうに舌打ちをした。 | ||||
981 | …そういう表情、やめて欲しかった。 | ||||
982 | この場所を選んだことは絶対に間違いじゃないのに、 後悔してしまいそうになるから。 | ||||
983 | かずさ | Kazusa | 「あ~あ…融通の利かない奴」 | ||
984 | かずさが、ため息とともに窓枠に手をかけて、 こちらに向き直る。 | ||||
985 | かずさ | Kazusa | 「お前がそういう頑なな態度を取るなら、 こっちにだって考えがあるんだからな?」 | ||
986 | 春希 | Haruki | 「怒るなよ…その程度で」 | ||
987 | 今まで、後ろに揺れていた長い黒髪は、 今度は前に流れ、彼女の頬を優しく撫でる。 | ||||
988 | まるで今のかずさの表情のように、優しく… | ||||
989 | かずさ | Kazusa | 「もうさ…最後なんだから、 これで終わりなんだから、 何もかも、話したっていいよな?」 | ||
990 | けれど声は、その髪を押し流す風のように冷たく。 | ||||
991 | 春希 | Haruki | 「別に、終わりって訳じゃ…」 | ||
992 | かずさ | Kazusa | 「二度と会わないんだから、 少しくらい踏み込んじゃってもいいよな?」 | ||
993 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
994 | 『いいわけないだろ』って言葉が、 どうしても口から出てこない。 | ||||
995 | ここで終わりじゃないのに。 追加公演だってあるのに。 …また、来日するかもしれないのに。 | ||||
996 | そんな、かずさの諦めの感情に反発してるのか、 それとも、かずさの謎めいた笑みに、 何か別の意図を感じ取ってしまったのか。 | ||||
997 | そんな俺の疑問に対する答え合わせは、 次にかずさが口を開いたときに明らかになった。 | ||||
998 | かずさ | Kazusa | 「なぁ、春希… お前、雪菜と初めてキスしたの、 あのステージの日の夜だろ?」 | ||
999 | 春希 | Haruki | 「っ!?」 | ||
1000 | その瞬間俺は、 地面に落としそうになったカメラを 慌てて抱えることしかできなかった。 | ||||
1001 | かずさ | Kazusa | 「あの夜、ここで… 雪菜から告白されて、キスして… それで恋人同士になったんだろ?」 | ||
1002 | 春希 | Haruki | 「お、お、お…お前っ! いきなり何の話だよっ!?」 | ||
1003 | あまりにも意表を突きすぎて、 あまりにもこいつのキャラじゃなくて、 もう、声を裏返らせるしかなかった。 | ||||
1004 | かずさ | Kazusa | 「五年前の話だよ。 …五年前の、全てが終わった日のことだ」 | ||
1005 | かずさは、ニヤニヤ笑ってる。 | ||||
1006 | 悪意があるようにも、単なる悪戯心のようにも、 それ以外のどの感情にも見受けられる、曖昧な笑顔で。 | ||||
1007 | 春希 | Haruki | 「い、い、いや… それは、その…」 | ||
1008 | かずさ | Kazusa | 「違うなら否定していいんだぞ? けど、嘘をつくならバレないように頼むな」 | ||
1009 | 春希 | Haruki | 「だ、だから、あの時は… 告白したのは、お、俺の方から…」 | ||
1010 | いくらそこまで挑発されても、 『雪菜から告白された』なんて、 そんな誰も喜ばない事実を今さら認めるわけには… | ||||
1011 | かずさ | Kazusa | 「ダウト。 あの時のお前にそんな据わった肝なんかあるもんか。 …雪菜とあたしの間、フラフラしてやがったくせに」 | ||
1012 | 春希 | Haruki | 「そ、そんなこと!」 | ||
1013 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
1014 | 春希 | Haruki | 「そんなこと………ない」 | ||
1015 | ほら見ろ… かずさだって喜んでないじゃないか。 | ||||
1016 | だから、認めるわけにはいかなかったんだ。 | ||||
1017 | かずさ | Kazusa | 「どうせお前のことだから、 その時がファーストキスだったんだろ? 自分からそういう風に持ってける訳ないもんなぁ」 | ||
1018 | 春希 | Haruki | 「なっ………何が悪い」 | ||
1019 | かずさが、何を思ってこんな話をし始めたのか、 俺にはさっぱりわからない。 | ||||
1020 | どうして自分で最後だと決めた逢瀬の最中に、 俺たちの初めての…決別の日のことなんか。 | ||||
1021 | それに、あの時初めてだったのは、 俺だけじゃなく雪菜だって… | ||||
1022 | かずさ | Kazusa | 「………はは。 あは、あははははっ」 | ||
1023 | 春希 | Haruki | 「だから、何がおかしいんだよ…」 | ||
1024 | 喜んでもいないくせに、 虚しい笑い声だけを響かせて。 | ||||
1025 | かずさ | Kazusa | 「やっぱりなぁ… 見てたんだ、雪菜。 見られてたんだ、あたし」 | ||
1026 | 春希 | Haruki | 「雪菜が…なんだって?」 | ||
1027 | 俺がわからないギリギリの線で、 わざとらしく思わせぶりな台詞を吐いて。 | ||||
1028 | かずさ | Kazusa | 「ずっとそうじゃないかって思ってた。 だから、あの時雪菜はそうしたんじゃないかって。 …五年目にしてやっと明かされる衝撃の事実ってやつ?」 | ||
1029 | 春希 | Haruki | 「意味わからないぞ… お前、一体何を?」 | ||
1030 | 本人はからかってるつもりなんだろうけど、 醸し出される雰囲気が、あまりにも痛々しくて。 | ||||
1031 | かずさ | Kazusa | 「今さら言ってもしょうがないけどさ… でも、最後なんだから、このくらいいいよな?」 | ||
1032 | 春希 | Haruki | 「自己完結するなよ! 何が悪いんだ? 何がおかしいんだ? …なんで雪菜のこと、そんなふうに言うんだ?」 | ||
1033 | だから今度は、俺が苛ついてくる。 | ||||
1034 | かずさ | Kazusa | 「ううん、何も悪くない。何もおかしくない。 …雪菜だって、何も間違ったことなんかしてないよ」 | ||
1035 | かずさはそう呟くと、手近の椅子を引きずり、 俺の前に置くと、何故か自らはピアノの椅子に座る。 | ||||
1036 | 俺は、意味もわからず、 かずさの用意してくれた椅子に恐る恐る腰掛け… | ||||
1037 | かずさ | Kazusa | 「ただ、残念だったよなぁって。 あたしでも、雪菜でもなく…春希がさ」 | ||
1038 | 春希 | Haruki | 「俺が…? なんで…」 | ||
1039 | かずさ | Kazusa | 「なにもかも、あたしが初めてなんてさ。 ほんと、最低だよな。 ………ざまぁ見ろ」 | ||
1040 | 春希 | Haruki | 「………な、に?」 | ||
1041 | そんな、意味もわからない、 かずさの突然の告白に翻弄される。 | ||||
1042 | かずさ | Kazusa | 「お前の過去は、 あたしに汚されてばかりだってことだよ。 卒業式の夜や、次の日の空港みたいにさ…」 | ||
1043 | 俺が選んだ道を。 | ||||
1044 | 間違いだとわかってて、 敢えて踏み外したはずの道を… | ||||
1045 | かずさ | Kazusa | 「ずっと、振り回して悪かったな。 …お前の未来に全然関係ない女がさ」 | ||
1046 | まるで、それこそがかずさの罠だったみたいに、 俺の罪を全面的に否定する。 | ||||
1047 | 春希 | Haruki | 「…さっきからお前が何言ってるのか、 さっぱりわからない」 | ||
1048 | かずさ | Kazusa | 「なら、ここから先、話してもいいのか? 聞いても、後悔しないか?」 | ||
1049 | そうやって聞くくらいなら、 思わせぶりな態度取るな… | ||||
1050 | 春希 | Haruki | 「話せよ…」 | ||
1051 | そんな思いを、背けた顔に浮かべた表情に込めて、 俺は、話の先を促す。 | ||||
1052 | 背けてしまったら、 結局かずさに俺の意図は伝わらないのに。 | ||||
1053 | かずさ | Kazusa | 「あの時… あたしはここで、いつもみたいにピアノを弾いてた」 | ||
1054 | 春希 | Haruki | 「え…?」 | ||
1055 | かずさ | Kazusa | 「いや…いつもとはちょっと違ってたな。 ヒラヒラで露出度の高い衣装を無理やり着せられて、 いつも以上にイライラしてたんだ」 | ||
1056 | 春希 | Haruki | 「あ…」 | ||
1057 | かずさの言う“ここから先”は、 正確には、先のことじゃなくて、前のことだった。 | ||||
1058 | 『あのステージの日』のことだった。 | ||||
1059 | かずさ | Kazusa | 「そしたら、いつものお邪魔虫が入ってきた。 何度追い払っても、全然懲りずに居座り続ける、 とんでもなく厚かましい奴だった」 | ||
1060 | 俺たちの歌が、大盛況をもって受け入れられて、 しばらく経った後… | ||||
1061 | 舞台での興奮がおさまらずに、 学園内をうろつき余韻に浸ってたら、 いつもの場所から、いつもの旋律が聴こえてきたんだ。 | ||||
1062 | かずさ | Kazusa | 「あたしは余計にイライラしてきたのに、 そいつはそんなあたしの気持ちも知らずに、 勝手に話し掛けてきて、一人で盛り上がってた」 | ||
1063 | 扉を開けたら、 その時、一番会いたかった相手がそこにいて。 | ||||
1064 | かずさ | Kazusa | 「いつも以上にウザかったから、 あたしは生返事で聞き流してた。 それでもそいつは、ずっと話を続けてた」 | ||
1065 | いつも以上に嬉しかったから、 あいつが生返事を続けようが、 ずっとずっと、話し掛けてたんだ。 | ||||
1066 | ずっとずっと、このままでいたいって。 俺たち、三人でいたいって。 | ||||
1067 | あいつが理性的に否定しようが、 ただ、自分勝手な夢だけを語ってたんだ。 | ||||
1068 | かずさ | Kazusa | 「いつしか声が聞こえなくなった。 振り返ると、そいつはそこに座ったまま、 うつらうつらと船を漕いでた」 | ||
1069 | 何日間徹夜したかもわからない頭で… | ||||
1070 | かずさ | Kazusa | 「ああ、そこで眠ってた。 ちょうど今くらいの時間だった」 | ||
1071 | だから、ここから俺の記憶は途切れる。 | ||||
1072 | 次に俺が目を開いたときには、 いきなり雪菜が目の前にいて、そして… | ||||
1073 | かずさ | Kazusa | 「あたしは、ますますムカついて… だから、一言文句を言ってやろうって、 そいつに、近づいていったんだ…」 | ||
1074 | でも、今ここにいるのは雪菜じゃない。 | ||||
1075 | 雪菜じゃなく、かずさが、椅子から立ち上がり、 ゆっくりと歩み寄ってくる。 | ||||
1076 | かずさ | Kazusa | 「目の前まで近づいて、 しゃがみ込んで顔を覗き込んで、 そいつは俯いてたから、こう、下から…」 | ||
1077 | 目の前まで近づいてきて、 しゃがみ込んで顔を覗き込んで、 その、まっすぐな瞳で俺の顔を下から… | ||||
1078 | かずさ | Kazusa | 「そしたらそいつは、あたしの目の前で、 すごく無防備で間抜けな顔をしてたんだ。 …そう、今みたいに」 | ||
1079 | 春希 | Haruki | 「っ…お前、何を…」 | ||
1080 | かずさ | Kazusa | 「動くな!」 | ||
1081 | 春希 | Haruki | 「っ!?」 | ||
1082 | かずさ | Kazusa | 「動くなよ… あの時と状況がずれるじゃないか」 | ||
1083 | 今のかずさは、 あの時の雪菜とまったく同じ姿勢だった。 | ||||
1084 | まるで五年前のあの場面を見てきたかのように。 いや、五年前に実際に見ていたかのように。 | ||||
1085 | かずさ | Kazusa | 「この後、あたしが何をしたのか、 伝えられないじゃないか」 | ||
1086 | いや、いや、違う、それも違う。 かずさがあの場面を見ていたはずがないんだ。 | ||||
1087 | なら、誰が… | ||||
1088 | 誰が、“かずさのこの場面を見ていた”んだ? | ||||
1089 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
1090 | そういうふうに見方を変えた瞬間… この先の未来が…過去が見えてしまった。 | ||||
1091 | 俺が見ていなかった… そして、かずさと雪菜が見ていたその場面が。 | ||||
1092 | かずさ | Kazusa | 「あたしが、先だった… 先だったんだ」 | ||
1093 | 春希 | Haruki | 「かず、さ…っ」 | ||
1094 | かずさの手のひらが、俺の頬に触れる。 | ||||
1095 | もしかしたら、これも五年前の再現なのかもしれなくて。 …俺が目覚める、ほんの数分前の。 | ||||
1096 | かずさ | Kazusa | 「キスしたのも、抱きあったのも。 …そいつのこと好きになったのも」 | ||
1097 | 春希 | Haruki | 「~~~っ!」 | ||
1098 | かずさ | Kazusa | 「卑怯な真似だって… 許されることじゃないってわかってた」 | ||
1099 | かずさの吐息が、一声ずつ俺に触れる。 | ||||
1100 | かずさ | Kazusa | 「でも、告白なんてできる訳がなかった。 あの時のあたしは、あたしですら大嫌いな奴だったから、 そいつが好きになってくれるわけないって思ってた」 | ||
1101 | かずさの唇が、 俺の唇と触れそうなくらいまで近づいてる。 | ||||
1102 | かずさ | Kazusa | 「だから、そんな自分にふさわしい最低の真似をした。 そこまで切羽詰ってたんだ。苦しかったんだ」 | ||
1103 | もう、俺の視界の中に かずさの表情が収まりきらなくなっていた。 | ||||
1104 | かずさ | Kazusa | 「…誰にも、奪われたくなかったんだ」 | ||
1105 | かずさの身体から、甘い匂いがする。 | ||||
1106 | かずさが甘党だからとか、 そんな色気のない話では逃げ切れないほどの、 心の底まで揺さぶる香りだった。 | ||||
1107 | かずさ | Kazusa | 「でも、その日のうちに雪菜に奪われた。 何もかも、雪菜に持っていかれた」 | ||
1108 | かずさの声が、胸に響く。 | ||||
1109 | 甘い匂いとは対照的な、 顔をしかめたくなるくらい痛々しい言葉とともに。 | ||||
1110 | かずさ | Kazusa | 「だって、思わないって。 あたしみたいな変な女が他にもいるなんて…」 | ||
1111 | あまりにも、痛かった。 | ||||
1112 | その言葉が、立ち振る舞いが、 五年前と何も変わっていないって、 俺に勘違いさせることが。 | ||||
1113 | かずさ | Kazusa | 「あんないい奴が、あんないい女が… あんなに悪趣味だなんて、 そんなの誰がわかるんだよ…」 | ||
1114 | 五年前の、かずさの慟哭も… | ||||
1115 | 熱さも、冷たさも、悲しさも、痛々しさも、 あの別れの夜から何一つ劣化してないって、 俺に勘違いさせることが。 | ||||
1116 | かずさ | Kazusa | 「春希、春希ぃ…」 | ||
1117 | 春希 | Haruki | 「やめ…ろよ」 | ||
1118 | 触れてしまいそうなほど目の前のかずさの瞳が、 ゆっくりと潤んでくるのを見てしまった俺は、 自分もそうなっているかのような声を上げた。 | ||||
1119 | 春希 | Haruki | 「からかってんだろ? 俺に仕返ししてんだろ? そうだよな…そうだって言ってくれ」 | ||
1120 | 悲しかったから。 | ||||
1121 | 俺の、進んでしまった時間と、 かずさの、停滞した時間との間に、 こんなにも決定的な乖離が生まれていることが。 | ||||
1122 | 乖離…してるはずだ。 | ||||
1123 | かずさ | Kazusa | 「冗談だと…思うか? ここまで言っても、冗談だって笑うのか? 春希」 | ||
1124 | 春希 | Haruki | 「俺が笑えるわけないだろ… だから頼む、お前の方から笑ってくれよ」 | ||
1125 | かずさ | Kazusa | 「っ…」 | ||
1126 | 瞬間… | ||||
1127 | かずさの潤んだ瞳から、 ゆっくりとしずくが伝った。 | ||||
1128 | 春希 | Haruki | 「お前が笑ってくれないと、 俺、どうしていいかわかんないよ…っ」 | ||
1129 | かずさ | Kazusa | 「どうすることもできないくせに、 今さらどうしようもないのに、 わかんないとか軽々しく言うな…っ」 | ||
1130 | 春希 | Haruki | 「ならお前も今さらなこと軽々しく言うな! 今日が最後だって言うなら墓まで持ってけよ!」 | ||
1131 | かずさ | Kazusa | 「………っ、春希… 春希、春希…酷い、よ」 | ||
1132 | 春希 | Haruki | 「酷いのは… 酷いのは、お前の… かずさ…お前の方が…」 | ||
1133 | 額が、こつんとぶつかった。 | ||||
1134 | 鼻先も、軽く触れあった。 | ||||
1135 | しずくが、俺の頬にまで垂れ落ちた。 | ||||
1136 | かずさ | Kazusa | 「これが最後だから…」 | ||
1137 | 春希 | Haruki | 「そんなこと、俺は認めてない」 | ||
1138 | かずさ | Kazusa | 「後はコンサートだけだ。大丈夫だ。 もう、あたしたちが二人きりで会うことなんかないから」 | ||
1139 | 春希 | Haruki | 「認めてないって言ってるだろ!」 | ||
1140 | かずさ | Kazusa | 「手を繋ぐくらい。想いを伝えるくらい。 最後にもう一度だけキスするくらい…」 | ||
1141 | かずさ | Kazusa | 「それくらいなら、雪菜だって許してくれるだろ?」 | ||
1142 | 春希 | Haruki | 「っ…」 | ||
1143 | 目の前が、真っ暗になった。 目を閉じてしまった。 | ||||
1144 | だって… かずさが目を閉じてしまったから。 | ||||
1145 | かずさ | Kazusa | 「はる、き… は、はぁ、ぁ…」 | ||
1146 | 春希 | Haruki | 「かず、さ…っ」 | ||
1147 | そして、俺の唇に、 暖かく柔らかな感触が重ねられ… | ||||
1148 | かずさ | Kazusa | 「っ!?」 | ||
1149 | けれど、触れたのはほんの一瞬だった。 | ||||
1150 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
1151 | 目を開いたとき点滅していたのは、 俺の携帯だった。 | ||||
1152 | それがスパムメールだったとしても、 あまりにも絶妙で、ピンポイントで、 最高にして最悪のタイミングだったけれど。 | ||||
1153 | 『雪菜です』 | ||||
1154 | かずさ | Kazusa | 「なんでだよ…」 | ||
1155 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
1156 | かずさ | Kazusa | 「どうして今なんだよ雪菜…」 | ||
1157 | 差出人の名前は、 そんなちょっとした偶然のレベルを はるかに超越していた… | ||||
1158 | かずさ | Kazusa | 「なんで、もっと早く止めてくれなかったんだよ…」 | ||
1159 | かずさ | Kazusa | 1.目を背ける | Choice | |
1160 | かずさ | Kazusa | 2.目を見つめる | Choice | |
1161 | かずさ | Kazusa | 「こっち、向けよ」 | ||
1162 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
1163 | かずさ | Kazusa | 「そんなに、あたしのこと嫌いか?」 | ||
1164 | 春希 | Haruki | 「そんな意地悪な質問…するなよ」 | ||
1165 | かずさ | Kazusa | 「………」 | "........."
| |
1166 | かずさの吐息が、俺の右頬にかかる。 | ||||
1167 | 春希 | Haruki | 「…けど、お前がそれ以上言うなら、 本当に嫌いになろうとするかもな」 | ||
1168 | かずさ | Kazusa | 「っ…」 | ||
1169 | けれどかずさの唇も、瞳も、 必死でその視界からは放り出す。 | ||||
1170 | 春希 | Haruki | 「なろうと、頑張るかもな」 | ||
1171 | それは、身体的にはほんのささやかな抵抗だったけど、 でも、態度的には、多分この上ないほどの… | ||||
1172 | かずさ | Kazusa | 「………ごめんな」 | ||
1173 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
1174 | 折れたのは、かずさの方からだった。 | ||||
1175 | かずさ | Kazusa | 「駄目だよな…ほんと、全然駄目だよな、あたし」 | ||
1176 | 春希 | Haruki | 「そんな、こと…」 | ||
1177 | 俺の肩に手を置いたまま、 ゆっくりと距離を取る。 | ||||
1178 | かずさ | Kazusa | 「そうだよ、冗談だよ。 からかってたんだよ。 春希に、仕返ししようとしてたんだよ」 | ||
1179 | 今さら言ったって遅すぎる… 誰も信じない言い訳とともに。 | ||||
1180 | かずさ | Kazusa | 「結局、最後の最後まで失敗続きだったけどな。 …お前、本当に融通利かないのな」 | ||
1181 | 目を真っ赤にして、 けれど、意味もわからない微笑みを浮かべて。 | ||||
1182 | かずさ | Kazusa | 「だから、ほら、これで最後の取材も終わり。 …お疲れさまでした」 | ||
1183 | 俺に対する強がりと、 雪菜に対する気遣いと。 | ||||
1184 | かずさ自身の、諦めとも悲しみともつかない 微妙な感情とともに。 | ||||
1185 | かずさ | Kazusa | 「んっ…」 | ||
1186 | 春希 | Haruki | 「~っ」 | ||
1187 | そして、俺の唇に、 暖かく柔らかな感触が重ねられ… | ||||
1188 | かずさ | Kazusa | 「………ごめんな、春希」 | ||
1189 | 春希 | Haruki | 「え…」 | ||
1190 | けれど、触れたのはほんの一瞬だった。 | ||||
1191 | かずさ | Kazusa | 「駄目だよな…ほんと、全然駄目だよな、あたし」 | ||
1192 | 春希 | Haruki | 「かずさ…?」 | ||
1193 | 俺の肩に手を置いたまま、 かずさがゆっくりと距離を取る。 | ||||
1194 | かずさ | Kazusa | 「そうだよ、冗談だよ。 からかってたんだよ。 春希に、仕返ししたんだよ」 | ||
1195 | 今さら言ったって遅すぎる… 誰も信じない言い訳とともに。 | ||||
1196 | かずさ | Kazusa | 「その証拠にさ… はは、あははっ、 笑ってるだろ? あたし」 | ||
1197 | 目を真っ赤にして、 けれど多分、その微笑みだけは心の底から。 | ||||
1198 | かずさ | Kazusa | 「だから、ほら、これで最後の取材も終わり。 …お疲れさまでした」 | ||
1199 | 俺に対する強がりと、 雪菜に対する気遣いと。 | ||||
1200 | かずさ自身の、 本当に、本当に小さな願いが満たされたという 喜びとともに。 | ||||
1201 | ……… | .........
| |||
1202 | かずさ | Kazusa | 「コンサート…来てくれよな」 | ||
1203 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
1204 | 帰り道は、二人ともずっと無口だった。 …別れ際になってようやくかずさが口を開くまでは。 | ||||
1205 | かずさ | Kazusa | 「来てくれるだけでいい。 ただ、あたしのピアノ、聴いてくれるだけでいい」 | ||
1206 | 春希 | Haruki | 「かずさ、俺…」 | ||
1207 | かずさ | Kazusa | 「…お前のことだから、 途中で退屈して眠ってしまうかもしれないけどな」 | ||
1208 | 俺の迷いの言葉を話させないように、 ゆっくりと、でも的確に、かずさが言葉を継ぐ。 | ||||
1209 | かずさ | Kazusa | 「今夜から会場の近くのホテルに泊まる。 あと二日、コンサートのことだけ考える」 | ||
1210 | 春希 | Haruki | 「そっか」 | ||
1211 | かずさ | Kazusa | 「コンサートが終わったら、 業者が荷物を引き取りに来る。 …あたしはもう、あの部屋には戻らない」 | ||
1212 | 春希 | Haruki | 「………」 | "........."
| |
1213 | かずさは、軽い笑顔を浮かべてた。 | ||||
1214 | 心の中がどうとかいうこととはまるで関係なく、 とにかく、歯を食いしばって笑ってた。 | ||||
1215 | かずさ | Kazusa | 「だから今度こそ、今度こそ… これで、さよならだ」 | ||
1216 | そして、何度も自分で覆した… 俺に覆された宣言を、 しつこいまでに繰り返す。 | ||||
1217 | かずさ | Kazusa | 「じゃあ、な」 | ||
1218 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
1219 | そうやって、今生の別れを何度も繰り返したせいか、 かずさの一番最後の言葉は、やたらと素っ気なかった。 | ||||
1220 | ……… | .........
| |||
1221 | …… | ......
| |||
1222 | … | ...
| |||
1223 | かずさ | Kazusa | 『あたしが、先だった… 先だったんだ』 | ||
1224 | 今さら、なに言ってんだよ。 | ||||
1225 | かずさ | Kazusa | 『キスしたのも、抱きあったのも。 …そいつのこと好きになったのも』 | ||
1226 | もう、遅いよ。 | ||||
1227 | かずさ | Kazusa | 『…誰にも、奪われたくなかったんだ』 | ||
1228 | 五年前に… あの時に言ってくれたなら、俺は… | ||||
1229 | 俺は、だから俺は… | ||||
1230 | ……… | .........
| |||
1231 | いいや、何も変わらない。 変わっていいわけがないだろ。 | ||||
1232 | かずさ | Kazusa | 『春希、春希ぃ…』 | ||
1233 | やめてくれ… | ||||
1234 | かずさ | Kazusa | 『これが最後だから…』 | ||
1235 | “最後”を免罪符に、 俺の望んだ距離よりも、 さらに奥深く踏み込んでくるのは。 | ||||
1236 | お互い、忘れられない気持ちを刻もうとするのは。 | ||||
1237 | かずさ | Kazusa | 『手を繋ぐくらい。想いを伝えるくらい。 最後にもう一度だけキスするくらい…』 | ||
1238 | どうして、今日が最後でなくちゃいけないんだ…? | ||||
1239 | これで終わりじゃなく、もっとゆっくりと… | ||||
1240 | 穏やかに友人関係として昇華するって選択は、 お前の中に存在しないのかよ… | ||||
1241 | お前にとって俺は、 0か1でしかないのかよ…? | ||||
1242 | かずさ | Kazusa | 『それくらいなら、雪菜だって許してくれるだろ?』 | ||
1243 | 春希 | Haruki | 「あああぁぁぁぁっ!」 | ||
1244 | 春希 | Haruki | 「はぁっ、はぁっ、はぁぁ………っ!」 | ||
1245 | 荒い息を整えながら時計を見ると、 あれから、数時間が経っていた。 | ||||
1246 | …けれど、さっき時間を確認してからは、 30分も経ってなかった。 | ||||
1247 | せっかく眠れたと思ったのに。 | ||||
1248 | 春希 | Haruki | 「っ…は、はぁ、はぁぁ…」 | ||
1249 | かずさと別れてから、 ずっと、頭の中を同じ光景が渦巻いていた。 | ||||
1250 | あまりにもいたたまれなく、 あまりにも痛々しく、 そして、あまりにも甘美な光景が。 | ||||
1251 | 春希 | Haruki | 「んっ、んく………ぷぁっ」 | ||
1252 | 頭から追い出すために、 部屋にある酒類を全部胃の中に収めたら、 今度は余計にイメージが鮮明になってしまった。 | ||||
1253 | 声も、息遣いも、表情も。 そして、俺にわかるはずもないあいつの想いまで、 俺に都合のいい形で補完されてしまった。 | ||||
1254 | …いや、俺に都合の悪い形で、だった。 | ||||
1255 | ひりついた喉に冷たいお茶を流し込み、 必死に頭を冷やそうとする。 | ||||
1256 | 熱くしたり冷たくしたり、 自分でもやってることがぶれてるとは思うけど。 | ||||
1257 | どうすれば何も考えずに済むかって、 さっきから、ずっと試行錯誤を繰り返してる。 | ||||
1258 | それなのに… | ||||
1259 | 春希 | Haruki | 「………っ」 | ||
1260 | 自分に起きた、心と体の反応が恐ろしい。 揺れる心が本能に及ぼす作用が恨めしい。 | ||||
1261 | 全身を覆う重い疲労感。 それは激情と快感の伴った過ちの結果。 | ||||
1262 | 春希 | Haruki | 「~~~っ!」 | ||
1263 | 俺の気持ちが激しく動いてしまった証が、 下着の中に溜まっていた。 | ||||
1264 | かずさを想って。 …雪菜ではない相手を想って。 | ||||
1265 | たった数分、目を閉じてしまっただけで。 |
Script Chart
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Introductory Chapter | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
1001 | 1008 | 1009 | 1010 | 1011 | 1012 | 1013 |
1002 | 1008_020 | 1009_020 | 1010_020 | 1011_020 | 1012_020 | |
1003 | 1008_030 | 1009_030 | 1010_030 | 1011_030 | 1012_030 | |
1004 | 1008_040 | 1010_040 | 1012_030_2 | |||
1005 | 1008_050 | 1010_050 | ||||
1006 | 1010_060 | |||||
1006_2 | 1010_070 | |||||
1007 |
Closing Chapter | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
Common | Setsuna | Koharu | Chiaki | Mari | ||||||
2001 | 2011 | 2020 | 2027 | 2301 | 2309 | 2316 | 2401 | 2408 | 2501 | 2510 |
2002 | 2012 | 2021 | 2028 | 2302 | 2310 | 2317 | 2402 | 2409 | 2502 | 2511 |
2003 | 2013 | 2022 | 2029 | 2303 | 2311 | 2318 | 2403 | 2410 | 2503 | 2512 |
2004 | 2014 | 2023 | 2030 | 2304 | 2312 | 2319 | 2404 | 2411 | 2504 | 2513 |
2005 | 2015 | 2024 | 2031 | 2305 | 2313 | 2320 | 2405 | 2412 | 2505 | 2514 |
2006 | 2016 | 2025 | 2032 | 2306 | 2314 | 2321 | 2406 | 2413 | 2506 | 2515 |
2007 | 2017 | 2026 | 2033 | 2307 | 2315 | 2322 | 2407 | 2507 | 2516 | |
2008 | 2018 | 2308 | 2508 | 2517 | ||||||
2009 | 2019 | 2509 | ||||||||
2010 | ||||||||||
Setsuna | Koharu | Chiaki | Mari | |||||||
2031_2 | 2312_2 | 2401_2 | 2504_2 | 2511_2 | ||||||
2031_3 | 2313_2 | 2402_2 | 2507_2 | 2513_2 | ||||||
2031_4 | 2313_3 | 2402_3 |
Coda | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
Common | Kazusa (True) | Setsuna (True) | Kazusa (Normal) | ||||||
3001 | 3008 | 3014_2 | 3020 | 3101 | 3107 | 3201 | 3207 | 3901 | 3907 |
3002 | 3009 | 3014_3 | 3021 | 3102 | 3108 | 3202 | 3208 | 3902 | 3908 |
3003 | 3010 | 3015 | 3022 | 3103 | 3109 | 3203 | 3209 | 3903 | 3909 |
3004 | 3011 | 3016 | 3023 | 3104 | 3110 | 3204 | 3210 | 3904 | |
3005 | 3012 | 3017 | 3024 | 3105 | 3111 | 3205 | 3211 | 3905 | |
3006 | 3013 | 3018 | 3106 | 3206 | 3906 | ||||
3007 | 3014 | 3019 | |||||||
Common | Setsuna (True) | Kazusa (Normal) | |||||||
3001_2 | 3210_2 | 3901_2 | 3906_2 | ||||||
3015_2 | 3902_2 | 3907_2 | |||||||
3902_3 | 3907_3 | ||||||||
3904_2 |
Mini After Story and Extra Episode | |||
---|---|---|---|
The Path Back to Happiness | The Path Forward to Happiness | Dear Mortal Enemy | |
6001 | 6101 | 4000 | 4005 |
6002 | 6102 | 4001 | 4006 |
6003 | 6103 | 4002 | 4007 |
6004 | 6104 | 4003 | 4008 |
6005 | 4004 | 4009 |
Novels | |||||
---|---|---|---|---|---|
The Snow Melts, And Until The Snow Falls | The Idol Who Forgot How to Sing | Twinkle Snow ~Reverie~ | After the Festival ~Setsuna's Thirty Minutes~ | His God, Her Savior | |
5000 | 5100 | 5200 | 5205 | 5300 | 5400 |
5001 | 5101 | 5201 | 5206 | 5301 | 5401 |
5002 | 5102 | 5202 | 5207 | 5302 | |
5003 | 5103 | 5203 | 5208 | 5303 | |
5004 | 5104 | 5204 | 5209 |
Short Stories | |||
---|---|---|---|
Princess Setsuna's Distress and Her Minister's Sinister Plan | Koharu Climate After the Passing of the Typhoon | This isn't the Season for White Album | Todokanai Koi, Todoita |
7000 | 7100 | 7200 | 7300 |