White Album 2/Script/3009

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	Speaker		Text		Comment
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1	雪菜	Setsuna	「おはようございま～す」
2	男性スタッフ	Male Staff	「おはようございま～す」
3	女性スタッフ	Female Staff	「おはよございます」
4	ディレクター	Director	「小木曽ちゃん久しぶり～！ ますます可愛さに磨きかかっちゃっても～」
5	雪菜	Setsuna	「ありがとうございます はいこれ、差し入れです」
6	ディレクター	Director	「社交辞令の笑顔にも ますます磨きがかかっちゃってもう…」
7	雪菜	Setsuna	「あれ？　わかります？ ん～、わたしもまだまだですね」
8	ディレクター	Director	「そうやって段々ピュアな心を失っていくんだよ。 最初の頃は顔真っ赤にして、照れながら怒っちゃって、 これがまた可愛かったのに」
9	男性スタッフ	Male Staff	「山口さんみたいに顔見るたびに言ってたら、 いい加減免疫もつきますって」
10	女性スタッフ	Female Staff	「台詞も毎回ワンパターンで面白味に欠けるし」
11	ディレクター	Director	「お前らうるさい。 あ、そういえばさ、 小木曽ちゃん久しぶりにやるんだって？」
12	雪菜	Setsuna	「え？　やるって？」
13	男性スタッフ	Male Staff	「三丁目のスタジオトロイで。 来週末にライブなんでしょ？」
14	雪菜	Setsuna	「やだ、どうして知ってるんですか？ あんな小さなスタジオの、 マイナーな定期ライブなのに」
15	ディレクター	Director	「前から言ってるじゃん。 俺小木曽ちゃんの大ファンなんだって。 だから君のことなら何でもさぁ」
16	雪菜	Setsuna	「う、うわぁ…」
17	ディレクター	Director	「…リアルに退かないでよ」
18	女性スタッフ	Female Staff	「ドラムの杉田さんっているじゃないですか。 ほら、ここ専属の。 あそこ、彼のホームだったらしいんですよ」
19	男性スタッフ	Male Staff	「それでマスターから聞いたんだって。 昨日からみんなに触れ回ってるよ」
20	雪菜	Setsuna	「聞いたって…わたしが出ることを？」
21	ディレクター	Director	「伝説の歌姫が一年ぶりにステージに上がるから、 業界関係者はこぞって見に来るようにって」
22	雪菜	Setsuna	「っ！？ で、伝説なんてありません！ 単なるヘルプなんですから…」
23	ディレクター	Director	「けどほら、チラシにハッキリ書いてあるし。 …これ、大量に出回ってるよ？」
24	雪菜	Setsuna	[F16「………朋ぉ」]
25	男性スタッフ	Male Staff	「他にも色々聞いてるしね、小木曽雪菜伝説。 大学祭ライブで動員記録作ったとか」
26	雪菜	Setsuna	「それは…大学祭じゃなくて付属祭で」
27	女性スタッフ	Female Staff	「広報の採用面接なのにいきなり歌い出したとか」
28	雪菜	Setsuna	「それは…趣味を聞かれたから」
29	ディレクター	Director	「それだけじゃないでしょ。 プレゼンでも歌い出すって評判だよ？ しかもそれが信じられないくらい上手いって」
30	雪菜	Setsuna	「それは…『どんな曲なの？』って聞かれたから」
31	男性スタッフ	Male Staff	「そういうのって普通、デモ音源持ってかない？」
32	雪菜	Setsuna	「忘れちゃったんですよ… けれど引き返してたら遅刻しちゃうし、 仕方なかったんですってば」
33	女性スタッフ	Female Staff	「そういう話が一度や二度じゃなかったらねぇ」
34	雪菜	Setsuna	「う…」
35	ディレクター	Director	「あれだよね、小木曽ちゃんって 峰城出ててインテリっぽいけど、 基本は感性で生きてるよね」
36	雪菜	Setsuna	「それは…一部に関しては否定できないかも」
37	ディレクター	Director	「そんな伝説の歌姫が なんで広報なんかやってんの？ 普通に歌手でデビューすればよかったのに」
38	雪菜	Setsuna	「だってプロになれる実力ないですから。 あくまで趣味の範囲です。 …て言うか“伝説の歌姫”やめてください」
39	ディレクター	Director	「売れると思うんだけどなぁ…」
40	男性スタッフ	Male Staff	「ぶっちゃけ、歌『以外』だけでも」
41	女性スタッフ	Female Staff	「否定できないなぁ… 正直、小木曽ちゃんって同性にものすごく慕われるか、 ものすごく嫉妬されるタイプよね」
42	雪菜	Setsuna	「え、え～！ 素子さん勘弁してくださいよ」
43	女性スタッフ	Female Staff	「あ～、大丈夫大丈夫。 私はあなたのこと大好きだから…大部分は。 だからデビューしたら応援するからね」
44	雪菜	Setsuna	「しませんよ。できません。 …だってわたし、本物の天才知ってますから。 わたしなんかが音楽の道に進むなんて」
45	ディレクター	Director	「へ～、興味あるね。 “伝説の歌姫”に音楽の道を諦めさせた天才かぁ。 なに、その人今はプロ？」
46	雪菜	Setsuna	「プロどころか…」
47	ＡＤ	Assistant Director	「北見さん入りました～！ スタンバイお願いします～」
48	ディレクター	Director	「よし！ さ～、じゃ今日も気合入れていこうか！」
49	雪菜	Setsuna	「はい、それじゃ皆さんよろしくお願いします！」
50	男性スタッフ	Male Staff	「お願いします」
51	女性スタッフ	Female Staff	「お願いしま～す」
52			………	.........
53	雪菜	Setsuna	「んっ。 気合入れて、いかなくちゃね。 何もかも」
54			………	.........
55	かずさ	Kazusa	「………っ」
56	曜子	Youko	「７５点。 …１０００点満点で」
57	かずさ	Kazusa	「なら拍手はやめろ。 嫌味ったらしい」
58	曜子	Youko	「ここまで気合の入ってない演奏なんて、 狙ってできるものじゃないからね。 ある意味感動したわ」
59	かずさ	Kazusa	「っ…」
60	曜子	Youko	「かずさ、あなたまた昨夜も寝てないでしょ？ 食事もほとんど残してるし。 いい加減、時差ボケの言い訳も苦しいわよ」
61	かずさ	Kazusa	「うるさいなぁ」
62	曜子	Youko	「『一体どうしちゃったの？』とか聞かないわよ。 心当たりがないとは思ってないから」
63	かずさ	Kazusa	「…あるよ。 この国の何もかもが、あたしに合わないんだ」
64	曜子	Youko	「ま～、そう思い込むのも自由だけどね。 でもあなた、生まれてから十数年の間、 ずっとここの空気を吸って生きてきたのよ？」
65	かずさ	Kazusa	「あの頃は、ここしか生きる場所がなかった。 だから、合わないってことすらわからなかった」
66	曜子	Youko	「………」	"........."
67	かずさ	Kazusa	「今は違う… ここはあたしの生きる場所じゃない。 世界の、沢山ある国の中の単なる一つでしかない」
68	曜子	Youko	「それでも、あなたが決めたのよ？ 日本に来るって。 ここで弾くって」
69	かずさ	Kazusa	「わかってるよ… だからさっさと弾いて、さっさと帰るんだ。 あたしの、本当の故郷に」
70	曜子	Youko	「けれど今のままじゃ… とても『聴かせてあげられる』って レベルじゃないわね」
71	かずさ	Kazusa	「これからだよ… まだコンサートまでは時間がある。 ゆっくり作り込んでいく」
72	曜子	Youko	「わたしもそうであって欲しいって祈ってるわ。 娘が同胞に失望されるのは見るに忍びないからね」
73	かずさ	Kazusa	「…集中したい。 出てってくれないか？」
74	曜子	Youko	「わかったわ。 せいぜい頑張りなさい。 …せめて素人は誤魔化せるくらいにね」
75	かずさ	Kazusa	「余計なお世話だ」
76	曜子	Youko	「あ、そうそう。 わたし、今夜は用事があるからホテルに帰らないわよ。 多分、携帯も切ってるから」
77	かずさ	Kazusa	「またかよ？ 日本に来てから遊びまわってばかりだな」
78	曜子	Youko	「何しろ一月以上の長期滞在は久しぶりだからね。 今のうちにたっぷり旧交を温めておかないと」
79	かずさ	Kazusa	「…元気なことで何よりだ。その年にもなって」
80	曜子	Youko	「わたしはあなたと違って友達多いからね」
81	かずさ	Kazusa	「男も多いけどな」
82	曜子	Youko	「あなたと違って割り切れるからね」
83	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
84	曜子	Youko	「降りそうね、今夜は。 ちゃんとあったかくして寝るのよ？ …眠れなくても横になって目を閉じるだけはしなさい」
85	かずさ	Kazusa	「母親みたいなこと言うな」
86	曜子	Youko	「…そうね。 それじゃ」
87	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
88	かずさ	Kazusa	「気合、入れろよ。 なにやってんだよ、あたし…」
89			………	.........
90			……	......
91			…	...
92	運転手	Driver	「お客さん？」
93	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
94	運転手	Driver	「お客さん、お客さんってば！」
95	かずさ	Kazusa	「っ…え？ な、なに？」
96	運転手	Driver	「…着きましたよ。 御宿インペリアルホテル」
97	かずさ	Kazusa	「あ…」
98	運転手	Driver	「大丈夫ですか？ なんか顔色悪いですけど」
99	かずさ	Kazusa	「ああ、いや、大丈夫。 体が熱いのに寒気がするだけだ」
100	運転手	Driver	「…それ全然大丈夫じゃないですよ。 なんなら病院行きましょうか？」
101	かずさ	Kazusa	「ホテルに着いたし、大丈夫。 …心配してくれてありがとう」
102	運転手	Driver	「いえ、そんな… あれ、そういえばお客さんどっかで…」
103	かずさ	Kazusa	「で、いくら？」
104	かずさ	Kazusa	「ふぅ…」
105	女性記者	Female Reporter	「あの～、すいません。 東邦出版、シャンディ編集部の板倉と申しますが」
106	かずさ	Kazusa	「っ…」
107	女性記者	Female Reporter	「冬馬かずささんですよね？ 少しだけお話伺いたいんですが」
108	かずさ	Kazusa	「すいません。疲れてますから」
109	女性記者	Female Reporter	「ほんの２、３分でいいんです。 お手間取らせません」
110	かずさ	Kazusa	「ですから、疲れてるって…」
111	女性記者	Female Reporter	「それ毎日言ってるじゃないですか。 いい加減少しくらい相手してくださいよ」
112	かずさ	Kazusa	「っ…」
113	女性記者	Female Reporter	「それじゃ始めさせていただきます。 よろしくお願いします」
114	かずさ	Kazusa	「………はぁ」
115	女性記者	Female Reporter	「実はですね、今回はピアノとは切り口を変えて、 冬馬さんのファッションについて お聞きしたいんですよ」
116	かずさ	Kazusa	「はぁ？」
117	女性記者	Female Reporter	「冬馬さんの長くて綺麗な黒髪と溶け合うような、 黒を基調にしたシックな装いがですね、 同年代の女性の間で話題になっていまして」
118	かずさ	Kazusa	「いや…何言ってんだ？　あんた」
119	女性記者	Female Reporter	「それで、普段愛用しているブランドとか、 コーディネイトのポイントとか、お化粧のコツとか… 思いつくままに話してくれればいいので」
120	かずさ	Kazusa	「…意味がわからない。 なんの取材なんだこれ？」
121	女性記者	Female Reporter	「あ、それと後日正式に依頼に上がりますが、 写真撮影の方もよろしくお願いしますね。 来月号の表紙は冬馬さんで行きますから！」
122	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
123	女性記者	Female Reporter	「衣装の方は自分のお気に入りを持参していただいても、 こちらでコーディネイトする形でもどちらでも結構です。 …あ、話の腰を折ってしまいすみません」
124	かずさ	Kazusa	「なぁ…」
125	女性記者	Female Reporter	「はい？　なんでしょうか？ 本当、もうざっくばらんで行きましょう！ 何でも聞いてください」
126	かずさ	Kazusa	「やっぱり今日は勘弁してくれ。 本当に疲れてるんだ…」
127	女性記者	Female Reporter	「それじゃ立ち話もなんですから、 ホテルの喫茶室にでも移動しましょうか」
128	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
129	女性記者	Female Reporter	「あ、それともお食事がまだでしたら、 何か食べられるお店の方がいいかしら。 この近く、何軒か案内できますよ？」
130	かずさ	Kazusa	「………っ」
131	女性記者	Female Reporter	「ああ、お気になさらないでください。 もちろん費用は編集部の方で持たせていただきます。 さ、それではこちらに…」
132	かずさ	Kazusa	「………るな」
133	女性記者	Female Reporter	「はい？」
134	かずさ	Kazusa	「あたしに………触るなぁぁぁっ！」
135	女性記者	Female Reporter	「きゃあっ！？」
136	かずさ	Kazusa	「………ぁ」
137	女性記者	Female Reporter	「な、な、な…何をなさるんですか！ いきなり！」
138	かずさ	Kazusa	「い、いや、ごめ…」
139	女性記者	Female Reporter	「いくら何でも酷すぎますよ… あ、痛、膝打っちゃった…」
140	かずさ	Kazusa	「あ、あぁ…」
141	女性記者	Female Reporter	「やっていいことと悪いことがありますよ… いくらこちらの方が立場が弱いからって、こんな…」
142	かずさ	Kazusa	「～～～っ！」
143	女性記者	Female Reporter	「あ、ちょ、ちょっと！ 冬馬さん、冬馬さん！」
144	女性記者	Female Reporter	「ちょっとぉ、逃げるなんて卑怯ですよ！ 待ってくださ～い！」
145	女性記者	Female Reporter	「それと………バッグ落としてます」
146			………	.........
147	かずさ	Kazusa	「はぁ、はぁ、はぁぁ…っ、 う、う…ぅぅっ」
148	かずさ	Kazusa	「なんで…」
149	かずさ	Kazusa	「なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだよ…」
150	かずさ	Kazusa	「全部…あいつのせいだ…っ」
151			……	......
152			…	...
153	春希	Haruki	「あ…」
154			開桜社ビルを出ると、 いつの間にか地面はすっかり濡れていた。
155			天気予報では、今夜は『雨、または雪』って言ってたけど、 実際の天気は、どうやらその予報を一度に再現しようと、 無理やり頑張っているみたいだった。
156			顔にかかる雨粒が痛くて冷たい。 …[R霙^みぞれ]だ。
157			道行く人々は、雪のように傘なしで歩く訳にも行かず、 けれど雪のように足下が滑るのを気にしなくてはならず、 不機嫌そうに傘を差し足早に通り過ぎる。
158			しばらくそんな光景をぼうっと眺めていたけれど、 どうやらこの霙は結構根が深いらしく、 止むどころか弱まる気配すら見せてくれない。
159			…というか、引き出しにある折りたたみ傘のために、 三階まで戻るのが面倒くさかっただけなんだけど。
160	春希	Haruki	「はぁ…」
161			それでも、この様子だと 不動の抵抗も役に立たなそうなので、 仕方なしに俺はのろのろと踵を返す。
162			いつもの金曜の夜なら、 そんなことをウダウダ逡巡する前に、 駅までダッシュしてたはずだった。
163			だって、いつもの金曜日なら… 自分の部屋に帰るモチベーションがまるで違うから。
164	春希	Haruki	「あ…っ」
165			そんな虚しい妄想に浸りかけていたから…
166			俺はその電話の発信元をろくろく確かめもせずに、 慌てて携帯の通話ボタンを押した。
167			雪菜だと、信じて…
168	春希	Haruki	「も、もしもしっ！」
169	？？？	???	「………」	"........."
170	春希	Haruki	「…もしもし？」
171	？？？	???	「………」	"........."
172			けれど、そんなふうに意気込んだ俺を嘲笑うかのように…
173			いや、実際には笑い声どころか、 電話口の向こうからはこっちと同じような 街の音しか聞こえてはこなかった。
174	春希	Haruki	「どなた、ですか？」
175	？？？	???	「………」	"........."
176			そこに至って俺は、 ようやく携帯のディスプレイに目を向けて…
177	春希	Haruki	「え…」
178			『公衆電話』という、 ここ数年見かけなかった着信表示に相まみえた。
179	春希	Haruki	「もしもし…もしもし？」
180	？？？	???	「………」	"........."
181	春希	Haruki	「雪菜…？」
182	？？？	???	「………っ」
183	春希	Haruki	「あ…」
184			俺が最初にその名を問いかけたのは、 保険だった…
185			頭の中に浮かんだ第一候補をそのまま口にして、 もしそうじゃなかった時の反動がいかほどのものか…
186			無言の着信を受け、焦燥と不安に駆られた中でも、 そんな冷徹で、そしてずる過ぎる行動を取っている俺が、 自分でも嫌になる。
187	春希	Haruki	「かずさ…か」
188	かずさ	Kazusa	「………春希ぃ」
189	春希	Haruki	「っ！ なにやってんだよお前…」
190	かずさ	Kazusa	「っ…」
191	春希	Haruki	「『もう会うこともない』って言ったのお前だろ… どうしてかけてくるんだよ…」
192			めちゃくちゃ、声が震えてた。 けど、寒いからでは全然なかった。
193	春希	Haruki	「近づかないんじゃなかったのかよ… 昔のお前を知ってる俺には、もう…っ」
194	かずさ	Kazusa	「近づいてないだろ… ただ、電話しただけじゃないか…」
195	春希	Haruki	「同じことだろ馬鹿…」
196	かずさ	Kazusa	「馬鹿って言うな… あたしのこと、自分のものみたいに扱うな」
197	春希	Haruki	「何しにかけてきたんだよかずさ… お前、俺をこんなに悩ませて楽しいか？」
198			違う、違う…
199	かずさ	Kazusa	「何も聞かずにいきなりそれかよ… 優しさのカケラもないんだな、お前」
200	春希	Haruki	「あ～はいはい、悪かったな。 で、何だ？　なるべく手短に頼むわ」
201			本当は、こんなこと言いたいんじゃないのに。 こんなこと言うにしても、 もっと違う態度で接したいのに。
202	かずさ	Kazusa	「手短にまとめると、たった一言で済むな。 …消えちまえこの馬鹿」
203	春希	Haruki	「馬鹿って言うなよ… 俺のこと、そういうふうに扱うな」
204			『なぁ、どうしたんだよかずさ』って。 『何か話したいことがあるんじゃないのか？』って。
205	かずさ	Kazusa	「最低だよ、お前。 …もういい」
206	春希	Haruki	「そっか…じゃあな」
207			けど、今の俺は。
208			雪菜を待ってるって約束した、今の俺は…
209	かずさ	Kazusa	「邪魔したな。 もう、会わないだけじゃなく、二度と電話もしない。 今度こそ、永遠にさよならだ」
210	春希	Haruki	「………」	"........."
211	かずさ	Kazusa	「じゃあ………っ」
212	春希	Haruki	「今、どこにいるんだよ？」
213			なのに、 どうしていつもギリギリで踏みとどまって…
214			いや、踏み越えてしまうんだろう。
215	かずさ	Kazusa	「わからない。 ここ、どこだ？」
216	春希	Haruki	「俺にはお前が何を言ってんだかわからないよ」
217			そしてかずさも、 永遠にさよならとつい今言ったはずのその口で。
218			どうして、まるで待ち構えていたかのように、 すぐ返事を返してくるんだよ。
219	かずさ	Kazusa	「とりあえず、電話ボックスの中。 …ここは寒くなくて助かる」
220	春希	Haruki	「外、なんだな？ 近くか？」
221	かずさ	Kazusa	「お前がどこにいるかわからないのに 答えられると思うか？」
222	春希	Haruki	「開桜社…御宿だよ」
223			けど、別に問題ない。
224			俺は、ただ事務的に話してるだけだ。 ちょっと世間話をするだけだ。
225	かずさ	Kazusa	「奇遇だな…あたしも御宿だ。 …多分」
226	春希	Haruki	「多分って。 だからそれどういう…」
227	かずさ	Kazusa	「最初は、ホテルの前だったんだ。 でも、そこからどこをどう、 どのくらい歩いたのか記憶になくて」
228	春希	Haruki	「…それで？」
229			ほら、その証拠にこんなに冷静な声が出せる。
230	かずさ	Kazusa	「どうすれば戻れるんだろうなぁ…ホテルに」
231	春希	Haruki	「そんなのタクシー拾えばいいだろ。 …そんな当たり前のこと聞くために、 わざわざ俺に電話してきたのか？」
232			…冷静というには冷たすぎる、 興味のない相手には絶対に取れない 態度かもしれないけど。
233	かずさ	Kazusa	「ほんとになぁ… たった一つ、この番号だけ覚えてるなんて、 あたしって、なんなんだろ」
234	春希	Haruki	「………え？」
235			なのにこの馬鹿は、 妙なヒントを言葉の中に混ぜ込んできやがる。
236	かずさ	Kazusa	「母さんの番号も、事務所の番号も… 実家だってメモリの中にしかないってのに」
237	春希	Haruki	「おい、それどういう意味だ？」
238			記憶にある俺の番号にはかけられて、 メモリにある他の番号にはかけられない。
239			そしてその発信は、公衆電話から…
240	春希	Haruki	「携帯…電池切れたのか？」
241	かずさ	Kazusa	「携帯、携帯か… ああ、それも一緒に」
242	春希	Haruki	「一緒に…一緒にどうした？」
243			何か違和感がある。 かずさの身に、何か…
244	かずさ	Kazusa	「どうしたんだろう… タクシー降りたときは確かに持ってたのに」
245	春希	Haruki	「っ！？」
246			背筋を一瞬で寒気が駆け抜ける。 恐ろしい予兆に、足が震え出す。
247	春希	Haruki	「お前… もしかして、携帯落としたのか？」
248			本当は、そこまで大袈裟な話じゃないはずなのに。
249	かずさ	Kazusa	「ポシェットの中にまとめて入れてあったんだ… あたし普段そういうの全然持ち歩かないから、 来日前に痺れを切らして母さんが買ってきた…」
250	春希	Haruki	「もしかして、携帯だけじゃなくて全部…？」
251	かずさ	Kazusa	「そうだよ…あたしの服や小物なんて、 全部母さんか会社の人が買ってきたものだ。 だってあたし、買い物とか全然行かないし」
252	春希	Haruki	「ちょっと待て、落ち着け！」
253			落ち着いてないのは俺の方だった。
254	かずさ	Kazusa	「だってさぁ、服になんか興味ないもん。 何を着ればいいのかなんてわからない。 それをあのファッション誌の記者…馬鹿じゃないのか」
255	春希	Haruki	「いいかかずさ、タクシー拾え。 ホテルに戻ればなんとかなるだろ」
256	かずさ	Kazusa	「なんであたしが… なんであたしが逃げなくちゃ… あたしは何も悪いことしてない、してないよ…」
257			そしてかずさの方は、 もう、俺に電話した目的すら忘れかけてるみたいだった。
258	春希	Haruki	「事情を話すのが面倒なら『開桜社ビル』って言え！ 俺、今そこの下にいるから、それなら俺が…」
259	かずさ	Kazusa	「寒い、寒いよ、春希… けど眠れない。 だから『眠ったら死ぬぞ』とか言われても大丈夫だ」
260	春希	Haruki	「どこにいる？ 今どこにいるんだよお前！」
261	かずさ	Kazusa	「だから、自分でもわからないって言ってるだろ？ お前は人の話を何も聞いちゃいないな」
262	春希	Haruki	「しっかりしろかずさ！ 正常な判断力を取り戻せ！」
263	かずさ	Kazusa	「それは無理だな…すっごく熱っぽい。 こりゃ、３９度くらいあるかもな…」
264	春希	Haruki	「救急車を呼べ！ 日本では１１９だ！」
265	かずさ	Kazusa	「馬鹿かお前は… 救急車をタクシー代わりに使うなよ。 問題になってるって[Rこっちの雑誌^かいおうグラフ]で見たぞ？」
266	春希	Haruki	「かずさ！」
267			駄目だ…本気で正常な判断力を失ってる。
268			もう、逃げてる場合じゃない。 俺が何とかしないと、どうしようもない。
269	春希	Haruki	「近くに何が見える？ そこに何がある！？」
270			そう、どうしようもないんだ。 俺が何とかするしかないんだ。
271	かずさ	Kazusa	「だからぁ、電話ボックスの中だって…」
272	春希	Haruki	「目を凝らしてよく見ろ！ 何か特徴的な建物とか！」
273	かずさ	Kazusa	「あ………ヤックがある。目の前に」
274	春希	Haruki	「御宿にいくつあると思ってんだよそれ！」
275			もはや夢うつつなかずさは、特徴的な目印として、 あろうことか世界一のハンバーガーチェーンの名を挙げた。
276			そして…
277	かずさ	Kazusa	「やば、切れ…」
278	春希	Haruki	「あ…」
279			拾ったか、ポケットの中に残ってた１００円玉は、 どうやらその瞬間、使命を終えたらしかった。
280			…公衆電話のボックスと、 ハンバーガーショップ。
281			そんな曖昧なようで微妙に絞り込める、 まるでオリエンテーリングのようなヒントだけを残して。
282			………	.........
283			……	......
284			…	...
285	春希	Haruki	「見つけた…」
286	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
287			そこは、思いっきり駅前だった。
288			というか、冷静に考えれば、 今どき公衆電話ボックスなんて、 逆に少なすぎて見つけるのが大変なくらいで。
289			あまりに使用頻度が少ないから、 そうしてボックスの中で座り込んでる迷惑な客がいても、 誰も気にしないくらいで。
290	春希	Haruki	「大丈夫か？」
291	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
292			なんて、問い掛けるのも意味がないのかもしれない。
293			だって、大丈夫だったら、 この意地っ張りが俺なんかを頼ったりはしないはず。 …多分、きっと。
294	春希	Haruki	「おい、かずさ…」
295	かずさ	Kazusa	「遅い…」
296	春希	Haruki	「………」	"........."
297			電話を受けたときに徒歩５分のところにいた俺は、 結局、ゴールに辿り着くのに３０分ほど全力疾走した。
298			だって、思わなかった。 まさかこんなにわかりやすい場所にいるなんて。
299			ここだったら、タクシーが目の前を走ってるだろ。 電車だってすぐに乗れるだろ。 …何より、そこに地図があるだろ。
300	春希	Haruki	「とにかく立て。 ここにいたら風邪ひくぞ」
301			なんて、この状況で言えるわけもない。 それは、かずさでなくても、誰であろうとも…
302	かずさ	Kazusa	「もう遅い…肺炎手前だ」
303	春希	Haruki	「ならなおさら急げ。 ほら、つかまれ」
304	かずさ	Kazusa	「………っ」
305			伸ばされた手をしっかりと握りあい、 力をこめて引っ張る。
306	春希	Haruki	「…重い」
307	かずさ	Kazusa	「…くたばれ」
308			かずさはまるで自分の力を使わず、 だから俺の腕に、かずさの全体重がかかった。
309			誰がどう見ても、前後不覚で道に倒れてた泥酔女。
310			これが今をときめくあの冬馬かずさなんて、 そりゃ、誰も気づくはずないよな。
311	春希	Haruki	「とにかく移動するぞ？ 少しだけ頑張れ」
312	かずさ	Kazusa	「ん…」
313			俺の問いかけに、 かずさは声も身体もフラフラになりながら、 なんとか同意を示してくれる。
314			そして、俺の後ろについて、ゆっくりと…
315	春希	Haruki	「………って、お前な」
316	かずさ	Kazusa	「え…？」
317	春希	Haruki	「今日はタクシー使うんだよ。 だから、そこまでくらい歩け」
318	かずさ	Kazusa	「っ…」
319			俺の肩に手をかけて、 そのまま乗っかろうとしてきやがった。
320			…あの、ストラスブールのイブの夜みたいに。
321	春希	Haruki	「ほら、しっかりしろ」
322	かずさ	Kazusa	「ん…」
323			たった５０メートル先のタクシー乗り場に、 １０分近くの時間をかけて、 ようやくかずさをその車内に押し込む。
324			…こんなことなら促されるままに、 そのまま背負えばよかったんだろうか。
325	運転手	Driver	「どちらまで行きます？」
326	春希	Haruki	「あ、えっと…」
327	かずさ	Kazusa	「は、はぁ、はぁぁ…」
328	春希	Haruki	「………」	"........."
329			かずさは座席に乗り込むと荒い息をつき、 俺から目をそらすように、窓の外に目を向ける。
330			その吐息が、雨に濡れた窓を白く曇らせ、 こいつの体温の高さを図らずも証明する。
331	春希	Haruki	「………南末次までお願いします」
332			だから、聞けなかった。
333			このすぐ近くにあるはずの、 滞在先のホテルの名を。
334			………	.........
335			……	......
336			…	...
337	春希	Haruki	「届いてますか！ よかったぁ…」
338	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
339			指で丸印を作りかずさの方に示すと、 向こうは結構無感動で軽く頷いた。
340	春希	Haruki	「中身は…ええ、そうです。 クレジットカードは二種類」
341			かずさの荷物の無事を教えてくれたのは、 冬馬曜子オフィス東京事務所の唯一の所員さん。
342			浜田さんに連絡し『独占取材やる気になったか？』 と問い質されつつ聞き出した番号にかけたところ、 帰りがけだったらしいその女性が応対してくれた。
343	春希	Haruki	「携帯電話と、あと小銭入れと」
344			本人じゃない、若い男性からの連絡にも、 『代理』の一言で気軽に応じてくれる気安さは、 さすがあの冬馬曜子の会社なだけのことはある。
345			…もうちょっとセキュリティ意識を高めた方が いいんじゃないかって思わないでもないけど。
346	春希	Haruki	「現金は………はぁ？ １４３０円？」
347	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
348	春希	Haruki	「…ええ、元々それくらいしか持ってなかったそうです。 間違いありません」
349			かずさは指で丸印を作り、 荷物の全ての無事を俺に伝えてきた。
350			社会人のくせになんという…
351	春希	Haruki	「え？　ああ、はい。 ちゃんと本人にも伝えておきます。 えっと………ホテルに戻っていると思うので」
352	春希	Haruki	「ああ、いや！　大丈夫！ こちらから連絡しておきます。 明日か明後日にでもそちらに伺うと思います」
353	春希	Haruki	「はい、はい… それじゃ、どうもありがとうございました」
354	春希	Haruki	「ふぅ…」
355	かずさ	Kazusa	「よかったな春希。 落とし物が見つかって」
356	春希	Haruki	「………」	"........."
357	かずさ	Kazusa	「ところでさ、何か食べる物ないか？ お前があまりにも長電話するもんだから、 いつの間にか腹が減ってきた」
358	春希	Haruki	「………………」
359			もう、どこから突っ込めばいいのやら…
360	かずさ	Kazusa	「そうだ、あれがいいな。 あれにしてくれ」
361	春希	Haruki	「あれって何だよ。 年寄りみたいな指示語の使い方するな」
362	かずさ	Kazusa	「ほら、あれだよ。 ボンゴレ雑炊。 まずいけど、お前が作れるものなんてその程度だろ」
363	春希	Haruki	「今なら俺、もう少し手の込んだもの作れるけど…」
364	かずさ	Kazusa	「すぐできるからあれでいい」
365	春希	Haruki	「いや、そんなに時間変わらないけど…」
366	かずさ	Kazusa	「ウジウジ言ってないで早く作れ。ボンゴレ雑炊。 腹が減って死にそうだ」
367	春希	Haruki	「さっきまでは寒くて死にそうだったくせに…」
368	かずさ	Kazusa	「うるさいな。 本当にお前はいちいち細かいことばかり…」
369	春希	Haruki	「わかった、わかったよ。 …じゃあ２０分待ってろ」
370			『何か食べるもの』と言っておきながら、 そのあまりの決め打ちっぷりが少しだけ気になったけど。
371			とりあえず、材料に不足はなかったし、 味付けに不安はなかったから、 俺はおとなしく鍋を火にかけた。
372			何より、思ったより元気になってくれたし。 熱も３７．７度とさほど高くなかったし。 とりあえず今は、かずさの心と体が最優先…
373	春希	Haruki	「っ…」
374			って、何言ってんだ、俺。
375			いつの間にか、 また、やってしまっていた。
376			『もう会うこともない』はずが、 『消えちまえこの馬鹿』なはずが 『今度こそ、永遠にさよならだ』なはずが…
377			雪菜のために、 かずさに近づかないって、 固く誓ったはずが…
378	春希	Haruki	「…パジャマ、出しておいたから、 飯作ってる間に着替えとけ。 …洗面所はそっち」
379	かずさ	Kazusa	「女物だな、これ」
380	春希	Haruki	「………」	"........."
381	かずさ	Kazusa	「雪菜の…か」
382	春希	Haruki	「………まぁ」
383	かずさ	Kazusa	「っ…あって当然だろ。 なんで言葉を濁そうとするんだよ」
384	春希	Haruki	「悪い」
385	かずさ	Kazusa	「別に、わかってるんだ。 この部屋が雪菜の場所だって、わかってるんだ。 ………ちょっとだけ、借りるぞ」
386	春希	Haruki	「脱いだ服はカゴの中に入れといてくれ。 朝までに乾かしとく」
387	かずさ	Kazusa	「余計なお世話だ」
388	春希	Haruki	「………」	"........."
389			わかってるんだ、か。
390			そっか… わかってるんだ、あいつ。
391			俺がわざと雪菜の服を渡したのも。 そんなことをした本当の理由も。 その時、自分が言葉に詰まってたのも。
392			全部、わかってるんだ、あいつ…
393			………	.........
394	かずさ	Kazusa	「…（ずず）」
395	春希	Haruki	「どうだ…？」
396	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
397	春希	Haruki	「かずさ…？」
398	かずさ	Kazusa	「…まずいな。やっぱり。 人にご馳走するような料理じゃない」
399	春希	Haruki	「お前が食いたいって言ったんだ」
400	かずさ	Kazusa	「どれだけまずかったか思い出すためにな」
401	春希	Haruki	「言ってろ」
402	かずさ	Kazusa	「ふん」
403			予想通り、かずさの言い分は酷いものだった。
404			だって、初めて食べさせたあの時も、 まったく同じ感想を繰り返してたから。
405	かずさ	Kazusa	「…（ずず）」
406			あの日…
407			今日みたいに、かずさが倒れて、 そして俺が冬馬家のキッチンで…
408	春希	Haruki	「雪菜に教えてもらった料理だ」
409	かずさ	Kazusa	「そういえば…そうだったな」
410	春希	Haruki	「…前に言ったっけ？」
411	かずさ	Kazusa	「あ…」
412			雪菜の教えを受けたのは、五年前。
413			かずさの体調は、今日なんかよりもよっぽど悪くて、 数日後の学園祭ライブに黄信号が灯った日。
414			あの時、電話で聞いたレシピは、 冬馬家のどこにも残してなかったはずなのに。
415	かずさ	Kazusa	「気のせい…かもな」
416	春希	Haruki	「そっか」
417	かずさ	Kazusa	「うん」
418	春希	Haruki	「………」	"........."
419	かずさ	Kazusa	「（ずず）…やっぱりまずい」
420	春希	Haruki	「ああ、そうかよ」
421			文句を言いながら、 かずさが熱いはずの土鍋をしっかり抱え込む。
422			それも、五年前にも見た光景。 嫌になるくらい、あの時と重なる。
423			…ここに、俺たちしかいないのも含めて。
424			………	.........
425	春希	Haruki	「呆れて物も言えない」
426	かずさ	Kazusa	「うるさいな。 物も言えないなら喋るなよ」
427			かずさは、五年前と同じように、 その適当な料理を綺麗に平らげた。
428			そして、俺の『休め』という言葉に素直に従い、 ベッドに身体を横たえ、すぐに背を向け…
429	春希	Haruki	「記者にポシェットを投げつけたって… それちっとも落としてないだろ。先に言えよ」
430			今は、俺の説教に耳を塞いでいる。
431	かずさ	Kazusa	「冷静になってみて思い出したんだ。 あの時は怒りで頭に血が上ってて…」
432	春希	Haruki	「まずそこが問題だ。 お前、もう少し人付き合いなんとかならないのか？」
433	かずさ	Kazusa	「あたしはピアノ弾きだ。 人と喋るのは仕事じゃない」
434	春希	Haruki	「芸術家って言ったところで芸人の一種だろ。 自分に興味持ってくれる人がいなくちゃ、 話が始まらないんだぞ？」
435	かずさ	Kazusa	「でもあの女記者！ 酷いんだ。厚かましいんだ。 まるで春希みたいだったんだ！」
436	春希	Haruki	「相手だってさ… 頑張ってるのに、ずっとお前に袖にされ続けて、 少し冷静さを欠いていたんじゃないかな」
437			と、いわれのない誹謗中傷を受けた俺の方は、 少しも冷静さを失わずに切り返す。
438	かずさ	Kazusa	「でもこっちは今までこんな扱いされたことないんだ。 日本に来て、まだ一週間しか経ってないのに… もう少し優しくしてくれたっていいじゃないか」
439	春希	Haruki	「自分が優しくすれば、向こうだって優しくしてくれる」
440	かずさ	Kazusa	「あいつらにそんな常識が通用するとは思えないね。 この前なんか部屋の前までカメラ抱えてきたんだぞ？ ホテルにも迷惑になるってことがわからないのかよ」
441	春希	Haruki	「…ちょっと耳は痛いけど、 同業者をそんな風に悪しざまには言えないよ、俺は。 どれだけ一生懸命かはわかってるつもりだし」
442	かずさ	Kazusa	「ほら、結局お前の考えなんて、 単なる身内の馴れ合いじゃないか」
443	春希	Haruki	「誰にだって身内は大切だろ。 自分にとって一番近い社会なんだから」
444			その瞬間だけは、 自分で喋ってて鳥肌が立つのがわかった。
445	かずさ	Kazusa	「その台詞、ちっとも心に響かないぞ。 …あたしより母親と仲悪いくせに」
446	春希	Haruki	「…それは五年前の古い情報だろ？」
447	かずさ	Kazusa	「じゃあ、ちゃんと仲直りしたのか？ お前があたしにさせたように」
448	春希	Haruki	「………」	"........."
449			そんな俺の、気持ちのこもらない言葉は、 かずさに簡単に見破られてしまった。
450			五年前の、しかも俺の家庭の事情なんていう マイナーにもほどがある情報を なんで今でも覚えてるんだよ、こいつ。
451	かずさ	Kazusa	「ほうら見ろ。 人には自分の意見を押し付けようとするくせに、 自分では何もできてないのが北原春希って奴だ」
452	春希	Haruki	「そんな特殊事例だけを持ち出して、 勝った勝ったって騒ぐのはみっともないぞ」
453	かずさ	Kazusa	「春希の中身のない説教の方がよっぽどみっともない。 一般論や道徳論ばかりで自分の経験に根差してない。 ただ説教のためだけの説教だ」
454	春希	Haruki	「そんなの当たり前だ。 喋る言葉から人生経験が滲み出てくるほど まだ生きてない」
455	かずさ	Kazusa	「今度は開き直りか？」
456	春希	Haruki	「たとえマニュアル通りに生きてても、 一生懸命マニュアルに従ってれば、 いつかは経験が追いついてくれるって思ってる」
457	かずさ	Kazusa	「だからお前は大成しないんだ。 周りの常識をなぞってばかりだから、 周りから突き抜けることができない」
458	春希	Haruki	「それが何だよ？」
459	かずさ	Kazusa	「その社会の中で上の方には行けるけど、 トップに上り詰めることはできそうにないな」
460	春希	Haruki	「別に、トップになることだけが 幸せって訳じゃないだろ？」
461	かずさ	Kazusa	「例えば？」
462	春希	Haruki	「そういう『突き抜けられる人』の側にいて、 その人が昇っていくのを助ける喜びだってあるだろ？」
463	かずさ	Kazusa	「お前………そういうの、望みなのか？」
464	春希	Haruki	「………あくまで一般論だよ」
465			それは…
466			突き抜けた天才に言うべき言葉じゃなかった。
467			………	.........
468	春希	Haruki	「なぁ、かずさ… お前こそ、五年前から少しも変わってないじゃないか」
469	かずさ	Kazusa	「うるさいなぁ… 何時間説教続ければ気が済むんだ春希は」
470			何時間かと問われて時計を見てみたら、 そろそろ本当に一時間くらい経過していた。
471	春希	Haruki	「少しくらい素直になれよ」
472	かずさ	Kazusa	「そんなことできるか」
473	春希	Haruki	「なんでだよ… 意味もない意地ばっかり張りやがって」
474	かずさ	Kazusa	[F16「…そんなことしたら、 ][F16とんでもないことになるからだよ」]
475	春希	Haruki	「お前、本当はいい奴なんだからさ。 そんな、いつも虚勢を張ってないでさぁ…」
476	かずさ	Kazusa	「…もううるさい。 そろそろ静かにしてくれ。 あたしは眠いんだ」
477	春希	Haruki	「勝手に寝ろ。 俺は勝手に喋ってる」
478	かずさ	Kazusa	「…うざ」
479	春希	Haruki	「じゃ、おやすみ」
480	かずさ	Kazusa	「ふん」
481	春希	Haruki	「お前、今のままじゃさぁ、 曜子さんの助けがなくなったらどうすんだよ」
482	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
483	春希	Haruki	「昔がどうだったかは知らないけど、 少なくとも今のお前、彼女にべったりだろ。 ものすごい過保護に育てられてるだろ」
484	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
485	春希	Haruki	「そりゃさ、お前のピアノの才能は、 そうやって手厚く保護したくなる 魅力に溢れてるんだと思う」
486	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
487	春希	Haruki	「けどさ、それに甘えて、 これからもずっと面倒なことは母親任せで、 自分はピアノだけ弾いてるってのはどうなんだ？」
488	かずさ	Kazusa	「ん…」
489	春希	Haruki	「お前が昔、捨てられたって誤解してたから、 曜子さんだって責任感じてこの五年間、 お前に罪滅ぼし…みたいなことしてくれてた」
490	かずさ	Kazusa	「んぅ…」
491	春希	Haruki	「けどさ、そろそろ… お前の方が恩返しする番じゃないか？」
492	かずさ	Kazusa	「………すぅ」
493	春希	Haruki	「独り立ちして喜ばれるなんて、 すごく手軽な割に効果的な親孝行じゃないか」
494	かずさ	Kazusa	「………すぅぅぅぅ」
495	春希	Haruki	「ほんと、うらやましいよ、俺は…」
496			かずさが眠ってしまったのはとっくに気づいてた。
497			けれど俺は、口から零れ出る言葉を止められず、 眠っているかずさにまでウザい説教を続けた。
498			ずっとそうしていたら、 いつかかずさは俺のこと呆れて、苦笑して、 何もかも馬鹿馬鹿しくなったって言い出して。
499			五年前の、ただ俺が一方的に憧れてただけの 単なるクラスメイトだった冬馬かずさに戻る…
500			なんてのは、贅沢すぎて、 そして残酷な願いなのかな。
501			………	.........
502			……	......
503			…	...
504	曜子	Youko	「開桜社にあなたの住所を聞いてね。 …いるんでしょ？」
505	春希	Haruki	「いますけど…」
506			午後２時。
507			かずさが落としたポシェットを[R携^たずさ]えて、 あの冬馬曜子が、俺の部屋に直接やってきた。
508			帰らなかった娘を迎えに来たにしては、 あまり怒ってる様子もなく。
509	曜子	Youko	「昨夜はウチの娘が色々と世話になったみたいで…」
510			というか、娘がここにいるのが当然のように。
511	春希	Haruki	「言っておきますが、何もしてませんよ？」
512	曜子	Youko	「そう…それは気の毒に」
513			…誰が？
514	曜子	Youko	「とにかく上がらせてもらうわよ。 あ、それとわたし砂糖は四杯だから。 ミルクもたっぷりね」
515	春希	Haruki	「………コーヒーですか？　紅茶ですか？」
516	曜子	Youko	「ああ、ごめんなさい。コーヒーで。 インスタントならスプーン半分でお願い」
517	春希	Haruki	「お湯沸かしますから少し待っててください…」
518			ごめんなさいを挟むタイミングが間違ってるだろ… やっぱりこの二人は間違いなく親子だ。
519	曜子	Youko	「さてと、それで我が馬鹿娘は………え？」
520	春希	Haruki	「すいません。 来るとわかってたら起こしたんですけど」
521	かずさ	Kazusa	「ん…ん～…すぅぅ…ん」
522	曜子	Youko	「………」	"........."
523			ベッドの上で寝こけるかずさを前に、 曜子さんがちょっと途方にくれた表情を見せた。
524	曜子	Youko	「これ、いつから？」
525	春希	Haruki	「そろそろ１２時間くらいですかね。 ちょっと熱があったから、 食事とった後すぐ休ませました」
526			まぁ、説教タイムはさておき。
527	曜子	Youko	「食事も？」
528	春希	Haruki	「って言っても雑炊ですけどね。 あと、デザート…？」
529			俺が悲鳴とともに目を覆うのも構わず、 冷蔵庫にあったジャムを一瓶全部…
530	曜子	Youko	「参った… これは本当に参った…」
531	春希	Haruki	「曜子さん？」
532			と、曜子さんは途方に暮れた表情を一変させ、 まるで欧米人のようなオーバージェスチャーで、 両手を広げて嘆いてみせた。
533			何をそんなに困ってるんだろう？ かずさの奴、寝起きでも悪いんだろうか？ …雪菜みたいに。
534	曜子	Youko	「何が日本には居場所がない、よ。 ここだけ治外法権？ 親の面目丸つぶれ」
535	春希	Haruki	「あの…」
536	曜子	Youko	「なんなのこの幸せそうな顔は。 …落書きしちゃおうかな。 ギター君、サインペン持ってる？　油性のやつ」
537	春希	Haruki	「あるけど貸しませんから」
538			曜子さんは、その後もかずさの寝顔を覗き込み、 何か文句らしきことをぶつぶつ言っていた。
539			けどかずさは全然起きる気配もなかったし、 曜子さんも、全然起こそうという気がなさそうだった。
540			………	.........
541	春希	Haruki	「砂糖水…じゃなかった。 コーヒーどうぞ」
542	曜子	Youko	「ありがとう …って、苦いわねこれ」
543	春希	Haruki	「………」	"........."
544			本当に親子過ぎる。
545	曜子	Youko	「それにしても久々ね。 二週間ぶりくらい？」
546	春希	Haruki	「そうですね」
547			その前の五年間に比べたら 誤差にも程があると思わないでもないけどな。
548	曜子	Youko	「へぇ、ここがギター君の城か… 本当に狭いのね」
549	春希	Haruki	「…普通の会社員ですから」
550	曜子	Youko	「お、ギター君のギターめっけ。 ちょっと貸して」
551	春希	Haruki	「はぁ…」
552	曜子	Youko	「へぇ、アコギかぁ。 ん～…よくて１万ってところかしら？」
553	春希	Haruki	「もっとします。 …１万５千円です」
554			色々と言いたいことが次々と増えていくけど、 何しろ本人に悪気がなくて傲慢なだけなのが…
555	春希	Haruki	「………」	"........."
556			いや、ちょっと待て。
557			俺がこれを始めた五年と半年前、 とある不良っぽい同級生に腕前の差を思い知らされた 屈辱的なエピソードがあったけど…
558			今のこの状況は、その時に勝るとも劣らない…
559	曜子	Youko	「ふぅ、１０年ぶりくらいかしら… もう見る影もないわね」
560	春希	Haruki	「………」	"........."
561			もうやだこの親子。 どれだけ一般人に絶望感を与えれば気が済むんだ？
562	曜子	Youko	「最近、あまり使ってないみたいね。 腕落ちるわよ？　ギター君」
563	春希	Haruki	「北原です。 もうギター君はやめてください…」
564			こうして差を見せつけられると、 羞恥プレイに近いものがあるよな…
565	曜子	Youko	「そういえば、うるさくして隣に迷惑だったかしらね？ 後で謝っておいてね」
566	春希	Haruki	「大丈夫ですよ、今は空き部屋ですから」
567			というか、自分で謝る気はないんだ…
568	曜子	Youko	「あ、そう、それはよかった。 …本当に、いいことだわ」
569	かずさ	Kazusa	「………くぅ」
570			…なお、これだけ派手にギターを奏でても、 依然としてかずさは目を覚ます気配すらなかった。
571			………	.........
572	かずさ	Kazusa	「すぅぅ…ぅ」
573	曜子	Youko	「…ね」
574	春希	Haruki	「なんですか？」
575			かずさの寝顔を眺めていた曜子さんが、 顔をそちらに向けたまま俺に話しかける。
576	曜子	Youko	「かずさの独占取材、 断ったんだって？」
577	春希	Haruki	「………俺には荷が重いですから」
578	曜子	Youko	「あなた以外だと、 そもそもかずさが背負わせてくれないんだけど…」
579	春希	Haruki	「だったら、別に書かなくてもいいじゃないですか。 そんなプライベートな記事」
580	曜子	Youko	「マスコミの人間がそんなこと言っちゃっていいの？」
581			私情が絡んでるのはわかってる。
582			俺は、自分の都合と立場を考えて、 卑怯にも保身に走ってる。
583			けれど、そんな自己都合の中にも、 本当は、さらに方向性の違う二つの気持ちが混在してる。
584	春希	Haruki	「彼女だって嫌がってる。 それにもう、十分話題になってる。 今さらそんな特集なんか組まなくても…」
585			雪菜をこれ以上裏切りたくないという気持ちと…
586			かずさをこれ以上衆目に晒したくないという、 誰に対しても、あまりにも自己中心的すぎる気持ちが。
587	曜子	Youko	「プロモーターとしては、どんな話題でもいいから、 今のうちに知名度を上げておきたいのよね」
588	春希	Haruki	「冬馬曜子のように、ですか？」
589	曜子	Youko	「そうね。 それこそスキャンダルでも何でも」
590	春希	Haruki	「………」	"........."
591			これが経験から来る言葉の重みか… って、感心していいのか？
592	曜子	Youko	「日本にいるうちに、 １本くらいはＣＭ撮りたかったんだけど、 何しろ本人が頑なに嫌がってねぇ…」
593	春希	Haruki	「だって、冬馬かずさは冬馬曜子じゃないですから」
594	曜子	Youko	「どういうところが？」
595	春希	Haruki	「そうですね…自分を売り込むことが大の苦手で、 口数が少ない上にたまに喋ると口下手で、 人に気持ちを伝えるスキルが壊滅的で…」
596	曜子	Youko	「………的確ね、あなた」
597			曜子さんは、怒りも笑いもせず、 ただ、物珍しそうに俺の顔を見つめてる。
598			…五年前の初対面のときも、 こんな感じだったっけなぁ。
599	春希	Haruki	「…そっくりなところも多いけど、 全然違うところだって沢山あると思うんです」
600	曜子	Youko	「そりゃそうよ。 わたしの血は半分しか入ってないんだもの。 同じ人間になんかなるわけがない」
601	春希	Haruki	「彼女の父親って…」
602	曜子	Youko	「ノーコメント」
603	春希	Haruki	「…すいません、立ち入ったこと聞いちゃって」
604	曜子	Youko	「例の仕事を請けてくれるんなら話してもいいけど？」
605	春希	Haruki	「…いえ、やっぱりお断わりします」
606	曜子	Youko	「そんなにこの子の側にいるのが嫌？」
607	春希	Haruki	「仕事じゃなくて、その条件のことです。 そういうこと、そういう軽さで話さないで欲しいんです。 彼女、傷つくと思うから」
608	曜子	Youko	「つまり、さっきあなたが父親のことを聞いたのは、 軽い気持ちじゃなかったってことかしら？」
609	春希	Haruki	「………」	"........."
610			…感性で話してるように見えるのに、 的確にこっちの穴を突いてくるんだもんなぁ。
611	曜子	Youko	「ま、わかったわ。さっきの条件は撤回する。 それでも仕事の方はもう一度考えて欲しいんだけどな」
612	春希	Haruki	「どうしてですか？　なんで俺に…」
613	曜子	Youko	「みんなに、素顔の冬馬かずさを知ってもらいたいから」
614	春希	Haruki	「だから、どうして…？」
615			その『どうして』にも、 やっぱり二つの問いかけが混在してた。
616	曜子	Youko	「あなたも知っての通り、この子誤解されやすいからね。 このままじゃ、多分そのうちボロが出まくる」
617			素顔のあいつを知らしめる必要がどこにあるんだという、 ふてくされ半分の疑問と。
618	曜子	Youko	「なのに、あなたも知っての通り、 この子結構小心者で傷つきやすいから… このままじゃ、多分そのうちボロボロになる」
619			その役目を担うのがどうして俺なんだという、 逆切れ半分の疑問。
620	曜子	Youko	「だから、みんなに見せてあげて欲しいのよ。 この子が、あなたにだけ見せる素顔を」
621	春希	Haruki	「え…」
622	曜子	Youko	「あなたの知ってる、 あなたの目を通した、 あなたが魅力を感じている女の子を…」
623	春希	Haruki	「そんな…」
624			何で俺が、そんなこと…
625	曜子	Youko	「冬馬かずさ自身にも、ね」
626			何で、そんな大事なものを見せなくちゃいけないんだ？ 誰にも見せないよう、ずっと隠してきたのに。
627	曜子	Youko	「お願い、できないかな？」
628	春希	Haruki	「俺は…」
629			そんなこと、できるわけが。
630			それにもう、そんな資格は。
631	曜子	Youko	「この仕事が、かずさへの別れのメッセージでもいい。 それでも、何かを伝えてあげて。 …この子を、振ってあげて」
632	春希	Haruki	「っ…」
633			曜子さんの言う通り…
634			俺はまだ、かずさを振ってない。 そして振られてもいない。
635			空港で、抱きあって、涙して、くちづけて… かずさは涙をぽろぽろ流してゲートをくぐっていった。
636			俺たちは、あの時から今の今まで、 もう、お互いを想い合うことをやめようって、 一度も約束したことがない…
637	曜子	Youko	「今の状態でコンサート本番を迎えたら、 かずさの演奏は、きっと酷いものになる。 重度のホームシックなのよ、今のこの子は」
638	春希	Haruki	「そんなの、俺には治せませんよ」
639	曜子	Youko	「本当にそう思う？」
640	春希	Haruki	「だって、かずさはウィーンに帰りたがってるのに…」
641	曜子	Youko	「ホームって、そこだと思う？」
642	春希	Haruki	「………」	"........."
643			この人は、見かけとは全然違う。
644			かずさの思い描いてる冬馬曜子なんて、 勘違いもいいところだ。
645	曜子	Youko	「とにかく、考えておいて。 週明けにもう一度編集部に連絡する」
646			冬馬曜子は、本物の親馬鹿だ…
647			娘のためと信じることを、 何の躊躇もなく実行する。
648			巻き込まれた人間がどういう思いを抱くか、 どういう目に遭う可能性があるかなんて、 なにも考えずに。
649	曜子	Youko	「それじゃわたし、そろそろ帰るから。 お邪魔したわね」
650	春希	Haruki	「あ、でもかずさがまだ…」
651	曜子	Youko	「財布も戻ってきたんだし、 起きたら自分の足で帰るように言って頂戴。 もう子供じゃないんだから」
652	春希	Haruki	「…ごもっとも」
653	曜子	Youko	「それじゃまたね…北原記者」
654	春希	Haruki	「………」	"........."
655			やっと、『ギター君』をやめてくれたと思ったら…
656			曜子さんは、すぐに新しいレッテルを持ち出して、 俺を新たな十字架に縛りつけた。
657			………	.........
658			……	......
659			…	...
660	曜子	Youko	「あらお帰り。 久しぶりに顔色いいわね」
661	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
662	曜子	Youko	「どうしたの？ そんなツヤツヤした顔を思いっきりしかめて？」
663	かずさ	Kazusa	「なに余計なこと吹き込んでんだよ…」
664	曜子	Youko	「はぁ？　何のこと？」
665	かずさ	Kazusa	「春希だよ！ 馬鹿娘とか、小心者とか、ホームシックとか」
666	曜子	Youko	[F16「やっぱり起きてたんじゃない」]
667	かずさ	Kazusa	「聞こえないぞ？ ちゃんと大きな声で言い訳したらどうなんだよ？」
668	曜子	Youko	「よく喋るわね、狸のくせに」
669	かずさ	Kazusa	「っ！　狸はあんたの方だろ！ 嘘ばかり吹き込みやがって！」
670	曜子	Youko	「…彼、全部納得してたわよ？」
671	かずさ	Kazusa	「しかもあげくの果てに張り付き取材だって！？ 冗談じゃない！　マスコミで、しかも春希なんて…」
672	曜子	Youko	「実はね、かずさ。 わたし、これから少し忙しくなるの。 コンサートのこととか、今後の活動のこととか」
673	かずさ	Kazusa	「…それが？」
674	曜子	Youko	「しばらく、あなたについていられなくなるのよ。 だから、身の回りの面倒を見てくれる人が必要なの」
675	かずさ	Kazusa	「まさか…それをあいつに？」
676	曜子	Youko	「まぁ、普段のときはいいんだけど、 何か急なトラブルがあった時とか…」
677	かずさ	Kazusa	「そんなの必要ない。 自分でなんとかできる」
678	曜子	Youko	「マスコミと揉めそうになったときとか、 落とし物したときとか…」
679	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
680	曜子	Youko	「そういう、“いざ”って時に、 あなたの力になってくれる人が必要なの」
681	かずさ	Kazusa	「そ、そんなの別に誰だって！ 日本にいる間だけマネージャー雇うとか」
682	曜子	Youko	「誰とでもうまくやっていける協調性豊かな娘だったら、 そういう選択肢もアリだったんだけどねぇ」
683	かずさ	Kazusa	「………っ」
684	曜子	Youko	「…そこでぐうの音も出なくなることこそが、 わたしの不徳の致すところではあるんだけど」
685	かずさ	Kazusa	「………とにかく、あたしはそんなのご免だ。 断ってくれ」
686	曜子	Youko	「どこ行くの？ 朝食は？」
687	かずさ	Kazusa	「練習。 もう付き合ってられるか」
688	曜子	Youko	「あ、そうそう。それともう一つ」
689	かずさ	Kazusa	「なんだよ？」
690	曜子	Youko	「明日、チェックアウトするから。 今夜寝る前に荷物まとめておいて頂戴。 …散らかしっぱなしになってるだろうし」
691	かずさ	Kazusa	「なんで？」
692	曜子	Youko	「ホテルもいい迷惑でしょうからね。 …揉め事ばかり起こす人に居座られても」
693	かずさ	Kazusa	「じゃあ、どこに移るんだよ？ 結局、すぐに嗅ぎつけられるに決まってるのに」
694	曜子	Youko	「すごく便利で快適で… あなたを色んな危機から守ってくれるところよ。 きっと気に入ってくれると思うわ」
695	かずさ	Kazusa	「だから、どこだよ…？」
696			………	.........
697	かずさ	Kazusa	「なっ、なっ………なんだってぇ！？」
698	曜子	Youko	「そういう反応が来るとは思ってたけど、 期待以上に効果が大きいと爽快よね」
699	かずさ	Kazusa	「じょっ、冗談じゃない！」
700	曜子	Youko	「もちろん、冗談じゃないわよ？」
701	かずさ	Kazusa	「あ、あ、あ…あんたなに考えてんだ！？ あ、あ、あ…あいつのマンションなんて！」
702	曜子	Youko	「あ～、期待し過ぎてるところ申し訳ないけど、 厳密には彼の部屋じゃないわよ？ その隣がちょうど空いてたから契約してきたの」
703	かずさ	Kazusa	「なんてことをっ！」
704	曜子	Youko	「だから言ったじゃない。 すごく便利で快適なところだって。 …彼の[R独占取材^おしごと]的にもね」
705	かずさ	Kazusa	「か、母さん… なに考えてんだよ。 あんたおかしいよ絶対…」
706	曜子	Youko	「おかしいのはあなたの方でしょ？ 同棲でもなんでもなく、ただ近所に住むだけで、 何でそこまで意識しまくるのよ？」
707	かずさ	Kazusa	「だって、だってそんな…わかるだろ？」
708	曜子	Youko	「何が？」
709	かずさ	Kazusa	「………て言うか、絶対わかっててからかってるだろ」
710	曜子	Youko	「そう思うなら同意を求めないことね。 あなたの期待する答えなんか出てきやしないんだから」
711	かずさ	Kazusa	「やめてくれよ母さん… もう少し、他の人のことも考えてくれよ。 …あたしの、大切な人たちのさぁ」
712	曜子	Youko	「かずさ…」
713	かずさ	Kazusa	「もう、自分の気持ちだけの問題じゃないんだよ。 あいつの側に近づいたらいけないんだよ、あたしは」
714	曜子	Youko	「自分で電話かけて迎えに来させといて？」
715	かずさ	Kazusa	「もうしない。二度としないから…」
716	曜子	Youko	「…って台詞を聞いたのこれで五度目くらいなのよね。 しかもそのたびにやつれてって困ること困ること」
717	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
718	曜子	Youko	「わたしにとって、今一番大事なことはね… あなたの日本でのコンサートを必ず成功させること」
719	かずさ	Kazusa	「母さん…」
720	曜子	Youko	「だからとにかく今、 あなたが心から落ち着ける場所を選んだつもり」
721	かずさ	Kazusa	「そんな、そんな…違うよ」
722	曜子	Youko	「…それが短期間しか通用しない劇薬だとしても、ね」
723	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
724	曜子	Youko	「どうせ日本にいる間だけよ。 コンサートが終わったら、もう…」
725	かずさ	Kazusa	「あたしの副作用はどうなる…」
726	曜子	Youko	「…わかった。 本気で駄目なら、ここに残ってもいい。 けど、その部屋は自由に使っていいから」
727	かずさ	Kazusa	「行かない」
728	曜子	Youko	「何しろもう契約しちゃったしね。 明日からすぐ入居できるわよ？」
729	かずさ	Kazusa	「行かないって言ってるだろ」
730	曜子	Youko	「練習は？」
731	かずさ	Kazusa	「…それは行く」
732	曜子	Youko	「じゃあ、行ってらっしゃい。 隣近所には挨拶の時、蕎麦を持ってくのよ？」
733	かずさ	Kazusa	「絶対に行かないからな！」
734	曜子	Youko	「はいはい」
735	春希	Haruki	「はぁぁぁぁ～」
736			金曜の夜に部屋に来たかずさが再び目覚めたのは、 結局、日曜の朝だった…
737			起き上がったその瞬間に俺と目が合うと、 もうそこからは散々悪態をつきまくり、 さっさと着替えてさっさと帰っていった。
738			照れ隠しなんだろうと好意的に受け止めたけど、 にしても、一宿一飯の恩義という言葉の意味について 一から教えてやりたい気持ちには駆られた。
739			けれど実は、 昨日からずっと引きずってた悩みを忘れていられたのは、 実にその１０分間だけだった。
740	春希	Haruki	「ん…ふぅぅぅぅ」
741			ベッドに寝転がり、深く息を吸い込む。
742			ずっと寝こけてたかずさの傍らで、 ずっと眠れない時間を過ごしたツケが、 いつの間にか全身を覆い尽くそうとしていた。
743			ああ、駄目だ、目を閉じたら駄目だ…
744			このまま目を閉じたら、せっかくの土日休みが、 寝顔を見るのと眠るのだけで終わってしまう。
745	春希	Haruki	「ん…すぅぅ」
746			ベッドに寝転がり、深く息を吸い込む。
747			すると、さっきは気づかなかったけど、 胸の奥に広がる密かな、そしていつもと違う香り。
748			………かずさの、匂いだ。
749			ベッドから、かずさの匂いがする。
750			しばらく雪菜がここを空けていたせいで、 お馴染みの甘くて艶めかしい香りが駆逐されていた。
751	春希	Haruki	「………っ」
752			ああ、駄目だ。 目を閉じなくちゃ、駄目だ…
753			このまま目を閉じないと、 またあの思考の闇に飲み込まれる。
754			せっかくの土日休みが、 このまま一睡もできないまま終わってしまう。
755	曜子	Youko	『このままじゃ、多分そのうちボロボロになる』
756	春希	Haruki	「～～～っ！」
757			…なんて、目を閉じようが、開いてようが関係なかった。 結局、また同じ事の繰り返し。
758			ベッドに倒れ、眠気に身を委ねようとすると、 すぐに昨日の不吉な言葉が浮かび上がる。
759	曜子	Youko	『今の状態でコンサート本番を迎えたら、 かずさの演奏は、きっと酷いものになる』
760			そんな、冬馬曜子の大予言が…
761			もう、いい加減にしてくれよ。 俺に、どうしろって言うんだ。
762			もう、かずさとは何の関係もないはずの俺に…
763	曜子	Youko	『だから、みんなに見せてあげて欲しいのよ。 この子が、あなたにだけ見せる素顔を』
764	春希	Haruki	「………」	"........."
765			…なんてな。 曜子さんは、しっかり『どうしろ』を言った。
766			俺の仕事をしろって。
767			かずさの独占取材権を勝ち取れって。 来日期間中、ずっとあいつに張りつけって。
768			そして…
769	曜子	Youko	『この子を、振ってあげて』
770	春希	Haruki	「………」	"........."
771			眠りたい。 眠れない。
772			かずさが、俺の眠りを吸い取ってしまった。 代わりに俺は、あいつの懊悩を受け取った。
773			やっぱりこれも、冬馬曜子の策略。
774			市井のいち雑誌記者の穏やかな私生活よりも、 コンサートを間近に控えた人気ピアニストの 心の安定の方が大切。
775			…当たり前のことかもしれないけれど、 切り捨てられた市井の雑誌記者にだって 守るべき自分の人生があるんだぞ。
776			携帯のダイヤルを弄り、 着信履歴を遡る。
777			…けれど、最新の２０件の中に、 俺が見つけたかった名前が存在しなかった。
778	春希	Haruki	「………」	"........."
779			雪菜…
780			俺がこうして眠れない夜を過ごすのも、 雪菜が側にいないから。
781			今、一番側にいて欲しいひとが、 今、俺の腕の中にいないから。
782			かずさが眠っている間も、 『今、雪菜が来たらどうしよう』って、 ずっと心配してたのに…
783			なのに雪菜は、来なかった。
784			いつか必ず連絡するという『いつか』は、 今週のことじゃなかった。
785	春希	Haruki	「………」	"........."
786			どう考えても俺のせいなのに、 そんな逆恨みみたいな思いが溢れてくる。
787			そんな自分の気持ち悪い心を嫌悪していたら、 いつの間にか携帯の画面に 『小木曽雪菜』の５文字が表示されていた。
788			雪菜なら、止めてくれるだろうか？
789			俺をたしなめるだろうか。 余計に拗ねるだろうか。 電話口で泣き出すかもしれない。
790			そしたら俺は大慌てで、 もう絶対に雪菜を悲しませたりしないって、 またいつもみたいに大げさに宣言して。
791			そしてまた、いつもの二人の、 夢のような現実に…
792			１．雪菜の声が聞きたい		Choice
793			２．俺からは連絡しないって約束だ		Choice
794	春希	Haruki	「っ…」
795			押して、しまった。 雪菜との約束を破った。
796			向こうが許してくれるまで、 俺からは連絡しないって誓ったのに。
797			仕方なくない。言い訳なんかできない。 今の俺は、最低に最低な行為を重ねてる。
798			それでも今、雪菜の声が聞きたい。 いや、聞かないとヤバいんだ。
799			なぁ、雪菜…
800			俺、日本でもまた、 かずさの取材をすることになりそうなんだ。
801			独占取材だって。 ほとんど二人きりだって。 日本にいる間、ずっとだって。
802			マズいだろ？　それって…
803			なぁ、雪菜…
804			止めてくれよ。 嘆いてくれよ。 俺を、非難してくれよ。
805			俺に、断る理由を… 『かずさのために』という以上の、 『雪菜のために』という理由を思い出させてくれよ…
806	バンドメンバー１	Band Member 1	「お疲れ、それじゃ今日はこの辺で…」
807	雪菜	Setsuna	「え？ わたし、まだまだ行けますけど」
808	バンドメンバー１	Band Member 1	「いや、でも… もう４時間になるけど。 それも休憩なしで」
809	雪菜	Setsuna	「そうでしたっけ？」
810	バンドメンバー１	Band Member 1	「そうでしたっけって…」
811	バンドメンバー２	Band Member 2	「歌い出すと底なしだな、相変わらず」
812	雪菜	Setsuna	「本番まであと一週間しかないんだから、 この曲までは今日中に仕上げちゃいませんか？」
813	バンドメンバー１	Band Member 1	「別に、そんなに無理しなくていいんだよ？ 雪菜ちゃんは今日が初練習なんだし」
814	雪菜	Setsuna	「でもわたし、 本番まであと１回しか練習参加できないから…」
815	バンドメンバー１	Band Member 1	「それは俺たちの都合であって、 雪菜ちゃんにそこまで無理を強いるのは…」
816	バンドメンバー２	Band Member 2	「そうそう、参加してくれるだけでも すっごく申し訳ないんだから。 それというのも恭一と勝也の野郎が…」
817	雪菜	Setsuna	「いいんですよ。 今わたし、すっごく歌いたい気分なんです。 …忘れたいことや、思い出したいことが沢山あるから」
818	バンドメンバー１	Band Member 1	「でも、今はもう会社勤めなのに… 明日、出勤なんだろ？」
819	朋	Tomo	「いいじゃん、雪菜がやりたいって言ってるんだから。 気の済むまで歌わせてあげてよ」
820	バンドメンバー２	Band Member 2	「朋…お前、妙に嬉しそうだな？」
821	朋	Tomo	「え～、そうかな～？ ソンナコトナイデスヨ？」
822	バンドメンバー１	Band Member 1	「ったく…タチの悪いファンだ。 ていうか、マネージャー？」
823	バンドメンバー２	Band Member 2	「いいの雪菜ちゃん？ あいつと関わってると、 気がついたら一緒に芸能界デビューさせられてるよ？」
824	雪菜	Setsuna	「あはは、そんな冗談は置いといて… さ、もう一度頭からお願いします」
825	バンドメンバー１	Band Member 1	「はいはい。 こっちとしては願ってもないことで… じゃ、いくぞ」
826			………	.........
827	春希	Haruki	「………」	"........."
828			そんな、雪菜に決断を委ねようとした、 俺の甘えた約束違反は結局通じなかった。
829			着信をわかってて出なかったのか、 気づいていなかったのかはわからない。
830			でも、結果は出た。 俺の迷いを否定する結果が。
831			自分で責任を負えという、 しごく当然で、そして重い結果が。
832	春希	Haruki	「………」	"........."
833	？？？	???	「…北原？ どうしたんだ？ 何かトラブルか？」
834	春希	Haruki	「お休み中のところすいません、浜田さん…」
835			………	.........
836			……	......
837			…	...
838	雪菜	Setsuna	「っ…嘘。 どうしよう」
839	朋	Tomo	「雪菜？」
840	雪菜	Setsuna	「………春希くんだ」
841	朋	Tomo	「へ～、よかったじゃん。 今回は向こうから折れてきたんだ？」
842	雪菜	Setsuna	「ど、どうしたのかなぁ。 自分からは掛けないって言ってたのになぁ…」
843	朋	Tomo	「別れ話だったりして～」
844	雪菜	Setsuna	「朋！」
845			………	.........
846	春希	Haruki	「………」	"........."
847	春希	Haruki	「ん………んぅぅ」
848			………	.........
849			……	......
850			…	...
851			俺が、雪菜の着信に気づいたのは、 その深い眠りから目覚めたとき… 月曜の朝４時だった。
852			でも、俺は掛け直さなかった。 だって…
853	春希	Haruki	『やります。 冬馬かずさの特集記事、俺に担当させてください』
854			もう、失ってしまっていたから。 雪菜に止めてもらうという、最後の砦を。
855	春希	Haruki	「っ…」
856			そして俺は、さんざん思い悩んだ末に、 通話ボタンを押した。
857			日曜の昼下がり。 相手が出てくれるかどうかはわからない。
858			そして多分、本当に緊急の用件でない以上、 これはマナー違反にあたる行為だった。
859			何しろ、俺からの電話ということは、つまり…
860	？？？	???	「…北原？ どうしたんだ？ 何かトラブルか？」
861	春希	Haruki	「お休み中のところすいません、浜田さん…」
862			休日だというのに、 仕事の話に他ならない訳で。
863	浜田	Hamada	「お前、今日出勤してんのか？」
864	春希	Haruki	「いえ、自宅です。 別に、トラブルって訳でもないです」
865	浜田	Hamada	「そうなのか？ こっちは今、バーベキューの最中でな。 同期の家族とか集まってて」
866	春希	Haruki	「あ、すいません。 ならかけ直します」
867	浜田	Hamada	「いや、少しならいいぞ。 なんだ？」
868	春希	Haruki	「あ、はい、ええと…」
869			雪菜には連絡しない。 それが約束だったから。
870	春希	Haruki	「本当は先週末までに 返事することになってたんですけど…」
871	浜田	Hamada	「あ、あれか。 …って、休みにかけてくるってことはつまり、 いい返事がもらえるって期待していいんだな？」
872			だから俺一人で決断する。 俺が、全ての責任を持つ。
873			だって…
874			１．かずさのためだから		Choice
875			２．何も心配いらないから		Choice
876	春希	Haruki	「やります。 冬馬かずさの特集記事、俺に担当させてください」
877			………	.........
878	春希	Haruki	「はぁぁぁぁ～」
879			電話を切った瞬間、 いきなり全身の力が抜けて、 ベッドに倒れ込んでしまった。
880			色んな懊悩から解放されたせいか、 単にスイッチが切れただけなのか、 やってしまった自分に呆れてしまったからなのか。
881			そう、やってしまった…
882			これから一月以上、 かずさと一緒に過ごす時間を受け入れてしまった。
883			そんな、新しい火種を抱え込んだのに、 今だけは、妙に安らかな気持ちに覆われていた。
884	春希	Haruki	「ふぁぁぁぁ…」
885			ベッドに寝転がり、深く息を吸い込む。
886			すると、再び舞い込むかずさの匂い。
887			いつもなら、雪菜の匂いに包まれて眠る週末。 でも、今日だけは…
888	春希	Haruki	「おやすみ…」
889			それは、誰に告げた挨拶だったんだろう…
890			………	.........
891	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
892	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
893	かずさ	Kazusa	「………」	"........."
894	かずさ	Kazusa	「………っ！」
895	かずさ	Kazusa	「っ…はぁ、はぁぁ…」
896	かずさ	Kazusa	「違う、違う… 昨夜、寝過ぎたから眠れないだけなんだ」
897	かずさ	Kazusa	「母さんがあんなこと言うからだ… ホームシックなんて…違う」
898	かずさ	Kazusa	「だって、もう… あたしには、帰るところなんかない…」

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